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美の渉猟

感性を刺激するもの・ことを、気ままに綴っていきます。
お能・絵画・庭・建築・仏像・ファッション などなど。

ダンディ三島

2022-04-09 20:42:35 | 三島由紀夫

いつもはNHK BSプレミアムなのに、
昨日は総合テレビで「アナザーストーリー」が。
三島由紀夫特集だった。
前にも見たことあるが、再見。

前回は見逃していたことがあった。
それは、「ダンディ三島」。

三島は生前、有名人のダンディランキング(だったかしら)で、
何と、三船敏郎を押さえて第一位!
他には、伊丹十三や石原慎太郎らの名前があった。

おしゃれはおしゃれだと思うけれど、
世界のMIFUNEや、
ダンディの代名詞のような伊丹十三を押さえて第一位とは。

生前のカリスマぶりを伝えて余りある逸話である。


三島由紀夫が見た「ブルウ・ボウイ」

2022-03-16 11:45:17 | 三島由紀夫

2月27日(日)の日経新聞「美の粋」に、
トマス・ゲインズバラ(今はこういう呼び方なのか)の、
「ブルー・ボーイ(青衣の少年)」が大きく掲載されていた。              「これが三島が『貴顕』の中で書いていたブルー・ボーイか!」と嬉しい驚きを味わった。

日経の紙面では次のような表現で、「ブルー・ボーイ」は描写されていた。
  
・・・つややかな青い服に身を包み、片手を腰に当ててポーズを取る少年。明るい瞳はわずかに恥じらいを含みながら、真っすぐこちらを見つめる。桃色に染まった頬は大人になろうとする少年の決意と期待、そして緊張感を伝える。ナショナル・ギャラリー・ロンドンは「全ての少年と子どもらしさの理念を代弁する」と絶賛する。

 

そして、久しぶりに三島由紀夫の短編集『真夏の死』を取り出して、           「ブルー・ボーイ」が登場する短編『貴顕』のその部分を読んでみた。          「ブルー・ボーイ」は、「ブルウ・ボウイ」と表記されていた。

 後年私は加州パサディナの美術館で、ゲインズボロウの有名な「ブルウ・ボウイ」を見たことがある。それはすでに治英(筆者注:はるひで。この短編の主人公)の死後であったが、私はそこに少年時代の治英の面影を見いだした。
 非常な美少年、しかし生気も溌剌(はつらつ)さもなく、傲慢(ごうまん)な白い秀(ひい)でた額と疲れたような眼差(まなざし)と小さな朱唇がその顔を特長づけている。この疲れたような眼差こそ、まさに治英のものであった。
     (三島由紀夫『貴顕』より抜粋 新潮文庫『真夏の死(短編集)』所収)

 

なんだ、真逆じゃないの。

日経の「ブルー・ボーイ」は、恥じらいのある、明るい瞳の少年。
三島の「ブルウ・ボウイ」は、傲慢な、疲れたような眼差しの少年。

どちらがこの絵の本質を突いてるのかしら。
それとも、見る人の数だけ、見方があるのか。
一つの事件が、かかわった当事者ごとに違って見えることを描いた、
芥川龍之介の小説『藪の中』みたいに。

(ご興味のある方は、絵を検索してみてください。)


自分はどう生きるか

2021-10-16 13:24:54 | 三島由紀夫

昨日は夜ふかし金曜日。というより外出して疲れて、うたた寝して起きたら、夜の10時前だった。「ひえー」とアセリながら片付けしてお風呂に入って「いいや、今日は夜ふかし金曜日だ。もう勤め人じゃないけど。夜ふかししよう」と決めてテレビをつけたら、いきなり谷川俊太郎のアップが映ってビックリした。現在89歳だそうである。

