goo blog サービス終了のお知らせ 

偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書269 やぐら(千葉県南房総市千倉)

2024年02月29日 | 里山石神端書

千葉県南房総市千倉の大川・東漸寺のやぐら

 太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ大川の東漸寺の墓地奥の土手に穴を掘った〝やぐら〟のような形の墓地がありました。その中と周辺には江戸時代初期からの墓石が累々と重なっていて、墓石のオンパレード状態。


 やぐらであれば奥壁に五輪塔などの浮彫があるのですが、それは確認できませんでした。したがってこれをやぐらとすることはできませんが、房総のやぐらについて過去の資料から少し紹介します。
 やぐらは鎌倉時代の鎌倉に造られた山際の斜面を彫りくぼめて造った墓地。狭い土地の鎌倉で墓地を確保するために考え出された方法で、鎌倉だけで3000基もあるとされています。やぐらという名称について大三輪龍彦氏は『鎌倉のやぐら』(注)で、江戸時代初期の『新編鎌倉志』の巻之、正覚寺の項に、やぐらは「鎌倉の俚語に巌窟をやぐらと云うなり」とあることを紹介。そして「やぐらは鎌倉にしかない」としています。
 これが東京湾を渡った房総にもあることを報じたのが96年8月7日の読売新聞夕刊、「やぐら」房総に500基という見出しの記事でした。調査は「新編千葉県史」編さん事業の一環として同県史料研究財団が主体となっておこなわれたものです。報道によると「やぐらが分布する一帯はいずれも鎌倉時代に、円覚寺、極楽寺などの鎌倉の大寺や有力御家人などの寺領、所領があった地域」とし、千倉町には31のやぐら数が確認されています。この報道以後同紙は、8月8日から6回「やぐら 中世の冥界遺構を探る」でやぐらについて連載しました。
 下写真は、館山市安東・千手院やぐら内の地蔵菩薩で「文和二年(1353)」銘は千葉県内最古の丸彫り地蔵菩薩。

(注)大三輪龍彦著『鎌倉のやぐら』1976年、鎌倉春秋社
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書268 風神雷神(千葉県南房総市千倉)

2024年02月27日 | 里山石神端書

千葉県南房総市千倉の大川・高塚不動の風神・雷神


 太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。高塚山には不動堂が建っていましたが、昭和の初めの火災で本尊不動明王は山麓の大聖院に下ろされたのは昭和36年。


お堂内には、奈良時代に高塚不動を創建のした良弁(689~773)の開山縁起を描いた絵図18枚がかけられていました。良弁は奈良時代の僧。東大寺建立の僧として知られています。安房と縁が深いようで、鴨川の大山の開山も良弁となっています。もっとも良弁は相模の人で、丹沢の大山不動の開山者とされています。
 高塚不動・鴨川大山不動・丹沢大山不動の開山縁起の出だしは、良弁が赤子のときに鷲にさらわれたという件から始まります。鷲が向かった先が奈良、二月堂前の杉の木に引っかかっていたという設定です。


 今回は高塚山へは登りませんでしたが、かつては山頂には仮堂が建てられ、境内入口の覆い屋には風神・雷神の石像が立ち仮堂を護っていました。ところが、2019年の台風で覆い屋は飛ばされ、風神・雷神は転げ落ちて無残な姿になってしまい、大聖院の話ではまだそのままの状態だそうです。
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書267 鯉(千葉県南房総市千倉)

2024年02月22日 | 里山石神端書

千葉県南房総市千倉の千田・高皇産霊神社の木彫鯉


 太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。そのなかでひときわ高い山際に建つのが高皇産霊神社です。


 一直線の長い参道もこの神社の特徴。二の鳥居の扁額の神社銘は風化していますが、縁を飾る波などの文様はまだはっきり残っていました。扁額ばかりでなく、石造物の台座、寺社の向拝や欄間や柱に凝った意匠を凝らしたのが南房総(安房)の職人たちで、江戸時代末期には波の伊八、石工の武田石翁、宮彫りの後藤義光が安房の三名工として称えられました。
 三名工の一人後藤義光(1815~1902)は千倉の宮大工の家の生まれ。若いころは江戸の宮彫師の弟子となり、40代で安房に帰って仕事をしました。弟子の養成にも力を入れ、直弟子の後藤義信、後藤義久、後藤忠明、後藤兵三は後藤一門四天王と呼ばれています。

 そのような土地柄ですから、高皇産霊神社の境内に建つ小社の柱には立派な滝登りの鯉が刻まれていました。髭をはやした鯉です。向かった右手の鯉は波から跳ね上がった元気な鯉。左手の鯉の髭は無くなっていてちょっと勢いがありません。
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書266 大日如来(千葉県南房総市千倉)

