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美の渉猟

感性を刺激するもの・ことを、気ままに綴っていきます。
お能・絵画・庭・建築・仏像・ファッション などなど。

お神輿と三島由紀夫

2018-07-15 19:04:14 | 三島由紀夫
 夏祭りの季節だ。町には神社の祭礼を知らせる幟(のぼり)がはためき、夜はどこからか太鼓の音が聞こえてくる。太鼓の音は遠雷に似ている。つい数日前、夜の町にドーンという響きが聞こえてきて、「あ、雷か」と思ったら、夏祭りの太鼓の稽古の音だった。雷は「神鳴り」で、神、つまり「人間にとって訳の分からないもの」が鳴っているという意味だと、大学で習った覚えがある。そうならば祭りの太鼓の響きは神の到来を告げるもの、あるいは神を呼び寄せるものだろうか。お能でも太鼓が打たれるときは、人間ではない存在(神や鬼、恋に狂って正気を失い超人的な力を得た女性など)が舞台の上にいて、延々と舞を舞っている。

 太鼓の音を聞いて、三島由紀夫がお神輿を生き生きとした表情で担いでいる写真を思い出した。ボディビルで肉体改造を成し遂げたあとの三島だ。24歳の時に発表された自伝的小説『仮面の告白』第一章の末尾に、幼年時代の最後の思い出として、家の庭に夏祭りの一団がなだれこんでくる情景の描写がある。


 植込が小気味良く踏み躙られた。本当のお祭だった。私に飽かれつくしていた前庭が、別世界に変わったのであった。神輿は隈なくそこを練り廻され、灌木はめりめりと裂けて踏まれた。(中略)色もそのように、金や朱や紫や緑や黄や紺や白が躍動して湧き立ち、あるときは金が、あるときは朱が、そこ全体を支配している一ト色のように思われた。
 が、唯一つ鮮やかなものが、私を目覚かせ(おどろかせ)、切なくさせ、私の心を故しらぬ苦しみを以て充たした。それは神輿の担ぎ手たちの、世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情だった。・・・・・
(新潮文庫『仮面の告白』より引用)


 三島は虚弱体質の子供だった。祖母の部屋で育った三島の遊び相手は祖母が選んだ女の子ばかりだったという。神輿を担ぐという熱狂の中に入る資格は体力的になく、まして熱狂をつくり出す者ではなく、熱狂を遠くから眺めることしかできない子供だった。「私の心を充たした」「故しらぬ苦しみ」は、自分は一生こうした熱狂の中には入れない人間だという絶望ではなかったか。熱狂の中でしか手に入らない「世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情」を自分の顔に浮かべることは、到底叶わないことなのだと。
 しかし、小説家となった三島は20代後半の海外旅行で、特にギリシャへの旅で、太陽と肉体に目覚めた。ボディビルで肉体を鍛え、筋肉を手に入れた。以後、日本に出回り始めたグラビア誌に頻繁に登場し、映画に主演し写真集のモデルになり、マスコミの寵児となっていった。
 お神輿を担ぐ写真のキャプションには「昭和31年8月19日、(中略)生まれてはじめて神輿をかつぐ三島」とある。昭和の年と三島の年齢は同じなので、31歳にしてお神輿をはじめて担いだのである。お神輿を担ぐ三島は半裸である。あるグラビア誌の編集長は「黙っていると三島さんはすぐ裸になりたがる」と言っていたそうだ。熱狂を眺めるだけだったひ弱な子供が、人の目にさらすに足る肉体を手に入れて(それは結局、実体ではなかったけれど)、熱狂の主役となった。おそらく自覚的に、三島は「眺める者」から「行動する者」になった。しかし生来の「行動する者」は、自覚的にではなく、自然に伸びやかに行動するものだと思う。三島の行動にはいつも、ある種の痛々しさが伴っていたという。それはこの、自覚的な行動者という不自然さに由来するものではなかっただろうか。

