2
ひゅう、と寒々しい展望台に冷たい風が吹き抜けていく。夜間なうえに多少標高の高い場所なので、思ったよりも風は冷たい。
遠くに見える山の稜線が、黒々として美しい――同時にまるで圧し掛かってくる様な圧迫感を感じさせる。視線を転じると、ガードレールの向こうに無数の家々の明かりが見えた。
展望台に人気は無い――十数年前にいわゆる走り屋の車数台がガードレールを突き破って道路から高低差三十五メートルの崖下に転落し、合計七人が死亡した事故以降寂れきっている。
前髪が揺れて眼に入りそうになり、アルカードは顔を顰めながらかぶりを振って周囲を見回した。
背後にはリディア――緊張を感じさせる鋭い眼差しで、聖典戦儀を変化させた黄金色に輝く鎖を手にこちらを睨み据えている。聖典撃鎖があるから距離を詰めることに執着する必要は無いのだろう、やや距離を取っている。
パオラは左手に、こちらもやや距離を開けて立っていた――今回は魔術は使わないというのが大前提なので、パオラは撃剣聖典を翳している。
そしてフィオレンティーナは正面に。構築した撃剣聖典の柄に両手を添え、やや半身に構えてこちらを見据えている。それを見ながら、アルカードはかすかに笑って右手を翳した。
――ギャァァァァッ!
――ひィィィッ!
――アァァァァァッ!
悲痛な悲鳴をあげながら、
「剣を消さないんですか」 というフィオレンティーナの質問に、アルカードはかぶりを振った。
「今の君たちの力量じゃ、消したら見えないだろう――間合いを測り損ねて事故があっても困る。これは実戦じゃなく訓練だからな」
アルカードの返答に、フィオレンティーナは納得したのか小さくうなずいた。
それを確認して視線を転じ、アルカードは展望台の端のほうにいるエルウッドに視線を向けた。
彼らの立っている場所から目いっぱい距離を取って、アルカードのジープ・ラングラーとエルウッドのゲレンデヴァーゲンが止まっている――エルウッドとアイリスが、その車体にもたれかかる様にしてこちらを見守っていた。冷房の効いた車内から、興味津々といったていでアルマがこちらを見つめている。
「始めろ」 アルカードの指示に、エルウッドが右手を掲げる。
「想定状況『
エルウッドが手を振り下ろすと同時――三人の少女がアスファルトを蹴った。
それに合わせて、地面を蹴る――真正面から踏み込んできたフィオレンティーナの一撃を受け止めるために左腕を翳し、同時に残るふたりを牽制するために左肩を中心にして全身を回転させながら
ぎゃりぃん――左腕を鎧う手甲を包み込んだ
体を沈めてそれを躱し――フィオレンティーナが手にした撃剣聖典を接近戦用のやや短いものに再構築する。
唇をゆがめ、アルカードは刺突を繰り出した曲刀をそのまま真直に振り下ろした。フィオレンティーナが横跳びに跳躍してそれを躱す。左手――アルカードにとっては右側に逃れた彼女を追って、アルカードは
撃剣聖典の鋒がアスファルトの地面に喰い込むのを尻目に、アルカードは右肩に担いだ霊体武装を袈裟掛けの軌道で振り下ろした――フィオレンティーナが躊躇無く撃剣聖典を放棄し、
組みついてくるのかとも思ったが、フィオレンティーナは組討ちの技術は得手ではないらしい――どのみちロイヤルクラシックを相手に組討ちなど、考えるだけ時間の無駄だ。少女がいったん距離を取って空中に舞う聖書のページを掴み止め、撃剣聖典を再構築する。
アルカードなら間違い無く組みついて、そのまま投げ技に持っていったところだが――パワーでもスピードでも劣るフィオレンティーナが組討ちを挑むのは無謀に過ぎる。妥当な判断だったと言えるだろう。
いずれにせよ遅い――フィオレンティーナが構え直すよりも早くその内懐に殺到し、アルカードはフィオレンティーナのお腹のあたりに左拳を押し当てた。
