【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_33_

2015-10-12 18:28:52 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ジュチ・ウルス旗の成立 ◎○

★= ノガイの夢とジュチ・ウルスの内紛 =★

  バトゥ・ハンの時代から、ジョチ・ウルス右翼諸軍に属していたボアル家の後継者として活躍したノガイ(ジュチの曾孫)。 1260年にトルイ家=長兄は第三大ハーン・モンケ、次兄元朝開闢のクビライ=の三男・フレグ西征軍参加していた同じ従兄弟であったトタルが反乱罪の嫌疑で処刑され、シバン(ジュチの五男)の4男バラカンやオルダ(バトゥの異母兄)次男のクリが不審死する事件が起きた。 これら一連の事態をフレグの陰謀と見なしたベルケ(ジュチ・ウルス第5代宗主)はフレグの本拠地となっていたカフカス山脈以南のアーザルバーイジャーン地方へ遠征軍3万騎を派遣し、ジョチの七男ボアルの長男タタルの子であるノガイに全指揮権を委任した。 彼は、指揮官としてフレグ・ハンやその後継者であるアバカ・ハーンなど草創期のイルハン朝の軍団と交戦し多くの武功を建てていた。

 ノガイは1265年7月には東ローマ帝国に出兵し、ミカエル8世パレオロゴスの軍を撃破すると、黒海に臨むバルカン半島南東部の町・トラキアを破壊した。 その後、ミカエル8世の娘エウフロジュネー(Euphrosyne Palaeologina)を妃に迎えて、東ローマ帝国と同盟した。 しかし、同年冬、フレグが没した直後のアーザルバーイジャーン遠征ではカフカス山脈東部のデルベントを越境してイルハン朝勢力下のムーガーン低地地方のクラ川北岸で、アバカの弟君ヨシムトと激戦となった。 ここでノガイは片目を失い敗走した。 これを受けてベルケ自らが軍を率いて親征し、ダルバンドを越境して渡河のためにクラ川をティブリス付近まで遡上していたが、1267年1月にこの地でベルケは急死してしまった。

 その後、ジュチ・ウルスはモンケ・テムル・ハンの時代になる。 モンケ・テルムはバトゥチンギス・ハーンの長男・ジョチの次男)の次男トクカンの次男であり、バトゥの孫に当たる。 ノガイは対イルハン朝戦役の前線指揮から退き、代わってバラカンの息子トクタイが軍を率いた。 トクタイにはカフカス北麓のテクノ川流域に遊牧地を与えられる。 この人事に伴ってノガイにはジョチ・ウルス最西端にあたるドナウ川下流域に遊牧地を与えられることになった。 イルハン朝との戦いなど、様々な戦いに参加して戦功を立てたノガイの勢力圏はジョチ・ウルスの諸王族の中でも最大であり、最も西部に位置した関係から、ノガイは祖父が夢に見た西方の大洋を求めて遠征を繰り返す。 ウルスの外にあるリトアニア(1275年)、コンスタンチノープル(1285年)、ハンガリー(1285年)、ポーランド(1287年)、にたびたび出兵して勢力を拡大して行く。

 ジュチ・ウルス右翼諸軍の統帥と成っていたノガイの政治的戦略である“西方への拡大”を実践し続ける中、1280年にモンケ・テムルが死去する。 ノガイはジュチ・ウルス左翼諸軍の統帥・オルダ家の当主コニチと協議し、その後継者にテムルの息子ではなく、バトゥ家の最年長者であるモンケ・テムルの次弟トダ・モンケを擁立した。 トダ・モンケはモンケ・テムルの同母弟であり、バトゥ家の実質的な最長老格であった。 1280年頃はシリギの乱によってクビライの皇子ノムガンとココチュが兄モンケ・テムルの許に拘留されており、この時バヤンの西方派遣で中央アジアの国際情勢は緊迫していたため、ジョチ・ウルスは困難な問題に直面していた。 ノガイは右翼の最有力者のみならず、その影響力はジョチ・ウルス全体にまでおよびウルス全体の実力者として認められていた。 

 モンケ・テムルの嗣子たちでは東方のカラコルムへの対応が難しいあろうとの判断したノガイの指導力でトダ・モンケが擁立されたのであろう。 事実、この年にはクビライがカイドゥ討伐のために皇子ノムガンを中央アジアへ派兵する。 大蒙古帝国内を揺り動かす対大元朝対策をコニチ、トダ・モンケとともにノガイは協議している。 しかし、1287年にトダ・モンケがイスラーム神秘主義に傾倒し過ぎるという理由で、モンケ・テムルの長男であるアルグイや十男トゥグリルチャ、そして従兄弟のトレ・ブカらを首班とするバトゥ家内部の王族たちから廃位される事件が起きた。 トレ・ブカはモンケ・テムルらの長兄であったタルトゥの息子であったため、長子相続を主張して叔父トダ・モンケ廃位に協力した王族たちと図り自ら即位した。

 しかし、トレ・ブカ派はこの一連のクーデターに参加していなかったモンケ・テムルの息子でアルグイの弟であったトクタ(モンケ・テムルの5男)の有能さを認めており、トクタを抹殺しようと画策していた。 クリミヤ方面に所領(ウルス)を有していたトクタは、ドナウ川河口部一帯のジョチ・ウルス西部境域を鎮撫していた有力王族ノガイと手を結んだ。 トクタはカフカス境域を鎮撫していたベルケチャル家のイルキジのもとへ逃亡し、バトゥ、ベルケ以来のジョチ・ウルスの重鎮となっていたノガイに援助を求めた。 ノガイはトクタに協力を約束してドナウ流域にあった自領からドニエプル川を東進した。 ノガイは仮病を使ってトレ・ブカらクーデターを実行したゴンチェクと、アルグイ、トグリルチャの他にトレ・ブカに同調したアルグイの兄弟ムラガン、カダアン、クトカンら王族たちを自らの陣営におびき出し、そこで待ち伏せていたトクタに襲撃させた。 こうして1291年にトクタによってトレ・ブカは兄弟もろとも殺され、位も奪われてしまったのである。

 トクタの即位前、ペレヤスラヴリドミトリーゴロジェッツアンドレイウラジーミル大公の位を争い、ドミトリーはノガイ、アンドレイはサライのハンの支援を受けていた。 即位直後の1292年にアンドレイを筆頭とするルーシ諸侯は、トクタにドミトリーへの制裁を請願した。 トクタは支持者であったノガイと同じくドミトリーの支持を考えていたが、ドミトリーがルーシ内で優位を確立しつつある状況をふまえてアンドレイに与し、兄弟のトデゲンを指揮官とする軍隊をウラジーミルに派遣した。 トデゲン、アンドレイ、ヤロスヴリ公フェオドルたちはウラジーミルを占領し、スーズダリ・ペレヤスラヴリ・モスクワなど周辺の14の都市を破壊、略奪した。  このトデゲンの侵入は、バトゥの大遠征、以来ルーシ諸侯がモンゴルより受けた軍事的制裁の中で最大のものであった・・・・・・。

 

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森のなかえ

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