顔を見合わせ、思い語る 両陛下結婚50年会見
2009年4月10日 ASAHI.COM
天皇、皇后両陛下は8日、結婚50年の10日を前に記者会見に臨み、半世紀を振り返った。両陛下は時折顔を見合わせ、うなずき合い、ほほえみながら、思いを語った。陛下は途中、感無量となり、声を詰まらせる場面もあった。会見のやり取りは次の通り。
――両陛下にお尋ねします。ご成婚の日から50年の月日が流れ、高度成長期からバブル崩壊、いくつもの自然災害や景気悪化など、世相、人の価値観も大きく変わる中、両陛下も皇室に新しい風を吹き込まれてきました。皇太子同妃両殿下として、天皇皇后両陛下として夫婦二人三脚で歩んできたこの50年を振り返り、お二人で築きあげてきた時代にふさわしい新たな皇室のありよう、一方で守ってこられた皇室の伝統についてお聞かせいただくとともに、それを次世代にどう引き継いでいかれるのかもお聞かせください。
天皇陛下 私どもの結婚50年を迎える日も近づき、多くの人々からお祝いの気持ちを示されていることを、誠にうれしく、深く感謝しています。ただ、国民生活に大きく影響を与えている厳しい経済情勢の最中のことであり、祝っていただくことを心苦しくも感じています。
顧みますと、私どもの結婚した頃は、日本が多大な戦禍を受け、310万人の命が失われた先の戦争から、日本国憲法のもと、自由と平和を大切にする国として立ち上がり、国際連合に加盟し、産業を発展させて、国民生活が向上し始めた時期でありました。その後の日本はさらなる産業の発展に伴って豊かになりましたが、一方、公害が深刻化し、人々の健康に重大な影響を与えるようになりました。また都市化や、海、川の汚染により、古くから人々に親しまれてきた自然は人々の生活から離れた存在となりました。
結婚後に起こったことで、日本にとって極めて重要な出来事としては、昭和43年の小笠原村の復帰と昭和47年の沖縄県の復帰が挙げられます。両地域とも、先の厳しい戦争で日米双方で多数の人々が亡くなり、特に沖縄県では多数の島民が戦争に巻き込まれて亡くなりました。返す返すも残念なことでした。一方、国外では、平成になってからですが、ソビエト連邦が崩壊し、より透明な平和な世界ができるとの期待が持たれましたが、その後紛争が世界の各地に起こり、現在もなお多くの犠牲者が生じています。今日、日本では人々の努力によって、都市などの環境は著しく改善し、また自然環境もコウノトリやトキを放鳥することができるほど改善されてきましたが、各地で高齢化が進み、厳しい状況になっています。ますます人々が協力し合って、社会を支えていくことが重要になってきています。私どもはこのように変化してきた日本の姿と共に過ごしてきました。様々なことが起こった50年であったことを改めて感じます。
皇后は結婚以来、常に私の立場と務めを重んじ、また私生活においては昭和天皇をはじめ私の家族を大切にしつつ、私に寄り添ってきてくれたことをうれしく思っています。
不幸にも若くして未亡人となった私の姉の鷹司(たかつかさ)(和子)神宮祭主のことはいつも心にかけ、那須、軽井沢、浜名湖でよく夏を一緒に過ごしました。姉は自分の気持ちを外に表さない性格でしたが、ある時、昭和天皇から、私どもと大変楽しく過ごしたと聞いたがどのように過ごしたのか、というお話があったことがありました。皇后は、きょうだいの中で姉だけを持たず、私との結婚で姉ができたことがうれしく、誘ってくれていたようなのですが、この時の昭和天皇が大変喜ばれた様子が今でも思い出されます。
私ども二人は育った環境も違い、特に私は家庭生活をしてこなかったので、皇后の立場を十分に思いやることができず、加えて、大勢の職員と共にする生活には戸惑うことも多かったと思います。しかし、何事も静かに受け入れ、私が皇太子として、また天皇として務めを果たしていくうえに、大きな支えとなってくれました。