左腕は相変わらずまともに言うことを聞かないが、この技において左手そのものはさほど重要ではない。
『それ』がなにを意味するのか、あるいは彼女は知っているのかもしれない。フィオレンティーナが表情を引き攣らせながら、前進の勢いを殺して後方に跳躍しようと――
だがそれよりも早く、震脚の轟音とともにフィオレンティーナの体は後方に弾き飛ばされていた。猫の様に空中で体をひねり込んで着地したフィオレンティーナが、触れられた脇腹に手を添えて顔を顰める。
その視線を受け流して、アルカードは背後に向き直った――反応は悪くない。
眼前まで迫っていたリディアの聖典撃鎖の分銅を、頭を傾けて躱す――同時に踏み込んできたパオラが、アルカードの首を刈る軌道で手にした撃剣聖典を薙ぎ払う。その一撃を、アルカードは
そのまま全身を低く沈めながら踏み込んで、パオラに最接近――剣を弾き飛ばしながら左手で彼女の法衣の右袖を掴んで引き寄せ、同時に
そのまま後方に跳躍してパオラと距離を取り、アルカードは遠距離戦をあきらめて踏み込んできたリディアに向き直った。
一歩踏み込む――左腕が精密に動かせない状態では、武器を奪い取るのは難しい。
引き寄せた手を離してそのまま腕を首に引っかけ、そこを中心にして体を旋廻させて、ちょうど片腕で首を絞める様にして後ろから拘束する――アルカードの左手の指先が左の目元に添えられた時点で、リディアは負けだと判断して全身から力を抜いた。
これでふたり――リディアを拘束から解放して、アルカードは再びフィオレンティーナに向き直った。同時に
三人の少女たちの中では、接近戦の技能はフィオレンティーナが一番上だ――魔力強度ももっとも高い。
先ほどの
だが、アルカードはさして気にしていなかった。もとより、浮嶽が読まれるのは予想のうちだった――そもそも、アルカードは弟子の中で使える者には浮嶽を教えている。レイル・エルウッドやブレンダン・バーンズ、
それだけいれば、ひとりくらいは彼女たちの見ているところで浮嶽を使っていても不思議は無い。
緊張した表情で、フィオレンティーナが再び地面を蹴る――彼女が繰り出してきた横薙ぎの一撃を、アルカードは体を沈めて躱した。残った髪のひと房が、毛先を斬られて宙に舞う。
逆袈裟に斬り上げた一撃を、フィオレンティーナが跳躍して躱し――そのままこちらの頭を割りにきた。真直に振り下ろされた冑割の一撃を、翳した霊体武装で受け止める――がっきりと噛み合った撃剣聖典が強烈な堕性に浸蝕されて、白銀の刃が見る間に紫色に変色してゆく。
撃剣聖典の崩壊を待たずに、アルカードは力任せに
その動きを視線で追って、アルカードは歯の間から鋭く呼気を吐き出した。そしてそのまま再度地面を蹴る――少女が先ほどとは逆方向から繰り出した横薙ぎの一撃を、アルカードは無視して逆側の側面に廻り込んだ。そのまま彼女の背中に向かって寄せ斬りを放つ――フィオレンティーナもその動きは予想のうちだったのだろう、上体をひねり込みながら左手で翳した撃剣聖典でアルカードの斬撃を受け止めた。
空いた右手で新たな聖書を掴み止め、撃剣聖典を構築する――だが遅い。
受け止めにいった撃剣聖典が半ばから切断されるのを目にして、フィオレンティーナの目が大きく見開かれた――右手での対処は間に合わない。
そのまま踏み込んで、左手で彼女の左手首を捕る。ついで後頭部めがけて繰り出した上段回し蹴りを、フィオレンティーナはその場で膝を折り、上体を沈めることで対処した――それ自体は悪くないが、残念ながら対処法がまずい。もとより掴んだ手首を離しさえしなければ、アルカードとしては彼女が躱そうが躱すまいがどうでもいいのだ。そのどちらであっても、状況は決着する。
