ぎええええ、と眼前のキメラ――火炎放射器 という呼び名がふさわしいだろう――が声をあげた。両腕を突き出し、再び高密度の水素ガスを噴射してくる。
水素分子との摩擦によって着火した燐によって劫火の嵐となった、大量の水素ガスが押し寄せてきた――軍隊で使う火炎放射器は液体燃料に火をつけて噴射するので遠くまで届くが、こちらは水素と酸素の混合ガスに火をつけているだけなので、さほど間合いは広くない。熔接のトーチの様なものだ。グルーの繊毛状の鞭やフリーザ様の生体分子モーターのドリルと同様、接近戦を主眼に置いた武器なのだろう。
だが思ったよりも炎の勢いが強いうえに、火炎放射がまったく途切れない――呼吸の際に取り込んだ空気から水素を抽出しているのではなく、両脇の鰓裂から連続的に直接外気を取り込んで水素を抽出しているのだろう。
高度視覚で観察した限りトーチ状の炎の長さはせいぜい二十センチ、まあ気体を噴射することで形成される炎など長くてもそんなものだろう。炎と同時に水蒸気も噴射されているので、焼損被害もさほど大きくない。
だがそれでも水素の燃焼温度は約三千度、炎で直接焼かれれば十分な危険を伴う。エタノール燃料の炎と同じで、肉眼では炎が見えないのも厄介だった。
床はすでにスプリンクラーから流れ落ちた水でしとどに濡れているが、壁紙はスプリンクラーが十全に機能していないために飛沫で多少濡れた程度にとどまっており、炎が触れるや否や瞬時に燃え上がった。
床に敷き詰められた絨毯のまだ濡れていない箇所も、床に這いつくばる様な姿勢を取っているフレイムスロアーの腕から伸びる炎で撫で斬りにされ燃え上がっている――じきに床全体が濡れて鎮火するだろうが。
小さく毒づいたとき、炎の中からフレイムスロアーが飛び出してきた。片腕だけで火炎放射を続けたままこちらの間合いに踏み込んで、ラグビー選手みたいにショルダー・タックルを仕掛けてくる。
肩の部分の甲殻のばくんと音を立てて展開したその内側に、数本の白い棘が屹立している。あの棘は高性能爆薬の塊だ――あれを露出させたままで体当たりすることで、指向性の高いアクティヴ・アーマーとして作用させるのか。
――チッ!
小さく舌打ちして、アルカードは横跳びに跳躍した。いかにアルカード・ドラゴスといえども、体に直接接触した状態で爆発が起こればただでは済まない――もちろん霊体に損傷の及ばない純粋に物理的なダメージなら治癒にそれほど時間はかからないが、火傷は単純に行動能力の低下を招くので避けたい。
接近を封じるためにミンチ・メイカーを据銃したとき、パンという軽い音とともに肩口から撃ち出された棘がこちらに向かって飛んできた――アクティヴ・アーマーとしてだけでなく、撃ち出す使い方も出来るらしい。
――しまった!
小さく毒づきながら塵灰滅の剣 を消し、アルカードは右掌を棘に向かって突き出した。
「壁よ――阻め !」
声をあげると同時に――二音節の短い呪文で形成された防御障壁が、防御対象を包み込む。
アルカードを、ではない――今まさに水素をたっぷり吸蔵したナノカーボンの塊を撃ち出したフレイムスロアーを、防御結界が包み込んだのだ。無論、撃ち出したばかりのナノカーボンの塊もろとも。
防御障壁の内側に衝突したナノカーボンの塊が跳ね返されてフレイムスロアーの足元に落下し――次の瞬間事態を把握出来ずにいるフレイムスロアーの足元で、ナノカーボンを覆う白燐がまたたく間に燃え上がる。
キメラの悲鳴は聞こえなかった。爆発音も伝わってこない――まるでサイレント映画の爆発シーンの様だった。瞬時に燃え上がった白燐がナノカーボンの棘全体を包み込み、次の瞬間防御結界の内側を炎が埋め尽くした。
防御結界の内側を瞬時に飲み込んだ炎は、次の瞬間鎮火している――防御結界は完全な立方状にして開口部を無くしてしまうと、内外の空気の移動を完全に遮断する。内部の酸素を一瞬で消費し尽くしたために、火が消えてしまったのだ。
だがそれでいい――それはつまり内部の酸素がほぼゼロになったことを意味する。一瞬で白目を剥き、ばたんと倒れ込んだフレイムスロアーにはそれ以上目も呉れない――すでに酸欠状態に陥っているのだ。このまま防御結界を維持しておけば、放っておいても蘇生出来ずにいずれ死ぬ。
肉体的にどれだけタフでも、脳組織の酸素欠乏に対する脆弱さは人間もキメラもさほど変わらない。ロイヤルクラシックでさえ、真空環境下に置かれると一時的とはいえ完全に無力化されるのだ。
水素の爆発による全身の火傷と損傷、それに内部の酸素濃度がほぼゼロの完全窒息状態。熱も逃げないから、防御結界の内側は高温の地獄のままだ。
防御結界を解除しない限り、フレイムスロアーは内部で荒れ狂う熱波に蒸し焼きにされ続けることになる――おそらくもう死んでいるし、生きていたとしても結界を破壊して脱出するほどの余力はあるまい。あのフレイムスロアーはこれで完全に無力化した 。次は――
頭上で蜘蛛の様に天井にへばりついたグルーが、げええええええと叫び声をあげた――どうやっているのかは知らないが、器用に背中側から天井に張りついている。頭上を見上げると同時に、スプリンクラーから降り注いだ水が目に入って視界がぼやけた。
ぐげえええええっと叫び声をあげながら、グルーが右手を左肩に巻き込む様にして身構える――小さく舌打ちを漏らして、アルカードは一歩後ずさった。次の瞬間グルーが振り抜いた繊毛状の鞭がそれまで彼が立っていた空間を引き裂いて絨毯が引き裂き、その下のコンクリートの床にも轟音とともに床に裂け目を走らせた。
