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美の渉猟

感性を刺激するもの・ことを、気ままに綴っていきます。
お能・絵画・庭・建築・仏像・ファッション などなど。

映画『国宝』

2025-08-29 15:30:48 | 映画
八月二十七日(水)、映画『国宝』を観た。

原作はハードカバーが出た段階で「歌舞伎がテーマか、読んでみよう!」と上下巻を購入して読んだのだが、あんまり内容を覚えていない。覚えているのは、主人公の喜久雄が映画出演するというエピソードについて、その映画が「こりゃ戦メリだな」と思ったのと、それから不思議なラストシーンに「え?」と煙に巻かれたような気分になったことの二つだけで、あとの内容は、きれいさっぱり忘れていた。

その『国宝』が映画化されたと聞いて、「えー、どんなんかな???」と思っていたら、あれよあれよという間に大ヒット、邦画史上、今のところ第二位の興行成績だという。吉沢亮が女形で踊っている動画を見て「うわーすごいキレイ」と目を奪われ、NHK・Eテレのスイッチインタビューで吉沢亮が『曽根崎心中』のお初を演じているシーンを見て「歌舞伎役者ではない普通の俳優さんがここまでできるのか?」とビックリして、久しぶりに映画館に足を運んでみようという気になったのである。

九時三十分開始のチケットを予約して天王寺アポロシネマへ。水曜日はサービスデーで千三百円(昔はレディースデーと言っていた)。上映時間三時間の長丁場をトイレに行かずに耐えられるかどうかが一番の心配事だった。ということで万が一トイレに行きたくなった場合を考え、周囲に迷惑をかけないよう最後列の一番端、出入口に最も近い席を予約した。朝の水分摂取も朝食時のみにした。年を取ってくると、いろいろ気を遣うことが増える。

開場を待つ人々は圧倒的に中高年、六十代以降の女性が大半を占めているように見えた。映画館でこんなに年齢層が高いのは初めて見た(私もそろそろその内の一人だけど)。場内は平日の朝一の上映にもかかわらず、ほぼ満席(に見えた)。

まず驚いたのは、その場内の集中力の高さ。みんなが食い入るようにスクリーンを見つめ、しかもその集中力が途切れない。生の演劇の舞台でもここまでの集中力はそうそうない。お能とか歌舞伎は時々寝ている人もいるし(私もたまに寝る)。そう言えば文楽では寝ている人をまだ見たことがない。

(以下、ネタバレ注意です。)

そして映画だが、三時間は確かに長かったが、長さが苦にならなかった、という言い方が最も適当だと思う。映画が終わった後に一番感じたことは、映画の内容よりも「歌舞伎役者ではない普通の俳優さんがここまでできるのか、ハァ~~~~」という感慨だった。まさしく血を吐くような努力だったのではないだろうか。映画を見る前に感じていたことを、実際に映画を見て実感したのだった。それが友枝昭世のお能を見た後に感じるような、胸に堪える重さで迫ってきた。主人公・喜久雄の人間国宝認定が決まった後、ラストシーンは喜久雄が「鷺娘」を延々と踊り続けて終わるのだが、このラストシーンが特にすごかった。吉沢亮は一年ほど日本舞踊のお稽古をしたというが、たった一年でここまで踊れるのか? 映画の主役を張る俳優さんってすごいな、この人を主役に選んだ監督もすごいなと思った。
(監督は映画『フラガール』の監督だった。そう言えば『フラガール』も、話の筋も面白かったけれどフラダンスに命を賭ける主人公とその先生が、それぞれダンスを練習するシーンが一番印象に残っている。)
 
ラストの「鷺娘」の踊りは、ただ単純に「はい、うまく踊れました」で終わってはいけない踊りである。怒濤の人生の果てにこの踊りがあることを感じさせないといけない。しかも重たいだけでもいけない。重さを通り過ぎた後の透明感が必要だと思う。でもただ透明なだけでもいけない。鷺娘が白い着物の下に真っ赤な着物を着ているように。本当に難しいシーンだと思うのだけれど、吉沢亮の踊りには説得力がちゃんとあって、まったく見惚れてしまった。このシーンだけでも、もう一回観たい。