 「行動する者」の総仕上げが、自衛隊市ヶ谷駐屯地への乱入と割腹自決だったのかもしれない。三島の母、平岡倭文重(しずえ)は三島の死後、弔問客に「公威(きみたけ。三島の本名は平岡公威)がいつもしたかったことをしましたのは、これがはじめてなんでございますよ。喜んであげて下さいませな」と語ったという。私はこの言葉の意味が長い間、わからなかった。おそらく母の倭文重は、わが子の「故しらぬ苦しみ」を知っていたのだ。熱狂を眺めることしかできなかったわが子が、「行動する者」として生を終えた、しかも空前絶後の、誰もなし得ない形で。母はそれをほめてあげますよ、と。
 夏祭りが近づく中、三島の真実に一歩近づけたような気がした。

NHK Eテレの三島特集をみて

2015-01-25 21:05:26 | 三島由紀夫
 1月24日(土)、NHK Eテレの「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち7 三島由紀夫 死の謎」を見た。改めて思ったことは、三島は、あの激烈な死によって伝説になったということだ。人々がいつまでも忘れることができず、折にふれて語りつがれていくもの。それが伝説だ。日本という国を考えるとき、三島が晩年に残した言動と最期の行動から誰しも逃れることはできないだろう。

 もう一つ、番組を見ているうちにフランシス・ベーコンの絵が脳裏に浮かんできた。幼いころ虚弱体質だった三島がボディビルで体を鍛えて自分を改造し始めた、というあたりからだ。誰よりも美的感覚に優れているのに、自分は観賞に耐える(あるいは他者の愛を得るに足る)肉体を持たず、本来の自分を改造して違う存在になろうとする、その痛々しさ。三島が自慢げに写真や映画に残しているその鍛えられた肉体が、ベーコンの絵にたびたび登場する、「生きていくことの困難さ」を具現化した裸の男(このブログのベーコン展の記事をご参照ください)と重なって見えた。ベーコンの絵の裸の男は、剥き出しの肉体をそのまま投げ出しているが、三島は筋肉にあるいは「楯の会」の制服に、自分の貧しい肉体を包み込む。筋肉あるいは制服の下に隠されているのは、高橋睦郎氏の言うように、虚無だ。『豊饒の海』最終巻『天人五衰』の巻末、「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」の文言が思い浮かぶ。戦後日本が獲得した経済的繁栄とその下に隠された虚無。自分自身がそれを体現していることを三島は誰よりも知っていたのだろうと思った。

2015年は三島由紀夫没後45年

2014-05-25 21:50:08 | 三島由紀夫
 今年ももうすぐ6月だ。何だか忙しくてブログの記事も本の原稿も書けていない(ただの怠慢か)。九州国立博物館まで観にいった「平家納経」の感想も、タイトルと大筋は決めているのに原稿が書けない(タイトルは「平家納経・運命の予告」)。昨日は久しぶりにお能を観にいったが(大槻文蔵氏の「実盛」)、一週間の疲れが出たのか途中で寝てしまった。大槻文蔵氏はいつも通り、静かな気迫でもって熱演されていたのに。誰か私にカツを入れてほしい。
 さて、アクセス解析によると、このブログの一番人気は「近代能楽集『綾の鼓』-成就しない恋」である。ほぼ毎日、この記事を複数の人が読んでいる。この記事のどういうところがよいのか(三島に興味があるのかお能に興味があるのか等)、読者の方、良かったら教えてください。

 先々週まで日経新聞日曜版の「美の美」では「三島由紀夫のローマ 上・中・下」が連載されていた。そこでは触れられていなかったが、来年2015年は三島由紀夫没後45年という節目の年だ。今回はどんな三島本が出版されるだろうか。西洋の美も東洋の美も、三島の言葉の力によって万華鏡のようにきらめきだす。それもビーズでつくった万華鏡ではない、ダイヤモンドでつくった豪奢な万華鏡だ。その魅惑の世界を、存分に堪能できるものであってほしい。
 なお、この「三島由紀夫のローマ」では、普通なら「貴族」と書いてすませるところをわざわざ「貴顕」と表現している。三島の短編『貴顕』を読んだ人でなければ、この表現は出てこないだろう。執筆者の干場達矢氏は、かなりの三島ファンではないかとお見受けする。

市ヶ谷にて-三島はなぜ市ヶ谷を選んだのか?