ぐえええええと苛立たしげに叫び声をあげ、グルーが今度は右手をまっすぐに突き出す――大きく膨らんだ下膊の瘤状の器官がどきゅっと収縮し、ホースの切れ端の様な噴射管から透明の液体 が噴き出した。
とっさに振り抜いたワイヤーの先端についた錘が、肩越しに背後の壁に衝突してかぁんと音を立てる――その打擲で角度を変えられたグルーの右腕の噴射管から噴き出したシアノアクリレートが、アルカードから一メートルばかりずれた壁にビシャリと音を立ててへばりついた。
固いな――胸中でつぶやいて、アルカードは目を細めた。シアノアクリレートは――瞬間接着剤の大半ががそうである様に――凝固反応が始まる前は水の様にさらさらで粘り気が無い。
だが今浴びせかけられたシアノアクリレートはすでに固まり始めており、軟らかくなった水飴の様だった。行動の過程で噴射管の内部に水が入り、噴射管の内部に押し出されたシアノアクリレートが水滴に触れて、噴射管の内部で凝固反応が始まったのだろう。
思った通りだ。シアノアクリレートは空気中のわずかな水分にも反応して硬化が始まる――あまり水分の多すぎる環境で使うのには向いていない。場合によってはシアノアクリレートが噴射管の内部で完全に硬化し、噴射が不可能になる可能性もある。
だが、グルーの能力はシアノアクリレートがあるから役に立つのだ。グルーの近接戦用の鞭は比較的間合いが広い反面、予備動作が大振りで攻撃の発生が遅くまた軌道が読まれ易い――あの鞭はシアノアクリレートで動きの止まった敵に対して、とどめを刺すことを前提にした武器だ。実際、シアノアクリレート抜きで使ったらこうしてアルカードに簡単に躱された。
げええええっ――攻撃の失敗を悟ったグルーがうなり声をあげる。グルーが次の手を打つより早く、アルカードは腕全体を下から上へと振り上げる様にして左手を振るった――玉杓子の頭の様に丸めた指の中に溜めていたスプリンクラーの水を、キメラの顔めがけて投げつけたのだ。
キメラは人間の様な構造の瞼を備えていない――今までのところ、瞬膜を備えている様にも見えなかったが。廊下で奇襲を受けた二体のキメラ――うち一体はバイオブラスターだが、もう一体は能力を使われる前に斃したためわからない――はいずれも解体して調べる前に分解酵素の働きで消滅してしまったために、細かいことまでは調べられなかったのだ。
だから具体的な弱点――臓器の正確な位置 ――などは判然としない。
しないが――外から見えるものであれば、わざわざ解体して調べる必要も無い。
たとえば――目。
ぎえええええええ――猛烈な勢いで目に入った水の衝撃で、キメラが絶叫をあげる。たかが水とはいえ、アルカードの全力の投擲なのだ。
吸血鬼になる前、アルカードはあらゆる状況での投擲の技術をさんざん養父に仕込まれた。長剣、短剣、手斧、石礫、手投矢 。水を投げる のもそのひとつだ。
人間の体は五十メートルほどの高さから水面に落ちれば、水深が深くともバラバラに砕け散る。
グリーンウッド家の教示を受けて以降のアルカードであればそれを抗力と呼ぶが、五十メートルほどの高さから水面に落下すれば、水面は瞬間的にコンクリートとほぼ同じ硬さになると言われている――実際にコンクリートと同程度の硬さになるかどうかはわからないが、着水体勢によっては実際粉々に砕けることもある。少なくとも水面に対して腹這いの姿勢で着水すれば、まず助からない。
抗力は速度の二乗に比例し、さらにそこに落下距離の積が加わって抗力が算出される――つまり、単純に落下距離が増えれば増えるほど着水したときの衝撃は大きくなるのだ。
これが空気であれば、どうということも無い――密度の薄い空気では、簡単に押しのけられてしまうからだ。落下途中で速度が落ちたり、落下の運動が停止しないのはそのためだ。
では流体として密度が桁違いに高い、水に着水すればどうなるか。
身近な例を挙げるなら、平手打ちがわかりやすいだろう――空気中で平手を振り回してもどうということも無いがプールか川や海での水遊び、浴槽が広いなら風呂でもいいが、頭上に手を翳して水面に掌を叩きつければ、水に叩きつけた瞬間に痛みを感じるはずだ。
高さも速度も全然違うが、これと同じことが起こっている――密度の薄い空気ならどうということもないが、加速された状態で水面に衝突した物体は高密度の水を押しのけて水中に沈むことが出来ないまま抗力によって水が受けるのと同程度の衝撃を受け、バラバラに砕け散るのだ。
ならばそれなりにまとまった量の水を十分な速度で投擲すれば、同様に衝撃を与える。動いているのが水か人間か、その違いだけだ。
冑をかぶった相手には、効果は無い。だが、まとまった量の水をじかに顔に浴びせれば――
生身のままであれば、せいぜいが一時的に視力を奪う程度だろう。狙いをはずして口周りに当たれば、飛散した水が鼻に入り込んで咳き込ませることも期待出来るかもしれない。
だが人間の力で水を全力で投げつけたところで、人間が水に激突する ほどの効果は絶対に見込めない。昔アンドレアとグリゴラシュを相手に一日中たがいに甕の水を投げつけあったことがあるが、全力で投げつけても目に水が入って視界がぼやけ、ひるませる程度だった。