この踊りのシーンの前に、喜久雄が芸妓に生ませた娘が突然カメラマンになって喜久雄の前に現れて恨み言を言いつつ、「それでもお父ちゃんの踊る姿を見ていると、恨みも何もかも忘れるぐらい、美しい」というようなことを言う。そこに「芸」というものの秘密があるように思う。恨みつらみも妬み嫉みも苦労も喜びも全部飲み込んでしまうブラックホールのようなもの。そのためにはすべてを犠牲にしてよいもの。映画では、暗闇に桜か雪が舞っているシーンが、ときどき挟み込まれる。喜久雄と俊ぼんが舞台から二階席のライトのあたりを見上げて「あのへんに何か、いてんねん」というようなことを言う。その「何か」。芸能に魅入られた者、あるいは芸能の神様に見込まれた者だけに見える何か。でもそれは、選ばれた者だけが行ける高みであると同時に、それに飲み込まれて身を滅ぼされてしまう可能性も感じさせて、恐ろしい。糖尿病で片足を切断され、義足を引きずりながら執念で舞台に上がり、結局死んでいく俊ぼん。舞台化粧の剥げ落ちた顔で演じる横浜流星もすさまじかった。一方で、何度も地べたをはいつくばる境涯に落ち込みながら喜久雄は人間国宝に認定され、鷺娘を踊り終えた後、舞台から二階席の方を見上げる。再び闇の中に桜か雪が舞っている。それを見て「きれいやな……」と呟く。闇に飲み込まれた者と、闇を通り越して透明な境地にたどりつく者。やっぱりこれは芸道映画か。よくもまあ、現代にこんな映画を撮れたものだと思う。ラストシーンが終わったあと、エンドロールを見ながらしばらく呆然としていた。

その他、花井半二郎という名前は岩井半四郎から取っているのかな?とか、義足で舞台に上がる俊ぼんは、江戸時代の歌舞伎役者で脱疽で手足をなくしても舞台に上がり続けた三世沢村田之助をモデルにしてるのかな?とか、田中泯が演じた立女形の小野川万菊は、名前は三島由紀夫の小説『女方』の主人公、佐野川万菊から取ったのかな?とか、その見た目のおどろおどろしさと言葉遣いは晩年の六世中村歌右衛門を思わせるなあ、とか(そもそも『女方』の佐野川万菊のモデルは歌右衛門と言われている)。いろいろ想像して飽きることがなかった。大阪人の私には六十年代の大阪の風俗も楽しかった。グランシャトーかユニバースかというような巨大キャバレーのシーンとか。大阪以外の人はどうか知らんけど。それだけ原作にたくさんの要素が詰まっているのだろうと思うが、原作を読んだはずの私はなぜか少しも覚えていない。トホホ。

そして、特筆すべきは、村野藤吾の階段が出てきたことである。スクリーンにパッと美しい螺旋階段が映し出され、「あれっ、これはもしかして」と思っていたら、出奔した俊ぼんと喜久雄が和解する場所がホテルのスィートルーム、俊ぼんの後ろの窓から見えるのは見覚えのある銅板の屋根、それから村野藤吾独特の足の短いソファが出てきたのである。「蹴上の都ホテルやんか!」――これから先も多くの人に愛されるであろう映画に村野藤吾の階段も映像として残されて、本当に嬉しいことである。


岩下志麻の着物ショー ~「『極妻』怒濤の一挙放送」を見て~

2024-02-10 16:08:18 | 映画

BS松竹東急で1月末から2月初めにかけて
「『極妻』シリーズ 怒涛の一挙放送」と題し
パート1、パート2に分けて全10作が放送された。

『極道の妻たち』略して『極妻』は
1作目は岩下志麻が
2、3作目は別の大物女優が主役を演じていたが
「やはり岩下に戻そう」という東映社長の意向により
4作目以降は岩下志麻が主役を張り通した。

通して見ると、このシリーズは途中から
極道の世界の女たちを描くというよりは
岩下志麻をいかに美しくカッコよく見せるかに
全精力をあげていたような気がする。

シリーズ後半からは
「岩下志麻の着物ショー」、あるいは
「岩下志麻のコスプレショー」のような態を成していた。

8作目『赫い絆』(若い頃の古田新太が出ていてビックリ)では
傷害罪で刑務所入りして囚人服を着た岩下志麻が登場。

出所後は「堅気になるんや」ということで
スーパーで働く岩下志麻も登場。
膝が見える衝撃のミニスカ姿。

なんだか珍品を見るような気分にさせられたが
これも再び極道の世界に返り咲いたときの
着物姿の迫力とあでやかさを印象づけるためか。

岩下志麻の『極妻』ラストスパートとも言える
9作目『危険な賭け』、
10作目『決着(けじめ)』(これにはトミーズの雅が出ていてビックリ)では
場面が変わるごとに着物を変えてるのか?というぐらいの目まぐるしさ。

