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「ええ、たまには体を動かしておかないと鈍るから。この人はヴァチカンにいないし最近アンソニーもリーラも忙しいし、団長も副長もなかなか時間が取れないから、鍛錬の相手がいなくて困ってたのよ」
微妙におっかないことを答えるアイリスに、アルカードが適当に肩をすくめる。彼はこちらに視線を向けて、
「パオラ、号令を」
その言葉にうなずいて、パオラは右手を掲げた。聖堂騎士団の形式に従って、戦闘開始の号令をかける。
「想定状況『
パパ、ママ、頑張ってー、とアルマが暢気に車の中から応援する。
アルカードが再び右手に
「――始め!」
号令とともに、アイリスが左手を振り翳す。教会所属の魔術師の中でも最優秀の部類に入るパオラから見てもなお圧倒的な構築速度で、アイリスの展開した魔術式が空間を浸蝕した。
まるで空間そのものがきしむ様な轟音とともに、まるで太陽を間近に見たかのごとき強烈な閃光が視界を焼いた。白く輝く光球がみっつ、アルカードの周囲に浮いている。
ぢぢぢと音を立てて蛇の様に青白く輝く電光を時折放射していたその光球は、やおらアルカードに向かって殺到した。
きわめて複雑な術式を構築しなければならないために制御が難しい高等技術だが、その破壊力は折り紙つきだ――
だが、そんなものをアルカードに向けて使うなど――背筋が寒くなるのを感じたときには、青白い電光を周囲に纏わりつかせた光球はアルカードの周囲に着弾している。
次の瞬間に押し寄せてくる爆風を予想して、パオラは片腕で顔をかばった――着弾地点の周囲に生じたすさまじい熱量を誇るプラズマがアスファルトを融かし、その下にあった土をマグマのごとくに沸騰させて強烈な爆風を発生させるはずだ。
だが、なにも起こらない。雷華を帯びた光の玉は着弾したその場で消えて失せ、アルカードが滑る様な動きでアイリスに肉薄している。
魔術の不発? いいえ――術式そのものは発動していたのだから、失敗しているということは考えにくい。あるいは内部に熱が封入されていない、訓練のためのダミーの光球だろうか。もしくは――
アルカードが繰り出した一撃を、アイリスが翳した霊体武装で受け止める――紫色の火花が散り、膂力に押されてアイリスの体が弾き飛ばされた。
空中で猫の様に体をひねり込んで、アイリスが数メートルほど離れたところで着地する。背後から肉薄していたエルウッドが振るった横薙ぎの一撃を、アルカードはその場で跳躍して躱した――体を丸めて空中で回転しながら
それを後方に跳躍してやり過ごし、エルウッドは構え直した。
アルカードは相変わらずの落ち着いたたたずまいで、右足を引いたまま構えは取らずにその場に立っている――否、わずかに重心を下げているか。
だがそれで十分なのだろう――重心の移動が起こせれば、攻撃は繰り出せる。
わずかに体を沈め――エルウッドが動いた。
一瞬で踏み込んで繰り出してきた刺突を、アルカードが左手で受け止める。無謀ともいえる対応だったが、その掌と
その体が一瞬ぶれた様に見えた瞬間、足を踏み鳴らす音とともにエルウッドの体は後方に撥ね飛ばされていた――空中に浮いたエルウッドめがけて、アルカードがさらに踏み込みながら横薙ぎの一撃を振るう。
繰り出されたその一撃を、いまだ宙を舞ったままエルウッドが
ぶうん、という高速回転するモーターの駆動音に似た音とともに、牛乳瓶ほどのサイズの尖った力場が全部で五つ、アルカードに先端を向けて構築され、その後ろ半分に紫がかった青白い劫火が満ちて、一瞬で消滅する。
HEAT弾に似た挙動をする魔術で、本物を正確に模倣したものはかなり強力な部類に入る。術式もかなり複雑で、並みの魔術師に扱えるものではない。
内部には一部蒸気化するほどに加熱された重金属と高温高圧のガスが封入されており、これが攻撃対象に接触した瞬間に一点に集中して噴射されることで
あの炎は内部に封入された重金属の金属イオンが熱反応で励起した際に発生するもので、内部に封入された重金属の種類や量によって発色が異なる。紫がかった炎が発生したということは、内部の重金属は砒素が主体らしい。
これが直撃すれば、いかなアルカードといえどもダメージは小さくない――だが、次の瞬間には
アルカードの全身から放出された『式』がアイリスの構築した
驚くほど高い魔術の技量に、パオラは思わず瞠目した――発動前の術式ならともかく、すでに発動した魔術を解体するというのは、誰にでも出来ることではない。しかも発動済みの魔術が実際に射出されるまでの十秒に満たない時間で、すべての
それを躊躇無く出来るというのは、術者としての自分の技量に相当な自信を持っているということになる。
もしかして、こないだフィオの聖典戦儀をほどいたのも……?