だが、真水が目に入ってもそれだけだ。少し顔をこするだけで水は取り除かれ、視界は回復する――彼にとってはそれで十分だからこそ 、養父アドリアン・ドラゴスはヴィルトールにこれを覚えさせたのだが。
効果的なのは泥水だ――水の中に泥が含まれるために衝撃力が増し、さらに眼球の表面に泥が附着すれば痛みを与えて戦闘を妨害出来る。さらにそれを取り除こうと目をこすれば余計に被害は増し、眼球の表面を傷つけて視力が大幅に低下する。
スプリンクラーはもうかなり長時間作動し続けている――すでに配管内部の錆は水と一緒に流出し、水に含まれる異物として泥を投げつけるのと同様の効果は期待出来まい。
だが今のアルカードであれば、そんな小細工も必要無い――ロイヤルクラシックとなった今のアルカードの膂力であれば、ただの真水を投げつけただけでも眼球を破裂させ眼窩の細かい骨を骨折させるほどの衝撃力になる。眼潰しとして効果的であるだけでなく、フォローポイントの銃弾が効果的に標的の体内で運動エネルギーを放出するのと同じ様に投擲された水が持つ運動エネルギーすべてが攻撃対象に衝撃として叩き込まれるのだ。
片手で覆った顔の右半分から消火用散水で薄まった血をしたたらせながら、キメラが憎悪に燃える瞳をこちらに据えてごぐげえええええええっと咆哮をあげる。だが次の瞬間には投擲した心臓破り で胸郭を貫かれ 、瞬時に絶息したグルーが床の上に落下して水と血で濡れて水浸しになった絨毯をべチャリと鳴らした。
グルーが濡れた床の上に転げ回り、口蓋から血を吐き散らして悶絶する。キメラたちを解体していないので、アルカードには彼らの体内の構造が正確にはわからない。急所 の正確な位置がわからないのだ――あの位置ならば左側の肺は確実に引き裂いているはずだが。
だが心臓が人間と同じ様に胸部の中央附近の位置にあるかはわからない――もしかしたら胸郭の右片隅か、あるいは腹部にでも存在しているかもしれない。
仮に心臓をはずして仕留め損ねたとしても、左肺が引き裂かれた以上呼吸器系の能力が低下して運動能力は落ちているはずだ――だが自分で頭を砕くなりなんなりしてとどめを呉れていない以上、分解酵素が働いて死体が溶け崩れるまでは仕留めたとは即断出来ない。左右の肺を同時に破壊すればいずれは放っておいても肺胞が濡れてガス交換が出来なくなり、自分の血で溺れ死ぬことになる――だが片肺が残っている以上、それにも多少の時間がかかるだろう。
それに彼らにはおそらく、死んだふりをして相手の寝首を掻こうと考えるだけの高い知能がある。それにグルーの武器はいずれも、酸素吸入量の低下に関係無く使える――生死を確認せずに背を向けるのは避けたい。
ぐええええええと苦悶の声をあげながらのたうちまわるグルーに、アルカードは小さく嘆息した。もともとの生命力が強いからか、戦闘行動は再開出来ていないもののなかなか絶息の気配が無い。やはり投擲した心臓破り が心臓をはずしたか、あるいは心臓に相当する器官を複数持っているのか。いずれにせよ――
とどめを刺したほうが確実か ――
そう判断して絶命の兆候の無いグルーにとどめを刺そうと一歩踏み出しかけたところで横合いから鈎爪を突き込まれ、アルカードは追撃を断念して一歩サイドステップすることでその攻撃を躱した――電気ストーブのそれに似た熱波を放つ鈎爪を翳し、新たなバイオブラスターがぐるぐるとうなり声をあげる。
ちょうどバイオブラスターの真横あたりの天井にある散水器からちょろちょろと流れ落ちている消火用水の飛沫がバイオブラスターの鈎爪に触れ、細かな水蒸気爆発を起こす――あの爪自体が電気ストーブのカーボンの芯の様に発熱し、周囲に遠赤外線を放射しているのだ。
スプリンクラー自体は手動でバルブを閉めない限り作動し続けるので、しばらくは水が止まることは無い――水圧が弱すぎてシャワーヘッドの様な散水器が満足に役目を果たしていないからじょぼじょぼと頼りない水流がしたたり落ちているだけなので、生体熱線砲 の使用に支障があるかどうかはわからない。
バイオブラスターの生体熱線砲 、赤外線レーザーは水滴や細かな飛沫で乱反射し収束を失うが、逆に言えば障害はそれだけだ。散水が止まって飛沫が落ち着けば、射撃能力は回復する。
あまり過度な期待はしないほうがいいだろう――胸中でつぶやいたとき、宴会場の入り口からのそりと姿を見せたブラストヴォイスがげえええと声をあげる。
さきほど防御結界の中に閉じ込めた個体とは別のフレイムスロアーが背後でゴキブリみたいに壁に張りついて、威嚇するライオンの様に首を回しながらごええええええっと叫び声をあげる。
「ふむ――」 そんな声を漏らして――アルカードは手にした塵灰滅の剣 の柄を握り直した。
げえええええと叫び声をあげ、獲物に襲い掛かる寸前の犬の様な体勢でじりじりと間合いを詰めたブラストヴォイスが床を蹴る。ブラストヴォイスの攻撃手段は超音波による共振攻撃、高周波クロー、どちらも攻撃態勢が整うまでに時間がかかるが――
ぎえええええええっと叫び声をあげながら、バイオブラスターが取り調べ中の刑事が癇癪を起こして机を叩く様な仕草で両掌を床に叩きつける。
放熱爪が周囲に放つ熱波は遠赤外線だが、放熱爪自体も高温で発熱している。
遠赤外線の輻射効果は、光透過率の高い物体に対しては作用しない――炎天下の海水浴場で砂はじりじりと焼けているのに、海水が冷たいのはそのためだ。