時代にふさわしい新たな皇室のありようについての質問ですが、私は即位以来、昭和天皇をはじめ過去の天皇の歩んできた道にたびたびに思いを致し、また日本国憲法にある、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるという規定に心を致しつつ、国民の期待に応えられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということは、いつも私の念頭を離れず、その望ましいあり方を求めて今日に至っています。なお大日本帝国憲法下の天皇のあり方と、日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば、日本国憲法下の天皇のあり方の方が、天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと思います。
守ってきた皇室の伝統についての質問ですが、私は昭和天皇から伝わってきたものはほとんど受け継ぎ、これを守ってきました。この中には新嘗(にいなめ)祭のように古くから伝えられてきた伝統的祭祀(さいし)もありますが、田植えのように昭和天皇から始められた行事もあります。新嘗祭のように古い伝統のあるものはそのままの形を残していくことが大切と考えますが、田植えのように新しく始められた行事は、形よりはそれを行う意義を重視していくことが望ましいと考えます。従って現在、私は田植え、稲刈りに加え、前年に収穫した種もみをまくことから始めています。学士院賞や芸術院賞受賞者などを招いての茶会なども、皇后と共に関係者と話し合い、招かれた全員と話ができるように形式を変えました。短時間ではありますが、受賞者、新会員、皆と話をする機会が持て、私どもにとっても楽しいものになりました。
皇室の伝統をどう引き継いでいくかという質問ですが、先ほど、天皇のあり方として、その望ましいあり方を常に求めていくという話をしましたが、次世代にとってもその心持ちを持つことが大切であり、個々の行事をどうするかということは、次世代の考えに譲りたいと考えます。
皇后さま 50年前、普通の家庭から皇室という新しい環境に入りました時、不安と心細さで心がいっぱいでございました。今日こうして陛下のおそばで金婚の日を迎えられることを本当に夢のように思います。
結婚以来今日まで、陛下はいつもご自分の立場を深く自覚なさり、東宮でいらした頃には、将来の象徴として、後に天皇におなりになってからは、日本国そして国民統合の象徴として、ご自分のあるべき姿を求めて歩んでこられました。こうしたご努力の中で、陛下は、国や人々に寄せる気持ちを時と共に深められ、国の出来事や、人々の喜び、悲しみに、お心を添わせていらしたように思います。
50年の道のりは、長く、時に険しくございましたが、陛下が日々真摯(しんし)に取るべき道を求め、指し示してくださいましたので、今日までご一緒に歩いてくることができました。陛下のお時代を共に生きることができたことを、心からうれしく思うとともに、これまで、私の成長を助け、見守り、励ましてくださった、大勢の方たちに感謝を申し上げます。
質問の中にある、皇室と伝統、そして次世代への引き継ぎということですが、陛下はご即位にあたり、これまでの皇室の伝統的行事および祭祀とも、昭和天皇の御代(みよ)のものをほぼ全部お引き継ぎになりました。また皇室が、過去の伝統とともに現代を生きることの大切さを深く思われ、日本各地に住む人々の生活に心を寄せ、人々と共に、今という時代に丁寧にかかわりつつ、一つの時代を築いてこられたように思います。
伝統と共に生きるということは、時に大変なことでもありますが、伝統があるために、国や社会や家がどれだけ力強く、豊かになれているかということに気づかされることがあります。一方で、型のみで残った伝統が社会の進展を阻んだり、伝統という名の下で古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません。
また伝統には表に現れる型と、内に秘められた心の部分とがあり、その二つが共に継承されていることも、片方だけで伝わってきていることもあると思います。
WBCで活躍した日本の選手たちは、よろいも着ず、切腹したり、「ござる」とか言ってはおられなかったけれど、どの選手もやはりどこかサムライ的で美しい強さを持って戦っておりました。
