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駐車スペースに降りると、アルカードは記憶にある駐車番号を頼りに自分たちの乗ってきた車のところに戻った。
「ねえ、今更なんだけど、わんちゃんってレンタカーに乗せていいの?」 かたわらでジャケットの袖を握った凛が、歩きながらそんな疑問を口にする。
「ん? 大丈夫」 見上げてくる凛を見下ろして、アルカードはそう返事をした。
アルカードが用意した車は十五人乗りのコミューターで、営利が絡まないので大型自動車免許を持つアルカードは問題無く運転することが出来る――問題はアルカードしか運転出来ないことだけだ。
まあそれはともかく、レンタカー会社の利用規約ではペットを乗せることそのものは制限されていない――代わりに、そのペットが原因で車が汚れたりした場合は補償をしなくてはならない。
規約を説明された時点で、アルカードは老夫婦から預かったレンタカー代とは別に保証金として現金をいくらか置いてきた――十五万円を代金とは別に預けられたことでこの男は上客だと思ったのか、レンタカー会社の社員はいきなり腰が低くなったが。
実際のところ、アルカードとしてはそれを要求されれば車ごと買い取っても一向にかまわない――自分で車を用意するのも時間がかかるから、レンタルという選択肢を選んだだけだからだ。
「わんちゃん寂しがってないかなあ」
「一匹だけじゃないから、大丈夫だと思うけどね――でも、そろそろ散歩に連れ出してやりたいな」 そんな会話を交わしながら、凛と手をつないで歩いていく。
TE27、一九七二年型の初代スプリンタートレノに目を奪われそうになりながらも、その二台向こうのステップワゴンとエスティマの間を抜けて、二台と背中合わせになった駐車レーンに出る。そのまま車輌通路を通りすぎたところで、ふたりは足を止めた。
2ナンバーの十五人乗りのコミューター――これがこの小旅行にあたって、アルカードがアレクサンドル老の出資で借り出したレンタカーだった。
もともとはマイクロバスをレンタルするとか、バスをチャーターするとかの話もあったのだが、参加人数が十二人なので十一人しか乗れないマイクロバスは無理、バスも運転手つきでチャーターするには人数があまりにも中途半端だったので、結局こうなった――結果、ひとりだけ大型免許を持っているアルカードがひとりで割を喰うはめになっている。
否、それは別にかまわないのだが――
カチャリと音を立ててドアロックのアクチュエーターが作動し、アンサーバックでハザードランプが点滅する。
左腕を構成する
まあそういったデメリットを勘案しても、便利ではあるがな――
胸中でつぶやいて、アルカードはコミューターのスライドドアを開けた。スライドドアを開けてすぐのスペース、つまり運転席のすぐ後ろのふたり掛けのシートが撤去され、そこに犬たちを入れておくためのケージを設置してある。人数的にそのシートが無くても困らないし、荷物を置くためとケージの置き場所が必要だったので、レンタカー会社に頼んでシートをふたり掛けのシートを撤去してもらったのだ。結果、すぐ後ろに乗る者にとっては少々邪魔ではあるが、そのスペースと頭上に設置された棚のおかげでケージも荷物も問題無く積み込めていた。
ケージの中でじゃれあっていた犬たちが、こちらに気づいてキャンと鳴く――車から降りる前に置いてきた飲み水の器はまだ残っている。戻る前に足していこう。
「ソバちゃん、テンプラちゃん、ウドンちゃんも、みんな元気だったー?」 凛が手を伸ばすと、その指先の匂いを嗅ごうとして犬たちが集まり出す――アルカードが宥める様に手を挙げながらケージを開けてやると、犬たちが我先にと飛び出してきた。
「おお、よしよし」 スライドドアのステップに凛とふたりで腰かけて、じゃれついてくるテンプラを抱き上げる――耳元に鼻面を近づけて匂いを嗅いでいるテンプラの首筋を撫でて目を細め、膝に前肢をかけて自分も抱き上げてくれとせっついているソバと凛に抱っこされているウドンを見下ろして、アルカードは口角を吊り上げて笑った。
*
ふう――ひと段落がついたところで、赤松は黒塗りのW140型メルセデス・ベンツS600の車体を磨く手を止めた。白熱電球で照らし出されたガレージの片隅で、割と年代物の扇風機がせっせと風を送り出している。モーターのベアリングの摩耗が進んでいるのか、からからという音が連続して聞こえてきていた。
扇風機のそばでは、金鳥の渦巻き型蚊取り線香が白い煙を上げている――あまり効果は無いだろうというのが仲間の見解だったが、周囲に煙を撒き散らせば蚊が寄ってこないのではないかという希望的観測に基づくものだ。
まあ、仲間の意見はこの際どうでもいい――使っているのは自分だからだ。
ガレージの床は先ほどまで水洗いをしていたために、泡の混じった水で濡れている――どうせ会長の山田はガレージになんかやってこないし、排水溝もついているので、赤松はその点に関しては特に気にしていなかった。
水に大量の黒い粉が混じっているのはホイールにこびりついていたもので、ディスクブレーキのパッドの摩擦材が摩耗して出た粉塵だ――欧州車はだいたいそうだが、ブレーキの減りが極端に早く、そのためホイールの汚れの進行も早い。
そういった点をビブラムあたりのグリップのいい靴底に喩えて、効きがいいからよく減るのだと持ち上げる向きもあるが――自動車整備士のドロップアウト組の赤松としては、ただ単にディスクパッドと、パッド同様減りの早いブレーキディスク自体の品質が悪いだけだと思っている。
