原作はハードカバーが出た段階で「歌舞伎がテーマか、読んでみよう!」と上下巻を購入して読んだのだが、あんまり内容を覚えていない。覚えているのは、主人公の喜久雄が映画出演するというエピソードについて、その映画が「こりゃ戦メリだな」と思ったのと、それから不思議なラストシーンに「え?」と煙に巻かれたような気分になったことの二つだけで、あとの内容は、きれいさっぱり忘れていた。
その『国宝』が映画化されたと聞いて、「えー、どんなんかな???」と思っていたら、あれよあれよという間に大ヒット、邦画史上、今のところ第二位の興行成績だという。吉沢亮が女形で踊っている動画を見て「うわーすごいキレイ」と目を奪われ、NHK・Eテレのスイッチインタビューで吉沢亮が『曽根崎心中』のお初を演じているシーンを見て「歌舞伎役者ではない普通の俳優さんがここまでできるのか?」とビックリして、久しぶりに映画館に足を運んでみようという気になったのである。
九時三十分開始のチケットを予約して天王寺アポロシネマへ。水曜日はサービスデーで千三百円(昔はレディースデーと言っていた)。上映時間三時間の長丁場をトイレに行かずに耐えられるかどうかが一番の心配事だった。ということで万が一トイレに行きたくなった場合を考え、周囲に迷惑をかけないよう最後列の一番端、出入口に最も近い席を予約した。朝の水分摂取も朝食時のみにした。年を取ってくると、いろいろ気を遣うことが増える。
開場を待つ人々は圧倒的に中高年、六十代以降の女性が大半を占めているように見えた。映画館でこんなに年齢層が高いのは初めて見た(私もそろそろその内の一人だけど)。場内は平日の朝一の上映にもかかわらず、ほぼ満席(に見えた)。
まず驚いたのは、その場内の集中力の高さ。みんなが食い入るようにスクリーンを見つめ、しかもその集中力が途切れない。生の演劇の舞台でもここまでの集中力はそうそうない。お能とか歌舞伎は時々寝ている人もいるし(私もたまに寝る)。そう言えば文楽では寝ている人をまだ見たことがない。
(以下、ネタバレ注意です。)
そして映画だが、三時間は確かに長かったが、長さが苦にならなかった、という言い方が最も適当だと思う。映画が終わった後に一番感じたことは、映画の内容よりも「歌舞伎役者ではない普通の俳優さんがここまでできるのか、ハァ~~~~」という感慨だった。まさしく血を吐くような努力だったのではないだろうか。映画を見る前に感じていたことを、実際に映画を見て実感したのだった。それが友枝昭世のお能を見た後に感じるような、胸に堪える重さで迫ってきた。主人公・喜久雄の人間国宝認定が決まった後、ラストシーンは喜久雄が「鷺娘」を延々と踊り続けて終わるのだが、このラストシーンが特にすごかった。吉沢亮は一年ほど日本舞踊のお稽古をしたというが、たった一年でここまで踊れるのか? 映画の主役を張る俳優さんってすごいな、この人を主役に選んだ監督もすごいなと思った。
(監督は映画『フラガール』の監督だった。そう言えば『フラガール』も、話の筋も面白かったけれどフラダンスに命を賭ける主人公とその先生が、それぞれダンスを練習するシーンが一番印象に残っている。)
ラストの「鷺娘」の踊りは、ただ単純に「はい、うまく踊れました」で終わってはいけない踊りである。怒濤の人生の果てにこの踊りがあることを感じさせないといけない。しかも重たいだけでもいけない。重さを通り過ぎた後の透明感が必要だと思う。でもただ透明なだけでもいけない。鷺娘が白い着物の下に真っ赤な着物を着ているように。本当に難しいシーンだと思うのだけれど、吉沢亮の踊りには説得力がちゃんとあって、まったく見惚れてしまった。このシーンだけでも、もう一回観たい。
この踊りのシーンの前に、喜久雄が芸妓に生ませた娘が突然カメラマンになって喜久雄の前に現れて恨み言を言いつつ、「それでもお父ちゃんの踊る姿を見ていると、恨みも何もかも忘れるぐらい、美しい」というようなことを言う。そこに「芸」というものの秘密があるように思う。恨みつらみも妬み嫉みも苦労も喜びも全部飲み込んでしまうブラックホールのようなもの。そのためにはすべてを犠牲にしてよいもの。映画では、暗闇に桜か雪が舞っているシーンが、ときどき挟み込まれる。喜久雄と俊ぼんが舞台から二階席のライトのあたりを見上げて「あのへんに何か、いてんねん」というようなことを言う。その「何か」。芸能に魅入られた者、あるいは芸能の神様に見込まれた者だけに見える何か。でもそれは、選ばれた者だけが行ける高みであると同時に、それに飲み込まれて身を滅ぼされてしまう可能性も感じさせて、恐ろしい。糖尿病で片足を切断され、義足を引きずりながら執念で舞台に上がり、結局死んでいく俊ぼん。舞台化粧の剥げ落ちた顔で演じる横浜流星もすさまじかった。一方で、何度も地べたをはいつくばる境涯に落ち込みながら喜久雄は人間国宝に認定され、鷺娘を踊り終えた後、舞台から二階席の方を見上げる。再び闇の中に桜か雪が舞っている。それを見て「きれいやな……」と呟く。闇に飲み込まれた者と、闇を通り越して透明な境地にたどりつく者。やっぱりこれは芸道映画か。よくもまあ、現代にこんな映画を撮れたものだと思う。ラストシーンが終わったあと、エンドロールを見ながらしばらく呆然としていた。
その他、花井半二郎という名前は岩井半四郎から取っているのかな?とか、義足で舞台に上がる俊ぼんは、江戸時代の歌舞伎役者で脱疽で手足をなくしても舞台に上がり続けた三世沢村田之助をモデルにしてるのかな?とか、田中泯が演じた立女形の小野川万菊は、名前は三島由紀夫の小説『女方』の主人公、佐野川万菊から取ったのかな?とか、その見た目のおどろおどろしさと言葉遣いは晩年の六世中村歌右衛門を思わせるなあ、とか(そもそも『女方』の佐野川万菊のモデルは歌右衛門と言われている)。いろいろ想像して飽きることがなかった。大阪人の私には六十年代の大阪の風俗も楽しかった。グランシャトーかユニバースかというような巨大キャバレーのシーンとか。大阪以外の人はどうか知らんけど。それだけ原作にたくさんの要素が詰まっているのだろうと思うが、原作を読んだはずの私はなぜか少しも覚えていない。トホホ。