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なんくるないさぁ~だんな と わたし と SLE と

  12歳SLE発症。ループス腎炎Ⅳ型。
早発閉経で妊活強制終了。子なし人生の幸せ模索中。

CNS発症②

1980年01月14日 | 膠原病とともに
★食べるということ、歩くということ★

『食事を口からとる』
これが最大の闘いであり、
回復への重要な一歩でした。
点滴も拒否。流動食を流す鼻腔チューブも
何度も自分で取ってしまいました。
再び鼻腔チューブを入れようとすると叫んで暴れる始末。「もう流動食を止めよう」ということになります。

私は自分から食べようとすることはありませんでした。
そのときの私にできる、生きるコトへの抵抗だったと思います。

嫌がる私に両親が必死に食べさせてくれました。
ほんとに少しずつ、ゼリーやお粥などの「口から」食事が始まります。

「口からモノを食べる」ことは何にも勝るものはない薬です。

 その後から特別な治療をすることもないのに、
 瞼もあき、叫ぶこともなくなりました。
 首ももてるようになり、ヨダレがでることも
 暴れることもなくなりました。

そして次に待っていた闘いは「歩く」ということでした。

ただその場で何かにつかまって立つことさえできませんでした。
リハビリはベット上でもできるということで、
何度か試したようですが私は全く反応しなかったそうです。

垂直に立つだけから始まり、平行棒、階段、歩行器、
を使っての歩行ができるようになるまで
1ヶ月ほどかかったと思います。

この回復の早さには理学療法士も驚いたそうです。
私の中に残っていた負けず嫌いの性格が
この時ばかりは幸いしたのかもしれません。

「足に力を入れる」という行為が
どれだけ難しいことか例えようがありません。
そしてそのやり方をどんなに偉い学者でも優秀な医者でも、
誰一人的確に説明できる人はいないと思います。

説明できますか?
まず、最初はチカラを入れるぞって思って足に意識を集中して・・・
そうではないですよね?
普段、そうやって歩かないですよね?
 
歩き方として誰もが教えたことは
「まず足に力を入れること」

私が教えて欲しかったのは「歩き方」ではなく、
その「足に力をいれる方法」でした。

 説明できますか??


でもこの頃、入院生活は家族も私も限界にきていました。
 
私は母がいなくなると精神的に不安定になったようで、
母は毎日、私のベットの側に椅子を並べて寝泊りしました。

昼のしばらくの間は、家に帰って家事を一通り済ませる。
その間は父が変わりに私に付き添いました。
(実は父も体調を崩して入院し、
 退院したばかりだったそうです--;)

兄は新しい仕事に就いたばかりだったので、
毎日くることはできませんでしたが、
仕事が終わってから夜遅くに、B'zのCD(兄妹そろってB'z好きです)や、私が大好きなケーキ屋さんのケーキを持ってきてくれました。

そんな生活が3ヶ月ほど続きました。


CNS発症①

1980年01月13日 | 膠原病とともに
★2004年6月 何が起こった?★

2004年 私はSLEの中でも
重篤な症状と言われている
CNSループス(中枢神経ループス)
と診断されました。

※ここから先は周りから聞いた話と私に残るかすかな記憶です。

 入院したのはCNSループスだからではなかったはずなんです。

とにかく熱が下がらなくて体調が悪くて。
「風邪で入院する」という毎年恒例の出来事だと思っていました。
点滴を打ってもらって熱が下がったら退院して、
次の日からはまた仕事に行き、またいつもの生活が始まると。

親から聞いた話によると
私は病棟の洗面所で唐黷スらしいです。
私には唐黷ス記憶はありません。

今、思い出せることは、気がつくと真っ暗だったこと
(瞼をあけるという行為がわからなかったと思います)
もう2~3ヶ月とかすごく長い間眠っていた気がしたこと。
病棟内に響く「ピッピッピッ」という心電図音と
「本日の面会時間は~」という院内放送。

「なに?またこの音が聞こえてくる。
なんなの?どうなっているの??」と遠い遠い意識の中で
ただただ時間が経つのを耐えることしかできませんでした。 
 
瞼を開けることができないので何も見えない。
食事をとれないので鼻からの流動食。
自力で排尿できないので尿カテーテル。常にオムツ使用。
腕からは常時点滴がつながれている。
寝返りをすることもできず数時間おきに体位変換。
体位変換は深夜も続けられるので不眠症になる始末。

全介助の状態でした。

そして私は全くの無反応でした。
ただ息をして心臓が動いている。
ただそこで『生きている』だけでした。

その状態がしばらく続きました。
なんとか声が出るようになってからは
「死にたい~!」「助けて~!」「お願い~!」
「嫌だ~!」を叫ぶばかりでした。

いつのことか急に全く話せなくなったことがありました。
(「助けて」など叫び始める前のことかもしれません。
  記憶が前後しているので、はっきりとわかりません)

「あ・い・う・え・お」を何度も繰り返していまいた。

また、どこかの国の言語のような言葉を発したこともありました。
母はその時のことを
「この世の言葉じゃないような言葉だった」と言います。
私もなにか訳のわからない言葉を発した記憶がかすかにあるのですが、
 どうしてそんな言葉を発したのか、どう発音したのかもわかりません。

 そして私の手は勝手に動きだすこともありました。
 1日中、片手で枕を叩き続けたり、何か踊っているように
 手首を宙でグルグル回したり・・・。
 流動食を流す鼻腔チューブを自分で外してしまうことがあり、
 再びチューブを入れようとすると暴れるので
 抑制帯で縛られたりもしました。

 しばらくして少し言葉がでるようになり、
 車椅子に乗ることができるようになりました。
 (自分でではないので乗せられたが正しいかな?)
 でもまだ首を自分でもつことができないので首はうな垂れたまま、
 ヨダレは垂れ続けるという状態。
 コミュニケーションは不可能でした。 

 この時期の私に理性とか言うものは全くといってありません。
 嫌だ、苦しい、悲しい、助けて欲しい、寂しい、浮「、
 ぞれぞれひとつずつ感情だけがストレートに
 出ていたのではないかと思います。

 今になって「なぜあんなことをしたの?」と聞かれても、
 私の方が聞きたいくらいです。

 パルス療法血漿交換療法、そして何度も何度も行われる血液検査。
 毎日のように針が刺される腕や太ももに
 母は見るたびに涙が出たといいます。

 検査もMRI・RI・CT・脳波・レントゲンなど、
 他にも様々に身体中を調べられたそうです。

 そして私が思いだせることのひとつ。
 たぶんRI(核医学検査)だと思います。

右腕から点滴のラインを採ろうとレジの先生か技師なのか
何度も失敗していました。確かに私の血管は細くて、
採血も検査技師泣かせの血管です。

たぶんRI検査用の放射性医薬を注射してたのでしょう。
私を抑えている看護士さんが「もう○分経ったよ」と
時間ばかり気にしていました。

 皆がどうしようと困っている時に
「僕がやるよ」と放射線科のY先生の声がしました。
 そしてY先生がやってみると1発でOKでした。
 みんなも「おお。さすがY先生だ(笑)」と話していた気がします。

 Y先生は私が検査室で働いている時にいた火曜日の検査担当の先生。
 この先生がいたということは放射線科の検査だとわかります。

 そして今になってあの時の声はY先生だと思いだせます。

脳への異常はないかを調べるために、
RIの最新設備が整った病院へ行って検査もしました。

この時のことで思い出せることは、救急車に乗せられて
側には父とレジデントの先生が1人付いていたこと。
救急車の中はクーラーがあまり効かず暑かったこと。

救急車の窓から見える空の景色、高速入り口の看板や、
見覚えのある看板が目に入ってきたこと・・・。
いつも見ていた光景をまさかあんな風に見ることになるとは
思いもしませんでした。

後々、知ったことですが。
ちょうど米軍ヘリが大学に突っ込んだ日です(^^;)

検査の結果は脳自体には全く異常なしということでした。

 極端に言えば、私はあの時誰かを傷つけていた可能性もあります。
 もしかしたら人を殺していた可能性だってあると思います。
 もしあの状態の時なんらかの犯罪を犯していて、
 今責任を取れと言われたら・・・・

 裁判で「心身喪失状態で責任能力がないとして不起訴処分」という
 判決の意味が理解できるような感じがしてしまいます。
 犯罪者を弁護するわけではないけれど、
 それくらい自分ではなかったのです。

そして自殺していた可能性だって否定できません。
実際「死にたい」と叫んでいたし、
当時はホントに「死んでしまいたい」と思っていました。 
あのとき身体が自由に動かなかったことは
逆に私のを救ったことになったと言えるかもしれません。

 今、思い返してみれば病院で働きだしてから身体は不調続きでした。

働き始めの頃は仕事に慣れようと必死だったので
気力で持っていたのかもしれません。
気力があったとは言え仕事について3ヶ月くらいで
すぐに風邪で高熱を出し、1週間ほど入院したこともありました。

少しずつ仕事に慣れてはきたものの、
関節痛・レイノー現象・帯状疱疹の疑い・腹痛・倦怠感・・・
かわるがわる身体の不調は現れていました。

 そして皮膚筋炎の疑いが出ました。
 腕が上げにくい、階段が登りにくいなどの筋力の低下
 皮膚筋炎の特徴的な皮膚症状(ゴットロン徴候)
 血液検査では、LDHやCPKの上昇など。。。
 筋炎による痛みはありませんでしたが
 筋力の低下はすごく自覚していました。

 入院する直前まで、毎日つけていた手帳の日記やHPの日記には
 「身体がだるい」とか「関節が痛い」とか、
 そんなことばかり書いています。

 当時はそんなことばかり書いているなんて
 気づかなかったのですが。自分でも驚くばかりです。


就職編②

1980年01月12日 | 膠原病とともに
★2002年10月 通院と通勤★
医療事務の資格をとり、通っていた医療事務の学校から就職先の紹介がありました。紹介された病院は私の通院する病院だったので、これほど安心できる職場はないと親も大賛成でした。

しかしそこは県内でも中心的な県立の救急病院。職員の激務では有名なところです。事務とはいえ患者数が多いので、レセプト期間の残業はキツイという話でした。
 そこで私を面接してくれた人事の方は私の病気のことを考慮して、検査室の受付なら残業もないし、定期外来も休まず無理なく働けるはずだと勧めてくれました。

 もし無理をして唐黷スら迷惑がかかるだけ。
 それに仕事を休むことなく通院できる。
 こんな最適な場所が他にあるだろうか??
 給料が安くても何を言われようと私にとっては最適な職場では?

 検査室の受付として働こうと決めました。
 
 通院する病院へ勤務することを決めた日、家に帰ってから
 他の面接を受けた個人病院から電話がありました。
 しかし、その時にはもう「通院している病院で働く」ことを
 決めていたので、お断りしました。

 もう少し早くその個人病院から連絡があったら、
 迷わずそこに就職していたと思います。
 人の運命は不思議なものです。

 出勤は翌々日からとなりました。
 
 通い続けた病院へ「通院ではなく通勤」することになりました。


就職編①

1980年01月11日 | 膠原病とともに
★2002年4月★

某メガネ店へ就職しました。
入社してから研修~研修続き。
新人ですから当たり前ですね。
販売の仕事をやってみたいと思っていたけど、
どちらかというと「内定決まったから。他にやりたいことがないから。」という理由で働き始めてしまいました。現実はやはり厳しかったです。

 私の配属された店舗はチェーン店の中でも
それなりの中心で「鍛えられる」と有名だそうで。
先輩のゲキは厳しいものでした。

 それでもとにかく一生懸命頑張りました。
 家に帰ってもメガネについて勉強したりレンズの勉強したり、
 1人でお客様への説明の仕方を練習したり・・・。
 そんな努力を店長が「君は勉強してるね」と
 認めてくれたことがあって、とてもうれしかったです。

でもたまり続けるストレスに身体が悲鳴をあげ始めました。

販売の仕事は「お客様が許す限りいかに高く良いものを売るか」
というのが基本だと思うんですけど(私の勝手な解釈ですよ^^;)、
どうしても私は普通にお客さんの気持ちになって
「いかに安く良いものを」となってしまって。
いくら品質の良いモノでも高いモノを薦めることに
ストレスを感じ始めたんです。

そして新人社員にはャXティング(チラシ配り)という仕事があります。
炎天下の中を歩いて一軒一軒、チラシを配る仕事です。
もちろん私は長袖に日傘をさして万全の対策をしているつもりでした。

入社する際に病気のことも言わなかったし、
入社してからでも「外周りは持病があるので遠慮させて下さい」と
言えばよかったのですが‘病気を隠して入ったこと’
それを考えると言えませんでした。

「みんなと同じで大丈夫!」と思っていたのですが、
自分でも気づかないうちに無理をしていたようです。

日に日に食事が喉を通らなくなり、身体はダルく、
ベットから起き上がるのも苦痛になってきました。
病院では主治医に「本当に今の仕事をやりたいの?」と聞かれ
私のやりたいことってなんだろう?・・・と悩みました。

ダルいとかなんて「それはただの甘えだ」と
言われたらそうかもしれません。
私自身「病気に甘えてるだけだ!」といい聞かせていました。

でもストレスが私の病気に大敵であることも事実。
そのとき私の頭によぎったのが、
「また入退院を繰り返して治療の日々は絶対に嫌!
でももしそうなったら?会社にも迷惑がかかるだけ?
・・・どうせ辞めさせられるかも」と思いました。

辞めるなら試用期間中の早い方がいいと思い、
わずか2ヶ月で辞めてしまいました。
でもたった2ヶ月でしたが社会的なマナーなど
すごく勉強になったと思います。

辞めたあとには前から興味があった
医療事務の資格を取ろうと医療事務の学校へ通うことにしました。

体調悪くて辞めたなら「休めよ!」って自分にツッコミたいです(笑)




大学編~追憶~

1980年01月10日 | 膠原病とともに
忘れられない出来事

とりあえず就職活動をしていた時。
履歴書の「その他」の欄に
病気のことを書くかどうか迷いました。

もし就職したとしても、月1度の診察は絶対に必要だし、やはり健康な人よりは無理はできないので、最初から言っていた方がいいのかなと思い、正直に書きました。

面接の時に決まって聞かれるのは
「どんな病気なの?」「仕事して大丈夫なの?」というような質問。

「どんな病気」かの質問には簡潔に答えられるけど、「仕事をして大丈夫?」の質問には困りました。バイトもしたこと無いし仕事に就いたことなんてないから、実際に大丈夫なのかなんて、わからないに決まってるじゃないですか。

 「病状は安定しているので大丈夫です!」と答えましたが・・・。
 その後、質問は途絶えて面接は終了です。

 隠して受けて採用してもらったのが某メガネ店でした。
 それまで受けてきたところも単に私の実力がないだけで、
 病気のせいではないと思いますけどね(^^;
 でも初めて隠して受けたとたんに採用してもらったので、
 「隠さなきゃダメなんだ・・・」とも思うのも事実です。
 社会の厳しさが身にしみました。


     ★     ★    ★


 大学4年生のころ、私が可愛がっていた後輩がいました。
 サークルの新入部員。ピカピカの1年生。強気な性格の彼女は
 少し私と似てるなぁなんて思っていました。 

  その彼女は、2002年に突然この世を去りました。

 病名を私は知りません。 
 でも私は彼女が何らかのを飲んでいたことを知っていました。

 部室でお昼を食べているときに薬をお茶で飲もうとしていたので
 「おいおい。お茶で飲むなよな~」注意したことがあります。

 何の薬なのかは聞きませんでした。

 私たちのサークルは学園祭
 自らが旅に行ったことを展示して発表するのが恒例でした。

 この年も2ヶ月ほど前から打ち合わせを始めて準備を進めていました。
 学園祭当日の3日程前にやっと学内の教室での準備が許されます。
 その時はまさに‘追い込み’作業。徹夜する部員も多々。

 教室入りしてからは個人作業+全体作業のために集合時間は午前9時

 私を含め、数人の自宅通学組は深夜(早朝?) に家に帰って
 またすぐ9時に間に合わせて学校へ・・・という感じです。
 疲れが溜まっている中でこれが結構辛い・・・。

 「どうしても遅れる場合は誰かに連絡する」
  これが暗黙の了解のようになっていました。

 皆の疲れがピークの頃、彼女は遅れるとの連絡をせずに
 お昼を過ぎてからやってきました。

 「えぇ連絡くらい、やれ~~(`´メ」
 「だからよぉ~~(-ム-)」
  と、みんな責められていました。
 (そんなキツクではなく冗談まじりですよ)

 「だって9時ってキツイッすよ!
  もう朝、体調キツかったんですってば!」

 と、彼女は何度も何度も明るく答えていました。

 私もあの時は関節が痛くて地べたに座っての作業が
 「嫌だなぁ~」なんて思う日でした。
 口には出しませんでしたが、私は内心
 「みんなキツイんだよ。私だって辛いっちゅうに。
  君だけじゃないのに(怒)」・・・なんて思っていました。

 数年後、彼女が亡くなったと聞いたとき、
 そう思っていた自分が悲しくなりました。

 彼女が何の病気だったのかは知りません。
 でも、もしかしたらあのサークルの中で
 私だからこそ、少しでも何か話を聞くことができたのではないか?
 病気のことを理解してくれること、少しの気遣いをしてくれること、
 それがどんなに救われるかってコトを私はよく知ってるはずなのに。

 そんな後悔が胸に突き刺さりました。

 この1週間程前に高校の同級生も病気で亡くなりました。

 私が知らないだけで病気と闘っている人はたくさんいる。
 私はなんて弱い人間なんだろう・・・と。

 自分の甘さを感じた出来事です。