2024年02月20日 | 里山石神端書

千葉県南房総市千倉の平磯・照明院の大日如来

 太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。真言宗の御本尊は大日如来。照明院の境内には3体の智拳印を結ぶ金剛界大日如来が座していました。いずれも円光を背にした丸彫りの大日です。


 房総ではときどき大日如来に出会いました。その一つが山に祀られた馬頭観音と対になった大日如来です。一石に馬頭と大日銘を刻した石塔もありましたから、対で祀ることが普通に行われていたと思われます。しかしどのような背景があっての造立かはわかりませんでした。参考になる例が伊豆半島の河津町にあります。『河津町の石像文化財』には大日と馬頭を並刻するものを8基報告されています。その目的は「天道大日に晴天を願い馬頭観音に馬の道中安全を願った」とあります。天道大日は農耕が始まる春に太陽の力の復活させる五穀豊穣を祈願する念仏で、その本尊が大日如来。一つは出羽三山信仰の奥の院・湯殿山の本地仏大日如来です。
 房総のある集落では、大日如来が沢山祀られている所もありました(下写真・鴨川市)。

 千田の大聖院の洞窟には出羽三山の大日如来が祀られていました(下写真)。

 照明院の大日如来は僧侶の墓石です。
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書265 鯨塚(千葉県南房総市千倉)

2024年02月15日 | 里山石神端書

千葉県南房総市千倉の平磯・長性寺の鯨塚

 太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ千田の長性寺を訪ねました。


 山門に子抱地蔵が座す長性寺、境内にブーゲンビリアの花が咲いていました。本尊は不動明王、拝見させてもらいましたら赤い憤怒の立像でした。


 鯨塚は本堂裏手のお堂入口に立つ宝篋印塔型の石塔で、「鯨塚/明治廿九年」銘。鯨は海からの漂着神。寄り神ともいわれた漂着物には、神像仏象をはじめ流木や貝や石までも、海からの恵みと考えて神仏として寺社に祀られました。千倉は和田などの南房総では漂着した鯨も仕留めた鯨も神として扱いました。
 南房総の太平洋側は昔から捕鯨が盛んな土地で、いまでも魚屋では鯨の肉やベーコンが売られています。かつては給食で鯨カツなどが出たそうですが、給食の経験がない私は昭和40年ごろ、安価な鯨のベーコンで一杯やったことがあり、これが実に美味であった記憶があります。
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書264 地蔵絡子(千葉県南房総市千倉)

2024年02月13日 | 里山石神端書

千葉県南房総市千倉の平磯・観養寺の地蔵絡子

 太平洋に面した千倉の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ千田の観養寺を訪ねました。
 境内に入るとすぐ右手に阿弥陀如来、左手に地蔵菩薩が立っています。二尊とも整った像容で、地蔵の左肩には大きな絡子が彫られていました。絡子は袈裟の長さを調整する環で、主に禅宗の僧侶が使っています。



 袈裟は古代インドの僧侶の服。それはボロ布を集めて作ったことから糞掃衣(ふんぞうえ)、捨てられた布を綴り合わせて作ったことから衲衣(のうえ)とも呼ばれたと伝えられています。仏教が熱いインドから寒い北に伝わるにつれて、これを担った僧侶は必然的に分厚い服装になり、これに簡易な袈裟を着けるというスタイルに変わって、袈裟本来の意味は失われていきました。中国での袈裟はさらに装飾的になり、同じ形で左胸に紐で結んだ袈裟が主流となり、これが日本でも踏襲され同時に装飾的、あるいは簡略化がすすんで「袈裟をつける」として今日に続いています。
 袈裟の装飾化のひとつに絡子があります。紐で調整していた袈裟の長さを絡子という環に変えたもので素材は木、象牙や石も用いました。絡子について筒井雅風の『法衣史』(注)に、絡子は「安陀会として用いられていたものに紐をつけ、これを小型に改め、禅宗に用いさせたのは、唐の則天武后といわれている。すなわち禅僧作務のとき、便宜のため着用する袈裟。(略)日本において、真言や天台宗には、この絡子は使われずに、宋代になって禅宗が日本へ渡来した鎌倉時代の曹洞・臨済禅になって、ようやくこの絡子が広く用いだされているので、中国でもこの絡子が多く用いだされたのは宋代になってからと思われる」とあります。安陀会は作業時に使われた小さな袈裟です。
 絡子付き袈裟を木彫僧像に取り入れたのは、鎌倉時代の運慶たち慶派の人たちで、袈裟を地蔵菩薩に取り入れたのも慶派でした。これにより地蔵菩薩は絡子つきと絡子無しが混在することになり、石仏の地蔵にも絡子有と無しが造られ今日まで続いています。
 下写真は房総君津市久留里・愛宕山の地蔵です。