その昔『クレオパトラ』というハリウッド映画で
主演のエリザベス・テイラーが衣装をとっかえひっかえしていたが
それに勝るとも劣らない豪華な着物の数々。

特に『決着』のラスト、賭場の場面では
別室で夫を説得していたときと
賭場で敵役を成敗するときとは
同じ日の同じ料亭の中の数分後のシーンのはずなのに
着物が変わっていた。

夫を説得するときは
黒、緑、茶の落ち着いた色合いの着物に黒光りする帯。
黒光りする帯に素人には着こなせない迫力があるが
夫の行く末を案ずる「内助の功」的な妻のイメージか。

それが、敵役を成敗するときは
白地に金箔で雲の模様が描かれた
輝かしい着物に着替えていた。

帯は金と銀の波模様に赤い帯締め。
重ね衿と帯揚げは紫色。

金銀の箔で極道らしいハデさを
白と紫色で
自分の手でケジメをつけて責任を取る高潔さを
表しているように思う。

そしてこの賭場の舞台となる料亭なのだが
どうも京都山科の「わらびの里」では?と思っていたら
果たせるかな、映画のエンドロールの「撮影協力」に
「京都 わらびの里」の文字が!

「わらびの里」の庭はいわゆる「雑木の庭」。
「雑木の庭」の名手として名高い小島佐一が手がけた。
京都在住中に一度見に行ったことがある。

岩下志麻の最後の『極妻』の舞台だったとは。
もっと思い入れを込めて見ておけばよかった。

そんなこんなで関西を舞台にした極妻シリーズは
関西人には見逃せないネタの宝庫であることに
今さらながら気づいた怒濤の一挙放送。
他にもいろいろ書きたいがまた後日。

BS松竹東急様、一挙放送を本当にありがとうございました。


映画『ブレードランナー ファイナル・カット』

2023-08-21 19:02:12 | 映画

久しぶりのブログである。
諦めずに訪問してくださっていた方々、
ありがとうございます。

今日、NHK BSプレミアムで
映画『ブレードランナー ファイナル・カット』を見た。
1982年の映画を2007年に監督のリドリー・スコットが再編集したという。

『ブレードランナー』を見るのは初めて。
日本語の看板がいっぱい出てくる。
(なぜか「強力わかもと」のCMが何度も映し出される。)

SF映画特有の近未来的雰囲気に
日本や東南アジアの盛り場の猥雑さを混ぜ合わせたような
独特の世界観だった。

舞台は近未来(と言っても2019年)のロサンゼルス。
放射能に汚染され、酸性雨が降り続けている。
湿気が画面をおおい続けていて
それもあって、ロサンゼルスだけど湿度の高いアジア的雰囲気。

話の筋は、思い切り粗く言うと
人間に奴隷として使い捨てにされているレプリカント数名が
惑星から地球へ脱走した。

レプリカント専門の捜査官、ブレードランナーが
脱走したレプリカントの抹殺(「解任」という)を命じられる。

レプリカントは人間そのままの外見。
美しく、力も強いが
4年の命しかない。

「もっと生きたい」と望み、命を延ばしてほしいと
レプリカントの開発者に会いに行こうとする。

映画を見ていて、何に驚いたかと言うと、
脱走したレプリカントのリーダー、ロイが
人間の顔をつかんで
両目を指で押しつぶす場面である。

こ、これは
日本の映画『孤狼の血 LEVEL2』(2021年)の
鈴木亮平が演じた強烈に残酷なヤクザ・上林と
同じじゃないの。

と思っていたら、ロイが
ハリソン・フォード演じるブレードランナーと対決する場面で、
自分の手の甲に長い釘を突き刺して
武器にするという場面も出てきた。

こ、こ、これは
鈴木亮平演じるヤクザ・上林が
手に日本刀を握って包帯(サラシか)で括りつけるのと
またまた同じ。

その手を武器にして
松坂桃李演じる刑事と対決するのである。

『ブレードランナー』の中で降り続けるのは
放射能汚染後の酸性雨。
『孤狼の血』の舞台は被爆地・広島。
(映画の中では上林の回想に原爆ドームが現れる。)
何という符合。
映画を見ていて途中から息苦しくなってきた。