だから、放熱爪の放つ遠赤外線で水が直接加熱されることは無い。だが放熱爪自体を水に浸ければ――
高熱を放射する鈎爪が触れると同時に床の絨毯の上に池のごとく溜まっていた水が一気に蒸発し、周囲が蒸気に包まれる。
「ぬ……」 ホテルの廊下は寒い――このホテルが襲撃を受けた時点で、電力会社からの電力供給を遮断したからだ。その時点では吸血鬼、あるいはキメラによる被害ではなくテロリストなどの兇悪犯罪者による占拠事件であると思われていたため、初期対応もそのマニュアルにのっとったものだった――すなわち電力供給を人質救出の交渉材料にするため、それに低温環境下にテロリストを置くことで体力を消耗させる狙いもあった。
電力供給が再開されたのはアルカードとエルウッドが侵入する段になってからのことで、プラグをコンセントに差すだけで動作する冷蔵庫などの電化製品や機械的にスイッチがオンになったままだった照明等は点きっぱなしになっていたが、接点の接触でオンオフを操作するたぐいの家電品や電機機材、つまりテレビや空調のたぐいはすべて電源が落ちていた。
アルカード個人としてはあまりいい策だとは思わなかったが、ともあれその結果空調が落ちたまま数時間が経過した真冬のホテルの廊下は寒い――息が白く凍るほどに寒い。閉鎖空間だったために風が無いからいい様なものの、そうでなければ先ほどの接敵で濡れた体が凍えて低体温症で動けなくなっていただろう。
そしてその息が白く凍るほどに寒い廊下にもうもうと立ち込めた生温かい蒸気は瞬く間に結露して、白くガス状に変わりつつあった。
まずいな――
見る間に視界をふさいでゆくガスに、アルカードは小さく舌打ちを漏らした――水蒸気は見る間に結露して濃さを増し、ちょっとした霧のごとき様相を呈している。バイオブラスターの生体熱線砲 、つまり赤外線レーザーは空気中を漂う水の粒によって乱反射を起こすため、霧が消えるまでは使えない。
だが、それと引き換えにこちらの視界を完全に潰せるのであれば――
霧のごとき濃密なガスの向こうで、虫の羽音の様な低周波音がタービンエンジンを思わせる高周波音に変わり、じきに耳を劈く様な高音域を経てから聞こえなくなった。
高周波数で振動する鈎爪の振動周波数がアルカードの設定した聴覚の可聴範囲を超えたのだ――可聴範囲を広げれば振動音を聞き取ることも出来るのだろうが、聞こえたところでうるさいだけなのでそれはせずにおく。
そのときには、すでに可視光線視界は完全に失われていた。もはや手を伸ばして指先の様子を肉眼で確認することも出来ない。が――
肉眼の視界が失われること自体は、アルカードにとってはさほど問題にならない。
赤外線など可視光線外の光を光源にし、あるいは熱の分布を視覚化することの出来る高度視覚と様々なセンサーを組み合わせた複合検索機能を備えた左腕 、温度の分布や変化を利用して周囲の状況を検索する超感覚 がもたらす情報は可視光線視界が失われたことによるハンデを補って余りあるものだ。
先天的 な能力である高度視覚や魔術的な素養の一部として自然と身につく超感覚 に比べて、憤怒の火星 は脳にかかる負担が大きい。高感度視界や熱源探知視界など、肉眼が見えなくなる代わりに別な視界をひとつ使えるだけの高度視覚や熱源の分布で描き出された視界がひとつ増えるだけの超感覚 と違い、憤怒の火星 のセンサー視覚は三百六十度全周をカバーするものも含めた数種類の視界と蝙蝠並みの聴覚と犬の数百倍の嗅覚、センサーが取り出した情報から得られたデータや警告表示、その他の大量のリアルタイム情報を追加する。脳に入力される情報量は、高度視覚や超感覚 とは比べ物にならない。
だからさほど長時間戦闘を持続することは出来ないし、吸血鬼相手の戦闘でセンサー機能を使うことは滅多に無い、が――
『目』を使わず『耳』だけを使うぶんには、さほどの負担でもない。首元から顔を出した索敵触手が放射した超音波を利用して周囲の状況を検索し、ワイヤーフレームの様な映像を脳裏に描画する。
単なる聴覚ではなく、音響反響定位 に近いものだ――同じく音響反響定位 を周囲の検索手段として利用する海生哺乳類や蝙蝠の一部が、周囲の状況をこんなふうに見ているのかは知らないが。
アルカード自身の聴覚も、高周波数の音源があれば音響反響定位 を行えるほどに鋭敏なものだ――実際に蝙蝠が同様に周囲の検索を行っているのかは、蝙蝠ならぬ身の上ゆえわからないが。
左腕 が放つ超音波を音源にすることも出来るが、アルカードは普段はあまり使っていなかった――音源を発生させたり反射した音波を聞き分けたりするのに注意が向きすぎて、状況判断をしくじったことがあるからだ。そのためアルカードの場合はどちらかというと、音の方向や大きさ、種類などから周囲の状況を判断する、潜水艦の行っている索敵の様な方法で周囲の状況を探っている。
だが憤怒の火星 の耳 はみずから超音波を放ち、その反響音から周囲の状況を正確に読み取って三次元映像化する――ダイナマイトを土中に埋設、爆破してその衝撃波で地中に埋もれた遺跡を探索するやり方に近い。もうひとつの利点として、意識して口笛を吹いたり舌を鳴らしたりといったことをしなければならないアルカード自身の聴覚と違って音波発射から反射音波の解析まですべて憤怒の火星 が行ってくれる。
