夏祭りの季節だ。町には神社の祭礼を知らせる幟(のぼり)がはためき、夜はどこからか太鼓の音が聞こえてくる。太鼓の音は遠雷に似ている。つい数日前、夜の町にドーンという響きが聞こえてきて、「あ、雷か」と思ったら、夏祭りの太鼓の稽古の音だった。雷は「神鳴り」で、神、つまり「人間にとって訳の分からないもの」が鳴っているという意味だと、大学で習った覚えがある。そうならば祭りの太鼓の響きは神の到来を告げるもの、あるいは神を呼び寄せるものだろうか。お能でも太鼓が打たれるときは、人間ではない存在(神や鬼、恋に狂って正気を失い超人的な力を得た女性など)が舞台の上にいて、延々と舞を舞っている。
太鼓の音を聞いて、三島由紀夫がお神輿を生き生きとした表情で担いでいる写真を思い出した。ボディビルで肉体改造を成し遂げたあとの三島だ。24歳の時に発表された自伝的小説『仮面の告白』第一章の末尾に、幼年時代の最後の思い出として、家の庭に夏祭りの一団がなだれこんでくる情景の描写がある。
植込が小気味良く踏み躙られた。本当のお祭だった。私に飽かれつくしていた前庭が、別世界に変わったのであった。神輿は隈なくそこを練り廻され、灌木はめりめりと裂けて踏まれた。(中略)色もそのように、金や朱や紫や緑や黄や紺や白が躍動して湧き立ち、あるときは金が、あるときは朱が、そこ全体を支配している一ト色のように思われた。
が、唯一つ鮮やかなものが、私を目覚かせ(おどろかせ)、切なくさせ、私の心を故しらぬ苦しみを以て充たした。それは神輿の担ぎ手たちの、世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情だった。・・・・・
(新潮文庫『仮面の告白』より引用)
三島は虚弱体質の子供だった。祖母の部屋で育った三島の遊び相手は祖母が選んだ女の子ばかりだったという。神輿を担ぐという熱狂の中に入る資格は体力的になく、まして熱狂をつくり出す者ではなく、熱狂を遠くから眺めることしかできない子供だった。「私の心を充たした」「故しらぬ苦しみ」は、自分は一生こうした熱狂の中には入れない人間だという絶望ではなかったか。熱狂の中でしか手に入らない「世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情」を自分の顔に浮かべることは、到底叶わないことなのだと。
しかし、小説家となった三島は20代後半の海外旅行で、特にギリシャへの旅で、太陽と肉体に目覚めた。ボディビルで肉体を鍛え、筋肉を手に入れた。以後、日本に出回り始めたグラビア誌に頻繁に登場し、映画に主演し写真集のモデルになり、マスコミの寵児となっていった。
お神輿を担ぐ写真のキャプションには「昭和31年8月19日、(中略)生まれてはじめて神輿をかつぐ三島」とある。昭和の年と三島の年齢は同じなので、31歳にしてお神輿をはじめて担いだのである。お神輿を担ぐ三島は半裸である。あるグラビア誌の編集長は「黙っていると三島さんはすぐ裸になりたがる」と言っていたそうだ。熱狂を眺めるだけだったひ弱な子供が、人の目にさらすに足る肉体を手に入れて(それは結局、実体ではなかったけれど)、熱狂の主役となった。おそらく自覚的に、三島は「眺める者」から「行動する者」になった。しかし生来の「行動する者」は、自覚的にではなく、自然に伸びやかに行動するものだと思う。三島の行動にはいつも、ある種の痛々しさが伴っていたという。それはこの、自覚的な行動者という不自然さに由来するものではなかっただろうか。
「行動する者」の総仕上げが、自衛隊市ヶ谷駐屯地への乱入と割腹自決だったのかもしれない。三島の母、平岡倭文重(しずえ)は三島の死後、弔問客に「公威(きみたけ。三島の本名は平岡公威)がいつもしたかったことをしましたのは、これがはじめてなんでございますよ。喜んであげて下さいませな」と語ったという。私はこの言葉の意味が長い間、わからなかった。おそらく母の倭文重は、わが子の「故しらぬ苦しみ」を知っていたのだ。熱狂を眺めることしかできなかったわが子が、「行動する者」として生を終えた、しかも空前絶後の、誰もなし得ない形で。母はそれをほめてあげますよ、と。