私は、ヤクザ・上林は
水爆実験でモンスター化したゴジラの分身だと思っていたが
こんなところにも、上林の原形の一部があったのか。
(ちゃうかもしれんけど。)

レプリカントのロイ(ルトガー・ハウアー怪演。
筋肉質ではなくムチっとした体が妙にリアル)は
短い命しか与えられていない苦しさを
切々と訴える。

ヤクザの上林は
「俺には死神がついていてなかなか死ねんのよ」と言う。

でも双方に共通するのは「存在の悲しさ」だ。
もうそれは一緒だった。

※ご参考
 映画『孤狼の血 LEVEL2』ー広島の地層に埋まる怒りのマグマー - 美の渉猟 (goo.ne.jp)

 

『ブレードランナー』の原作は
SF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。
舞台は第三次世界大戦後の未来だそうである。
1968年の作品。

映画を見ていると、もう何十年も前から
小説家や映画監督といったクリエイターたちは
世界に絶望していたんだなと思う。

映画のラストでは、登場人物の一人に
「彼女(女性レプリカントのレイチェル)はもうすぐ死ぬ。
 しかし、いずれみんな死ぬ」と言わせている。
人間と人造人間に、どれほどの違いがあるのかを問う。

でも絶望的な世界の中で
ハリソン・フォード演じるブレードランナーは
美しいレプリカント、レイチェルを抹殺せず
手を引いてどこかへ連れていく。
「俺を愛しているか?」、
「俺を信じているか?」と確認して。

絶望的な世界でも、たとえ短い命でも
愛と信頼があれば
世界は生きるに値するのだと
言っているように思う。


空前絶後の女優 シャーロット・ランプリング

2022-12-14 19:41:50 | 映画

先日、テレビで映画『オルカ』(1977年)が放映されていた。
『ジョーズ』以降、たくさんのパニック映画がつくられたが、
この映画はただのパニックものとは少し違う。
人間に妻と子を殺されたオルカ(シャチ)の、愛と復讐の物語。
人間ではなく、オルカが主役。

展開がモタモタするところもあるが、
ちょっとガマンして最後まで見ると、
オルカの愛の深さに胸が締めつけられる映画である。

さて、なぜこの映画に少々思い入れがあるかというと、
ヒロインがシャーロット・ランプリングだからである。

シャーロット・ランプリングは1946年生まれの英国人女優。
私が初めてシャーロット・ランプリングの映画を見たのは中学生の頃。
テレビの洋画劇場で彼女の代表作『愛の嵐』(1974年)を見てしまった。
そう、「見てしまった」。この時以来、私は彼女の虜(とりこ)である。

『愛の嵐』のあらすじは、なかなか、というより、かなりハードだ。
ウィーンのホテルでナイトポーターとして働く男、マックス。
(この映画の英題はThe Night Porter。)
実は彼はナチスの残党である。
そのホテルに、オペラの指揮者とその妻がやってくる。
オペラが終わった後、着飾った人々がホテルになだれ込み、談笑している華やかな場面。
マックスもにこやかに客に応対しているが、指揮者の妻の顔を見て凍りつく。
指揮者の妻ルチアも、マックスの顔を見て息をのむ。
ルチアは、かつて強制収容所でマックスの愛人だった。
もちろん望んで愛人になったのではなく、
美しい少女に目をつけたマックスが、少女を弄んだのである。

ここからマックス、ルチア双方の回想が始まり、
強制収容所での想像を絶する行為が映し出されていく。
(よくこの映画を中学生の時に見たなと思う。)

この映画で最も有名な場面は、
収容所で、ナチスの親衛隊員たちの前で、
ルチアが、裸の胸にサスペンダーをつけ、
ナチスの軍帽をかぶり、黒い長手袋をはめて
物憂げに歌う場面である。

ルチアは歌う。
「何が望みかと聞かれれば 幸せだと答えるけれど
 幸せになれば また昔が懐かしくなる」

この歌詞が、この映画のキーワードだ。

ルチアはオペラの公演が終わったあとも、
夫を一人で出発させ、自分はウィーンに残る。

ウィーンの町を歩くルチア。
まとめた髪にパールのイヤリングとネックレス、
細い腰をベルトで締めたキャメルのコート、
折れそうな細く長い脚にハイヒール。
モデル出身のシャーロット・ランプリングのスタイルの良さが
陰鬱なウィーンの町に映える。
(この映画のウィーンの町はこれ以上ないぐらい暗くて陰鬱なのである。)

