偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書264 地蔵絡子(千葉県南房総市千倉)

2024年02月13日 | 里山石神端書

千葉県南房総市千倉の平磯・観養寺の地蔵絡子

 太平洋に面した千倉の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ千田の観養寺を訪ねました。
 境内に入るとすぐ右手に阿弥陀如来、左手に地蔵菩薩が立っています。二尊とも整った像容で、地蔵の左肩には大きな絡子が彫られていました。絡子は袈裟の長さを調整する環で、主に禅宗の僧侶が使っています。



 袈裟は古代インドの僧侶の服。それはボロ布を集めて作ったことから糞掃衣(ふんぞうえ)、捨てられた布を綴り合わせて作ったことから衲衣(のうえ)とも呼ばれたと伝えられています。仏教が熱いインドから寒い北に伝わるにつれて、これを担った僧侶は必然的に分厚い服装になり、これに簡易な袈裟を着けるというスタイルに変わって、袈裟本来の意味は失われていきました。中国での袈裟はさらに装飾的になり、同じ形で左胸に紐で結んだ袈裟が主流となり、これが日本でも踏襲され同時に装飾的、あるいは簡略化がすすんで「袈裟をつける」として今日に続いています。
 袈裟の装飾化のひとつに絡子があります。紐で調整していた袈裟の長さを絡子という環に変えたもので素材は木、象牙や石も用いました。絡子について筒井雅風の『法衣史』(注)に、絡子は「安陀会として用いられていたものに紐をつけ、これを小型に改め、禅宗に用いさせたのは、唐の則天武后といわれている。すなわち禅僧作務のとき、便宜のため着用する袈裟。(略)日本において、真言や天台宗には、この絡子は使われずに、宋代になって禅宗が日本へ渡来した鎌倉時代の曹洞・臨済禅になって、ようやくこの絡子が広く用いだされているので、中国でもこの絡子が多く用いだされたのは宋代になってからと思われる」とあります。安陀会は作業時に使われた小さな袈裟です。
 絡子付き袈裟を木彫僧像に取り入れたのは、鎌倉時代の運慶たち慶派の人たちで、袈裟を地蔵菩薩に取り入れたのも慶派でした。これにより地蔵菩薩は絡子つきと絡子無しが混在することになり、石仏の地蔵にも絡子有と無しが造られ今日まで続いています。
 下写真は房総君津市久留里・愛宕山の地蔵です。

(注)筒井雅風著『法衣史』1993、雄山閣出版
(地図は国土地理院ホームページより)


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