2013-09-16 22:56:35 | 三島由紀夫
 9月12日・13日と、仕事で東京の市ヶ谷に行った。三島ファンにとって市ヶ谷といえば何といっても陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(1970年当時。現在は防衛省本省)、三島由紀夫が自ら主宰する「楯の会」メンバーとともに総監室に乱入して総監を捕縛、バルコニーで自衛隊員に「決起」を促す演説をぶち、容れられないとみると切腹して果てた、その自決の地である。

 出張に備えてGoogleマップで市ヶ谷周辺の地図を見ていたら、すぐそばに靖国通りがあった。何だかハッとして地図を拡大してみると、靖国通りの先には程なく靖国神社、その目と鼻の先には、皇居があった。その位置関係をみて、なぜ三島が決起の場として市ヶ谷駐屯地を選んだのかがわかったような気がした。当時の防衛庁本庁は、今は東京ミッドタウンとなった赤坂の檜町駐屯地。なぜ防衛庁本庁ではなく市ヶ谷駐屯地が選ばれたのか?私が持っている三島本にその点に着目したものはない。別に取るに足らないことなのか?檜町より市ヶ谷のほうに、より多くの自衛隊員が駐屯していたからか?単純に、演説をぶつことができる(つまり「絵」になる)バルコニーがあったからか? 三島はバルコニーでの演説の最後に「天皇陛下万歳」を三唱したそうだ。バルコニーは、皇居のある東側を向いていたのだろうか。