(注)筒井雅風著『法衣史』1993、雄山閣出版
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書263 子安大明神(千葉県長柄町)

2024年02月08日 | 里山石神端書

長柄町水上川流域の大庭・熊野神社の子安大明神

 長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。
 いま盗難防止のため山村の無住の寺社のほとんどは建物の扉を閉ざしてしまい、御本尊・御神体など拝めるところは皆無です。しかし境内に勧請された末社などは施錠されていないので、御本尊・御神体を拝めることがあり、ときには珍しい神仏に出会うこともあります。大庭・熊野神社でも珍しい出会いがありました。
 熊野神社の境内にある木祠には、「子安大明神」銘の下に女神が線刻された石塔が祀られていました。


 女神は日本神話に登場するような姿。不鮮明な線刻でハッキリしませんが、右手に木の枝を持ち、左手で赤子を抱いているように見えます。

 子安の本尊といえば仏像には子安観音があり、地蔵にも子を抱く姿があります。一方神像となると、櫛稲田姫命や木花開耶姫命などです。櫛稲田姫命はスサノオノ命の奥方で、稲田の神ですが、子授け安産の信仰もあります。木花開耶姫命は富士山の神で、子授けの信仰もありました。熊野神社の女神は木花開耶姫命に子供を抱かせたように見えます。
 かすみがうら市の東野寺には子安大明神を祀る子安神社(注)があります。祭神は木花開耶姫命で、お札を出しています。それは子供を抱いた木花開耶姫命の姿です。
 熊野神社の境内には三峰神社も勧請されていました。


(注)『子安神社―安産・子育ての名社と女人信仰―』かすみがうら市郷土資料館、平成21年度企画展図録
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書262 神像(千葉県長柄町)

2024年02月06日 | 里山石神端書

長柄町水上川流域の大津倉・大国主神社の神像

 長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。
 大津倉の大国主神社の入口にある木祠に「道祖神」の木札が納められていました。


 三木一彦氏の「房総半島における出羽三山信仰の浸透とその要因」(注)に「出羽三山への登拝は1~3週間をかけており、その間、家族は道祖神や地蔵に参詣して道中の無事を祈っていた」とあります。家族が出羽三山登拝中、留守をあずかる者は虫も殺してはならない、という話も聞きます。
 石段を登ると狛犬が迎えてくれます。胴長の狛犬です。


 神像は境内の隅にある木祠にあります。木祠に祀られた祭神は不明で、神像名も不明です。


 ほこりまみれで木彫かと思いましたが、触れてみると石像。冠をかぶり、袍を身につけた平安時代の朝服姿。手は笏を持つようになっていますが、笏はありません。この形の石仏でよく見かけるのは天神ですが、ここでは単に神像としておきます。
(注)三木一彦著「房総半島における出羽三山信仰の浸透とその要因―長生地域の民俗事例による一考察―」2016年、歴史地理学58-2
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書261 藪中の石仏(千葉県長柄町)

2024年02月02日 | 里山石神端書

長柄町水上川流域の田代・延命寺の藪中の石仏

 長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。


 田代の延命寺は鶴岡宅の庭を通った先にありますので、ご主人にご挨拶してから境内に入りました。本堂は寺院というより生活の臭いがする民家風の建物です。このお堂は鶴岡氏が管理していて扉を開けていただきました。本尊は地蔵菩薩で、寺が延命寺なので延命地蔵なのでしょう。


 鶴岡氏によると、本堂の左手にある崖に石仏が沢山あるというのです。竹や雑木で覆われた崖で登るのは無理ですが、藪に手をかけ這い上がってみると、風化した二体の石仏が倒れていました。このような感じでいくつかの石仏が崖に倒れているようですが、詳細は不明です。境内に同じように風化した石仏が一体立っていました。如意輪観音です。房総の石で彫った石仏は風化が激しく、このような状態の石造物は各地に散見されます。

 鶴岡氏は山の先にある墓地も案内していただきました。そこには整った聖観音が並んでいました。かつては近くに屋敷があったそうなので、ここは屋敷墓のようです。中世から近世の墓は、死体を埋葬する埋墓と供養する詣墓の両墓制がある一方、死者と同居する屋敷墓がありました。また同族で墓地を営むことも多く、山麓を歩くとそのような墓地にたびたび出会います。
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書260 大杦大明神(千葉県長柄町)

