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なんくるないさぁ~だんな と わたし と SLE と

  12歳SLE発症。ループス腎炎Ⅳ型。
早発閉経で妊活強制終了。子なし人生の幸せ模索中。

大学編

1980年01月09日 | 膠原病とともに
★1998年~2002年★

 大学に無事、推薦入学しました。

とにかく私は大学では「サークルに入りたい!」と思っていました。
病気になってから部活などの活動に縁遠くなっていたので、大学に入ったら「絶対入る!!」と決めていたんです。大学に入学する時には病状もとても安定していて、全く普通の人、いや、普通の人以上に体力も腕力もあった気がします(笑)

 サークルは新入部員勧誘の掲示板で、B'zの稲葉さんの実家(化粧品店です)に行った方の写真が貼ってあるサークルがあり、「おおっ!」と興味をひかれたことと、一緒にいた友達の押しに負け、関係のサークルに入りました。

サークルでは泡盛好きで泡盛ストレートで飲んでも平気な酒豪になっていました(笑)今、思えば無謀です。よく唐黷ネかったものだとf(^^)
 
 飲み会好きで旅行も好きで。とにかく毎日が楽しくて楽しくて。 

サークル内ではここで書いたらHPの容量を超えるんじゃないか?と
思うくらい、大変なことは多々ありました。
 それでも私は楽しくて辞めようとは思いませんでした。

 勉強の方も楽しくて仕方ありませんでした。

 私の通った学科では2年次から専門課程演習のゼミがあり、
 さらに専攻した福祉コースでは夏休みも実習やら何やらで
 4年間通してとても忙しかったです。

 2年生の時には北欧へ福祉研修にも行きました
(『志織の放浪記』参照してくださいね♪)
 もちろん主治医にも相談しました。
 
 主治医は「いいよ、いいよ~行ってきなさい~」と言って、
 むこうで何かあったときのための英語の診断書をくれました。
 (診断書はギッシリ3枚。心配だっただろうな・・・^^;)

 海外へ行く!なんて勇気があったのも、
旅関係のサークルに入ったおかげです。

 さらに欲張りな私は教職課程も3教科取ることにしたので、その講義数はとことん多くなりました。もちろん教育実習もいきましたし、ちゃんと教員免許もとることができました。

 教育実習先の母校は実習最終日に陸上競技大会が恒例です。
 大会の最後に実習生を交えたクラス対抗リレーがあります。
 私は最初「先生、走るの遅いからダメってば!(笑)」と
 参加しないつもりでした。でも教え子たちの押しに負けて
 出場することにしました。
 
 最初「軽くかけ足すりゃいいか」と思っていたのですが、
 いざ走りだすと気持ちよくて。つい全速力で走ってしまいました(笑)
 発病前までは、結構、走るの速かったんですよ(^^)

 でも、走っている途中、左足の付け根あたりに
 突然なにかに掴まれたような激痛が私を襲いました。
  
 なんとかアンカーにバトンを渡しましたが、それからは歩くたびに涙が出るほどの激痛が走りました。教え子たちには「なんでねぇ先生。最初はスゴイ速かったのに~」と言われましたが「歳だからさぁ(笑)」と笑ってごまかしていました。 

 ちょうど大腿骨あたりの激しい痛み。
 プレドニゾロンの副作用「大腿骨壊死」が頭をよぎりました・・・。
 「もしかして骨が弱くなってたとか?やってもうた・・・」と
 あの時は「もう一生走れないな」と覚悟しましたね(=)

 実習が終り、しばらく様子を見ていてもよくならず、
 家の近くの整形外科に行きました。
 レントゲンを撮った結果、骨に異常はありませんでした。
 でもなにやら
 「別に心配はないけど骨盤と大腿骨が発達未熟のままですね」
 と説明を受けました。なんだそりゃ??って感じです。

 その後、しばらく足を引きずって
 大学に通いましたが自然と治りました。
 今考えれば、全速力で走るなんて何年ぶりかのこと。
 準備運動もせずにそんなことをしたから
 肉離れでも起こしたのだろうなぁ~なんて思います(笑)
 でも、走ったときのあの気持ち良さは忘れられません。

 朝1の講義から夜間の最後の7講義目までぶっ通しで受けるので、
 ほんとに一日中大学にいる日もありました。

 友人のSちゃんと「卒業単位200超え!」なんて話をしていたら、
 ほんとにそうなりました。

 4年次には少し空いた講義の時間を使って、
 ホームヘルパー資格もとろうと資格の学校に通いました。
 無事に取得することもできました。

 私は、ただ興味のむくまま福祉を勉強しただけだったので、福祉職に就くという意欲は特にありませんでした。とりあえず就職活動をしていたら、中小企業の某メガネ店に内定を頂きました。

 大学時代の私は目だって体調を崩したことはありませんでした。

 日常生活で疲れやすいのはいつものことで、冬には風邪気管支炎・肺炎で熱を出し、2~3日救急センターに入院してはいました。関節が痛いなぁ~て思う日もありましたが、毎日、楽しかったです。
     (↑十分、体調崩してる??笑)

 大学は週1回講義が午前中だけしかない日があって、
 その日はサークルのミーティングの日と決まっていました。

 ちょうど主治医が担当する曜日と重なっていたので、
 講義を休まなくてはいけないことはありませんでしたが、
 ミーティング終了後に「皆で遊びに行こー!」なんて話がでた時には
 泣く泣くあきらめました・・・(-。-)
  
 とても充実した毎日でした。

病気のことは誰にも言っていませんでした。
大学の友人には言う必要はないと思っていました。
ただ高校時代からの友人のSちゃんには詳しくは教えてませんが、
何か病気を抱えていることは知っています。(知ってたよね??笑)
だからSちゃんには遊んだ帰りに運転してもらったりと、
結構甘えていたとは思います(^^;)

そして当時付き合っていた彼氏には病気のことを話しました。
当時は彼だけが理解してくれればいいと思っていました。
遠距離恋愛で年に数回しか会えず、
毎日の電話とメールが互いを繋いでいました。
私の病気のこともあるので障害があればあるほど燃えるというか。

何よりも互いにB'zFANでB'zがきっかけで付き合い始めたというコトが惹かれあう最大のャCントだった気もしますけど(^^;)

でも結局は病気が別れるきっかけも作ってしまいましたが・・・。

大学での思い出は私にとってかけがえのない一生の宝物です。

 
★★★入院生活で★★★

発病してから大学卒業までの中で、
入院が「こどもの日」「ひなまつり」などの行事と重なることが多く、
年中行事の入院食をほとんど食べたことがあります(^^;
私は小児科での入院だったので、こどもの日にはお菓子、ひな祭りには雛あられ、クリスマスにはブーツ型のお菓子の詰め合わせなどなど・・・遠慮なくもらいました(笑)

 病院で年を越したこともありました。(確か高1年生の頃)
 30日くらいから熱を出して、そのまま個室で1人年を越しました。
 初めて一人で年を越しました。

 病棟は10時消灯で、当時の病院は各ベットにテレビもついていませんでした。カーテンの隙間から差す月明かりだけの薄暗い病室で、0時を告げる時計の針を見ながら「今日から新年なんだ・・・」と思ったことを覚えています。あの時はホント寂しかったです(TT)

 年明けの元旦の入院食が、ちゃんと重箱のような食器にお節料理だったのにはビックリしましたけどね。おいしかったし(笑)
 でも「もう2度と病院で年越しなんてしたくない!」と思います。



高校編~追憶~

1980年01月08日 | 膠原病とともに
忘れられない出来事
  高校生になると少し程度なら日光に当たっても、
  さほど顔が赤くなることはありませんでした。

  相変わらず登下校を今度は父親に
  送迎してもらいました。
  中学校とは学校区域が広いせいか、
  他にも送迎してもらっている生徒が多くいました。
  そのため気がねなく(?)送迎されていました。

  父は定年退職して時間ができたので、
  私を送迎するのはうれしかったみたいです(笑)

 少しは外にでても大丈夫なのかなぁと思い、
 体育の時間に少し参加していました。

 さすがに水泳やマラソンなどは無理でしたが、テニスハンドボールのキーパーなどを長袖長ズボンのトレパン姿で少しだけ参加しました。室内で行うバトミントン卓球には、ほとんど皆と同じように参加していました。

 見学をしなくてはならない授業の時は、
 一緒に休む子とオシャベリをして時間をつぶしていました。

 その休む子の中によく頭痛で休む子がいました。
 何度か一緒に休んでオシャベリをしました。

 その子は2002年、突然この世を去ってしまいました。
 
 私がそのことを知ったのは葬儀も何もかも終わった後でした。

 私が病院で働きだしてからのコトです。

 彼女が自分の働く病院に入院していたことを
 亡くなってから知りました。

 とてもやりきれない気持ちになりました・・・。




高校編

1980年01月07日 | 膠原病とともに
★1995年~97年・高校1年生~3年生★

高校生になってからは学校生活はほんとに平和でした。

病状はというと相変わらずパルス療法を月1程度続けていました。
 
悪くはならないが良くもならずといった感じです。
・・・そこで、免疫抑制剤の服用もしました。

イムランにはじまり、メトトレキセートを6錠まで飲みました。
高校生活はこの免疫抑制剤のために抵抗力が弱くなったせいか、
風邪などの感染症との闘いだったような気がします(=)

ほんとによく熱を出しては救急センターへ行き、
2~3日入院なんてことが何回もありました。

高校1年生の夏休み、2回目の腎生検をすることになります。 

検査のとき、腎臓の組織を「パチンッ」と採る音と感触とその反動が腰にひびいて、病室に戻ったあとも、なんともいえなく悶えてました。
2回目とはいえ、やっぱり痛かったです・・・。
 
腎生検の結果はハッキリと覚えてないのですが

 「左腎の1/3はよい状態ではなく、
 その悪いうちの1/2は完全にダメ」

 みたいなことを説明されました。

そして今までの治療の効果と今後の方針について
シクロスャ潟?/span>(強めの免疫抑制剤?)は不適だということでした。

これらの結果が喜んでいいものなのか、よくわからなかったです。

その後はとにかくパルスネブライザー吸入の繰り返しでした。
朝早く学校へ行く前に採血だけして学校へ。
検査結果は親が聞きに病院へ行き、薬をもらう。
模試を受けたそのあとすぐにパルス、
パルスを受けた翌日にはすぐ登校など、
相変わらずハードに学校生活を送っていました。
 
そして何よりも辛かったのは免疫抑制剤の副作用、脱毛です!
若さ花ざかりの乙女なのに、脱毛は辛かったです・・・・・。
つむじ部分と前髪の分け目が、無残にスカスカ。
仕方ないので私は黒マジックで塗って、
なんとか目立たないように学校に通ってました。
今考えると頭皮に悪すぎですよね。

でも塗っている姿を母親に見られ、止められました。
両親は不憫に思ったのか、某有名アー○ネー○ャーで
部分用のカツラをつくってくれました。
これが結構いいもので、ン~十万したとかしないとか・・・(――)

でも結局、そのカツラは脱毛がとまるまでの
1年半くらいしか付けてないんですよね。親の無償の愛を感じます。
今もそのカツラは綺麗に箱に入れてとってあります。

卒業式には再び答辞の文章を考えました。
式当日は卒業生代表として答辞を読む大役を任されました。
 
無事卒業でき大学にも推薦入学が決まり、
高校生活は友人にも先生にも恵まれ淡々とした学生生活でしたが、
それなりに楽しかったです。

ただ、もっと恋愛とか部活とか高校生だからこそできる
青春をしたかったかな・・・と今でも少し思います(^^;)

 高校を卒業したあとの春休み、
 初めて意識を失って唐黷ワした。
 お風呂場のドアから出たときにクラッときたのですが、
 ちょうどそのときにお風呂場の側にあるトイレから
 父親が出てきたところで、唐黷骼рxえてくれたため、
 唐黷ト頭を打ったりなどの外傷はありませんでした。
 運がいいんだか悪いんだか・・・。



中学校編~追憶~

1980年01月06日 | 膠原病とともに
忘れられない出来事

中学時代も病状が安定しないため
修学旅行には行くことができませんでした。

私が行く高校は修学旅行がない学校だったので
私は「修学旅行」を知りません。

みんなが旅行から帰ってきて国語の授業で
「修学旅行の思い出」を書く時間がありました。

 行ってもないコトをどう書けと?・・・・とは思いましたが
 私はクラスの誰よりも早く一番に書き上げて皆を驚かせました。

 あの時、何を書いたのかは覚えてませんが、
 とにかく早く終わらせてしまいたい!という思いでイッパイでした。


★    ★    ★

 中学生活で忘れられない出来事があります。
 
 1年生の頃。クラスの中でちょっと目立った男の子のグループがいました。私の友達がそのグループの中の1人を好きで、ちょっと話をしたりすればひやかしたりして遊んでいました。

 その男の子のグループが放課後、
 私たちのことを話しているのを聞きました。 

 「あのデブのせいで前が見えないわけよ(笑)」
 「アレよぉ~でぇ~じ(スゴク)顔が汚い~。
  顔洗ってないんじゃないかぁ?」

 私が当時いつも一緒にいた友達はみんなスリムな体形。
 その会話の中で「アレ」は私のことだと思われました。

 「顔の肌荒れも太ってるのも薬のせいなのに・・・
  ‘汚い'って・・・お前らにそんなこと言われる筋合いは無い!」
  そう思って落ちこまないようにしていました。 
 
 しかし、数日後のことです。
 机に置いてあった学生手帳の写真部分が
 明らかに故意に何かで傷付けられていました。

 犯人は見当がつきます。
 悲しいを通りこして涙も出ませんでした。


★    ★    ★ 
 
 母は少しでも病気を悪化させるものを遠ざけようとしました。
 SLEにとって悪いと言われている日光です。
 発病当時から登下校の際、母が車で送り迎えしてくれました。
 中学生に上がっても、私の病状は悪いままで安定していたので、
 車での登下校は続きました。

 でも、やはり登下校の邪魔になると思ったので、学校の門から少し離れたところから乗るようにしていました。先生方も承知でした。しかし、それは意外なところから私たちに苦痛を与えました。

 学校区の地区だよりか何かで

 「親が車で登下校を送迎するという過保護者がいる。
  その子は友達が暑い日差しの下を帰るなか、
  自分はクーラーの効いた車の窓から手を振って・・・」

 というような投稿文でした。

 他に車で送迎している生徒なんて見たことないし、
 「あぁ~私のことだ」と思いました。

 母は
 「他人の言うことなんか気にしなくていい。
  良くなるまではアンタは自分のことだけ考えてればいいんだよ!
  アンタは誰にも迷惑はかけてないんだから!」
  と言いました。

 時々私は下校の時、母に連絡をせず友達と歩いて帰った時があります。
 でも日光過敏症がある私はすぐに顔が真っ赤になりました。

 いつまで、こういうことが続くんだろう・・・

 そんな思いでいっぱいでした。




中学校編

1980年01月05日 | 膠原病とともに
 ★1992年・中学1年生★

中学校に入学するころにはホントに丸々に太ってしまい、
ニキビが出はじめ肌荒れは酷くなり、鏡を見るのも嫌でした。
薬の副作用で身体中が毛深くなっていたので背中や眉毛も悲しい姿。
髪も痛んでバサバサ。おしゃれを知らなかった私は眉毛の整え方など知らず、髪もとりあえず結ぶという感じでした。

中学では入学前から親が担任と病気のことについて相談の場をもち、日常での注意点などを話しました。クラスのみんなにもすぐに病気のことを公表することになりました。
 
中学1年生のときの担任は過保護すぎでもなく、かといって放っておくわけでもない、私にとってこの方が担任でよかった思える先生でした。

幸い、小学校から仲の良い友人が同じクラスだったので、
寂しい思いや惨めな思いはしませんでした。
今考えると仲の良い友人と同じクラスになったのは
おそらく学校側の配慮だったのでは・・・と思います。

 ただ周囲は恋愛の話で盛り上がるものの私には縁の遠い話でした。
 友人の恋愛話を聞いて盛り上がって楽しむといった感じでした。
 男の子たちは、私から話かければ少しは話してくれる人、
 まったく話をしてくれない人の2つに別れました。

 とても楽しいとは言えないものの、発症当時の小学校生活と比べれば、
 普通の中学生活を送っていたと思います。
 
 93年2月、1年生ももうすぐ終了という頃、
 主治医が本土へ転勤のために女医さんに変わりました。

 中学校に上がってからも病状は良くはならず、
 悪いまま安定という感じでした。

 そのためパルス療法をすることになります。
 学校が終わって金曜の夜に入院して土日と受け、
 月曜は学校を休んでパルス、翌日の火曜日には登校していました。
 学校を休むことに恐賦エがあったのかもしれません。

 パルスの他に月1回の採血・採尿と診察は変わらず、
 顔はムーンフェイス+体重増加のためパンパンに膨らんでいました。

《手帳に残っている診察記録》

 5・2 パルス療法(プレドニン)3日間
 6・7 パルス療法(プレドニン)3日間
 7・23 パルス療法(プレドニン)3日間
 8・27 パルス療法(プレドニン)3日間
 11・12 パルス療法(プレドニン)3日間
 12・25 パルス療法(プレドニン)3日間
 93・2・2 主治医が変わる
     献血ベニロン投与 26日まで
 3・25 献血ベニロン投与 28日まで

★★★1993年中学2年生★★★

 中学2年生になるとますます体重は増加。でも身長はSTOPしたまま。
 初潮をむかえ、ホルモンバランスが不安定なせいか、顔中にきびが出る始末。

 周りが「誰と誰が付き合っている」とか
 「誰が誰のことを好き」だとか、そんな話とも縁遠く。
 恋愛とはますます遠くなっていく・・・という感じです。

 クラスは仲の良い友人とは離れ離れになってしまいました。
 この年、新しくできた友人は、髪を染めたり、タバコを吸ったり、
 たまに学校をサボるけど、授業には一応出るというような、
 ちょっとだけ皆の枠から外れている。
 いわゆる不良予備軍のような人たちです。

 私は一緒にタバコを吸ったりするわけではありませんでしたが、
 皆の輪から一歩ひいていることで、接点があったのかもしれないです。

 でも、それは表面だけの友人といった感じでした。

 給食を一緒に食べたり、グループ学習をするときに
 一緒に席を囲む程度でした。

 休み時間をひたすら寝て過ごすという日々を送っていました。

 病状は一向に変わらず、ステロイドパルスでは改善が見られないので
エンドキサンのパルスも始めます。
 これ最悪デス。吐き気はくるは、ダルイし髪の毛抜けるし・・・(TT)

 主治医は同じ女性であるからか、容姿を気にしていることを
 とても気遣っているようでした。

 とくに私の母親が身長が伸びないのを気にしているのを知って、
 成長ホルモンの投与も始めます。

 成長ホルモン剤の投与の前に、自らの身体から成長ホルモンを
 出しているかどうかの検査があります。ハッキリと覚えてはいないのですが、1泊くらい入院してひたすら採血をしました。寝てる間も続けられ成長ホルモンの分泌量を調べるみたいです。
 2時間置きくらいだったんじゃないかな・・?

 検査の結果は分泌量は少なく、
 成長ホルモン投与してもいいという結果でした。
 (該当しないと打ってはいけないみたい?よくわかりません~)

 カビペンという注射器を用いて、自宅で寝る前に自分で太ももに皮下注射をします。自分で打ちましたよ。毎日毎日・・・。

《手帳に残っている診察記録》

 9・22 パルス療法(エンドキサン投与)
      むくみあり、利尿剤服用
 10・2 パルス療法
 12・5 成長ホルモン開始 ジェノトロピン4単位(カビペン)
‘94・1・7 パルス療法(エンドキサン)
 2・4 パルス療法(エンドキサン)
 3・11 パルス療法(エンドキサン) 
  
★★★1994年・中学3年生★★★

 中学3年生の頃の学校生活ではっきり覚えている事といえば、
 3者面談で進路相談で推薦で高校への
 進学を希望することを決めたことです。
 
 普通に入試を受けても大丈夫だと思うよと担任に言われていたけど、
 入試などというプレッシャーに立ち向かう勇気はありませんでした。

 そして1度ひどく症状が悪化したことがあります。
 その悪化の原因には覚えがあるんです。
 
 小学校の頃、目立ちたがり屋でクラス委員を
 当たり前のように引き受けて、天狗になっていた私。

 病気になって急に晴れ舞台から落とされたように悲劇のヒロインを演じ、周りの環境に馴染もうとせず心をふさいでいた私です。それが中学3年生になってすぐの1学期、ふとクラスの副会長に推薦されたんです。 

 またみんなの輪に入れたような気がしてとてもうれしかったです。
 もちろん2つ返事で引き受けました。
 
 しかしそのことを家に帰って母に告げたとき、
 「あんたはバカか!そんな身体でそんなこと引き受けて、
  死ぬつもり??勝手に死になさい!知らないよ!」

 とひどく怒られてしまいました。

 母は私の病気のことを心配して発した言葉でしょう。
 でも当時の私にはその言葉は大変ショックを受けました。
 部屋に閉じこもり号泣しました。

 今考えれば、「たかがそんなことで?」と思います。
 精神的に不安定だったせいもあるでしょう。一晩中、泣いていました。
 もう病気が悪くなっていいと本気で思いっきり泣きました。

 翌日、身体全体がむくみ、まぶたもあけられないほどに。
 歩くのも息切れをし、ふらふらする。最悪の事態です。
 それでも私は学校へ行くつもりで制服に着替えようとしていました。
 でも、むくみのせいで昨日まで入っていた制服のスカートは
 全く着ることができませんでした。

 当然、即入院。緊急でパルス療法が行われました。
 主治医に「どうしたの??」と聞かれましたが、
 何も言いませんでした。
 その後3週間ほど入院していたはずです。
 でも私の手帳にその時の記録はありません。

 透析するまでにはいたらなかったのが不幸中の幸いでした。
 
 そのときの入院当初、母も私も気が動転していたのでしょう。
 「浮腫んだときのために制服、大きめに作らないとね」などと考え、
 ウェストが90㎝ほどの制服を作らせました。
 そんなに浮腫んだら学校なんて行けないのに。今では笑い話です。 

 その悪化での緊急入院から退院したあとも2週間おきの定期的な検査と診察、月に1度のパルス療法は続きました。
 
 目の方にも症状がでました。白内障です。
 手術するまでひどくはなく、点眼薬で治療をしました。
 他にも眼圧があがり緑内障の疑いも懸念されましたが、
 病状が少しおちつくと緑内障の影はなくなりました。
 その代わり、急に視力が下がったような気がします。
 
 初めて個室に入院したのもこの時期だったと思います。 

 他にも抵抗力が弱いため、舌にカビが生えるという聞くと恐ろしい症状もでました。舌が真っ白になってとにかく痛くて、何かを食べるのも飲むのも辛かったです。

 学校に通っていても抵抗力がないのですぐ風邪をひき、高熱を出し、
 救急センターへ通うことも多々ありました。

 以前の主治医が戻ってきて、女医さんに代わってまた私の主治医となった時に、成長ホルモンは中止することになります。
 「身長なんか気にしてる場合じゃないでしょ」って感じなんだと思いますけど。。。まぁ、成長ホルモンを打ったおかげか、一応3センチほど伸びてなんとか148㎝になりました。そして今に至る・・・という感じです。

 推薦入試で高校は無事合格しました。

 文章を書くのが好きな私は国語の先生に気にいられていたので、
 卒業式での答辞の文章を考えました。
 そして卒業生代表として答辞を読むという大役を引き受けました。

 決してよい病状ではなかったけれど、もう「大丈夫」でした。


 《手帳に残っている記録》

'94・4・8 パルス療法(エンドキサン)

   空白

8・5 パルス療法(エンドキサン)
9・9 入院 パルス療法(9/11退院)
10・9 パルス療法(エンドキサン)
11・11 パルス療法(プレドニン)
12・9 成長ホルモン中止
12・27 12時間蓄尿検査(28日外来)
'95・1・8 12時間蓄尿検査(9日外来)
1・26 救急センター 発熱39.9℃ 入院
1・27 抗生物質投与(1日4回)
1・28 舌炎あり(食事とれず)
1・30 退院延期 白血球減少
1・31 白血球増加剤投与
2・4 退院
2・7 診察 ミゾリビン飲む
2・21 診察・採血
2・24 診察
3・1 眼科(白内障)
3・8 採血・採尿
3・10 診察
3・22 採血・採尿
3・29 診察
3・30 プレドニン14錠(70㎎)にする