実際問題として、ブレーキ性能などクラウンでもSクラスでもさほど変わらない――少なくとも、どちらも問題無く車検には通る。ならば単純に減りが少ないほうがコスト的には優れているので、赤松の立場としては国産車万歳だ。
というか、こんな馬鹿高い車を買う金があるのなら、その車の車検費用くらい自分で出せと言いたい。
名義だけは自分の名義だが山田の移動の足に使われているベンツに蹴りでも入れたい衝動を辛うじて堪え、赤松は舌打ちした。
購入費用だけは持ってもらえたものの、おそらく来年四月にやってくる車検の費用は自腹を切らされるだろう。若頭の長妻が足に使っていたセルシオも、去年の半ばに最初の車検がやってきたとき、その費用は名義人の横粂が自腹を切らされていた。
一応昔取った杵柄ということで、ある程度のメンテナンスは自分で出来る――極道仲間の私用車や『公用車』のメンテナンスもある程度であれば引き受けてやれるので、そういった意味では赤松は組の下っ端仲間の間では重宝がられていた。
なので、次の車検を通すときにだいたいいくらくらいの経費が必要になるのかも想像がつく――補機類のドライブベルト、エンジンオイルとオイルエレメント、タイヤもそろそろ交換しないとまずい。
山田は――ほかの極道の組長や、それに準じる上の連中の例に漏れず――金は出さない割に口だけはぐだぐだ出してくるので、調子が悪くなったりブレーキ鳴きやベルトの滑り音が聞こえたりしだしたら、それはもう車の異音なんぞよりもよほどギャーギャーやかましいことだろう。
胸中でだけつぶやいて、シュアラスターのワックスのスポンジをケースに戻して蓋をする。さすがに疲れたので、煙草でも吸おうと思ったところで――切らしていたことを思い出して赤松は舌打ちした。お気に入りの銘柄が山田と同じなせいで、ちょくちょく山田に巻き上げられるのだ――いっそ禁煙しようと思わないでもないが、会長に差し出す煙草は持ち歩かされるだろう。
車内では煙草を吸わない赤松としては、あの
幸いなことに、売っている自販機は近所にある――買いに行こうと思い立って、赤松は扇風機のスイッチとガレージの照明を切って庭に出た。暗闇に落ちたガレージの中で、蚊取り線香の火だけが赤く輝いている。もう線香の長さは二センチほどしか残っていない。放っておいても、じきに燃え尽きて灰になるだろう。
ガレージは庭の池の近くで、蛙の鳴く声がやかましい――鈴虫の鳴き声も聞こえてくるのだが、赤松としてはうるさくて寝られないので嫌いだった。虫の音に耳を傾ける様な風流な人間は極道に身を窶したりはしないだろうから、たぶんそんなものを愛でる様な奴はここにはいないだろう。
日本家屋の門へと足を向けたとき、
「おう、
「ああ」 同じ下っ端仲間の荒井が、こちらに近づいてきている。というか、彼も門に用があったのか。
「どうした?」 という赤松の質問に、荒井は返事をしないまま肩越しに屋敷のほうを親指で示した――表情から察するに、また酒癖の悪い若頭の長妻の癇癪につきあわされているのだろう。最近若頭だった首藤が行方不明になったために代わりにその補佐のひとりから若頭に昇格した長妻ではあるが、非常に酒癖が悪くさらに睡眠と入浴を除く活動時間において一分一本のペースで煙草を吸うためにカートン買いしても煙草がすぐ切れる。なので、煙草が切れそうになると舎弟の誰かがカートンどころかケース単位で買いに行かされる――もちろん費用なんて持ってくれない。
この時間に出かけるということは長妻のお気に入りの煙草でも切れたか、酒のつまみでも買いに行かされるのか。
そこらのコンビニの店長でも脅しつけて、商品をただで配達させる様にでもすればいいだろうに――幸いなことに山田の兄弟は左翼系の国政政党の幹部で、その身内が市議会にも都議会にも大勢いる。そのおかげで警察の動きは鈍いし、どうせその政党の究極の目的は自分たちや近所の全体主義国家からやってきた外国人たちを上級市民として、二流市民に貶めた日本人と日本を牛耳れる社会を作ることなので、いっそのこと条例で極道は近所の商店やスーパー、コンビニから物を略奪しても罪にならない様にしてしまえばいいのにと思う。赤松としてはその範囲が自動車用品量販店まで及べば言うことは無い――もしくは極道に、不逮捕特権を賦与するとか。
彼はそんなことを考えながら同情をこめて荒井の肩を叩き、連れ立って正門から外に出た。壁に耳あり障子に目あり、屋敷の玄関前に集音マイクと監視カメラあり。余計な会話はしないに限る。
「さて、俺は自販機に行くけどおまえはどうする?」
「ワシはコンビニや」 大阪出身の荒井は、もう東京に出てきて十年になるというのにいまだに関西弁が抜けない。訛りの強いイントネーションで、荒井はそう返事をしてきた――たぶん自販機では売っていない銘柄の煙草と、酒のつまみでも買ってくるのだろう。もちろん自腹で。
「ったく、政治家もしくじりくさって。さっさとワシらが日本人を支配出来る世の中にすればよかったんや」 そうすりゃあ、金なんぞ払わんでも店にある
「そう言えば、おまえらが放火しに行った例の外人の店はどうなった?」 おまえと立場は同じだぞ――そんな皮肉を込めた質問だったが、荒井には特に思うところは無いらしい。まあ、荒井からしてみれば中欧系の外国人は日本人同様虐げる対象でしかないだろう。
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