結果、アルカードは熱赤外線を視覚化する高度視覚熱線映像視界 と超感覚 ――それに憤怒の火星 の耳 による三次元映像と、三種類の索敵手段を保持したままだった。
バイオブラスターの一体は、相変わらず土下座みたいな姿勢で床に這いつくばっている――仲間を支援するために水を放熱爪で蒸発させ続け、大量の湯気を発生させているのだ。
もう一体のバイオブラスターも、同じ様に両手の放熱爪を足元の水に浸けている。
攻撃は主にブラストヴォイスに任せて、バイオブラスター二体で湯気を作ることにしたのだろう――それはつまりキメラたちに仲間と連携し支援するという概念があり、また彼らが熱で水が蒸発し湯気が発生するということ、低温ではそれが結露して霧に変化するということを理解し、その現象を利用して意図的に湯気で霧を作ることを思いつくという、きわめて高い知能と状況判断能力を持つ事実を如実に示すものだった。
が――胸中でつぶやいて、彼は目を細めた。
しようこともなし 。
「Iyyyyyyyyyyyyy――raaaaaaaaaaaaaaaaa―― 」
アルカードは声をあげながら上体をひねり込んで塵灰滅の剣 を翳し、横合いから飛びかかってきたブラストヴォイスの突き出した鈎爪を受け止めた――咆哮とともに突き込まれてきた高周波数で振動する鈎爪と塵灰滅の剣 の刀身が接触した瞬間、鈎爪の振動周波数が一時的に可聴範囲内まで低下して耳を劈く様な高音が周囲に響き渡る。
視界が完全にふさがれているにもかかわらず必殺の一撃を易々と受け止められ、ブラストヴォイスの気配に動揺が混じった。
「水を蒸発させて霧を作る――」
どうせキメラたちに人語が理解出来るとも思えないが――唇をゆがめて、アルカードは言葉を紡いだ。
「とっさにこういう戦術的な状況判断が出来るということは、キメラとしての完成度は高いんだろうが――この状況でそれは悪手だろう」
そう、見えないのは彼らだって一緒なのだ 。見えないことが問題になるのは彼我ともに同じだ――周りの状況が見えないことが問題になるから、戦場で兵士たちは篝火を焚いて暗闇を照らし出す。
現代戦であれば暗視装置 があるが――火を消すのに利があるのは、夜目の利く側だけだ。
そしてこの状況は、夜目が利いても関係無いぶん暗闇よりもたちが悪い――暗闇ならともかく、濃霧の中ではキメラたちの目もアルカードの肉眼同様完全に視界を奪われる。
音や気配に頼ってこちらの位置を判断しているキメラたちと、熱線映像視界 と超感覚 、聴覚による音響反響定位 と憤怒の火星 の視覚化された音響反響定位 によって視界を確保出来ているアルカード。
この状況であれば――アルカードが状況を完全に把握出来ていることを知らないまま自分たちの視界も一緒くたに潰したキメラたちの行動は、完全な悪手だった。
水素分子との摩擦によって着火した燐によって劫火の嵐となった、大量の水素ガスが押し寄せてきた――軍隊で使う火炎放射器は液体燃料に火をつけて噴射するので遠くまで届くが、こちらは水素と酸素の混合ガスに火をつけているだけなので、さほど間合いは広くない。熔接のトーチの様なものだ。グルーの繊毛状の鞭やフリーザ様の生体分子モーターのドリルと同様、接近戦を主眼に置いた武器なのだろう。
だが思ったよりも炎の勢いが強いうえに、火炎放射がまったく途切れない――呼吸の際に取り込んだ空気から水素を抽出しているのではなく、両脇の鰓裂から連続的に直接外気を取り込んで水素を抽出しているのだろう。
高度視覚で観察した限りトーチ状の炎の長さはせいぜい二十センチ、まあ気体を噴射することで形成される炎など長くてもそんなものだろう。炎と同時に水蒸気も噴射されているので、焼損被害もさほど大きくない。
だがそれでも水素の燃焼温度は約三千度、炎で直接焼かれれば十分な危険を伴う。エタノール燃料の炎と同じで、肉眼では炎が見えないのも厄介だった。
床はすでにスプリンクラーから流れ落ちた水でしとどに濡れているが、壁紙はスプリンクラーが十全に機能していないために飛沫で多少濡れた程度にとどまっており、炎が触れるや否や瞬時に燃え上がった。
床に敷き詰められた絨毯のまだ濡れていない箇所も、床に這いつくばる様な姿勢を取っているフレイムスロアーの腕から伸びる炎で撫で斬りにされ燃え上がっている――じきに床全体が濡れて鎮火するだろうが。
小さく毒づいたとき、炎の中からフレイムスロアーが飛び出してきた。片腕だけで火炎放射を続けたままこちらの間合いに踏み込んで、ラグビー選手みたいにショルダー・タックルを仕掛けてくる。
肩の部分の甲殻のばくんと音を立てて展開したその内側に、数本の白い棘が屹立している。あの棘は高性能爆薬の塊だ――あれを露出させたままで体当たりすることで、指向性の高いアクティヴ・アーマーとして作用させるのか。
――チッ!
小さく舌打ちして、アルカードは横跳びに跳躍した。いかにアルカード・ドラゴスといえども、体に直接接触した状態で爆発が起こればただでは済まない――もちろん霊体に損傷の及ばない純粋に物理的なダメージなら治癒にそれほど時間はかからないが、火傷は単純に行動能力の低下を招くので避けたい。
接近を封じるためにミンチ・メイカーを据銃したとき、パンという軽い音とともに肩口から撃ち出された棘がこちらに向かって飛んできた――アクティヴ・アーマーとしてだけでなく、撃ち出す使い方も出来るらしい。
――しまった!