2024年01月30日 | 里山石神端書

長柄町水上川流域の田代・稲荷神社の大杦大明神

 長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。
 田代の稲荷神社は小高い丘の上。ちんまりした社殿の祭壇を守るように狐が一対対峙していました。田代青年団が寄贈したふっくらとした狐です。




 境内の隅に隠れるように祀られていた石祠が「大杦大明神」です。

「文化八年酉(1825)」造立。大杦の杦は杉の略字。大杦大明神は茨城県稲敷市阿波(あんば)にある大杉神社に違いなく、江戸時代にこの稲荷神社に勧請されたのでしょう。あんば様と称された大杉神社は、古来霞ヶ浦の岬にあった神社で漁民の守護神として祀られ、神仏習合の時代は不動明王を本尊とする安穏寺で、近世には航海の神として茨城から東北の東海岸沿いに信仰が広まった神です。宮城の気仙沼には安波山があり、大杉神社が祀られていました。茨城や千葉の内陸部には疫病の神として勧請されました。
 航海安全の神が疫病退散の神となった背景は不明ですが、江戸時代中期以降に流行り出した麻疹などの疫病に対応した神社側の布教戦術があったと思われます。養蚕が盛んになると猫のお札を出し、農地が猪鹿に荒らされると狼のお札を出し、江戸時代の神社は知恵を絞って新たな信者を獲得していった時代でした。
 明治の神仏分離で安穏寺を廃止し大杉神社になりましたが、その後安穏時は再興され大杉神社近くに建っています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書259 延命地蔵(千葉県長柄町)

2024年01月25日 | 里山石神端書

長柄町水上川流域の田代・本光寺の延命地蔵

 長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。本光寺は曹洞宗の小さな寺、寺の先に石造物が並んでいました。そのなかに目立つのが地蔵菩薩と石幢です。


 地蔵菩薩には立像・坐像がありますが、坐像で左足を下に垂れた延命地蔵もあります。本光寺の地蔵は光背や両手が欠けていますが、形の整った延命地蔵です。延命地蔵は日本で生まれた姿とされていて、地蔵を頼る人はこの足を立ちあがるための一歩踏み出す姿と見ました。『日本仏像辞典』(注)では「延命地蔵の名はインド成立の経典の中にはなく、『延命地蔵経』は和製の偽経とされている」とあります。地蔵の信仰の一つは子供の健全は生育を願うもので、延命地蔵の立ち上がろうとする姿は、一時でも早く救済してくれると見えたはずです。「明和五戌子(1768)」の造立。


 石幢は単性の幢身の六面に素朴な地蔵を彫りこんだもので、地蔵の持物も刻まれています。なかでも可愛らしい天蓋が際立っています。中国から入り鎌倉期から造立されてきた石幢は各地に中世のものが残っています。造立当初は各面に金剛界五仏や阿弥陀などを刻することもありましたが、中世は釈迦の教えだけが残る末法の時代です。そこで活動するのは地蔵菩薩だけと説かれていましたから、地蔵の人気があがって、石幢に地蔵が彫られるようになったようです。
(注)『日本仏像辞典』真鍋俊照遍、2004年、吉川弘文館
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書258 龍頭(千葉県長柄町)

2024年01月23日 | 里山石神端書

長柄町水上川流域の刑部・八重垣神社の龍頭(木彫)

 長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。

 初めに向かったのは八重垣神社。入口の案内に「元応2年(1320)村人たちは月川の神輿山に祠を建て、スサノオノ命をまつり氏神としたという。安永7年(1778)現在地に社殿を新築して移り、刑部天王宮と称し、刑部・立鳥・鴇谷三か村の鎮守となった。(略)明治元年八重垣刑部神社と改め、刑部一村の鎮守となった」とありました。
 天王宮の祭神は牛頭天王で、京都祇園・八坂神社の祭神。牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神。これがこの国では疫病除けの神・スサノオノ命の垂迹として祀られてきました。これが明治維新の廃仏毀釈で仏教系の牛頭天王はスサノオノ命になりますが、八重垣神社の祭神の変化をみると、この国の祭神名変遷の様子が良くわかります。
 それから案内にある月川の神輿山ですが、ここには牛頭天王を祀る新宮神社があります。境内には「木彫伝牛頭天王」と案内があり、『長柄町史』(注)によると、ここには高さ215センチの木彫神像が祀られていることが記されています。


