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祝、10年ぶりの日本人力士の優勝

2016-01-24 22:49:17 | 観る、聴く楽しみ

10年ぶり、日本人力士を土俵に見て「君が代」
 10年ぶりの日本人力士琴奨菊の優勝に国技館が沸いた。 2006年1月場所で栃東が14勝1敗で幕内最高優勝を果たして以来と言うから、正に10年ぶりに日本人力士を土俵に見ながら国技館で「君が代」の斉唱を聞いたことになる。

待ちわびた気持ちが座布団の大乱舞に
 もちろん誰が優勝しようと、どこの国籍の力士であろうと「君が代」を唄うのが国技たる由縁ではある。そもそも格好からして国技そのものである。国籍がどこであろうが、力士は髷を結い、まわし一本締めたきりで土俵に上がるのがしきたりである。その時点ですべての力士が日本人になりきっている訳だから、誰が優勝しようと変わりはないはずだが、そう簡単には納得出来ないのが国民感情の嫌らしいところであり、自然なところでもある。
 10年といえば長い。その間、多くの相撲ファンが日本人力士の優勝を待ちわびていたようで、12日目の対白鴎戦で琴奨菊が勝利した瞬間の座布団の乱舞がそれを証明していた。
大番狂わせ、特に横綱などが敗れた時は座布団が飛び交うが、12日目は10年間の我慢が爆発したような格別の飛び交いようであった。

格闘技を戦う者のハングリー精神とプライド
  このところ、日本人大関陣の不振が目立っていたが、これを契機に大関陣を始め、日本人力士の国技を辱めない活躍を期待したい。モンゴル出身の力士はまだ十両になる前でも国元の親に仕送りをしている。一方、その辺りの地位にいる日本人力士は親から仕送りを受けている者も少なくないと云う某親方の話を新聞のコラムで読んだことがある。
 相撲に限らず格闘技に生きる者にはある意味でのハングリー精神が必要であることは言うまでもない。また無関係なようだが闘う者のプライドも欠かせない。時に王者ともなれば尚更である。

神事である相撲、横綱には品格を
 相撲は確かに格闘技であるが、神事でもあり、その点で世界各国にある格闘技とは一線を画しているもの考えられている。元々、弥生時代の稲作にともなう農耕儀礼として発生し、奈良時代、平安時代と次第に農作物の収穫、五穀豊穣を占い、願う国家行事となっていったもので、現在の相撲でも力士が土俵に撒く塩、勝ち力士が切る手刀などからも相撲の原点が神事であることが推察できる。横綱の巻いている注連縄はその最たるもので、最強の力士である横綱は神様であるからこそ神社のように注連縄を巻くという。
 横綱がことさらに品格を求められるのも神様のように崇められる存在であってほしいという願いがあるからだ。朝青龍や白鴎に『横綱に相応しい行動を、相撲を』と求めたのはそのようなことからだが、残念ながら二人には理解されなかったようだ。特に最近の白鴎は“強ければ良いのだろう。勝てば良いのだろう”という気持ちがありありと見える。
 琴奨菊の優勝を契機に日本人力士の更なる飛躍、日本人横綱の1日も早い誕生を願う。そして、大相撲に国技に相応しい品格が戻ることを期待したい。



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