某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

安城ゆかりの大名 家康を支えた三河石川一族

2018年10月12日 15時30分30秒 | 史跡めぐり



安城市歴史博物館で開催中の特別展「安城ゆかりの大名 家康を支えた三河石川一族」に行って来ました。

戦国期、石川一族は真宗門徒の多い西三河の各地に一族を輩出しました。由緒によると蓮如との関係を持って三河に来歴したとあります。一族の惣領家は、小川(市内小川町)に居た石川家でした。16世紀中頃には、惣領の忠成(清兼)が家康の祖父清康・父広忠の重臣となりました。
石川一族の中で特に活躍したのは、家康に仕えた石川数正と石川家成です。数正は忠成の孫にあたり家成は忠成の子で、数正の叔父にあたります。永禄6、7年(1563、64)の三河一向一揆では、石川一族の多くが家康方と一揆方に分かれて争いましたが、数正・家成はともに家康方につきました。
その後、家康の重臣として活躍した家成は掛川城に赴任し、武田氏の滅亡まで、最前線を守備しました。本能寺の変後、家康は領国を拡大し、後に豊臣秀吉と対立します。数正は家康と秀吉の取次でしたが、対立が明確になるに及んで、岡崎城から秀吉の許へ出奔しました。
秀吉の天下統一後、数正と二代三長(康長)は松本城主(長野県松本市)となり、また家成の子康通も関ケ原合戦後、美濃大垣城主(岐阜県大垣市)となり、城の普請や城下町づくり、領国経営にあたりました。
この展示では、門徒武士としての石川一族や、家康を支えた数正・家成とその息子たちが活躍した時代を中心に紹介します・・・という展覧会。



第1章 三河石川一族のはじまり
第2章 数正と家成
第3章 数正出奔
第4章 松本城主石川数正・三長
第5章 大名になった石川家
第6章 その他の一族

6つの物語で構成された約70点の資料を展示。

今回は、「石川数正の出奔!」
この謎に少しでも迫ることができたなら・・・。
そして、近年の研究成果に期待をして出掛けましたが、結局、謎は謎のまま・・・。



石川数正の出奔とは・・・
天正13年(1585年)11月13日、突如として家康の下から出奔し、秀吉の下へ逃亡した。
「三河物語」や「松平記」からは天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのがわかる。
数正が出奔したことは家康を大きく動揺させ、以後、徳川軍は機密漏えいに対応するため三河以来の軍制を武田流に改めることになったともされているが、出奔の理由には諸説あって定かではない。
秀吉との外交関連
・次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
・秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
・対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
松平信康関連
・信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
・信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
その他
・父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にも関わらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるを得なかったからとする説。
・家康と示し合わせ、徳川家の為に犠牲となった形で投降したふりをしたという説。
(ウィキペディアより引用)

生涯の大半を徳川家のために尽くしてきた54歳(?)の重臣が、主家を捨て、裏切り者の汚名を着せられてまで、秀吉になびいた理由は?
本人が語った言葉も、出奔の理由を書いた書状等もなく、ただただ推測するしか術はなし・・・。



会期は11月4日(日)まで。
福井県立歴史博物館所蔵の「姉川合戦図屏風」も展示中(但し、10月15日以降は複製を展示)。

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