陛下のおっしゃるように、伝統の問題は、引き継ぐと共に次世代に委ねていくものでしょう。私どもの時代の次、またその次の人たちが、それぞれの立場から、皇室の伝統にとどまらず、伝統と社会との問題に対し、思いを深めていってくれるよう願っています。
――両陛下にお尋ねします。お二人が知り合われてからこれまでに様々なお言葉のやり取りがあったと思います。いろいろなエピソードが伝わっていますが、陛下はどのような言葉でプロポーズをされ、皇后さまは陛下にどのような言葉を伝えてご結婚を決意されましたか。銀婚式を前にした会見では、陛下は皇后さまに「努力賞」を、皇后さまは陛下に「感謝状」をそれぞれ差し上げられたいと述べられましたが、あらためて今、お互いに言葉を贈られるとすれば、どのような言葉になりますか。ご夫婦としてうれしく思われたこと、苦労されたこと、悲しまれたこと、印象に残った出来事、結婚されてよかったと思われた瞬間のこと、夫婦円満のために心掛けられたことなど、お伺いしたいことは多々ありますが、お二人の50年間の歩みの中で、お心に残ったことについて、とっておきのエピソードを交えながらお聞かせください。
天皇陛下 私のプロポーズの言葉は何かということですが、当時、何回も電話で話し合いをし、ようやく承諾をしてくれたことを覚えています。プロポーズの言葉として一言で言えるようなものではなかったと思います。
何回も電話で話し合いをし、私が皇太子としての務めを果たしていくうえで、その務めを理解し、支えてくれる人がどうしても必要であることを話しました。承諾してくれた時は本当にうれしかったことを思い出します。
結婚50年にあたって贈るとすれば「感謝状」です。皇后はこのたびも「努力賞がいい」としきりに言うのですが、これは今日まで続けてきた努力を嘉(よみ)しての感謝状です。本当に50年間よく努力を続けてくれました。その間には、たくさんの悲しいことやつらいことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います。
夫婦としてうれしく思ったことについての質問ですが、やはり第一に二人が健康に結婚50年を迎えたことだと思います。二人のそれぞれのあり方についての話し合いも含め、何でも二人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、おもしろく楽しい面を持っており、私どもの生活にいつも笑いがあったことを思い出します。また皇后が木や花が好きなことから、早朝に一緒に皇居の中を散歩するのも楽しいものです。私は木は好きでしたが、結婚後、花に関心を持つようになりました。
語らひを重ねゆきつつ気がつきぬ われのこころに開きたる窓
婚約内定後に詠んだ歌ですが、結婚によって、開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。
終わりに、私ども二人を50年間にわたって支えてくれた人々に深く感謝の意を表します。
皇后さま たくさんの質問があって全部はお答えできないかもしれません。とりわけ婚約の頃のことは、50年を超す昔むかしのお話で、プロポーズがどのようなお言葉であったか、正確に思い出すことができません。また銀婚式を前にしてお尋ねのあった同じ質問に対してですが、このたびも私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心をこめて感謝状をお贈り申し上げます。
次の、夫婦としてうれしく思ったこと。このような答えでよろしいのか、嫁いで1、2年の頃、散策にお誘いいただきました。赤坂のお庭はクモの巣が多く、陛下は道々、クモの巣を払うための、確か寒竹だったか、葉のついた細い竹を2本切っておいでになると、その2本を並べてお比べになり、一方の丈を少し短く切って、渡してくださいました。ご自分のよりも軽く、少しでも持ちやすいようにと思ってくださったのでしょう。今でもその時のことを思い出すと胸が温かくなります。