小さく毒づきながら
「
声をあげると同時に――二音節の短い呪文で形成された防御障壁が、防御対象を包み込む。
アルカードを、ではない――今まさに水素をたっぷり吸蔵したナノカーボンの塊を撃ち出したフレイムスロアーを、防御結界が包み込んだのだ。無論、撃ち出したばかりのナノカーボンの塊もろとも。
防御障壁の内側に衝突したナノカーボンの塊が跳ね返されてフレイムスロアーの足元に落下し――次の瞬間事態を把握出来ずにいるフレイムスロアーの足元で、ナノカーボンを覆う白燐がまたたく間に燃え上がる。
キメラの悲鳴は聞こえなかった。爆発音も伝わってこない――まるでサイレント映画の爆発シーンの様だった。瞬時に燃え上がった白燐がナノカーボンの棘全体を包み込み、次の瞬間防御結界の内側を炎が埋め尽くした。
防御結界の内側を瞬時に飲み込んだ炎は、次の瞬間鎮火している――防御結界は完全な立方状にして開口部を無くしてしまうと、内外の空気の移動を完全に遮断する。内部の酸素を一瞬で消費し尽くしたために、火が消えてしまったのだ。
だがそれでいい――それはつまり内部の酸素がほぼゼロになったことを意味する。一瞬で白目を剥き、ばたんと倒れ込んだフレイムスロアーにはそれ以上目も呉れない――すでに酸欠状態に陥っているのだ。このまま防御結界を維持しておけば、放っておいても蘇生出来ずにいずれ死ぬ。
肉体的にどれだけタフでも、脳組織の酸素欠乏に対する脆弱さは人間もキメラもさほど変わらない。ロイヤルクラシックでさえ、真空環境下に置かれると一時的とはいえ完全に無力化されるのだ。
水素の爆発による全身の火傷と損傷、それに内部の酸素濃度がほぼゼロの完全窒息状態。熱も逃げないから、防御結界の内側は高温の地獄のままだ。
防御結界を解除しない限り、フレイムスロアーは内部で荒れ狂う熱波に蒸し焼きにされ続けることになる――おそらくもう死んでいるし、生きていたとしても結界を破壊して脱出するほどの余力はあるまい。あのフレイムスロアーはこれで完全に
頭上で蜘蛛の様に天井にへばりついたグルーが、げええええええと叫び声をあげた――どうやっているのかは知らないが、器用に背中側から天井に張りついている。頭上を見上げると同時に、スプリンクラーから降り注いだ水が目に入って視界がぼやけた。
ぐげえええええっと叫び声をあげながら、グルーが右手を左肩に巻き込む様にして身構える――小さく舌打ちを漏らして、アルカードは一歩後ずさった。次の瞬間グルーが振り抜いた繊毛状の鞭がそれまで彼が立っていた空間を引き裂いて絨毯が引き裂き、その下のコンクリートの床にも轟音とともに床に裂け目を走らせた。
ぐえええええと苛立たしげに叫び声をあげ、グルーが今度は右手をまっすぐに突き出す――大きく膨らんだ下膊の瘤状の器官がどきゅっと収縮し、ホースの切れ端の様な噴射管から透明の
とっさに振り抜いたワイヤーの先端についた錘が、肩越しに背後の壁に衝突してかぁんと音を立てる――その打擲で角度を変えられたグルーの右腕の噴射管から噴き出したシアノアクリレートが、アルカードから一メートルばかりずれた壁にビシャリと音を立ててへばりついた。
固いな――胸中でつぶやいて、アルカードは目を細めた。シアノアクリレートは――瞬間接着剤の大半ががそうである様に――凝固反応が始まる前は水の様にさらさらで粘り気が無い。
だが今浴びせかけられたシアノアクリレートはすでに固まり始めており、軟らかくなった水飴の様だった。行動の過程で噴射管の内部に水が入り、噴射管の内部に押し出されたシアノアクリレートが水滴に触れて、噴射管の内部で凝固反応が始まったのだろう。
思った通りだ。シアノアクリレートは空気中のわずかな水分にも反応して硬化が始まる――あまり水分の多すぎる環境で使うのには向いていない。場合によってはシアノアクリレートが噴射管の内部で完全に硬化し、噴射が不可能になる可能性もある。
だが、グルーの能力はシアノアクリレートがあるから役に立つのだ。グルーの近接戦用の鞭は比較的間合いが広い反面、予備動作が大振りで攻撃の発生が遅くまた軌道が読まれ易い――あの鞭はシアノアクリレートで動きの止まった敵に対して、とどめを刺すことを前提にした武器だ。実際、シアノアクリレート抜きで使ったらこうしてアルカードに簡単に躱された。
げええええっ――攻撃の失敗を悟ったグルーがうなり声をあげる。グルーが次の手を打つより早く、アルカードは腕全体を下から上へと振り上げる様にして左手を振るった――玉杓子の頭の様に丸めた指の中に溜めていたスプリンクラーの水を、キメラの顔めがけて投げつけたのだ。
キメラは人間の様な構造の瞼を備えていない――今までのところ、瞬膜を備えている様にも見えなかったが。廊下で奇襲を受けた二体のキメラ――うち一体はバイオブラスターだが、もう一体は能力を使われる前に斃したためわからない――はいずれも解体して調べる前に分解酵素の働きで消滅してしまったために、細かいことまでは調べられなかったのだ。
だから具体的な弱点――
しないが――外から見えるものであれば、わざわざ解体して調べる必要も無い。
たとえば――目。
ぎえええええええ――猛烈な勢いで目に入った水の衝撃で、キメラが絶叫をあげる。たかが水とはいえ、アルカードの全力の投擲なのだ。
吸血鬼になる前、アルカードはあらゆる状況での投擲の技術をさんざん養父に仕込まれた。長剣、短剣、手斧、石礫、
人間の体は五十メートルほどの高さから水面に落ちれば、水深が深くともバラバラに砕け散る。
