「三島の小説の中で好きなのは?」と聞かれたら、迷わず『女方』をあげる。三島作品の中における重要性はさほど高くないかもしれない。1957年作だから三島が32歳の時の作、前年には短編中の名作と名高い『橋づくし』が書かれている。妙な小難しさの取れた、それでいて三島特有の修辞のすばらしさが十二分に生きている作品だ。
『女方』のあらすじはこうである。歌舞伎の作者部屋の人、増山は、女方・佐野川万菊の芸に傾倒している。大学を出て歌舞伎の世界に入ったのは万菊の芸に魅かれたからだが、歌舞伎の裏の世界を知って「幻滅」を感じたい、万菊の魅惑から解放されるにはそれしかないと思ったからだった。しかし、万菊は舞台の外でも女性的なふるまいで押し通し、増山に幻滅を感じさせることがなかった。
小説の中では、増山の目を通して、万菊の芸の魅力、女方の魅力、そして歌舞伎の魅力が、三島特有の言葉で語られる。私にとって最も魅力的なのは「妹背山婦女庭訓」のヒロインお三輪を演じる万菊の描写である。全部は引用しないけれども、こんな描写だ。
床の浄瑠璃が、「お三輪はきっと見返りて」と力強く語る。「あれを聞いては」とお三輪が見返る。いよいよお三輪が人格を一変して、いわゆる疑着の相をあらわす件りである。
ここを見るたびに、増山は一種の戦慄を感じた。明るい大舞台と、きらびやかな金殿の大道具と、美しい衣裳と、これを見守る数千の観客との上を、一瞬、魔的な影がよぎる。
(中略)
「奥は豊かに音楽の、調子も秋の哀れなり」
お三輪が自分の破局へむかって進んでゆくあの足取には、同じように戦慄的なものがあった。死と破滅へむかって、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めている激情が、舞台のどの時、どの地点でおわるかを、正確に知っていて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向って馳せ寄るように思われた。そこでは苦悩と歓喜とが、豪奢な西陣織の、暗い金糸の表と、明るい糸のあつまる裏面とのように、表裏をなしていたのである。
この文章を含む新潮文庫で1ページ半ほどの文章は、いつ読んでも身震いするほど、すばらしいのである。この文章を三島は30歳そこそこで書いた。
この小説のもう一つの魅力は、そこはかとない同性愛の雰囲気が漂っていることである。増山は万菊に好意を持っている。それは一人の歌舞伎ファンとしてであるが、そこにとどまらないものを感じさせる。
増山は、前にも云うように、こうした自失の状態にある万菊を見るのが好きだった。そこでほとんど目を細めていた。―――万菊は突然増山のほうへ向き直り、今までの増山の注視に気づきながらも、人に見られることには馴れた恬淡さで、用談のつづきを言った。
(中略)
用談がすむといつもすぐ立ち上がるようにしている。
「私もお風呂へまいりますから」
と万菊も立上った。せまい楽屋の入口を、増山は身を退いて、万菊を先に通した。万菊は軽く会釈して、弟子を連れて、先に廊下へ出て、増山のほうへ斜かいにふりむいて、にっこりしながら、もう一度会釈をした。目尻に刷いた紅があでやかに見えた。増山が自分を好いていることを、万菊はよく承知していると増山は感じた。
あらすじに戻る。万菊が所属する劇団で新劇作家の作品を上演することになり、演出を川崎という新劇の若い有望な演出家に任せることになった。増山は川崎を見て失望する。「人から抜ん出た男なら、自分を社会の定型から外そうとするだろうに、この男は在り来りの新劇青年そのままの恰好をしている」。
稽古が始まると、川崎は歌舞伎の世界に異邦人が紛れ込んできたようなものであることがはっきりしてくる。多くの歌舞伎俳優は川崎の演出に逆らうが、その中で万菊だけは従順だった。増山は、ある日の稽古でその理由に気づいてしまう。
しかしここから見えるのは、万菊の正面の顔ではなく、ほとんど横顔である。目がいかにも和いで、やわらかな視線が、川崎のほうへ向いて動こうともしない。
……増山は軽い戦慄を感じ、入ろうとしていた稽古場に入りかねた。
川崎はうまく運ばない稽古に焦燥感をあらわにし、ある日、増山を酒に誘った。川崎はそこで、言うことをきかない俳優には我慢できるが、なんでも言うことをきく万菊が一番冷笑的だとなじって、増山を呆れさせる。だが増山は「この青年の目は明るすぎて、理論には秀でていても、芝居の裏の暗い美的な魂をのぞくことはできなかった」と、万菊の川崎への厚意(ここでは厚意と表記されている)のことは黙っている。
曲りなりにも、芝居の初日があいた。芝居は好評だった。万菊が恋をしていることは、弟子たちの間でまず囁かれる。増山は、歌舞伎の舞台で登場人物たちの「壮大な感情」に身をゆだねている万菊が、現実には、ありきたりの新劇青年に恋していることに、「只ならぬ思い」を抱く。
万菊は自分の厚意が、素直に川崎に通じていると信じていた。そしてある日、増山に、舞台が終わった後、川崎と食事がしたいので取り次いでほしいと頼んでくる。
「わるいわね、あなたにこんな用事をお願いして」
「いや……いいんです」
そのとき万菊の目はぴたりと動きを止めて、ひそかに増山の顔色を窺っているのがわかった。増山の動揺を期待して、たのしんでいるように感じられた。
最後の場面、万菊と川崎が車に乗りこもうとするところで、増山はようやく「幻滅」を知る。「『俺はやっとここまで来て幻滅を知ったのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思った」。
しかし、幻滅と同時に、ある感情が増山を襲った。それは何であるかは、もし機会があれば、この小説を読んでみてほしい。
もしこの小説を映画化するなら、万菊は坂東玉三郎だなと勝手に夢想していたが、玉三郎も年を重ねてしまった(相変わらず美しいですが)。もう映画化は無理だなと思っていたら、ぴったりの女形が台頭してきた。中村七之助である。まだ私は彼の舞台を生で見たことはないが、写真や映像で見る限り、最近の七之助の美しさは「凄艶」といってよいほどである。万菊のモデルは三島が傾倒していた六世中村歌右衛門だと言われている。七之助は、歌右衛門の血筋にゆかりのある人だ。しかもお三輪ができる。
また、玉三郎は透明感がありすぎて人間離れしており、人間の女性を演じる歌舞伎の女形の大役よりも、泉鏡花の戯曲に出てくる「この世ならぬもの」のほうが、仁に合っていた。七之助はそうではない。十分に美しいけれども、地に足のついた美貌である。
そうすると、増山は誰がいいかな、川崎は?と夢想は広がる。増山は、抑えた色気を取るなら豊川悦司か、演技力なら堤真一(なぜか大阪人になってしまった)。川崎は、若かったら伊勢谷友介がよかったが、少し年を取ってきた(すみません)。こう言ってはなんだが、ちょっと単純な人がいい(川崎は単純な人なので)。「おっさんずラブ」を契機に、BL方面のTVドラマや映画もヒットすることがわかってきたので、七之助が「時分の花」を咲かせているうちに、何とかしてほしい。
そして映画会社はもちろん、松竹である。歌舞伎の舞台の場面も、本物が自由に使える。小説の持つ香気を台無しにするような、「幻滅」させられるような映画は困るけれど。