昭和天皇の崩御後、陛下はご多忙な日々の中、皇太后さまをお気遣いになり、様々に配慮なさるとともに、昭和天皇が未完のままお残しになったそれまでのご研究の続きをどのような形で完成し、出版できるか、また昭和天皇の残された、たくさんの生物の標本をどうすれば散り散りに分散させず、大切にお預かりする施設に譲渡できるかなど、こまやかにお心配りをなさいました。こうしたご配慮のもと、平成元年の末には「皇居の植物」が、平成7年には「相模湾産ヒドロ虫類」の続刊が刊行され、また平成5年には昭和天皇ご使用の顕微鏡やたくさんの標本類が国立科学博物館に、平成7年には鳥類の標本が山階鳥類研究所に、それぞれ無事におさめられました。印象に残った出来事はという質問を受け、この時の記憶がよみがえりました。
結婚してよかったと思った瞬間はという難しいお尋ねですが、もうエピソードはこれで終わりにさせていただいて、本当に小さな思い出を一つお話しいたします。
春、コブシの花が取りたくて、木の下でどの枝にしようかと迷っておりました時に、陛下が一枝(いっし)を目の高さまで下ろしてくださって、そこにほしいと思っていた通りの美しい花がついておりました。うれしくて、後に歌にも詠みました。歌集の昭和48年の所に入っていますが、でも、このようにお話をしてしまいましたが、それまで一度も結婚してよかったと思わなかったということではありません。(一同笑い)
この50年間、陛下はいつも皇太子、また天皇としてのお立場を自覚なさりつつ、私ども家族に深い愛情を注いでくださいました。陛下は、誠実で謙虚な方でいらっしゃり、また常に寛容でいらしたことが、私がおそばで50年を過ごしてこられた何よりの支えであったと思います。
《関連質問》ご結婚50年おめでとうございます。両陛下は4月10日、今年結婚50年を迎えられるご夫婦をお招きになって茶会を開かれます。これは両陛下のご発案と聞いておりますけれども、どのようなお気持ちでこの茶会を開かれたいと思われたのか、そこら辺のことをお聞かせいただけないでしょうか。
天皇陛下 もちろん、この100組の結婚50年を迎える人々を呼ぶということには、二人の意思とともに宮内庁長官をはじめ、関係者のいろいろな尽力があったと思います。ちょうど私どもが結婚してからの50年は、先ほどもお話ししましたように、様々な出来事の多い時だったと思います。結婚した頃は必ずしも豊かではありませんでしたが、みな希望に満ちて未来に向かって進んでいったのではないかと思います。そして、その前の時代に戦争があり、その戦争の厳しい環境の中で、青少年時代を送ったことだと思います。このように、この結婚50年の人々は、様々な、そして共通した経験をして今日に至っていると思います。このたび、結婚50年に当たって、結婚50年を迎えられる人々をお招きしてこの茶会を催し、それぞれの皆さんがたどってきた道を話し合うということは、私どもにとっても意義深いことだと思いますし、またお互いに話し合って楽しいひとときになるのではないかと期待しています。
皇后さま いま陛下がすべてお話し下さいました。私も当日を楽しみにしております。
・・・・・・・・・
私ども国民も幸せな平成の時代を、本当に素晴らしい天皇陛下、皇后陛下と過ごすことができて感謝の念で一杯です。
尊い犠牲を払われた父祖の世代がありました。
そして文化的に非常に強い改変の力が働いた時期がありました。
豊かな自然が病み、多くの動植物が傷ついた時代がありました。
それでもこの小さな地球の上で、我々日本の国民が安らかにある事ができた大きな理由の一つには、やはり皇室の存在が、両陛下の保たれた文化の力があることは否めません。
これからも、誇り高い日本文化の象徴として、長くその御位を安らかに保たれますよう、心よりお祈り申し上げます。
まぁ、巷では不況のなんのと大騒ぎですが、冷静に考えればこの上なく贅沢な騒ぎであることは明らかです。
http://www.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg
↑は伝説のスピーチと言われるものです。
実は明るい未来に満ちている日本であることを良く考えるべきでしょう。
そして地球のためにも、地球文明のためにも、誇りある文化の国であり続けることが日本の使命であることを深く認識すべきだと思います。
富士の山
艶やかな花々
清らかな流れ
命豊かな森と海
清々しい大気
そして気品ある文化
他に何を望むのでしょうか?