 その八重垣神社の幅の広い長い石段を登ると、広い境内に狛犬がポツンと座っていました。


 他には石燈籠と手水石。何かないかと見つけたのが、木の切り株を細工した龍頭。玉を持つ大きな龍が彫られていました。少し離れて龍の尻尾もありました。この地には細工に長けた人がいるらしく、馬の木彫も立っていました。
(注)『長柄町史』昭和52年、長柄町役場
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書 日光市栗山村

2024年01月19日 | 里山石神端書

里山の石神端書252 道標(日光市旧栗山村大笹峠)

里山の石神端書253 懸仏(日光市旧栗山村土呂部)

里山の石神端書254 石幢(日光市旧栗山村日向)

里山の石神端書255 二宮金次郎(日光市旧栗山村日向)

里山の石神端書256 狐(日光市旧栗山村日向)

里山の石神端書257 大日如来(日光市旧栗山村野門)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書257 大日如来(栃木県日光市旧栗山村)

2024年01月18日 | 里山石神端書

日光市(栗山村)野門の栗山東照宮

 栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村から外にでるには鬼怒川沿いに川治へ、山越えは黒部から大笹峠を越えて日光・今市へ、野門から富士見峠を越えて日光に出る道がありました。

 野門には大山栗山東照宮があります。境内にある案内によると、野門は江戸時代に日光御神領戊となり、辰戦争のときには富士見峠の戦いに駆り出され2名の死傷者を出しています。さらに幕府・会津方は日光東照宮境内の由緒宿坊に祀ってあったと思われる男体山三社神体(男体山・女体山・太郎山)と徳川公の御神体を野門集落に避難・移し祀り、これが野門東照宮の始まりとされています。


 大日如来は野門東照宮の脇、野門に古くからあった大山祇神社の境内奥に座しています。髪を観音風に結った智拳印の金剛界大日如来です。「文化十四年丑(1812)」の造立です。日光は天台修験の山で、中禅寺湖を囲む山から南の古峰ヶ原一帯を修験の行場として多くの石造物を祀りました。古峰ヶ原では古峰神社が修験の補佐をしていました。野門が修験の補佐をしていたかどうかはわかりません。日光側の富士見峠入口近くには大日堂がありました(明治35年の洪水で流される)。

 神社入口には「奉納牛頭天王御宝前」と刻された石燈籠が一対。こちらは「文化元年甲子(1804)」銘。大山祇神社木祠内には「南無阿弥陀佛/元禄十六癸未(1703)」銘の木札。いろいろな石造物が佇む大山祇神社です。


 少し離れた薬師堂の羽目板には「め」と墨書きされた半紙が沢山貼られていました。医薬の薬師信仰がまだ生きているようです。
 この原稿をまとめているときに、『日光修験三峰五禅頂の道』(注)を出版した池田正夫氏から電話があり、野門から日光への道は富士見峠ではない道があったということのほか、日光修験の行場・太郎山山中の寒沢の宿のこと、野門と日光修験などのご教授をいただきました。池田氏には10年前に栃木の古賀志山でお会いしていました。
 下写真は富士見峠。

(注)池田正夫著『日光修験三峰五禅頂の道』2009年、随想社
(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の石神端書256 狐(栃木県日光市旧栗山村)

2024年01月16日 | 里山石神端書

日光市(栗山村)日向・男体山神社の狐


 栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村の神社を見ると、それぞれの集落に薬師堂が建ち、石造物も日光に関係する神仏がありました。

 日向の男体山神社もその一つで、おそらく墓碑だと思いますが五輪塔二基を一石に彫ったものなどは日光周辺でよく見られる古いものです。青面金剛の庚申塔は日光型ではない一般的なもの。文字庚申塔もありました。

 男体山神社も日光を代表する山ですから、その裏山の先にある栗山の男体山神社入口に「男体山/文化五辰(1808)」銘の石燈籠が立っているのは自然な成り行き。「聖徳太子」銘石塔もありました。


 狐は日光とは関係ありませんが、男体山神社に登る石段脇の石祠群のなかに、石祠を挟むような形の狐一対が藪のなかにひそんでいました。狐は稲荷神社の使い。石祠は稲荷神社なのでしょう。かわいい表情をした狐です。
 稲荷と狐の関係については諸説あって、その一つ根本に農耕儀礼の春に山から下りてきて田の神となり秋に山に帰るという信仰があります。田の神は稲の神で稲荷でもあり、稲の実るころに山から下りてくる狐を稲荷の神の先駆けと見て祀ったというのがあります。
 男体山神社は木祠。

(地図は国土地理院ホームページより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする