介護福祉は現場から 2007.02.22-2011.01.25

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平和への思い【南日本新聞への投書】

2008-08-13 08:44:11 | 鹿児島
8月15日を迎えるころ
地元の南日本新聞の投書欄(「ひろば」)には
連日、70歳 80歳台の方の投書が掲載されます。

平和を語る九州

は、このブログ、2007年8月10日の記事です。

今朝の朝刊にも6件の投書がありました。(写真、p.7)

○ 薩摩川内市 79歳
 旧万世飛行場(加世田)から特攻機が出撃、戦没者は201人だった。
飛行場から4キロの生家。沖縄方面に向かう機影を母が涙して祈っていた姿が63年たった今でも脳裏を離れられない。
 
○ 鹿屋市   73歳
 1945年3月18日 国民学校3年だった。米軍のグラマン機の数に驚き、戦力の差を見せつけられた。7月26日のポツダム宣言をもう少し早く受諾していれば、原爆投下も免れたのでは・・

○ 南さつま市 83歳
 鹿児島市は連続8回の空襲を受けた。特に6月17日は雨の降る夜でした。焼夷弾が家の屋根に数発落ち、火の手があがり、夢中で火たたきでどうにか消すことができました。今でも身の毛がよだつ思いがします。

○ 南さつま市 79歳(主婦)
 1944年春大阪の軍需工場へ働きに出た。義務教育を終えた私達は一生懸命仕事を教わった。優しい先輩に声をかけてもらえたうれしさ。その彼は、飛行学校へ志願入隊することになっていた。7月末の社を去る前日、「・・しっかり銃後を頼む」とのことばとともに私の手がつぶれるほど握ってくれた。・・きっと、彼は操縦かんを握り締め特攻として散っていったであろう。

○ 大崎町   68歳
 先だって、金峰町で開催された研修会で赤崎盛彦氏の「特攻、そして今を考える」を聞いた。知覧の特攻平和会館を訪ねた。・・何度か目がしらをぬぐわずにはおれませんでした。多く犠牲者を出した戦いでしたけど、それによって日本は永久に戦争はしないということを憲法に定めることができました。

○ 薩摩川内市 72歳
 各戸1人竹やりを持って海岸の松林に集合の布令がでた。機関銃や重装備の米軍に対して、竹やりでなにをどうせよというのか。(沖縄戦の映像で)火炎放射器で焼き払う場面を見た。虫でも焼くようなまことに悲惨な光景であった。

どの投書も、戦争の悲惨さ、二度と繰り返してはならないことを、具体的な体験をもとに訴えている。
私自身は、終戦時で4歳。富山にいて、米軍機の米兵パイロットを見上げた記憶がある。私より少し上の世代の方の体験を風化させてはならないと思います。

このブログの読者は、鹿児島の方は少ないと思われますので、紹介した次第です。
(南日本新聞のウェブサイトには、「社説」はアップされているが、投書はアップされることはない・・)
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