http://www.youtube.com/watch?v=6-qAlS3IvIM&feature=related
スピーチに興味を持った方は、こちら↑もご覧になって下さい。
2009年4月10日 ASAHI.COM
天皇、皇后両陛下は8日、結婚50年の10日を前に記者会見に臨み、半世紀を振り返った。両陛下は時折顔を見合わせ、うなずき合い、ほほえみながら、思いを語った。陛下は途中、感無量となり、声を詰まらせる場面もあった。会見のやり取りは次の通り。
――両陛下にお尋ねします。ご成婚の日から50年の月日が流れ、高度成長期からバブル崩壊、いくつもの自然災害や景気悪化など、世相、人の価値観も大きく変わる中、両陛下も皇室に新しい風を吹き込まれてきました。皇太子同妃両殿下として、天皇皇后両陛下として夫婦二人三脚で歩んできたこの50年を振り返り、お二人で築きあげてきた時代にふさわしい新たな皇室のありよう、一方で守ってこられた皇室の伝統についてお聞かせいただくとともに、それを次世代にどう引き継いでいかれるのかもお聞かせください。
天皇陛下 私どもの結婚50年を迎える日も近づき、多くの人々からお祝いの気持ちを示されていることを、誠にうれしく、深く感謝しています。ただ、国民生活に大きく影響を与えている厳しい経済情勢の最中のことであり、祝っていただくことを心苦しくも感じています。
顧みますと、私どもの結婚した頃は、日本が多大な戦禍を受け、310万人の命が失われた先の戦争から、日本国憲法のもと、自由と平和を大切にする国として立ち上がり、国際連合に加盟し、産業を発展させて、国民生活が向上し始めた時期でありました。その後の日本はさらなる産業の発展に伴って豊かになりましたが、一方、公害が深刻化し、人々の健康に重大な影響を与えるようになりました。また都市化や、海、川の汚染により、古くから人々に親しまれてきた自然は人々の生活から離れた存在となりました。
結婚後に起こったことで、日本にとって極めて重要な出来事としては、昭和43年の小笠原村の復帰と昭和47年の沖縄県の復帰が挙げられます。両地域とも、先の厳しい戦争で日米双方で多数の人々が亡くなり、特に沖縄県では多数の島民が戦争に巻き込まれて亡くなりました。返す返すも残念なことでした。一方、国外では、平成になってからですが、ソビエト連邦が崩壊し、より透明な平和な世界ができるとの期待が持たれましたが、その後紛争が世界の各地に起こり、現在もなお多くの犠牲者が生じています。今日、日本では人々の努力によって、都市などの環境は著しく改善し、また自然環境もコウノトリやトキを放鳥することができるほど改善されてきましたが、各地で高齢化が進み、厳しい状況になっています。ますます人々が協力し合って、社会を支えていくことが重要になってきています。私どもはこのように変化してきた日本の姿と共に過ごしてきました。様々なことが起こった50年であったことを改めて感じます。
皇后は結婚以来、常に私の立場と務めを重んじ、また私生活においては昭和天皇をはじめ私の家族を大切にしつつ、私に寄り添ってきてくれたことをうれしく思っています。
不幸にも若くして未亡人となった私の姉の鷹司(たかつかさ)(和子)神宮祭主のことはいつも心にかけ、那須、軽井沢、浜名湖でよく夏を一緒に過ごしました。姉は自分の気持ちを外に表さない性格でしたが、ある時、昭和天皇から、私どもと大変楽しく過ごしたと聞いたがどのように過ごしたのか、というお話があったことがありました。皇后は、きょうだいの中で姉だけを持たず、私との結婚で姉ができたことがうれしく、誘ってくれていたようなのですが、この時の昭和天皇が大変喜ばれた様子が今でも思い出されます。
私ども二人は育った環境も違い、特に私は家庭生活をしてこなかったので、皇后の立場を十分に思いやることができず、加えて、大勢の職員と共にする生活には戸惑うことも多かったと思います。しかし、何事も静かに受け入れ、私が皇太子として、また天皇として務めを果たしていくうえに、大きな支えとなってくれました。
