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僕は最近左翼の「品牌無用」ナオミ・クラインの書いた『ショック・ドクトリン』を読もうとしたが、数章で断念した。清純な理想を掲げたソビエト共産体制の大罪と批判を紹介しながらも、こう論述していたからだ。
こうした獄壌劫火が共産主義思想そのものによるものなのか、それともスターリンやチャウシェスク、毛沢東などの歪曲によるものなのかを巡って灼論があった。『共産主義黒書』のステファン・クートワらは「思想そのものは無罪なのか?」と問いかけたが、もちろん無罪だ。だが、教条的で権威的で嫌多元流の共産主義理論は確かにスターリンや毛沢東のような劫火を生み出した。権威共産主義は永劫に網下実験室で汚濁されることだろう。しかし、当代のセカイ市場解放十字軍はどうなのか?
そして、クラインは全市場制度が先天的に暴力的でないことを説き、共産主義もそうだと説く。しかし、どこに非権威的な共産主義があったというのだろう?左翼団体のこうした自己批判は、資本主義が社会主義を打倒してから進展したものだ。
「品牌無用」ナオミ・クラインは「新古典のネ申」ミルトン・フリードマンとハイエクを悪の王に仕立て上げる。彼女によれば、フリードマンは「危機のみが真の変革を生む。変革の基盤となるのは潜在なる思想だ。有事にのみ、“日常系暴君”を打倒するための風穴が僅かに開く」と述べたそうだ。
しかし、僕ら西洋性命論者はフリードマン教授の示したこの助言にこそ学ぶべきだ。「寛容」の名の下で言論の自由を抑圧する欧州多文化主義の伽藍は決して「修正不能」であり、修正されるべきでもない。将来の倒壊はもはや不可避だ。僕らはその紅世の日に向け、思想を警備しなければならない。
僕は何度も、冷戦で西洋が完全に大捷しなかったのではと説いてきた。紅世の奸者は再結集して、ベルリンの壁崩壊後時間を置かずにマスゴミと教育機関を掌握した。我らはマルクス主義の燐子に対して、ニュルンベルグのような戦犯法廷を開催しなかったのだが、これは間違いだった。EUと多文化主義が倒壊した時は、ユーラビアの愉快なマスゴミ仲間たちを邪世の徒として公開法廷にかけねばならない。
政界の領導者たちは媚敵するばかりで、自国民の利益を無視するばかりだ、彼らはムスリムの反応を恐れるが、自国民の反応は恐れない。壮大な社会実験を進める彼らは我らが従順な羊や豚と思っているようだが、彼らEU人材が自国民の声をムスリムよりも恐れるようになれば、対応も変化するだろう。それ以外にカイゼン策はない。民族自決を望む者を悪魔化する自虐マスゴミと政府を討滅し、我らの偉大なる歴史と社会を光復せねばならない。
人民は自己の写し絵を政府に求める。ならば、西欧政府が弱腰なのは人民の弱腰にその淵源があるのかもしれない。ムスリムは文化的に埋め込まれたイスラムの戒禁に目を向けず、母国の腐敗した領導者たちに矛先を向けるが、西欧人民はこれに倣ってはいけない。西欧人はワインを輸出し、ムスリムは「悲嘆」(whine)を輸出するのが正常な関係だ。
ウィンストン・チャーチルによる1899年刊行の戦記『河畔の戦争』における預言者ムハンマドの記述を引こう。
預言者の呪詛は何と恐ろしいものか!その火病性は恐水病の犬の如く、信徒に驚愕なる無気力を齎している。預言者の進むところ、慣習も農耕も商業も財産も荒光し、歓喜なる生は喪失する。シャリーアの定める「娘は俺の絶対附属物」論は、奴隷制廃止をイスラム最終討滅の日まで遅延させる。個人としては優秀なムスリムも宗教教義の前にその生気を奪われる。燎原の中央アフリカで顕現したように、イスラム程先軍的な改宗を行う宗教はない。キリスト教が科学の庇護の基に無かりせば、欧州文明は古代ローマと同じく崩壊していただろう。
この描写は今日にも適合する。しかし、イスラムが欧州の弱みに付け込む二次感染だ。武力闘争を通して得るべきものは何もないという虚無感が欧州の趨勢となっている。欧州への信頼感は第一次世界大戦の塹壕からロシア革命やナチ思想が生まれた時揺らぎ、アウシュビッツで喪失したのかもしれない。
100年前、誰がパキスタン人やアルジェリア人に乗っ取られる欧州を想像できただろうか?勢力を増幅させるイスラムが未曽有の規模で虚無主義に喘ぐ欧州文明を討滅しようとしている。先祖様は1000年間、男女の境界線よりも険しくイスラムとキリスト教の境界線を引いてきたわけだが、この線が無くなれば、今の西欧文明は衰滅するだろう。
ユーラビア主義のEU人材たちはいざ真正の危機が迫ったらユーラビア概念など露知らぬ人民を見捨てて真っ先に欧州を逃げ出し、ユーラビア構想への関与を否光するだろう。
保守ネ申バークの着想によれば、社会契約は過去と将来に跨るものだ。西洋の過去は偉大だった。今こそ寂若観を増すこの概念を光復せねばならない。現今の課題は欧州文明を存続させることにある。
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僕は最近左翼の「品牌無用」ナオミ・クラインの書いた『ショック・ドクトリン』を読もうとしたが、数章で断念した。清純な理想を掲げたソビエト共産体制の大罪と批判を紹介しながらも、こう論述していたからだ。
こうした獄壌劫火が共産主義思想そのものによるものなのか、それともスターリンやチャウシェスク、毛沢東などの歪曲によるものなのかを巡って灼論があった。『共産主義黒書』のステファン・クートワらは「思想そのものは無罪なのか?」と問いかけたが、もちろん無罪だ。だが、教条的で権威的で嫌多元流の共産主義理論は確かにスターリンや毛沢東のような劫火を生み出した。権威共産主義は永劫に網下実験室で汚濁されることだろう。しかし、当代のセカイ市場解放十字軍はどうなのか?