廻し蹴りの空振りを気にも留めず、アルカードはそのまま蹴り足をフィオレンティーナの体の前に下ろした――続いて軸足も跳ね上げ、彼女の体の前に下ろす。ちょうど彼女の腕をまたぎ越えた形だ。
そのときには、フィオレンティーナはアルカードが掴んだままの腕を肩から捩じ上げられてその場に蹲っている――最初から蹴りは見せ技で、アルカードの本命はこちらだったのだ。
七-八-三――蹴りがそのまま入れば七-三-四、腕を極めにかかれば七-三-七。どちらであろうと同じこと、左腕を捕られて七-八-三に移行した時点で、フィオレンティーナの敗北は決定していた。
苦痛にうめき声を漏らしているフィオレンティーナの首元に短剣の鋒を軽く当ててから、アルカードはフィオレンティーナの手首を離して一歩後ずさった。
「フィオレンティーナ、死亡だ――全員死亡、状況終わり」 エルウッドが戦闘の終了を宣言する。
肩をさすっているフィオレンティーナから視線をはずし、アルカードはパオラとリディアを順繰りに見遣った。
「全員、怪我は?」 アルカードの質問に、パオラとリディアがかぶりを振る。
「いいえ」
「ありません」
「お嬢さんは?」 返事が無かったのでフィオレンティーナのほうに視線を向けると、彼女はその場にうずくまったまま軽くかぶりを振った。
「大丈夫。ちょっと痛いですけど」
「そうか」 アルカードはうなずいてから、
「加減はしたつもりだが、痛みが長引く様なら教えてくれ」
「はい」 素直にうなずくフィオレンティーナから視線をはずし、アルカードは近づいてきたパオラとリディアを観察した。歩き方、腕の振り方、特に気になるところは無い。
「しかし、あまり参考にはならなかったかもしれないな」
逆の腕の肘を掴む様にして腕組みしながら、そんな言葉を口にする――アルカードはかがみこんで
「いえ、そんなことは――でも出来たら、あとでその時々の行動に対する対処とかをきちんと説明してもらえると」 リディアの返事にうなずいて、アルカードは先ほど七-八-三に移行する時点で投げ棄てた
「そうだな。あとでビデオを見ながら説明しようか」
そう言って、アルカードは肩をすくめ、
「もう一戦いっておこうか――せっかくわざわざこんなところまで来たんだ。実戦形式の訓練を二、三回やった程度で帰るのも勿体無い」
遠いですものね、とリディアがそう返事をしてくる。
「アパートの近所に寂れた神社があるから、そこでよかったと思うんだけどな――ほら、特訓といえば神社だろ」
「ジンジャって、テラと同じで日本の宗教建築物ですよね? それほど信心が深いほうじゃないですけど、それでも宗教上の理由で立ち入るわけにもいかないんですけど」
どうして特訓といえば神社なのかはわかりません、と続けてくるリディアに、アルカードは肩をすくめた。去年の夏祭りで平気で神社に立ち入った挙句に、ビール片手に焼き鳥と唐揚げとたこ焼きを買い漁っていたエルウッドに聞かせてやりたい科白だ。
「ライル、こっちに来い。次はおまえの相手をしてやろう」 その言葉に、エルウッドが嫌そうな顔をしながら
「君たち三人は、車のところまで戻っていてくれ。他人が戦ってるところを見るのも、参考になるものだから」
そう声をかけると、リディアは小さくうなずいて、どうやら浮嶽が入って少し気分が悪いらしフィオレンティーナを助け起こして歩いていった。
入れ替わりに、エルウッドとアイリスが歩いてくる。
「おまえも参加するのか、アイリス?」
「ええ、たまには体を動かしておかないと鈍るから。この人はヴァチカンにいないし最近アンソニーもリーラも忙しいし、団長も副長もなかなか時間が取れないから、鍛錬の相手がいなくて困ってたのよ」
そう答えてくるアイリスに、アルカードは肩をすくめた。
「パオラ、号令を」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます