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永江朗のオハヨー!日本語 ~広辞苑の中の花鳥風月

短期集中web連載! 手だれの文章家・永江朗が広辞苑を読んで見つけた自然を表す言葉の数々をエッセイに綴ります。

ゆうまぐれ【夕間暮れ】

2013年10月17日 | や行
夕方うす暗くてよく見えないこと。

 たんに「夕暮れ」に「間」を入れてかっこよくしたことばなのかと思っていたけれども、ちょっとちがうよう。

「まぐれ」は「目暗れ」という意味なのだそうだ。つまり「夕」+「目暗れ」。

 いまは「目暗れ」を「紛れ」と書く。「まぐれあたり。偶然」の意味で使っているけど、「まぎれ」という意味の方がふるい。夕方になって暗闇の中にまぎれこんでしまう、という感じだろうか。「たそがれ」の、暗くて誰なんだかわからなくなる時刻、というのと似ている。

 電気の発明によって、ぼくたちは暗闇を失った。もちろん電灯以前も、ロウソクや油を使った照明はあったけれども、電灯の明るさとは比べものにならない。夜になってうす暗くてよく見えない、なんていう経験もほとんどない。部屋の照明を消しても、窓から街灯の明かりが入ってくるし、さまざまな電気器具の電源ランプがオレンジやグリーンに光っている。

 暗闇は妄想をかきたてる。平安時代の人びとは「もののけ」におびえた。もののけはぼくたちの心の中から生まれる。暗闇を失ったぼくたちは、妄想する力が弱くなった。


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ゆうだち【夕立】

2013年10月16日 | や行
夕方、風・波などの起こり立つこと。


 もちろん「昼すぎから夕方にかけて、急に曇って来て激しく降る大粒の雨」という意味もある。でも風・波ほうが先で、大粒の雨のほうは2番目に出てくる。『広辞苑』は、語義が複数あるときは語源に近いものから順に並んでいる。もともと「夕立」は風や波についていうものだったのだ。

「一説に、天から降ることをタツといい、雷神が斎場に降臨することとする」のだそうだ。「斎場(いみば)」は「神を祭る斎み清めた場所。ゆにわ」である。

 夕方になって急に風が強くなるのだから、降りてくるのは雷神じゃなくて風神だろうとも思うのだけれども。それはともかく、天候の急変は神様の意志だと昔の人は考えたわけだ。

 ここのところ日本列島の夏の暑さはすさまじい。「異常気象だ、気候変動だ」というけれども、昔の人なら神様の意志だととらえ、「どうして?」と考えただろう。人間のおこないになにか間違いがあるのではと疑い、反省しただろう。気候変動と人間が排出する二酸化炭素の関係は完全に証明されたわけではないけど、森羅万象に神を見て行動を反省する昔の人の考え方は、案外正しかった。


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ゆうごおり【夕氷】

2013年10月15日 | や行
夕方氷ること。また、その氷。


 少し似た言葉に「夕凝り(ゆうこり)」がある。こちらは「霜・雪などが夕方になってこり固まること。また、そのもの」だそうだ。

 お菓子の名前にもなりそうな言葉だ。冬の寒さがしみじみと伝わってくる。

 人間は意外と鈍感で、少しぐらい気温が下がったぐらいでは寒いと思わない。ところが水が氷ったり、霜や雪が固まると「こんなに気温が下がったんだ。そういえば寒い!」と気がつく。

 柔らかかった雪が夕方になって固まる。足の裏には不思議な感触がある。固まっているのは表面で、奥の方は柔らかい。カヌレみたいな感じだ。

 ところで、冬、クルマを運転していていちばん怖いのがこれだ。昼間はたんに濡れているだけの路面が、夕方になると氷ってツルツルになっている。ハンドルはきかない。慌ててブレーキを踏むとコントロール不能になる。運を天にまかせるしかない。これがほんとの運天手、なんていっている場合じゃない。

 夕氷や夕凝りの上に新雪が積もると、山では雪崩が起きやすくなる。冬山ではこれも恐ろしい。



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やまよそおう【山粧う】

2013年10月14日 | や行
晩秋の澄んだ空気の中で、山が紅葉に彩られているさまをいう。


「錦秋」、「錦繍」なんていう言葉もある。ぼくは「ミッソーニのセーターみたい」といっている。

 真っ白な冬の山も、若葉が芽吹く春の山も、木々が青々と繁る夏の山も、それぞれきれいだとは思うけれども、やっぱり見事なのは秋の山だ。

『広辞苑』の語釈は、「澄んだ空気の中で」としているところがいい。山がひときわ美しく感じるのは、湿度が低くて、遠くの景色もはっきりと見えるからだ。

「山笑う」という言葉もあって、こちらは「春の芽吹きはじめた華やかな山の形容。冬季の山の寂しさに対していう」と書かれている。

 11世紀、北宋の画家、郭熙(かくき)が書いた画論に出てくる言葉だそうで、「春山淡冶(たんや)にして笑うが如く、夏山蒼翠として滴るが如し、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として睡るがごとし」という。春の新聞の見出しに、「山笑う」という言葉がよく使われる。

 郭熙は山水画の名人だったそうで、こういう気持ちで描くとうまくいきますよ、ということか。


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よこう【余光】

2013年05月01日 | や行
(1)日没のあとに残っているひかり。
(2)おもかげ。余徳。


 これに近い言葉が「残照」。

 現代のぼくたちは、地球が丸いので、太陽が沈んだように見えても、地平線の向こうにはまだ太陽があって、空を照らしている(といういいかたも変だけど)のが理解できる。いわば宇宙から地球を眺めるような視点が獲得されているのだ。世界を二次元的な地図としてだけでなく、三次元的な地球儀としてもとらえている。

 でも地球が丸いと知らなかった昔の人びとにとって、余光はさぞ神秘的に感じられただろう。太陽は沈んだのに、空は明るい。しかしその淡い光は少しずつ失われていって、やがて暗くなる。暗くなっても完全な闇にはならず、(晴れた日ならば)月や星が見えてくる。

 インターネットの画像検索が好きで、いろんな言葉を入れて楽しんでいる。出てくる画像の美しさでは「残照」はピカイチかもしれない。空の色、雲の色、山のシルエットなど、ため息が出るような写真がたくさんある。また、画題や小説、評伝などのタイトルにもなっている。たとえメカニズムがわかっていても、美しいものは美しい。