時代にふさわしい新たな皇室のありようについての質問ですが、私は即位以来、昭和天皇をはじめ過去の天皇の歩んできた道にたびたびに思いを致し、また日本国憲法にある、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるという規定に心を致しつつ、国民の期待に応えられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということは、いつも私の念頭を離れず、その望ましいあり方を求めて今日に至っています。なお大日本帝国憲法下の天皇のあり方と、日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば、日本国憲法下の天皇のあり方の方が、天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと思います。
守ってきた皇室の伝統についての質問ですが、私は昭和天皇から伝わってきたものはほとんど受け継ぎ、これを守ってきました。この中には新嘗(にいなめ)祭のように古くから伝えられてきた伝統的祭祀(さいし)もありますが、田植えのように昭和天皇から始められた行事もあります。新嘗祭のように古い伝統のあるものはそのままの形を残していくことが大切と考えますが、田植えのように新しく始められた行事は、形よりはそれを行う意義を重視していくことが望ましいと考えます。従って現在、私は田植え、稲刈りに加え、前年に収穫した種もみをまくことから始めています。学士院賞や芸術院賞受賞者などを招いての茶会なども、皇后と共に関係者と話し合い、招かれた全員と話ができるように形式を変えました。短時間ではありますが、受賞者、新会員、皆と話をする機会が持て、私どもにとっても楽しいものになりました。
皇室の伝統をどう引き継いでいくかという質問ですが、先ほど、天皇のあり方として、その望ましいあり方を常に求めていくという話をしましたが、次世代にとってもその心持ちを持つことが大切であり、個々の行事をどうするかということは、次世代の考えに譲りたいと考えます。
皇后さま 50年前、普通の家庭から皇室という新しい環境に入りました時、不安と心細さで心がいっぱいでございました。今日こうして陛下のおそばで金婚の日を迎えられることを本当に夢のように思います。
結婚以来今日まで、陛下はいつもご自分の立場を深く自覚なさり、東宮でいらした頃には、将来の象徴として、後に天皇におなりになってからは、日本国そして国民統合の象徴として、ご自分のあるべき姿を求めて歩んでこられました。こうしたご努力の中で、陛下は、国や人々に寄せる気持ちを時と共に深められ、国の出来事や、人々の喜び、悲しみに、お心を添わせていらしたように思います。
50年の道のりは、長く、時に険しくございましたが、陛下が日々真摯(しんし)に取るべき道を求め、指し示してくださいましたので、今日までご一緒に歩いてくることができました。陛下のお時代を共に生きることができたことを、心からうれしく思うとともに、これまで、私の成長を助け、見守り、励ましてくださった、大勢の方たちに感謝を申し上げます。
質問の中にある、皇室と伝統、そして次世代への引き継ぎということですが、陛下はご即位にあたり、これまでの皇室の伝統的行事および祭祀とも、昭和天皇の御代(みよ)のものをほぼ全部お引き継ぎになりました。また皇室が、過去の伝統とともに現代を生きることの大切さを深く思われ、日本各地に住む人々の生活に心を寄せ、人々と共に、今という時代に丁寧にかかわりつつ、一つの時代を築いてこられたように思います。
伝統と共に生きるということは、時に大変なことでもありますが、伝統があるために、国や社会や家がどれだけ力強く、豊かになれているかということに気づかされることがあります。一方で、型のみで残った伝統が社会の進展を阻んだり、伝統という名の下で古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません。
また伝統には表に現れる型と、内に秘められた心の部分とがあり、その二つが共に継承されていることも、片方だけで伝わってきていることもあると思います。
WBCで活躍した日本の選手たちは、よろいも着ず、切腹したり、「ござる」とか言ってはおられなかったけれど、どの選手もやはりどこかサムライ的で美しい強さを持って戦っておりました。
