★2004年6月 何が起こった?★
2004年 私はSLEの中でも
重篤な症状と言われている
CNSループス(中枢神経ループス)
と診断されました。
※ここから先は周りから聞いた話と私に残るかすかな記憶です。
入院したのはCNSループスだからではなかったはずなんです。
とにかく熱が下がらなくて体調が悪くて。
「風邪で入院する」という毎年恒例の出来事だと思っていました。
点滴を打ってもらって熱が下がったら退院して、
次の日からはまた仕事に行き、またいつもの生活が始まると。
親から聞いた話によると
私は病棟の洗面所で唐黷スらしいです。
私には唐黷ス記憶はありません。
今、思い出せることは、気がつくと真っ暗だったこと
(瞼をあけるという行為がわからなかったと思います)
もう2~3ヶ月とかすごく長い間眠っていた気がしたこと。
病棟内に響く「ピッピッピッ」という心電図音と
「本日の面会時間は~」という院内放送。
「なに?またこの音が聞こえてくる。
なんなの?どうなっているの??」と遠い遠い意識の中で
ただただ時間が経つのを耐えることしかできませんでした。
瞼を開けることができないので何も見えない。
食事をとれないので鼻からの流動食。
自力で排尿できないので尿カテーテル。常にオムツ使用。
腕からは常時点滴がつながれている。
寝返りをすることもできず数時間おきに体位変換。
体位変換は深夜も続けられるので不眠症になる始末。
全介助の状態でした。
そして私は全くの
無反応でした。
ただ息をして心臓が動いている。
ただそこで
『生きている』だけでした。
その状態がしばらく続きました。
なんとか声が出るようになってからは
「死にたい~!」「助けて~!」「お願い~!」
「嫌だ~!」を叫ぶばかりでした。
いつのことか急に全く話せなくなったことがありました。
(「助けて」など叫び始める前のことかもしれません。
記憶が前後しているので、はっきりとわかりません)
「あ・い・う・え・お」を何度も繰り返していまいた。
また、どこかの国の言語のような言葉を発したこともありました。
母はその時のことを
「この世の言葉じゃないような言葉だった」と言います。
私もなにか訳のわからない言葉を発した記憶がかすかにあるのですが、
どうしてそんな言葉を発したのか、どう発音したのかもわかりません。
そして私の手は勝手に動きだすこともありました。
1日中、片手で枕を叩き続けたり、何か踊っているように
手首を宙でグルグル回したり・・・。
流動食を流す鼻腔チューブを自分で外してしまうことがあり、
再びチューブを入れようとすると暴れるので
抑制帯で縛られたりもしました。
しばらくして少し言葉がでるようになり、
車椅子に乗ることができるようになりました。
(自分でではないので乗せられたが正しいかな?)
でもまだ首を自分でもつことができないので首はうな垂れたまま、
ヨダレは垂れ続けるという状態。
コミュニケーションは不可能でした。
この時期の私に
理性とか言うものは全くといってありません。
嫌だ、苦しい、悲しい、助けて欲しい、寂しい、浮「、
ぞれぞれひとつずつ感情だけがストレートに
出ていたのではないかと思います。
今になって「なぜあんなことをしたの?」と聞かれても、
私の方が聞きたいくらいです。
パルス療法や
血漿交換療法、そして何度も何度も行われる血液検査。
毎日のように針が刺される腕や太ももに
母は見るたびに涙が出たといいます。
検査も
MRI・RI・CT・脳波・レントゲンなど、
他にも様々に身体中を調べられたそうです。
そして私が思いだせることのひとつ。
たぶん
RI(核医学検査)だと思います。
右腕から点滴のラインを採ろうとレジの先生か技師なのか
何度も失敗していました。確かに私の血管は細くて、
採血も検査技師泣かせの血管です。
たぶんRI検査用の
放射性医薬を注射してたのでしょう。
私を抑えている看護士さんが「もう○分経ったよ」と
時間ばかり気にしていました。
皆がどうしようと困っている時に
「僕がやるよ」と放射線科のY先生の声がしました。
そしてY先生がやってみると1発でOKでした。
みんなも「おお。さすがY先生だ(笑)」と話していた気がします。
Y先生は私が検査室で働いている時にいた火曜日の検査担当の先生。
この先生がいたということは放射線科の検査だとわかります。
そして今になってあの時の声はY先生だと思いだせます。
脳への異常はないかを調べるために、
RIの最新設備が整った病院へ行って検査もしました。
この時のことで思い出せることは、救急車に乗せられて
側には父とレジデントの先生が1人付いていたこと。
救急車の中はクーラーがあまり効かず暑かったこと。
救急車の窓から見える空の景色、高速入り口の看板や、
見覚えのある看板が目に入ってきたこと・・・。
いつも見ていた光景をまさかあんな風に見ることになるとは
思いもしませんでした。
後々、知ったことですが。
ちょうど米軍ヘリが大学に突っ込んだ日です(^^;)
検査の結果は脳自体には全く異常なしということでした。
極端に言えば、私はあの時誰かを傷つけていた可能性もあります。
もしかしたら人を殺していた可能性だってあると思います。
もしあの状態の時なんらかの犯罪を犯していて、
今責任を取れと言われたら・・・・
裁判で
「心身喪失状態で責任能力がないとして不起訴処分」という
判決の意味が理解できるような感じがしてしまいます。
犯罪者を弁護するわけではないけれど、
それくらい自分ではなかったのです。
そして
自殺していた可能性だって否定できません。
実際「死にたい」と叫んでいたし、
当時はホントに
「死んでしまいたい」と思っていました。
あのとき身体が自由に動かなかったことは
逆に私の
命を救ったことになったと言えるかもしれません。
今、思い返してみれば病院で働きだしてから身体は不調続きでした。
働き始めの頃は仕事に慣れようと必死だったので
気力で持っていたのかもしれません。
気力があったとは言え仕事について3ヶ月くらいで
すぐに風邪で高熱を出し、1週間ほど入院したこともありました。
少しずつ仕事に慣れてはきたものの、
関節痛・レイノー現象・帯状疱疹の疑い・腹痛・倦怠感・・・
かわるがわる身体の不調は現れていました。
そして
皮膚筋炎の疑いが出ました。
腕が上げにくい、階段が登りにくいなどの
筋力の低下。
皮膚筋炎の特徴的な
皮膚症状(ゴットロン徴候)。
血液検査では、
LDHやCPKの上昇など。。。
筋炎による痛みはありませんでしたが
筋力の低下はすごく自覚していました。
入院する直前まで、毎日つけていた手帳の日記やHPの日記には
「身体がだるい」とか「関節が痛い」とか、
そんなことばかり書いています。
当時はそんなことばかり書いているなんて
気づかなかったのですが。自分でも驚くばかりです。