 やはり「現場」に行くと、それまで考えてもみなかったことに気づくものだと改めて感じた、今回の出張であった(仕事のこと考えろ!と言われそうだが…)。

近代能楽集『綾の鼓』-成就しない恋

2013-08-18 21:58:58 | 三島由紀夫
 日経新聞「私の履歴書」では、狂言師 野村萬氏が連載中だ。何日か前、野村萬氏が三島由紀夫『近代能楽集』中の『綾の鼓』を演じた話が掲載されていた。三島の『近代能楽集』は、よく知られたお能を取り上げて、舞台を現代に置き換えた戯曲集だ。「綾の鼓」とは、鼓の皮の部分に綾(糸)を張った鼓、つまり、いくら打っても鳴らない鼓のことだ。
 『綾の鼓』の筋はこうである。銀座の法律事務所で小使いとして働く老人が、向かいのビルにある洋裁店の顧客である美しい婦人・華子の姿を見て、恋をする。思いのたけを恋文に綴っていたが、同じ事務所で働く女の子が気を利かせて恋文を洋裁店へ届けてくれている。だがその手紙は華子には届けられず、洋裁店の女主人が処分していた。30通目(届けずに破いた恋文70通と合わせると100通目)の恋文が届けられた日、洋裁店には華子の取り巻き3人が来ていて、華子の到着を待っていた(野村萬氏が演じたのはこの取り巻きの一人)。そこへ恋文が届いたので、洋裁店の女主人が取り巻き連中に老人の恋の話をしてしまう。やがて華子が現れ、取り巻きの一人が老人の恋の話をし、恋文を華子に渡す。華子が恋文の封を切ると、取り巻きの一人が声に出して読み出す。「・・・ひねもすさいなむこの恋の鞭の傷あとをいやすには、ただ一度の接吻を・・・」を読んで、取り巻き連中は爆笑する。そして、「このじいさんは自分一人苦しんでいると思ってる。その己惚れが憎たらしい」云々と言い出して、老人を懲らしめてやろうということになる。
 取り巻きの中に日本舞踊の師匠がいて、たまたま舞台道具の、綾を張った鼓を持っていた。師匠の思いつきで、鼓に「この鼓が鳴れば思いを叶えてあげましょう」と付け文をして、洋裁店の窓から向かいの法律事務所の窓へ、鼓を放り込む。受け取った老人は、ようやく思いが叶えられると嬉々として鼓を打つが、当然鳴らない。「狂気のごとく打つ」が、鳴らない。老人はからかわれたことを知る。それを見て取り巻き連中は嘲笑し、窓を閉めてしまう。ほどなく老人は窓から身を投げる。談笑している取り巻き連中や華子のもとへ、老人の死が知らされる。ここで前段が終わる。
 真夜中の洋裁店に、華子がやってくる。向かいの窓には老人の亡霊がいる。華子は亡霊に、自分の本当の姿(良家の出ではなく、太ももに刺青があるような大変なあばずれであったこと)を明かす。亡霊は「わしに愛想尽かしをさせようとしている。」と憤る。「あんたは真心のない男たちに毒されたんだ。」と責める老人の亡霊に対して、華子は「嘘です、真心のない男たちが、あたくしを鍛えてくれたんです。」と言い放つ。そして「鼓が鳴らなかったのは、鼓のせいじゃありません。」と言う。
 老人の亡霊は、「わしはあなたを慕っている。わしの恋が鼓を鳴らしてみせる。」と、ふたたび綾の鼓を打つ。亡霊の耳には鼓の音が高らかに聞こえる。しかし華子は「きこえません。」という。亡霊は何度も鼓を打つが、華子は「きこえません、きこえません。」と繰り返す。「ああ、早く鳴らして頂戴。あたくしは待ちこがれているんです。」亡霊は、はたと気づく。「・・・ひょっとすると、鼓がきこえるのは、わしの耳だけなのかしらん。」
 鼓を打ち続ける老人の亡霊を前に、華子は言う。
 「(絶望して。旁白)ああ、この人も、この世の男とおんなじだ。」
 続いて、老人の亡霊が言う。
 「(絶望して。旁白)誰が証拠立てる。あの人の耳にきこえていると。」
 亡霊が鼓を打つ手は、次第に弱くなっていく。華子は「諦めないで!はやくあたくしの耳に届くように!諦めないで!」と亡霊を叱咤するが、亡霊は99回打ったところで、「さようなら、百打ちおわった、・・・さようなら。」と消えていく。戯曲は華子の台詞「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさえすれば。」で終わる。

 ずいぶん前(たぶん学生時代)にこの戯曲を読んだが、当時は筋や台詞のおもしろさに魅了されていただけだった。いま読み返してみると、華子の「ああ、この人も、この世の男とおんなじだ。」という旁白に、胸が締め付けられた。華子のその他の台詞、「鼓が鳴らなかったのは、鼓のせいじゃありません。」、「はやくあたくしの耳に届くように!」、そして幕切れの「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさえすれば。」も、当時は字面を読んでいただけで、何もわかっていなかった。いまは息苦しいほど、身にこたえてくる。男は、心惹かれる女に出会い、さまざまに想像をめぐらせ、恋心を募らせる。求められた女は、求められることで男への愛にめざめ、一度は男の求めに応じるが、そのとき、男が幻想に恋していること(あるいは女の内面などには全く興味がないこと)に気づいてしまう。女は失望感を味わい、それを消すことができない。一方、男には、女の失望感はわからない。お互いを思う気持ちはあるのに、それは一瞬交差するだけで、成就はしない。綾の鼓-鳴らない鼓は、成就しない恋の象徴なのだ。
 年を重ねて経験を積むということは、かつて読んだり見たりした芸術作品の、違った相貌が見えてくるということだ。その意味では、年を重ねることは悪くはないなと思う。