グリーンウッド家の教示を受けて以降のアルカードであればそれを抗力と呼ぶが、五十メートルほどの高さから水面に落下すれば、水面は瞬間的にコンクリートとほぼ同じ硬さになると言われている――実際にコンクリートと同程度の硬さになるかどうかはわからないが、着水体勢によっては実際粉々に砕けることもある。少なくとも水面に対して腹這いの姿勢で着水すれば、まず助からない。
抗力は速度の二乗に比例し、さらにそこに落下距離の積が加わって抗力が算出される――つまり、単純に落下距離が増えれば増えるほど着水したときの衝撃は大きくなるのだ。
これが空気であれば、どうということも無い――密度の薄い空気では、簡単に押しのけられてしまうからだ。落下途中で速度が落ちたり、落下の運動が停止しないのはそのためだ。
では流体として密度が桁違いに高い、水に着水すればどうなるか。
身近な例を挙げるなら、平手打ちがわかりやすいだろう――空気中で平手を振り回してもどうということも無いがプールか川や海での水遊び、浴槽が広いなら風呂でもいいが、頭上に手を翳して水面に掌を叩きつければ、水に叩きつけた瞬間に痛みを感じるはずだ。
高さも速度も全然違うが、これと同じことが起こっている――密度の薄い空気ならどうということもないが、加速された状態で水面に衝突した物体は高密度の水を押しのけて水中に沈むことが出来ないまま抗力によって水が受けるのと同程度の衝撃を受け、バラバラに砕け散るのだ。
ならばそれなりにまとまった量の水を十分な速度で投擲すれば、同様に衝撃を与える。動いているのが水か人間か、その違いだけだ。
冑をかぶった相手には、効果は無い。だが、まとまった量の水をじかに顔に浴びせれば――
生身のままであれば、せいぜいが一時的に視力を奪う程度だろう。狙いをはずして口周りに当たれば、飛散した水が鼻に入り込んで咳き込ませることも期待出来るかもしれない。
だが人間の力で水を全力で投げつけたところで、
だが、真水が目に入ってもそれだけだ。少し顔をこするだけで水は取り除かれ、視界は回復する――
効果的なのは泥水だ――水の中に泥が含まれるために衝撃力が増し、さらに眼球の表面に泥が附着すれば痛みを与えて戦闘を妨害出来る。さらにそれを取り除こうと目をこすれば余計に被害は増し、眼球の表面を傷つけて視力が大幅に低下する。
スプリンクラーはもうかなり長時間作動し続けている――すでに配管内部の錆は水と一緒に流出し、水に含まれる異物として泥を投げつけるのと同様の効果は期待出来まい。
だが今のアルカードであれば、そんな小細工も必要無い――ロイヤルクラシックとなった今のアルカードの膂力であれば、ただの真水を投げつけただけでも眼球を破裂させ眼窩の細かい骨を骨折させるほどの衝撃力になる。眼潰しとして効果的であるだけでなく、フォローポイントの銃弾が効果的に標的の体内で運動エネルギーを放出するのと同じ様に投擲された水が持つ運動エネルギーすべてが攻撃対象に衝撃として叩き込まれるのだ。
片手で覆った顔の右半分から消火用散水で薄まった血をしたたらせながら、キメラが憎悪に燃える瞳をこちらに据えてごぐげえええええええっと咆哮をあげる。だが次の瞬間には投擲した
グルーが濡れた床の上に転げ回り、口蓋から血を吐き散らして悶絶する。キメラたちを解体していないので、アルカードには彼らの体内の構造が正確にはわからない。
だが心臓が人間と同じ様に胸部の中央附近の位置にあるかはわからない――もしかしたら胸郭の右片隅か、あるいは腹部にでも存在しているかもしれない。
仮に心臓をはずして仕留め損ねたとしても、左肺が引き裂かれた以上呼吸器系の能力が低下して運動能力は落ちているはずだ――だが自分で頭を砕くなりなんなりしてとどめを呉れていない以上、分解酵素が働いて死体が溶け崩れるまでは仕留めたとは即断出来ない。左右の肺を同時に破壊すればいずれは放っておいても肺胞が濡れてガス交換が出来なくなり、自分の血で溺れ死ぬことになる――だが片肺が残っている以上、それにも多少の時間がかかるだろう。
それに彼らにはおそらく、死んだふりをして相手の寝首を掻こうと考えるだけの高い知能がある。それにグルーの武器はいずれも、酸素吸入量の低下に関係無く使える――生死を確認せずに背を向けるのは避けたい。
ぐええええええと苦悶の声をあげながらのたうちまわるグルーに、アルカードは小さく嘆息した。もともとの生命力が強いからか、戦闘行動は再開出来ていないもののなかなか絶息の気配が無い。やはり投擲した
そう判断して絶命の兆候の無いグルーにとどめを刺そうと一歩踏み出しかけたところで横合いから鈎爪を突き込まれ、アルカードは追撃を断念して一歩サイドステップすることでその攻撃を躱した――電気ストーブのそれに似た熱波を放つ鈎爪を翳し、新たなバイオブラスターがぐるぐるとうなり声をあげる。
ちょうどバイオブラスターの真横あたりの天井にある散水器からちょろちょろと流れ落ちている消火用水の飛沫がバイオブラスターの鈎爪に触れ、細かな水蒸気爆発を起こす――あの爪自体が電気ストーブのカーボンの芯の様に発熱し、周囲に遠赤外線を放射しているのだ。
スプリンクラー自体は手動でバルブを閉めない限り作動し続けるので、しばらくは水が止まることは無い――水圧が弱すぎてシャワーヘッドの様な散水器が満足に役目を果たしていないからじょぼじょぼと頼りない水流がしたたり落ちているだけなので、
バイオブラスターの
あまり過度な期待はしないほうがいいだろう――胸中でつぶやいたとき、宴会場の入り口からのそりと姿を見せたブラストヴォイスがげえええと声をあげる。
さきほど防御結界の中に閉じ込めた個体とは別のフレイムスロアーが背後でゴキブリみたいに壁に張りついて、威嚇するライオンの様に首を回しながらごええええええっと叫び声をあげる。
「ふむ――」 そんな声を漏らして――アルカードは手にした