NEWS23のインタビューだった。最後の5分ぐらいしか見られなかったが、その分、心に残る言葉を聞くことができた。

「僕はもう、二つに分けてしまうことはしたくない。平和と戦争、美と醜、とか。」

記憶があいまいだが、こんな言葉だったと思う。

このブログの前回の記事で、映画『ベニスに死す』について「美と醜をこれ以上なく際立たせた映画」と書いたところだったので、「美と醜」の言葉にドキッとした。

確かに「美と醜」と切り分けたら、自分が価値を感じない方を切り捨てることになってしまうなあと思った。美を追求した三島由紀夫や川端康成が自殺したのも、美を追求してきた自分自身が美しくなくなった時、あるいは年老いた時、自分自身を切り捨てなければならない心境に追い込まれたからではないかという気がしてきた。三島はあるパーティに出席して「壇上から見たら年寄りばっかりだった。僕は40歳超えたら死のうと思った」と冗談めかして言ったそうだ(これも記憶があいまいだが)。

『ベニスに死す』は1971年の作品。そのあとビスコンティは『家族の肖像』を撮っている(1974年)。『家族の肖像』では、家族を持たず、でも家族の肖像を描いた絵ばかり収集している老教授が、若者たちと束の間ふれあい、特にその中の一人を息子のように思い始めるが、彼は死に、若者たちも去っていく。老教授はまた一人になり、さらに病に伏し、若者の死を悼む場面で終わる。老教授の姿は、徹底して美を追求してきたビスコンティが、晩年に描いた自分自身だろう。そこには、バイセクシャルで家族を持たなかった彼の、後悔の念もいくらかあるように思う。この映画の2年後、ビスコンティは病で亡くなった。

NEWS23からチャンネルを変えたら、NHKEテレで「SWITCHインタビュー達人達」が再放送されていた。津野海太郎(評論家)と鈴木敏夫(スタジオジブリプロデューサー)の出演。前も見たが、谷川俊太郎のインタビューを見た後では、新たな感慨があった。

津野海太郎は放送当時82歳。鈴木敏夫は72歳。津野の言葉「70代までは、老いたらどうしようと思っていたが、80を超えたら、死ぬまで生きりゃいいんだと思えるようになった」。これまた記憶があいまいだが、こんなような言葉だった。

あ、そうね。死ぬまで生きればいいだけよね。白黒つけずに。白黒つけようとするから、戦争になったり、自殺したりするのかもね。

なぜいま谷川俊太郎インタビューかというと、新作詩集『虚空』を発表したから。「虚空」とは、何もない空間、あるいはすべてある空間のこと。そこに価値判断はない。

谷川俊太郎と津野海太郎の言葉、三島や川端、ビスコンティの生き方。さて自分はどう生きるか。今のところ私は「美しいものを発見して、言葉にして、死ぬまで生きよう」と思っている。


ホリヒロシの新作「MAYA」美と醜と

2021-07-18 11:19:09 | 三島由紀夫

今朝の日曜美術館は人形師ホリヒロシ特集だった。

ホリヒロシ、久々である。

一時、ハマっていた。

泉鏡花(国文科の私は鏡花ゼミだった)の戯曲の登場人物や、

三島由紀夫の『黒蜥蜴』の緑川夫人など、

本当にきれいだった。

 

3年前に公私にわたるパートナーの奥様を亡くしたそうで

(21歳年上の女性とは知らなかった)、

その喪失感から、しばらく人形制作ができなくなったが、

このたび、ようやく新作を発表。それが「MAYA」。

MAYAはお釈迦様の母上、摩耶夫人(まやぶにん)のこと。

慈愛に満ちた母、摩耶夫人に、

自分を導いてくれた愛情深い奥様のことを、重ねているようだ。

 

私が驚いたのは、

その「MAYA」の顔を半分焼いてしまうこと。

まあ、これって、三島由紀夫の小説『女神』じゃないの。

一人の男が丹精込めて、美しく仕立て上げた、

世にも美しい妻の顔が、火傷で半分ただれてしまう話。

男は次に、自分の娘を美しく育てようとする。

(ご興味のある方は新潮文庫『女神』を

 お読みください。

 長編ではなく中編なので、すぐ読めます。)

 

特集の最後に大写しにされた、

半分焼けた人形の顔は、しかし、

美しいだけの顔よりも、

もっと美しさが際立って見えた。

美と醜が、お互いを引き立て合う、この不思議。

しかも一つの顔の中で。


映画化してほしい三島由紀夫『女方』

2020-04-19 11:27:50 | 三島由紀夫

 「三島の小説の中で好きなのは?」と聞かれたら、迷わず『女方』をあげる。三島作品の中における重要性はさほど高くないかもしれない。1957年作だから三島が32歳の時の作、前年には短編中の名作と名高い『橋づくし』が書かれている。妙な小難しさの取れた、それでいて三島特有の修辞のすばらしさが十二分に生きている作品だ。
 『女方』のあらすじはこうである。歌舞伎の作者部屋の人、増山は、女方・佐野川万菊の芸に傾倒している。大学を出て歌舞伎の世界に入ったのは万菊の芸に魅かれたからだが、歌舞伎の裏の世界を知って「幻滅」を感じたい、万菊の魅惑から解放されるにはそれしかないと思ったからだった。しかし、万菊は舞台の外でも女性的なふるまいで押し通し、増山に幻滅を感じさせることがなかった。
 小説の中では、増山の目を通して、万菊の芸の魅力、女方の魅力、そして歌舞伎の魅力が、三島特有の言葉で語られる。私にとって最も魅力的なのは「妹背山婦女庭訓」のヒロインお三輪を演じる万菊の描写である。全部は引用しないけれども、こんな描写だ。

 

 床の浄瑠璃が、「お三輪はきっと見返りて」と力強く語る。「あれを聞いては」とお三輪が見返る。いよいよお三輪が人格を一変して、いわゆる疑着の相をあらわす件りである。
 ここを見るたびに、増山は一種の戦慄を感じた。明るい大舞台と、きらびやかな金殿の大道具と、美しい衣裳と、これを見守る数千の観客との上を、一瞬、魔的な影がよぎる。
(中略)
「奥は豊かに音楽の、調子も秋の哀れなり」
お三輪が自分の破局へむかって進んでゆくあの足取には、同じように戦慄的なものがあった。死と破滅へむかって、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めている激情が、舞台のどの時、どの地点でおわるかを、正確に知っていて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向って馳せ寄るように思われた。そこでは苦悩と歓喜とが、豪奢な西陣織の、暗い金糸の表と、明るい糸のあつまる裏面とのように、表裏をなしていたのである。

 

 この文章を含む新潮文庫で1ページ半ほどの文章は、いつ読んでも身震いするほど、すばらしいのである。この文章を三島は30歳そこそこで書いた。

 この小説のもう一つの魅力は、そこはかとない同性愛の雰囲気が漂っていることである。増山は万菊に好意を持っている。それは一人の歌舞伎ファンとしてであるが、そこにとどまらないものを感じさせる。

 

 増山は、前にも云うように、こうした自失の状態にある万菊を見るのが好きだった。そこでほとんど目を細めていた。―――万菊は突然増山のほうへ向き直り、今までの増山の注視に気づきながらも、人に見られることには馴れた恬淡さで、用談のつづきを言った。
(中略)
 用談がすむといつもすぐ立ち上がるようにしている。
「私もお風呂へまいりますから」
 と万菊も立上った。せまい楽屋の入口を、増山は身を退いて、万菊を先に通した。万菊は軽く会釈して、弟子を連れて、先に廊下へ出て、増山のほうへ斜かいにふりむいて、にっこりしながら、もう一度会釈をした。目尻に刷いた紅があでやかに見えた。増山が自分を好いていることを、万菊はよく承知していると増山は感じた。

 