カフェに入ってコーヒーを飲んでも、
アンティークの店で古いワンピースを見ても、
収容所でのマックスとの思い出につながっていく。

思い切り内容をはしょってしまうが、
結局この二人は過去から逃れられずに破滅していくのだ。

映画の内容の強烈さもさることながら、
その強烈な役を、この上なく魅力的に演じ切った、
当時28歳のシャーロット・ランプリングに
私は完全にやられてしまった。
(大人になってからDVDも買った。)

裸にサスペンダーで歌い踊る姿、
キャメルのコートで町をさまよい歩く姿の他にも、
マックスの部屋で、シルクのキャミソールの上に、
マックスのセーターやカーディガンを無造作に着ている姿も、
とても魅力的だ。

その後もたくさんの映画を見たけれど、
この映画の衝撃を超える映画、
そして彼女の魅力を超える女優には
出会っていない。

その意味で、私にとって空前絶後の女優なのだ。


映画『祇園祭』

2022-07-24 19:23:33 | 映画

7月23日、京都文化博物館のフィルムシアターで

映画『祇園祭』(1968年公開)を見た。

 

主演は萬屋錦之介(当時は中村錦之助)。

相手役は岩下志麻。

 

小学生の時、大河ドラマ『草燃える』の

北条政子を見て以来、

私は岩下志麻のファンである。

 

『極道の妻たち』は

岩下志麻以外、演じちゃいけないと

思っている。

あれは岩下志麻が完成させた、

『極妻』という様式による歌舞伎なのだ。

 

関西人が聞いたらちょっとおかしい、

独特の、くどすぎる関西弁も

『極妻』という様式の一部なのだ。

 

そしてそれはもう

「様式美」と言えるところまで

昇華されているのである。

(ほめ過ぎやな。)

 

萬屋錦之介は

「しとしとぴっちゃん♪」の『子連れ狼』や

『破れ傘刀舟悪人狩り』、

そして映画『柳生一族の陰謀』など、

私にとっては「刀と血の匂いがする人」。

 

それは70年代の小池一夫原作の劇画

(バイオレンス時代劇とでも言う感じか)

と同じイメージ、

というかバイオレンス時代劇をそのまま体現した人。

いつも眉の下にシャドウが入っている、

陰惨なメーキャップが印象深い。

 

なぜこの映画を見に行ったのかというと、

「町衆」に関する原稿を書くために

林屋辰三郎の『京都』(岩波新書)を読んだり、

「町衆なら祇園祭だろう」とネット検索したりしていたら、

この映画に行き当たったのである。

 

監督の途中交代など相当混乱した制作現場だったらしい。

権利関係も複雑だそうで、ソフト化もされず

毎年、祇園祭開催月の7月に

京都文化博物館で上映されることになっている。

 

※ご興味のある方は、「映画 祇園祭」で検索してみてください。

 この映画にまつわる複雑さに、ハマります。

 

7月23日13:30からの上映は

観客は一席おきに空ける感じだったが、

けっこう入っていた。

ほとんど中高年、というか高齢者の方々で、

若者はいなかった。

 

応仁の乱で30年以上途絶えていた祇園会を、

町衆が「俺たちの、祇園会ではない“祇園祭”をやろう!」と

立ち上がる物語。

 

映画はとっても長かったが、

まだ陰惨になる前の錦之介、

まだ20代だが既に妖気ただよう岩下志麻、

その他、当時の五社協定の枠を超えた、

オールスターキャスト。

私がわかるだけでも

三船敏郎、志村喬(『七人の侍』コンビである)、

田村高廣、渥美清、北大路欣也、田中邦衛、

小沢栄太郎、佐藤オリエ、

カメオ出演の高倉健、美空ひばり 等々、

とにかく豪華だった。

(なぜこういうことになったのかも、

 ウィキなどに詳しく掲載されています。)

 

ところどころ「無理やり感」があるけれど、

私はけっこう楽しめて、感動した。

歴史の勉強にもなった(すぺてを鵜呑みにしてはいけないが)。

しかもチケット代は500円。

 

また見られるのはもう来年。

来年は京都にいないけど、

ちょっとクセになりそうである。