陛下のおっしゃるように、伝統の問題は、引き継ぐと共に次世代に委ねていくものでしょう。私どもの時代の次、またその次の人たちが、それぞれの立場から、皇室の伝統にとどまらず、伝統と社会との問題に対し、思いを深めていってくれるよう願っています。
――両陛下にお尋ねします。お二人が知り合われてからこれまでに様々なお言葉のやり取りがあったと思います。いろいろなエピソードが伝わっていますが、陛下はどのような言葉でプロポーズをされ、皇后さまは陛下にどのような言葉を伝えてご結婚を決意されましたか。銀婚式を前にした会見では、陛下は皇后さまに「努力賞」を、皇后さまは陛下に「感謝状」をそれぞれ差し上げられたいと述べられましたが、あらためて今、お互いに言葉を贈られるとすれば、どのような言葉になりますか。ご夫婦としてうれしく思われたこと、苦労されたこと、悲しまれたこと、印象に残った出来事、結婚されてよかったと思われた瞬間のこと、夫婦円満のために心掛けられたことなど、お伺いしたいことは多々ありますが、お二人の50年間の歩みの中で、お心に残ったことについて、とっておきのエピソードを交えながらお聞かせください。
天皇陛下 私のプロポーズの言葉は何かということですが、当時、何回も電話で話し合いをし、ようやく承諾をしてくれたことを覚えています。プロポーズの言葉として一言で言えるようなものではなかったと思います。
何回も電話で話し合いをし、私が皇太子としての務めを果たしていくうえで、その務めを理解し、支えてくれる人がどうしても必要であることを話しました。承諾してくれた時は本当にうれしかったことを思い出します。
結婚50年にあたって贈るとすれば「感謝状」です。皇后はこのたびも「努力賞がいい」としきりに言うのですが、これは今日まで続けてきた努力を嘉(よみ)しての感謝状です。本当に50年間よく努力を続けてくれました。その間には、たくさんの悲しいことやつらいことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います。
夫婦としてうれしく思ったことについての質問ですが、やはり第一に二人が健康に結婚50年を迎えたことだと思います。二人のそれぞれのあり方についての話し合いも含め、何でも二人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、おもしろく楽しい面を持っており、私どもの生活にいつも笑いがあったことを思い出します。また皇后が木や花が好きなことから、早朝に一緒に皇居の中を散歩するのも楽しいものです。私は木は好きでしたが、結婚後、花に関心を持つようになりました。
語らひを重ねゆきつつ気がつきぬ われのこころに開きたる窓
婚約内定後に詠んだ歌ですが、結婚によって、開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。
終わりに、私ども二人を50年間にわたって支えてくれた人々に深く感謝の意を表します。
皇后さま たくさんの質問があって全部はお答えできないかもしれません。とりわけ婚約の頃のことは、50年を超す昔むかしのお話で、プロポーズがどのようなお言葉であったか、正確に思い出すことができません。また銀婚式を前にしてお尋ねのあった同じ質問に対してですが、このたびも私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心をこめて感謝状をお贈り申し上げます。
次の、夫婦としてうれしく思ったこと。このような答えでよろしいのか、嫁いで1、2年の頃、散策にお誘いいただきました。赤坂のお庭はクモの巣が多く、陛下は道々、クモの巣を払うための、確か寒竹だったか、葉のついた細い竹を2本切っておいでになると、その2本を並べてお比べになり、一方の丈を少し短く切って、渡してくださいました。ご自分のよりも軽く、少しでも持ちやすいようにと思ってくださったのでしょう。今でもその時のことを思い出すと胸が温かくなります。