 あらすじに戻る。万菊が所属する劇団で新劇作家の作品を上演することになり、演出を川崎という新劇の若い有望な演出家に任せることになった。増山は川崎を見て失望する。「人から抜ん出た男なら、自分を社会の定型から外そうとするだろうに、この男は在り来りの新劇青年そのままの恰好をしている」。
稽古が始まると、川崎は歌舞伎の世界に異邦人が紛れ込んできたようなものであることがはっきりしてくる。多くの歌舞伎俳優は川崎の演出に逆らうが、その中で万菊だけは従順だった。増山は、ある日の稽古でその理由に気づいてしまう。

 

 しかしここから見えるのは、万菊の正面の顔ではなく、ほとんど横顔である。目がいかにも和いで、やわらかな視線が、川崎のほうへ向いて動こうともしない。
 ……増山は軽い戦慄を感じ、入ろうとしていた稽古場に入りかねた。

 

 川崎はうまく運ばない稽古に焦燥感をあらわにし、ある日、増山を酒に誘った。川崎はそこで、言うことをきかない俳優には我慢できるが、なんでも言うことをきく万菊が一番冷笑的だとなじって、増山を呆れさせる。だが増山は「この青年の目は明るすぎて、理論には秀でていても、芝居の裏の暗い美的な魂をのぞくことはできなかった」と、万菊の川崎への厚意(ここでは厚意と表記されている)のことは黙っている。
 曲りなりにも、芝居の初日があいた。芝居は好評だった。万菊が恋をしていることは、弟子たちの間でまず囁かれる。増山は、歌舞伎の舞台で登場人物たちの「壮大な感情」に身をゆだねている万菊が、現実には、ありきたりの新劇青年に恋していることに、「只ならぬ思い」を抱く。
 万菊は自分の厚意が、素直に川崎に通じていると信じていた。そしてある日、増山に、舞台が終わった後、川崎と食事がしたいので取り次いでほしいと頼んでくる。

 

「わるいわね、あなたにこんな用事をお願いして」
「いや……いいんです」
そのとき万菊の目はぴたりと動きを止めて、ひそかに増山の顔色を窺っているのがわかった。増山の動揺を期待して、たのしんでいるように感じられた。

 

 最後の場面、万菊と川崎が車に乗りこもうとするところで、増山はようやく「幻滅」を知る。「『俺はやっとここまで来て幻滅を知ったのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思った」。
 しかし、幻滅と同時に、ある感情が増山を襲った。それは何であるかは、もし機会があれば、この小説を読んでみてほしい。

 もしこの小説を映画化するなら、万菊は坂東玉三郎だなと勝手に夢想していたが、玉三郎も年を重ねてしまった(相変わらず美しいですが)。もう映画化は無理だなと思っていたら、ぴったりの女形が台頭してきた。中村七之助である。まだ私は彼の舞台を生で見たことはないが、写真や映像で見る限り、最近の七之助の美しさは「凄艶」といってよいほどである。万菊のモデルは三島が傾倒していた六世中村歌右衛門だと言われている。七之助は、歌右衛門の血筋にゆかりのある人だ。しかもお三輪ができる。
 また、玉三郎は透明感がありすぎて人間離れしており、人間の女性を演じる歌舞伎の女形の大役よりも、泉鏡花の戯曲に出てくる「この世ならぬもの」のほうが、仁に合っていた。七之助はそうではない。十分に美しいけれども、地に足のついた美貌である。
 そうすると、増山は誰がいいかな、川崎は?と夢想は広がる。増山は、抑えた色気を取るなら豊川悦司か、演技力なら堤真一(なぜか大阪人になってしまった)。川崎は、若かったら伊勢谷友介がよかったが、少し年を取ってきた(すみません)。こう言ってはなんだが、ちょっと単純な人がいい(川崎は単純な人なので)。「おっさんずラブ」を契機に、BL方面のTVドラマや映画もヒットすることがわかってきたので、七之助が「時分の花」を咲かせているうちに、何とかしてほしい。
 そして映画会社はもちろん、松竹である。歌舞伎の舞台の場面も、本物が自由に使える。小説の持つ香気を台無しにするような、「幻滅」させられるような映画は困るけれど。