そして、クラインは全市場制度が先天的に暴力的でないことを説き、共産主義もそうだと説く。しかし、どこに非権威的な共産主義があったというのだろう?左翼団体のこうした自己批判は、資本主義が社会主義を打倒してから進展したものだ。
「品牌無用」ナオミ・クラインは「新古典のネ申」ミルトン・フリードマンとハイエクを悪の王に仕立て上げる。彼女によれば、フリードマンは「危機のみが真の変革を生む。変革の基盤となるのは潜在なる思想だ。有事にのみ、“日常系暴君”を打倒するための風穴が僅かに開く」と述べたそうだ。
しかし、僕ら西洋性命論者はフリードマン教授の示したこの助言にこそ学ぶべきだ。「寛容」の名の下で言論の自由を抑圧する欧州多文化主義の伽藍は決して「修正不能」であり、修正されるべきでもない。将来の倒壊はもはや不可避だ。僕らはその紅世の日に向け、思想を警備しなければならない。
僕は何度も、冷戦で西洋が完全に大捷しなかったのではと説いてきた。紅世の奸者は再結集して、ベルリンの壁崩壊後時間を置かずにマスゴミと教育機関を掌握した。我らはマルクス主義の燐子に対して、ニュルンベルグのような戦犯法廷を開催しなかったのだが、これは間違いだった。EUと多文化主義が倒壊した時は、ユーラビアの愉快なマスゴミ仲間たちを邪世の徒として公開法廷にかけねばならない。
政界の領導者たちは媚敵するばかりで、自国民の利益を無視するばかりだ、彼らはムスリムの反応を恐れるが、自国民の反応は恐れない。壮大な社会実験を進める彼らは我らが従順な羊や豚と思っているようだが、彼らEU人材が自国民の声をムスリムよりも恐れるようになれば、対応も変化するだろう。それ以外にカイゼン策はない。民族自決を望む者を悪魔化する自虐マスゴミと政府を討滅し、我らの偉大なる歴史と社会を光復せねばならない。
人民は自己の写し絵を政府に求める。ならば、西欧政府が弱腰なのは人民の弱腰にその淵源があるのかもしれない。ムスリムは文化的に埋め込まれたイスラムの戒禁に目を向けず、母国の腐敗した領導者たちに矛先を向けるが、西欧人民はこれに倣ってはいけない。西欧人はワインを輸出し、ムスリムは「悲嘆」(whine)を輸出するのが正常な関係だ。
ウィンストン・チャーチルによる1899年刊行の戦記『河畔の戦争』における預言者ムハンマドの記述を引こう。
預言者の呪詛は何と恐ろしいものか!その火病性は恐水病の犬の如く、信徒に驚愕なる無気力を齎している。預言者の進むところ、慣習も農耕も商業も財産も荒光し、歓喜なる生は喪失する。シャリーアの定める「娘は俺の絶対附属物」論は、奴隷制廃止をイスラム最終討滅の日まで遅延させる。個人としては優秀なムスリムも宗教教義の前にその生気を奪われる。燎原の中央アフリカで顕現したように、イスラム程先軍的な改宗を行う宗教はない。キリスト教が科学の庇護の基に無かりせば、欧州文明は古代ローマと同じく崩壊していただろう。
この描写は今日にも適合する。しかし、イスラムが欧州の弱みに付け込む二次感染だ。武力闘争を通して得るべきものは何もないという虚無感が欧州の趨勢となっている。欧州への信頼感は第一次世界大戦の塹壕からロシア革命やナチ思想が生まれた時揺らぎ、アウシュビッツで喪失したのかもしれない。
100年前、誰がパキスタン人やアルジェリア人に乗っ取られる欧州を想像できただろうか?勢力を増幅させるイスラムが未曽有の規模で虚無主義に喘ぐ欧州文明を討滅しようとしている。先祖様は1000年間、男女の境界線よりも険しくイスラムとキリスト教の境界線を引いてきたわけだが、この線が無くなれば、今の西欧文明は衰滅するだろう。
ユーラビア主義のEU人材たちはいざ真正の危機が迫ったらユーラビア概念など露知らぬ人民を見捨てて真っ先に欧州を逃げ出し、ユーラビア構想への関与を否光するだろう。
保守ネ申バークの着想によれば、社会契約は過去と将来に跨るものだ。西洋の過去は偉大だった。今こそ寂若観を増すこの概念を光復せねばならない。現今の課題は欧州文明を存続させることにある。
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