夏祭りが近づく中、三島の真実に一歩近づけたような気がした。
太鼓の音を聞いて、三島由紀夫がお神輿を生き生きとした表情で担いでいる写真を思い出した。ボディビルで肉体改造を成し遂げたあとの三島だ。24歳の時に発表された自伝的小説『仮面の告白』第一章の末尾に、幼年時代の最後の思い出として、家の庭に夏祭りの一団がなだれこんでくる情景の描写がある。
植込が小気味良く踏み躙られた。本当のお祭だった。私に飽かれつくしていた前庭が、別世界に変わったのであった。神輿は隈なくそこを練り廻され、灌木はめりめりと裂けて踏まれた。(中略)色もそのように、金や朱や紫や緑や黄や紺や白が躍動して湧き立ち、あるときは金が、あるときは朱が、そこ全体を支配している一ト色のように思われた。
が、唯一つ鮮やかなものが、私を目覚かせ(おどろかせ)、切なくさせ、私の心を故しらぬ苦しみを以て充たした。それは神輿の担ぎ手たちの、世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情だった。・・・・・
(新潮文庫『仮面の告白』より引用)
三島は虚弱体質の子供だった。祖母の部屋で育った三島の遊び相手は祖母が選んだ女の子ばかりだったという。神輿を担ぐという熱狂の中に入る資格は体力的になく、まして熱狂をつくり出す者ではなく、熱狂を遠くから眺めることしかできない子供だった。「私の心を充たした」「故しらぬ苦しみ」は、自分は一生こうした熱狂の中には入れない人間だという絶望ではなかったか。熱狂の中でしか手に入らない「世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情」を自分の顔に浮かべることは、到底叶わないことなのだと。
しかし、小説家となった三島は20代後半の海外旅行で、特にギリシャへの旅で、太陽と肉体に目覚めた。ボディビルで肉体を鍛え、筋肉を手に入れた。以後、日本に出回り始めたグラビア誌に頻繁に登場し、映画に主演し写真集のモデルになり、マスコミの寵児となっていった。
お神輿を担ぐ写真のキャプションには「昭和31年8月19日、(中略)生まれてはじめて神輿をかつぐ三島」とある。昭和の年と三島の年齢は同じなので、31歳にしてお神輿をはじめて担いだのである。お神輿を担ぐ三島は半裸である。あるグラビア誌の編集長は「黙っていると三島さんはすぐ裸になりたがる」と言っていたそうだ。熱狂を眺めるだけだったひ弱な子供が、人の目にさらすに足る肉体を手に入れて(それは結局、実体ではなかったけれど)、熱狂の主役となった。おそらく自覚的に、三島は「眺める者」から「行動する者」になった。しかし生来の「行動する者」は、自覚的にではなく、自然に伸びやかに行動するものだと思う。三島の行動にはいつも、ある種の痛々しさが伴っていたという。それはこの、自覚的な行動者という不自然さに由来するものではなかっただろうか。
「行動する者」の総仕上げが、自衛隊市ヶ谷駐屯地への乱入と割腹自決だったのかもしれない。三島の母、平岡倭文重(しずえ)は三島の死後、弔問客に「公威(きみたけ。三島の本名は平岡公威)がいつもしたかったことをしましたのは、これがはじめてなんでございますよ。喜んであげて下さいませな」と語ったという。私はこの言葉の意味が長い間、わからなかった。おそらく母の倭文重は、わが子の「故しらぬ苦しみ」を知っていたのだ。熱狂を眺めることしかできなかったわが子が、「行動する者」として生を終えた、しかも空前絶後の、誰もなし得ない形で。母はそれをほめてあげますよ、と。
夏祭りが近づく中、三島の真実に一歩近づけたような気がした。