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永江朗のオハヨー!日本語 ~広辞苑の中の花鳥風月

短期集中web連載! 手だれの文章家・永江朗が広辞苑を読んで見つけた自然を表す言葉の数々をエッセイに綴ります。

しちへんげ【七変化】

2013年06月10日 | さ行
アジサイの異称。


 もちろん『広辞苑』で最初に書かれているのは「七曲よりなる変化物」という意味。舞台で主役が次々と変身する芸である。歌舞伎の早変わりはほんとうに見事で、オペラグラスでじっくり観察するのだが、どうやって変わっているのかがまったくわからない。映像だと驚かないが、生身の人間が目の前でやっているのをみるとびっくりする。

「あじさい(紫陽花)」の項を読むと、「色は青から赤紫へ変化するところから「七変化」ともいう」と書かれている。

 アジサイの花(ほんとうは花びらではなくて萼だ)の色素はアントシアニンで、これに土中の成分(アルミニウム)がどうかかわるかで色が変化する。アルミニウムが吸収しやすければ青くなり、そうでなければ赤くなる。うんと単純化していうと、土が酸性なら青で、アルカリ性なら赤。リトマス試験紙と逆だ。

 七変化の異称を持つのはアジサイだけでなく、ランタナという花もそう。画像検索しておどろいた。こんなカラフルな花があるとは。花の色は、白、ピンク、黄色、赤など。小学5年生ぐらいの女の子に「花の絵を描いてごらん」というと、たぶんこんな絵を描くのではないだろうか。

しせき

2013年06月09日 | さ行
屋敷の周囲の防風林。しへい。


 関東地方の言葉だそうだ。「四壁林」の訛か、と『広辞苑』には書かれている。

 ぼくは東京に住んで37年になるけれども、はじめて聞いた(見た)言葉だ。もっとも、防風林があるようなお屋敷に住んでいる友人・知人がいないからかもしれないが。

 ただ、防風林の効用については聞いたことがある。とてもいいそうだ。まず強い風が家を直撃しない。これは防風林なんだからあたりまえ。家が傷まないし、風で窓がガタガタいうことも少ない。横なぐりの雨も防いでくれる。

 真夏もひんやりと涼しい。空気もきれいだろう。

 メンタル面への効果も大きい。窓から緑が見えるというのは、とても落ち着くものだ。鳥も来るだろうし。

 そのかわり、手入れは大変だ。落葉を拾い、のびすぎた枝を払わなければならない。広い屋敷の周囲にめぐらした防風林を保つためには、誰かを雇わなければならないだろう。あこがれるけど到底無理だ。この言葉が聞かれないのも当然かもしれない。

しぐれ【時雨】

2013年06月08日 | さ行
秋の末から冬の初め頃に、降ったりやんだりする雨。

よく聞く言葉だけれども、意味をはっきりとは知らなかった語。「秋の末から冬の初め」と、季節限定だったとは。「蝉時雨」なんていうから、真夏の雨かと思っていた。

「過ぐる」から出た言葉だそうで、通り雨のことだという。

 雨ということから転じて、「比喩的に、涙を流すこと」になったり、「一しきり続くもののたとえ」になったり。「蝉時雨」の場合も、蝉の声がひとしきりつづく。

「時雨心地」は今にも時雨が降りそうな空模様のこと。転じて、「涙を催す心地」。現代なら「ウルウルしちゃう」っていうところか。

「時雨月」は時雨の雲間の月かと思いきや、「時雨の多く降る月、すなわち陰暦10月の異称」だそうだ。

「時雨の色」は「時雨のために色づいた草木の葉色」。紅葉は時雨のためではないのだけれど……。

 小豆餡をそぼろにして蒸したお菓子を「時雨羹」といい、料理には「時雨煮」もある。どちらもその姿かたちから時雨を連想するのはむずかしい気がするのだが。いったいどこが時雨っぽいのだろう。

しぎのかんきん【鴫の看経】

2013年06月07日 | さ行
鴫が、羽掻(はがき)などをせずに、田や沢にぼんやり立っているさま。


「看経」の項を見ると「(1)禅宗で、経文を黙読すること。(2)声を出して経文を読むこと。読経。誦経。(3)教典を研究のために読むこと」とある。
 つまり、鴫がぼんやり立っている様子を、お経を読んでいる姿に見立てたということだろうか。

『広辞苑』には「鴫の羽掻(はがき・はねがき)」という言葉も載っている。こちらは「鴫がしばしば嘴(くちばし)で羽をしごくことから、物事の回数の多いことのたとえ」とある。

 しょちゅう羽の手入れをしている鴫が、めずらしくぼんやり立っている。まるでお経でも読んでいるように、ということだろうか。

 じっと落ち着いている間もなく、いつもせわしなく動いている人、ひとときも黙っておられずおしゃべりしている人は、あまり思慮深く見えない。黙って静かにしている人は、深く物事を考えているように見える。鴫ですら哲学者に見える。ほんとうはただぼんやりとしているだけなのかもしれないのに。

 ところで、瞑想とぼんやりの境目はどのへんにあるのだろう。ただのぼんやりなら得意なのだけど。

しおひのみち【潮干の道】

2013年06月06日 | さ行
干潮となって通行のできるところ。


「潮干」は「潮水が引くこと。潮が引いてあらわれた所」。「潮干狩」の「潮干」だ。

 たしかムツゴロウこと畑正憲さんは、動物王国をつくる前、北海道の無人島に住んでいた。無人島といっても浜から見える小さな島で、干潮のときは歩いて渡れるぐらい。
 しかし、この歩いて渡れるというのがくせもので、つまり引いた潮はまた満ちてくるから、急いで渡らないと歩けなくなってしまうのだ。

 東京も海辺の町なのだけど、ふだん、潮の干満なんて意識したことがない。

「潮干の山」という言葉もある。「道」が文字通り通行のできるところなのだから、「山」も潮が引いてあらわれる山のことかと思いきや、悟りの世界のことだという。
「生死常ならぬ煩悩の世界を海にたとえ、その海の潮の及ばない山の意」だそうだ。干満を繰り返す潮を煩悩にたとえるのはなんとなくわかるが、山が悟りの世界というのはどうか。これでいうと陸地の大半は悟りの世界になりそうだが、煩悩の力はもっと大きいと思う。