相次ぐ政治家の危ない発言
安倍首相をはじめ、要職にある政治家の危ない発言というより、限界を超えた危険発言が相次いでいる。「綸言汗のごとし」と言われるように、一旦、口から発した言葉は取り消しがきかない。インターネットの普及で、マスメディアからパーソナルメディアまで、発信先が多様化し、“誰それがこう言った”と言葉が一人歩きしやすくなっている。正に「人の口に扉は立てられない」時代になっているだけに政治家など責任ある立場にいる者は、自分の発言には更に慎重でなければならない。
信頼を得るための発言 「競争相手の悪口はタブー」
セールスの仕事は聞き手の信頼を得ること出発点になるが、聞き手の信頼を得るためには最低限心得ておかねばならないタブーがある。その一つは「競争相手の悪口を言わない」ことである。猪瀬都知事の「イスラムの人…」はこれに触れている。正に「 九仞の功を一簣に虧く」発言であった。これまでの準備運動に掛けた100億円近い資金を無駄にし、再びの東京オリンピックに夢を掛けた多くの日本人の希望を奪いかねない愚挙であり、その責任は重い。
「自分に不利な事を隠すのはタブー」
タブーの二つ目は「大事な事柄、特に自分に不利になりかねない事柄を隠さず、明確に付言し、説明する」ことである。確かに自説に不利なことまで説明するのは気持ちとして避けたいのは山々であるが、聞き手が既にそのことに気がついていたり、後でそれに知ったりした時に生じる不信感を思えば得策ではない。大事なことを言わないのは、“自分の都合の悪いことは隠している”と思われ、聞き手の気持ちとしては「嘘を言っている」に近。信頼は得られない。
安倍首相は憲法96条の改正に積極的な発言を繰り返しているが、その理由として「僅か三分の一の議員が反対するだけで、憲法改正のための国民投票を行う機会を奪うことになる」と幾度も話している。確かに、そのような見方もあり得るが、一票の格差が憲法違反と判断されている現状では、“三分の一”が実は“三分の二の国民によって選ばれた”可能性もある。「僅か三分の一の…」は一票の格差が解消されて初めて言える話であり、違憲状態の現在に通用する話ではない。
説明不足の96条改正
アベノミックスで株価も急上昇、安倍首相の支持率も依然高水準を維持しているが、96条の話になると反対票が多い。それは、憲法の何をどう改正したいのかを明確にしないままで、とにかく改正条件の緩和を先行させようとする安倍首相の姿勢に強い警戒心を抱いているからである。“衣の下の鎧が見え過ぎ”とも言える。国民にとって、大事なことは96条ではなく、憲法の何を変えるかである。そんな重要なことが隠されるとなると信用できるわけがない。慎重になるのは当然である。
政治家に求められる自らの発言や行動 に関するTPOの判断力
TPOという観点もある。服装はもちろんだが、発言、行動についてのTPOは更に重要である。『言って良い事と言って悪い事』『言って良い時と言って悪い時』の的確な判断ができることは政治家の資質として重要な事である。同様に『やって良い事とやって悪い事』、『やって良い時とやって悪い時』の判断についても求められる。その判断が曖昧な人は政治家としては失格であると言わざるを得ない。特に国際社会では世界を見つめた冷静な判断が求められるが、このところ日本の政治家の発言や行動は国際社会にとかく物議を醸す事態が頻発している。
橋下代表の発言は論外
日本維新の会橋下代表の「従軍慰安婦発言」は一市民の発言しても常識を外れた行動であり、まして、一時は政界に新風を吹き込んだ人の発言としてはお粗末とも何とも、言いようがない愚劣極まりないものである。ある意味では、橋下氏の政治家としての適性の欠如が、早い時点、今の段階で明確になってヨカッタという声もでている。
TPOを弁えぬ高市発言
“村山談話の侵略云々が納得できない”との高市早苗自民党政調会長の発言は正に「言って良い時と悪い時」を弁えない行動である。菅義偉官房長官や高村副総裁、石破幹事長などから批判をを受けて、「党に迷惑がかかったのであればおわびする」と陳謝しているが、実に不遜である。「…かかったのであれば…」という言い方を多くの政治家がするところで含意で、お詫びになっていない。その発言で日本への信頼感に影響がでていることでもあり、お詫びするなら国民に対してではないか。
政治家の信念は尊重されるべきだが
また「歴史観、戦争観は人によって違う。一人の政治家として言い続けたきたことと正反対のことを言う方が不誠実だ」とも述べているが、今の時点で意見表明して良いということにはならない。発言の適切なタイミングを大きく誤った点で政治家としての適性を疑わせることになっただけである。第一、『侵略という言葉』に納得できないなら、何と表現すべきか、政治家として明確にするするべきではないか。政治家に揺るぎない信念は尊重されるべきだが、その信念は「国民の幸福」に繋がることであるべきだ。その上で、その信念の実現に向けて、惜しみなく最大限に努力すべきである。意味なくTPOを弁えず信念とやらを吐露されても国民はじめ周囲の迷惑になるだけである。それだけでも政治家として失格である。
政治家の発言は自己満足ではなく、国益、国民の幸福のために
このところ、不用意で、無益の政治家が相次ぎ、周辺国家のみならず、欧米諸国に不信の種を蒔いているが、政治家の発言や行動はTPOを強く認識すべきである。世界に向けた積極的な意見表明や説明は重要だが、統一されたものであるべきで、自分を目立たせるための個々人の勝手な発言が頻発する百家争鳴状態は迷惑であり『国益』を損なう。この場合、『国益』とは、誰かさんが得意になって連発する意味ではなくて、“『国民の幸福』”に繋がるものである”ことは言うまでもない。・
>政治家が、その言葉で失敗したり、問題をおこすことは古今、数多い。
>特に最近は、それが目立つ。例えば、アベノミクス効果で好調な経済を演出し、今や圧倒的な支持率を誇る安倍首相は、歴史認識問題で米国や韓国の不興を買い、その言葉をトーンダウンさせた。
>また猪瀬東京都知事は、アメリカのメディアのインタビューで、オリンピック招致のライバル都市を貶めることを言ったということで謝罪に追い込まれた。
>さらに橋下大阪市長、日本維新の会共同代表は、従軍慰安婦について誤解を与えるようなことを言い、また沖縄駐留米軍に風俗業の活用を進言したということで問題になっている。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
日本人は文章を熱心に作らない。文章を作ることは、考えを練る事に通じている。
英語には時制がある。文章を作らなくては、時制が表せない。だから、文章にして語ることは重要なのである。
日本語には時制がない。文章は常に現在時制 (現実に関すること) に定まっているようなものである。だから、単語だけのやり取りで、ことが足りるものと自他ともに思っている。
そのため、政治家となって、外国人と理想 (非現実) の話もできず、何を言っているかも理解されず、そのために国を過ちに導くことも多い。