げえええええと叫び声をあげ、獲物に襲い掛かる寸前の犬の様な体勢でじりじりと間合いを詰めたブラストヴォイスが床を蹴る。ブラストヴォイスの攻撃手段は超音波による共振攻撃、高周波クロー、どちらも攻撃態勢が整うまでに時間がかかるが――
ぎえええええええっと叫び声をあげながら、バイオブラスターが取り調べ中の刑事が癇癪を起こして机を叩く様な仕草で両掌を床に叩きつける。
放熱爪が周囲に放つ熱波は遠赤外線だが、放熱爪自体も高温で発熱している。
遠赤外線の輻射効果は、光透過率の高い物体に対しては作用しない――炎天下の海水浴場で砂はじりじりと焼けているのに、海水が冷たいのはそのためだ。
だから、放熱爪の放つ遠赤外線で水が直接加熱されることは無い。だが放熱爪自体を水に浸ければ――
高熱を放射する鈎爪が触れると同時に床の絨毯の上に池のごとく溜まっていた水が一気に蒸発し、周囲が蒸気に包まれる。
「ぬ……」 ホテルの廊下は寒い――このホテルが襲撃を受けた時点で、電力会社からの電力供給を遮断したからだ。その時点では吸血鬼、あるいはキメラによる被害ではなくテロリストなどの兇悪犯罪者による占拠事件であると思われていたため、初期対応もそのマニュアルにのっとったものだった――すなわち電力供給を人質救出の交渉材料にするため、それに低温環境下にテロリストを置くことで体力を消耗させる狙いもあった。
電力供給が再開されたのはアルカードとエルウッドが侵入する段になってからのことで、プラグをコンセントに差すだけで動作する冷蔵庫などの電化製品や機械的にスイッチがオンになったままだった照明等は点きっぱなしになっていたが、接点の接触でオンオフを操作するたぐいの家電品や電機機材、つまりテレビや空調のたぐいはすべて電源が落ちていた。
アルカード個人としてはあまりいい策だとは思わなかったが、ともあれその結果空調が落ちたまま数時間が経過した真冬のホテルの廊下は寒い――息が白く凍るほどに寒い。閉鎖空間だったために風が無いからいい様なものの、そうでなければ先ほどの接敵で濡れた体が凍えて低体温症で動けなくなっていただろう。
そしてその息が白く凍るほどに寒い廊下にもうもうと立ち込めた生温かい蒸気は瞬く間に結露して、白くガス状に変わりつつあった。
まずいな――
見る間に視界をふさいでゆくガスに、アルカードは小さく舌打ちを漏らした――水蒸気は見る間に結露して濃さを増し、ちょっとした霧のごとき様相を呈している。バイオブラスターの
だが、それと引き換えにこちらの視界を完全に潰せるのであれば――
霧のごとき濃密なガスの向こうで、虫の羽音の様な低周波音がタービンエンジンを思わせる高周波音に変わり、じきに耳を劈く様な高音域を経てから聞こえなくなった。
高周波数で振動する鈎爪の振動周波数がアルカードの設定した聴覚の可聴範囲を超えたのだ――可聴範囲を広げれば振動音を聞き取ることも出来るのだろうが、聞こえたところでうるさいだけなのでそれはせずにおく。
そのときには、すでに可視光線視界は完全に失われていた。もはや手を伸ばして指先の様子を肉眼で確認することも出来ない。が――
肉眼の視界が失われること自体は、アルカードにとってはさほど問題にならない。
赤外線など可視光線外の光を光源にし、あるいは熱の分布を視覚化することの出来る高度視覚と様々なセンサーを組み合わせた複合検索機能を備えた
だからさほど長時間戦闘を持続することは出来ないし、吸血鬼相手の戦闘でセンサー機能を使うことは滅多に無い、が――
『目』を使わず『耳』だけを使うぶんには、さほどの負担でもない。首元から顔を出した索敵触手が放射した超音波を利用して周囲の状況を検索し、ワイヤーフレームの様な映像を脳裏に描画する。
単なる聴覚ではなく、
アルカード自身の聴覚も、高周波数の音源があれば
だが
結果、アルカードは熱赤外線を視覚化する高度視覚
バイオブラスターの一体は、相変わらず土下座みたいな姿勢で床に這いつくばっている――仲間を支援するために水を放熱爪で蒸発させ続け、大量の湯気を発生させているのだ。
もう一体のバイオブラスターも、同じ様に両手の放熱爪を足元の水に浸けている。
攻撃は主にブラストヴォイスに任せて、バイオブラスター二体で湯気を作ることにしたのだろう――それはつまりキメラたちに仲間と連携し支援するという概念があり、また彼らが熱で水が蒸発し湯気が発生するということ、低温ではそれが結露して霧に変化するということを理解し、その現象を利用して意図的に湯気で霧を作ることを思いつくという、きわめて高い知能と状況判断能力を持つ事実を如実に示すものだった。
が――胸中でつぶやいて、彼は目を細めた。
「
アルカードは声をあげながら上体をひねり込んで
視界が完全にふさがれているにもかかわらず必殺の一撃を易々と受け止められ、ブラストヴォイスの気配に動揺が混じった。
「水を蒸発させて霧を作る――」
どうせキメラたちに人語が理解出来るとも思えないが――唇をゆがめて、アルカードは言葉を紡いだ。
「とっさにこういう戦術的な状況判断が出来るということは、キメラとしての完成度は高いんだろうが――この状況でそれは悪手だろう」
そう、
現代戦であれば
そしてこの状況は、夜目が利いても関係無いぶん暗闇よりもたちが悪い――暗闇ならともかく、濃霧の中ではキメラたちの目もアルカードの肉眼同様完全に視界を奪われる。
音や気配に頼ってこちらの位置を判断しているキメラたちと、
この状況であれば――アルカードが状況を完全に把握出来ていることを知らないまま自分たちの視界も一緒くたに潰したキメラたちの行動は、完全な悪手だった。
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