先日あの教会を辞す間際、フィオレンティーナがアルカードの愛車に向かって投げつけようとした短剣が瞬時に分解された光景を脳裏に思い描いたとき――魔術式を解体されることはお互いに織り込み済みだったのだろう、まるで予定調和の様にアイリスとアルカードが同時に地面を蹴った。
アイリスの手にした
基本的に結界は設定した数値以上の質量、もしくは熱量、運動エネルギーを持つ物体の移動を遮断する様に出来ているので、処理を軽くするために埃や空気中の塵などはそのまま素通りさせることが多い――そのため内部の音も聞こえてくる。
遮蔽を完全にすると空気の振動が伝わらなくなるため、音も聞こえなくなるのだが、そこまでやると不便だということなのだろう――完全に遮蔽すると振動が伝わらなくなるだけでなく空気の循環も起こらないために、内部にいる者が酸欠を起こすという理由もある。
アルカードの鋒を逃れて後退したアイリスの手にした剣が、分解する――刃に刻まれた無数の亀裂の様な筋に沿って刃が細かいピースに分かれて落下したかと思うと、それがふわりと浮き上がった。
それぞれが数十センチの間隔を空けて、しかし元の配置を保っている。
アイリスが踏み込みながらそれだけが手元に残った
アルカードはその攻撃を、受け止めようともせずに回避した――アスファルトの地面に細かな刃のピースが衝突し、十センチおきに小さな傷跡を穿つ。
一撃一撃はそれほど重くないのだろう、アイリスの斬撃は振り抜かれること無く途中で止まった――アルカードが地面を蹴り、アイリスに肉薄する。
完全に首を刈り取る軌道の横薙ぎの斬撃を、アイリスは上体を沈めて躱した――同時に、地面に喰い込んでいた刃のピースが柄の軌道のまままっすぐにアスファルトをぶち抜いて手元に戻る。どうやら、刃の間隔は手元で操作出来るらしい。
先ほどの破壊状態から察するに、刃のピースは霊体武装の力場によって支持されていて、それぞれの間に不可視の刃が存在しているわけではないらしい。ならば回避の手段としてもっとも適切なのはその隙間を抜けることだが、逆に言えば遮蔽物に隠れる以外の防御は不可能だということでもある。
刃の間隔次第では、ひとつを回避したつもりになっても別な刃が命中する可能性がある――刃同士の間隔を狭めながら振るえば、刃のピースの間に入って躱したつもりになっている敵の体を捉えることも出来るはずだ。
普通の長剣程度の長さまでピース同士の間隔を縮めた
振り下ろされた
その瞬間にまともに顔色を変え、アイリスはあわてて後方に跳躍した。
――ずだんっ!
足を踏み鳴らす轟音が、結界を透過して鼓膜を震わせる――なんとか逃れたものの、アイリスはアルカードの拳に押し出される様にして転倒した。
振り返り様に、アルカードが
重量に負けて後方に跳躍しながら、アルカードが口元をゆがめて嗤う――彼がパチンと左手の指を鳴らしたとき、アイリスの構築していた魔術式が分解されて消滅した。
勢いを殺すために着地した場所からさらに一歩後ずさってから、アルカードが再び地面を蹴る――エルウッドの踏み込みに対応して繰り出した首を刈る軌道の横薙ぎの一撃を、エルウッドが
だが、アルカードの一撃とエルウッドの迎撃が衝突することは無かった――アルカードが繰り出した一撃は、彼が途中で
引き戻そうとする右腕の動きを左手で抑え込み、そのまま右手を奔らせる。いつの間に取り出したものか、凶悪な形状のフォールディングナイフがエルウッドの首元に押し当てられている――彼はそのままエルウッドの脇を駆け抜けて、アイリスに向かって殺到した。
再び『伸ばした』
「アイリス、ライルふたりとも死亡だ――状況終わり」 抑えた声でそう言って、アルカードがアイリスの胸元を掴んでいた手を離した。
アルカードが後ろに向かって引き倒していたためにバランスを崩していたアイリスが、アルカードの腕に掴まって体勢を立て直す。
アルカードはいったん水でも飲もうと思ったのか、車に向かって歩いてきた。
アイリスが霊体武装を消しながら、エルウッドのかたわらに歩み寄る。エルウッドは
ジープのところまで歩いてきたアルカードがジープのバックゲートを開け、荷台に積んであった『グリズリー』のクーラーボックスからアクエリアス・アクティブダイエットのペットボトルを三本掴み出す――彼はそちらを振り向きもしないまま、アクエリアスのペットボトルを後ろ手に一本ずつ放り投げた。
エルウッドとアイリスが、投げられてきたアクエリアスのペットボトルを掴み止め――それを確認もせずに、アルカードがアクエリアスの封を切る。
のほほんと清涼飲料に口をつけているアルカードを横目で見ながら、パオラは先ほどの光景を思い返した。
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