日光市(栗山村)日向・子安地蔵堂前の二宮金次郎
栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。その中の日向は大きな集落で、廃校になった小学校の前に子安地蔵堂が建っていました。
平成元年に建てられたお堂ですが、堂内に「昭和七年」の寄進者名簿板がありますので、昔からあったお堂のようです。扉を開くと正面仏壇には5体の石仏が並んでいます。しかしどれも赤い頭巾と前掛けをしてあって尊名はわかりませんが、正面の地蔵の前掛けから子供の頭が飛び出していますから、これが本尊子安地蔵なのでしょう。他の石仏は運び込まれたという印象です。昔は頭巾などすべて外して調べたものですが、最近は病のためその元気はありません。
廃校小学校の片隅に二宮金次郎の像が立っていました。薪を背負い本を読んでいる少年の姿です。読んでいる本は儒教の入門書「大学」とされています。薪は切り揃えられた二束。これは囲炉裏に焼べる薪で、楢か椚の木。金次郎はこれを街に出て売って銭を貯めたそうです。したがって金次郎の像は薪を街に売りに行く姿といえます。ザックを背負って歩きスマホの昨今の人は二宮金次郎の様ですが、スマホで何を見ているのでしょうか、読んでいるのでしょうか。
(地図は国土地理院ホームページより)
日光市(栗山村)日向・薬師堂の石幢
栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。日向の野尻は栗原村の東の入口で、集会所の奥に薬師堂が建っていました。
その脇の石幢は、周辺の道路工事の折に集められたものと、集会所に集まっていた女性から教えていただきました。女性の話では、栗山村には集落ごとに薬師堂があり、今も信仰が続いているとのこと。
石幢は4基。その中の一基には「天文二年(1533)」銘と日光市教育委員会の案内があります。天文は中世末期、戦国期の造立で、龕部の六地蔵は古風な像容です。ところで天文二年は癸巳となりますが、この石幢は「丁酉」となっていて干支からすると「天文六年」になります。他の石幢は「文政九年(1826)」「安政四年(1857)」銘がありました。
中世の石幢は各地に造立されていて、『日本石造美術辞典』(注)の石幢では最初に栃木県小山市の満願寺の六面石幢(文治四年=1189)をあげています。
ところで薬師堂ですが、扉もなく床も抜けてボロボロの状態でした。本尊の木彫薬師如来は健在ですが、栄養剤の瓶がいくつも並べられて、病気治癒の薬師に栄養剤はないでしょうという印象でした。件の女性は、栗山でこの薬師堂だけがボロ屋なんですというので、「お堂がボロ屋でも、本尊薬師如来の効能は変わりません」と励ましてやりました。
(注)川勝政太郎著『日本石造美術辞典』昭和53年、東京堂出版
(地図は国土地理院ホームページより)
日光市(栗山村)上栗山・大笹峠の道標
栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村から外にでるには鬼怒川沿いに川治へ、山越えは黒部から大笹峠を越えて日光・今市へ、野門から富士見峠を越えて日光に出る道がありました。
いま大笹峠一帯は牧場となり、日光から車道も峠の北になる黒部集落まで通じています。その峠に石仏が二体、車道脇に鎮座していました。いずれも頭部が新しく差し替えられた石仏で如来か菩薩風で尊名はわかりません。
一つの石仏は道標を兼ねたもので、台座は「右ゆにし/黒部/土呂部 左可わまた/上栗山/野門」と刻されていました。右は湯西川へは、黒部から土呂部を通るという意味でしょうか。土呂部は冬の天気予報で関東の最低気温の観測地としてよく報じられる集落です。台座側面に「寛政六寅(1794)建立」銘がありました。これから土呂部(どろぶ)へ向かいます。
茂木町北高岡・安楽寺の念仏塔
茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。
丈六の阿弥陀如来が本尊の安楽寺。丈六は1丈6尺(約485センチ)です。寺の案内では、阿弥陀如来坐は「頭部、仏身に鎌倉時代末期の特色を残しており、表情が温容で全体の形も優美であり、像高で273㎝は、県内最大級のぶつぞうものです」とあります。町の案内には「丈六とは身の丈が一丈六尺(484㎝)あるという意味で坐るとその半分の八尺(273㎝)になる」とあります。とにかく釈迦の身の丈が丈六とされていましたので、仏像は丈六が理想で、坐像は半分の八尺としたようです。
丈六の阿弥陀は本堂が施錠されて見ることは叶いませんでした。境内には「南無阿弥陀仏」の名号塔が散見され、その一基には「寛永七庚午(1630)」、別の一基には「當寺開山行基菩薩」銘がありました。
(地図は国土地理院ホームページより)
茂木町北高岡・日枝田の神神社の稲穂
茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。
北高岡の日枝田の神神社は小高い山の上。境内に「日枝神社/明神神社/合祀記念」銘の石碑が立っています。二社合わせて日枝田の神神社になったようで、木に竹をついたような名称は、合祀にあたっていろいろあったのでしょう。
境内入口に東屋風の建物の下に手水石があり、その脇に稲穂を線刻した自然石がありました。初めて見る稲穂だけの石造物です。稲穂といえば稲穂をかついて狐に乗る稲荷もありますが、稲穂だけでは何の神かわかりません。
ところが東屋内のある奉納の板に「手水石」と並んで「豊饒石」と墨書きされていました。養蚕の神として蚕種石(こだねいし)がありますが、豊穣石とは上手い名称を付けたものです。米の豊作を願った田の神神社らしい石造物でした。
(地図は国土地理院ホームページより)
茂木町木幡・路傍の石仏群
茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。
芳賀富士の東山麓、木幡の道端に石仏が纏められていました。「勝善神」「聖徳太子」「廿三夜塔」「馬頭観音」「馬頭尊」「出羽三山供養塔」などすべて文字塔です。勝善神は馬の供養塔。「出羽三山供養塔」はじめ、これまでも見てきた神仏です。
このなかで気になるのは「出羽三山供養塔」。頭に胎蔵界大日の種字アーンク、その下中央に湯殿山、右に月山左に羽黒山の文字塔です。紀年銘はありませんが、中央が湯殿山なので明治時代以前の石塔です。
この石塔は前にも別の場所で見ていて、地元の人に尋ねても出羽三山の信仰はなかったということでした。別の場所から運んできたとは思えないし、木幡でも畑仕事をしていた男に尋ねると、やはり出羽三山信仰は知らないと。出羽三山信仰は集落ごとに講という信仰組織を作って代参で出羽三山を巡った大掛かりな信仰でしたが、それが100年過ぎたいまでは言い伝えも残らず消えてしまうんですね。
(地図は国土地理院ホームページより)
茂木町小山・高雄神社の三峰都法良秀大徳墓碑
茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。
鳥居に高雄大明神の扁額がある高雄神社。その境内入口の石仏群は周辺から集められたような印象です。そのなかに、頭に種字アに続いて「三峰都法良秀大徳」銘の石塔があります。種字アは真言宗の墓碑によく使われます。三峰は秩父の三峯山でしょうか、それとも多くの山という意味でしょうか。都法良秀は戒名で、大徳は僧侶のことで僧の戒名にも使われます。したがって「三峰都法良秀大徳」は墓碑ということになりますが、どうでしょうか。
この場所には他にも「聖徳太子」「二十三夜供養塔」「種字サク(勢菩薩)二十三夜九供養塔」地蔵菩薩立像、地蔵菩薩坐像などもあり、集落の祀り場になっていたようです。そのなかに出羽三山供養塔もありました。神社に鳥居にしめ飾りをしている氏子の人たち5人ほどに出羽三山のことを尋ねましたら、まったく知らないとの返事でした。三山の石塔があるので信仰はあったはずですが、とうの昔に廃れてしまったようです。
(参考文献)『葬儀・戒名ここが知りたい』1993年、大法輪閣
(地図は国土地理院ホームページより)
茂木町飯の下飯・路傍の奥山念仏塔
茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。
路傍や山の裾野などに小規模の墓地があるのは、この国の山村ではよく見かける風景です。集落あるいは同族で造った小規模の墓地で、御堂などを建てたところもありますが、僧侶はいません。旅の僧が留まったなどの話を聞くこともあります。下飯の奥山念仏塔がある場所も小規模な墓地の入口でした。
丸彫りの地蔵菩薩、子安地蔵大菩薩・奉廿三夜供養塔・三界満霊塔の文字塔が並ぶなかに奥山念仏塔がありました。石塔上部に胎蔵界大日の種字アーンク、その下に日輪月輪、そして「奉供養奥山念佛」とあります。造立は明和四年(1767)。
茂木町の奥山念仏塔は中飯の逆川招魂社脇の墓地にもありました。こちらは明和二年造立です。このときも奥山はどの山を指すのかわかりませんでしたが、今もわかりません。
見当違いと思いますが、東京・浅草の浅草寺境内に奥山念仏堂があります。江戸時代にこのお堂では、出羽三山にある〝お竹大日如来〟の出開帳をしたことがあります。お竹大日は、江戸時代の元和から寛永(1615~29)の頃、大店のお竹という女中が大日如来の生まれ変わりとう話で、孝女にあやかりたいと信仰されました。
(参考文献)『江戸の旅と流行仏ーお竹大日と出羽三山』板橋区立郷土資料館、平成4年
(地図は国土地理院ホームページより)
茂木町飯の下飯・八幡神社の正徳太子
茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。
下飯を見下ろす高台に建つ八幡神社の境内に正徳太子供養塔があります。石塔の頭に日輪月輪があり「南無正徳太子尊/天明四甲辰歳(1784)/飯村下中/講中二十六人」銘が刻されています。これは正徳太子を守護神とした講の集まり、太子講26人が造立したものです。この26人がどのような職業の人たちかは不明ですが、太子講を組織したのは木挽・大工・左官・鍛冶・畳・石工・樵などを生業とした人たちでした。講を作り祭日を決め、賃金や仕事の申し合わせなどを行ったようです。
正徳太子が職人の守護となった経緯は不明ですが、大工などは太子が曲尺を作った人という説があります。
江戸時代になると太子講は都市でも農村も盛んになり、とくに江戸では寺で祀られた聖徳太子の居開帳が行われ、京都真如堂・大和橘寺・摂津四天王寺・山城広隆寺ほか畿内の正徳太子の出開帳もあって、江戸職人の太子信仰は隆盛をきわめたそうです(注)。
正徳太子供養塔の脇に建つ覆い屋の内部は荒れ放題。木彫の祭神が倒れていました。祭壇脇の扁額はかすかに文字が浮かび、阿波島大明神と読めます。ここに淡島堂があったようです。淡島様は女性の下の病を治してくれる和歌山県加太岬の神様。
(注)吉原健一郎著「聖徳太子と職人」『仏教民俗学体系8』1992年、名著出版
(地図は国土地理院ホームページより)
茂木町飯・中飯の慶翁寺
恵比寿
大黒天
毘沙門天
弁才天
福禄寿
寿老人
布袋
茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。
慶翁寺は曹洞宗の寺。禅宗系のお寺は質素を旨としますから、石造物などは少ないのですが最近ではそうでもなく、慶翁寺の境内には新しい石仏、釈迦如来や子抱地蔵などは造立されていました。七福神もその一つで、簡単な像容の神仏が並んでいました。
(地図は国土地理院ホームページより)
茂木町飯・中飯の逆川招魂社脇の墓地
茂木町は茨城県に接する栃木県南西部の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。
奥山念仏供養塔があるのは飯の逆川招魂社脇の墓地入口。
その姿は頭上に種字胎蔵界大日の種字アーンク、その下に「奥山念仏供養塔」と刻されています。明和二乙酉(1765)の造立。奥山はどこの山を指しているのか。茂木町に問合せていますが、今もって返事はありません。茂木町に限らず石造物の問い合わせは、返事がくることはほとんどありません。
思うに、頭上の大日如来は出羽三山の湯殿山ですから、出奥山は出羽三山。奥山念仏は羽三山の集まり(講)が開いていた念仏講と判断したいところです。
しかし、幾人かの古老に尋ねたところ、この地に出羽三山信仰はなかったという返事でした。ところが、よく探してみると小山の高雄大明神の石仏群に、また木幡路傍の石仏群のなかに「月山/湯殿山/羽黒山の出羽三山供養塔がありました。
(地図は国土地理院ホームページより)
秋になるのが遅く植え時を心配したタマネギ、ニンニク、キヌサヤでしたが元気に育っています。
*
11月中旬のある日の午後、突然体が震えて高熱が出ました。熱をはかると38.7度。この日の午後は新型コロナワクチン接種を予約していたので、これをキャンセル。診察してもらうべく近くの内科医を探しましたが見つからなかったので、抗がん剤治療を受けているがん研究センターの治療者用ホットラインに連絡して、すでにいただいている薬のなかの抗生物質薬の指示をいただきました。同時に新型コロナとインフルエンザの検査も受けてという指示。薬が効いたのか夜には平熱に下がりました。
その夜にネットで探したコロナ&インフを検査する抗原検査キットを注文。これが翌日の午前中に届いて早速検査をした結果、やり方が悪かったのか何の反応もありませんでした。後日行きつけの薬局に聞いた話では、キットには医療用と格安の研究用の2つがあり、研究用は正確性がいま一つなのであまり勧めないとのことでした。
熱は翌日も出て、39.1度。次の日は平熱に戻りましたが、かかりつけの内科医で検査を受けたところ、コロナもインフルも陰性で問題なしで、ウイルス性風邪の診断でした。
この事態で、なんでも相談できる医師、薬局、がん研究センターのホットラインがなんとも頼もしく思いました。またネット注文の配達が早いのも驚きでした。いずれにしても抗がん剤治療を始めてからは、今まで経験したこともない原因不明の体の不調が起きたりします。
11月末の抗がん剤治療は、血液検査の結果白血球の数値が低いので中止となりました。中止はこれで2度目、体は楽ですが残念。
いわき市遠野町横道・諏訪神社の男根
いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街の西外れに建つ諏訪神社の境内に男根を祀る屋根がけされた末社があります。
男根のなかに昭和六十二年の墨書きがありますから、少なくとも40年前まで信仰があったようです。どのような信仰かはわかりませんが、この形の神に願う一つは子授けですから、この諏訪神社の末社は男根も子授けを担った神と想像します。
『道祖神の源流』(注1)には、「いわき市遠野地区では、昭和40年頃まで、旧暦6月15日の天王祭りにニンギョウサマと呼ばれる藁人形を作っていた。(略)ニンギョウサマは、ムラ全体で作るものと各家で作るもので大きさの違いがあるものの、作り方はほぼ同様で形状は杉の葉をさして鎧を着たようにし、刀をもたせて武者姿に作っている」とあり、この地方には藁人形を道祖神として祀る行事を紹介しています。藁人形を作り道祖神として祀るのは秋田や茨城にもあり、そのなかには男根を強調した人形もあります。
遠野のニンギョウサマに男根はありませんが、諏訪神社の男根をみるとかつてはニンギョウサマにもその様な要素があったのではないでしょうか。
最近では、関東地方でこのような信仰に伴う木彫男根は見なくなり、石造男根がときどき見るだけです。かつては木や藁で作った男根を伴う道祖神も各地にあったのでしょうが、今一部の地方に残るだけで、多くは信仰を忘れたような石造男根になってしまいました。 写真は秋田県大館市のニンギョウサマです。
*
この国の性的な石造物は、原史時代の男根に通じる石棒や女性の乳房や陰部を強調した土偶に始まり、近世の男根石や双体道祖神などに見られます。しかしその間の古代や中世の石造物には見つけ出すことができず、石棒・男根の根源を探す、あるいは信仰の対称となる過程を探るときの難しさになっています。道祖神は木や藁などで作ることもあって、石造のように古いものが残ることはなかったと指摘する人もいます。いまではこれら男根も道祖神としているので、男根の根源はさらにわからなくなりかつ複雑になっています。
道祖神は悪霊の侵入を塞ぐ神、道の安全を守るサエの神です。山梨に多い石棒について中沢厚氏は『山梨県の道祖神』(注2)で「石棒が道祖神以外の(略)神社の御神体である例が意外に多くて、道祖神の石棒としてばかりでなく、幅広く考えることが要求される」としています。また大護八郎氏は『石神信仰』(注3)で「男根石自体を道祖神とするにいたったのは何時頃かはっきりしないが、そう古いことでないことは推察できる」書いています。
(注1)『道祖神の源流』川崎市民ミュージアム、平成3年
(注2)中沢厚著『山梨県の道祖神』有明書店、昭和48年
(注3)大護八郎著『石神信仰』木耳社、昭和52年
(地図は国土地理院ホームページより)