昭和天皇の崩御後、陛下はご多忙な日々の中、皇太后さまをお気遣いになり、様々に配慮なさるとともに、昭和天皇が未完のままお残しになったそれまでのご研究の続きをどのような形で完成し、出版できるか、また昭和天皇の残された、たくさんの生物の標本をどうすれば散り散りに分散させず、大切にお預かりする施設に譲渡できるかなど、こまやかにお心配りをなさいました。こうしたご配慮のもと、平成元年の末には「皇居の植物」が、平成7年には「相模湾産ヒドロ虫類」の続刊が刊行され、また平成5年には昭和天皇ご使用の顕微鏡やたくさんの標本類が国立科学博物館に、平成7年には鳥類の標本が山階鳥類研究所に、それぞれ無事におさめられました。印象に残った出来事はという質問を受け、この時の記憶がよみがえりました。
結婚してよかったと思った瞬間はという難しいお尋ねですが、もうエピソードはこれで終わりにさせていただいて、本当に小さな思い出を一つお話しいたします。
春、コブシの花が取りたくて、木の下でどの枝にしようかと迷っておりました時に、陛下が一枝(いっし)を目の高さまで下ろしてくださって、そこにほしいと思っていた通りの美しい花がついておりました。うれしくて、後に歌にも詠みました。歌集の昭和48年の所に入っていますが、でも、このようにお話をしてしまいましたが、それまで一度も結婚してよかったと思わなかったということではありません。(一同笑い)
この50年間、陛下はいつも皇太子、また天皇としてのお立場を自覚なさりつつ、私ども家族に深い愛情を注いでくださいました。陛下は、誠実で謙虚な方でいらっしゃり、また常に寛容でいらしたことが、私がおそばで50年を過ごしてこられた何よりの支えであったと思います。
《関連質問》ご結婚50年おめでとうございます。両陛下は4月10日、今年結婚50年を迎えられるご夫婦をお招きになって茶会を開かれます。これは両陛下のご発案と聞いておりますけれども、どのようなお気持ちでこの茶会を開かれたいと思われたのか、そこら辺のことをお聞かせいただけないでしょうか。
天皇陛下 もちろん、この100組の結婚50年を迎える人々を呼ぶということには、二人の意思とともに宮内庁長官をはじめ、関係者のいろいろな尽力があったと思います。ちょうど私どもが結婚してからの50年は、先ほどもお話ししましたように、様々な出来事の多い時だったと思います。結婚した頃は必ずしも豊かではありませんでしたが、みな希望に満ちて未来に向かって進んでいったのではないかと思います。そして、その前の時代に戦争があり、その戦争の厳しい環境の中で、青少年時代を送ったことだと思います。このように、この結婚50年の人々は、様々な、そして共通した経験をして今日に至っていると思います。このたび、結婚50年に当たって、結婚50年を迎えられる人々をお招きしてこの茶会を催し、それぞれの皆さんがたどってきた道を話し合うということは、私どもにとっても意義深いことだと思いますし、またお互いに話し合って楽しいひとときになるのではないかと期待しています。
皇后さま いま陛下がすべてお話し下さいました。私も当日を楽しみにしております。
・・・・・・・・・
私ども国民も幸せな平成の時代を、本当に素晴らしい天皇陛下、皇后陛下と過ごすことができて感謝の念で一杯です。
尊い犠牲を払われた父祖の世代がありました。
そして文化的に非常に強い改変の力が働いた時期がありました。
豊かな自然が病み、多くの動植物が傷ついた時代がありました。
それでもこの小さな地球の上で、我々日本の国民が安らかにある事ができた大きな理由の一つには、やはり皇室の存在が、両陛下の保たれた文化の力があることは否めません。
これからも、誇り高い日本文化の象徴として、長くその御位を安らかに保たれますよう、心よりお祈り申し上げます。
まぁ、巷では不況のなんのと大騒ぎですが、冷静に考えればこの上なく贅沢な騒ぎであることは明らかです。
http://www.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg
↑は伝説のスピーチと言われるものです。
実は明るい未来に満ちている日本であることを良く考えるべきでしょう。
そして地球のためにも、地球文明のためにも、誇りある文化の国であり続けることが日本の使命であることを深く認識すべきだと思います。
富士の山
艶やかな花々
清らかな流れ
命豊かな森と海
清々しい大気
そして気品ある文化
他に何を望むのでしょうか?
http://www.youtube.com/watch?v=6-qAlS3IvIM&feature=related
スピーチに興味を持った方は、こちら↑もご覧になって下さい。