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美の渉猟

感性を刺激するもの・ことを、気ままに綴っていきます。
お能・絵画・庭・建築・仏像・ファッション などなど。

絵金の大規模展

2023-03-15 20:07:55 | 絵画

もうこんな時間だ。ブログ書かなきゃ。

 

4月から、あべのハルカス美術館では

絵金(えきん)の大規模展をやるそうだ。

キャッチコピーは「恐ろしいほど美しい」。

絵金とは、土佐の絵師・金蔵のこと。

幕末から明治にかけて

血みどろの芝居絵を描いた人である。

 

高知では今でも夏に

絵金の屏風を飾る「絵金祭り」をやっているらしい。

 

私が絵金の名を知ったのは

映画評論家の田山力哉が書いた本

『市川雷蔵かげろうの死』を読んでいた時である。

 

この本を読んだのは

収録されている「田宮二郎いのち純情の死」を

読みたかったからだが、

同じ本に「闇に堕ちた監督 小説・中平康」という

小編も収録されていた。

 

映画監督の中平康が

カンヌ映画祭に出品した映画が

『闇の中の魑魅魍魎(ちみもうりょう)』と

いうのだが

それは絵金を主人公にした映画だった。

(見たことはありません。)

 

たまーにNHKが絵金の特集を放送したりしていたが

なんでまた今、絵金なんだろうか。

 

チラシの裏の文章を読んでも

「高知県外では半世紀ぶりの大規模展」

というだけで

「なぜ今」なのかは書かれていない。

 

幕末から明治初期の動乱期に描かれた芝居絵。

企画した学芸員さんは

その時代と、現代との相似点か何かを

感じとっているのだろうか?


繊細なセンサーを持つ人 アンディ・ウォーホル

2023-01-16 16:52:58 | 絵画

昨日のNHK Eテレ「日曜美術館」は

アンディ・ウォーホル特集だった。

いま京都の京セラ美術館でウォーホル展が開催中。

 

最初に有名なキャンベルのスープ缶の絵が紹介された。

スープの缶をそのまま描いたもの。

ウォーホルは子供の頃、貧しかったそうで

キャンベルのスープばかり飲んでいたという。

 

解説していた立教大学の先生は

「ウォーホルは何気ないものに美を見出す、

 繊細なセンサーを持っていた」と

言っていた。

 

何だ、それって

ほこりをかぶった瓶の絵ばかり描いた、

イタリアの画家モランディといっしょじゃないの。

 

ウォーホルには軽薄な印象しかなかったのだが、

目を開かれる思いだった。

(私にとってのアンディ・ウォーホルとは、

 昔のテレビCMで、たどたどしい日本語で

 「アカ、ミドリ、グンジョウイロ」とか

 「オト、オトーサン」と言っていた人である。)

 

やっぱり日曜美術館は勉強になるな。

 

※ご参考

 存在の通訳者―福原信三とモランディと龍安寺石庭の作者― - 美の渉猟 (goo.ne.jp)


メトロポリタン美術館展 Beautiful boy 画家が描いた子供

2022-04-23 19:42:14 | 絵画

今、東京で
メトロポリタン美術館展が開催中だが、
私は1月15日に大阪で見た。

( ↓ 大阪市立美術館のロビー)

最終日の前日の土曜日ということもあってか
混んでいて、りっぱな「密」状態だった。

メトロポリタン美術館と言えば、
NHK「みんなのうた」で
「タイムトラベルは楽し
 メトロポリタン・ミュージアム
 大好きな絵の中に 閉じ込められた」
と歌う大貫妙子の優しい歌声を思い出す。

「そんなところの絵なんて、
 一生見られないだろうな」
と思っていたら、大挙してやってきた。
しかもまず大阪へ。
人間、生きてみるものである。

宗教画がメインの中世から
人間そのものを描いた近代まで
有名どころが、てんこ盛り。

中でも心に残ったのは、
子供の絵だった。

ゴヤの「ホセ・コスタ・イ・ボネルス」。
著名な医者の息子を描いたという。
4、5歳だろうか。
横山大観の「無我」を思わせるような、
まだ視線の焦点が定まっておらず、
足も「ドン」と開いたままの
無防備な姿。

木馬の手綱や、
赤い羽根飾りがついた帽子を持つ
小さな手の表情がかわいらしい。

背景はグレーだけれど
うすい桃色が透けて見えて
それがこの絵に独特の温かみを
与えている。

かわいい盛りの男の子の
かわいらしさを
あのゴヤが
こんなふうに描けるとは。
(ゴヤと言えば
 「我が子を食らうサトゥルヌス」だもん。)

そのとなりに、ほぼ同じ大きさの、
これまた子供の絵が並べてあった。
今度は、マネである。
「剣を持つ少年」。
10歳の誕生日を前にした
男の子の絵。
鑑賞者に向けられた視線、
剣を持つ手、革靴を履いた足にも
明確な意思が宿る。
男の子の母親は、長い付き合いを経て
マネと結婚したという。

この2枚が並べられた空間には、
何とも言えない幸福な空気感があった。
本当にうまい画家が描いた
子供の絵って、いいな。

もう一枚、次はモネ。
モネが自分の息子ジャンを描いた作品、
「木馬に乗るジャン・モネ」。
木馬といっても、
三輪車に木馬が乗っているような、
乗りこなすにはちょっと技術が
いりそうなシロモノ。

5歳のジャンは必死で
ペダルを漕いでいるように見える。

小さな茶色い帽子、
白いブラウス、
ベージュ色の袖なしのスーツと、
なぜかチュチュのようなスカートを
はいている。
黒白しま模様の靴下に
パリの小粋さを感じる。

図録では縮小されていて
よくわからないが、
帽子の下の白い小さな顔が
とてもきれいに描かれている。

白い小さな顔は透明感にあふれ、
美しい我が子へのモネの愛情が
ひしひしと伝わってきて、
泣きそうになった。

それはジョン・レノンが
オノ・ヨーコとの間の息子
ショーン・レノンのことを歌った
Beautiful Boyという曲を
思い出させる。

サビの部分の歌詞は
Beautiful, beautiful, beautiful
Beautiful boy

ジャン・モネと同じく5歳の
ショーンに捧げられた曲。

親がこんな曲を書いてくれたら、
親がこんな絵を描いてくれたら、
もう一生、何があっても
生きていけるだろう。

あと2枚、感銘を受けた絵。

一枚はセザンヌの
「リンゴと洋ナシのある静物」。
画面の壁や机はゆがんでいて
平衡感覚がおかしくなる感じ。
その上のリンゴも
机から落ちそうで
不自然なのだが、
でもリンゴなのだ。

リンゴの存在感がズシッと
見ている者の目に質量をもって
迫ってくるのである。

「これがセザンヌか」と
ようやくわかった気がした。

これも図録では、
リンゴの重量感は伝わってこない。

(でも図録は印刷がとてもきれいです。)

最後の一枚は再びモネ。
「睡蓮」である。
だが、よく見る「睡蓮」ではなく、
パステルで描いた抽象画のような
睡蓮だった。
けれど、
力強く胸に迫ってくる睡蓮だった。

この睡蓮を描いた時、
モネの視力はかなり衰えていたという。

見えないからこそ心の目で描いたような。
ターナーの、晩年の、
光だけを描いた絵のような睡蓮だった。

(ターナーの絵も、来てます。)

こんなふうに
すばらしい絵がたくさん来ている
メトロポリタン美術館展。
まだの方はぜひどうぞ。


華麗な醍醐寺

2022-04-02 20:02:32 | 絵画

昨日、醍醐寺の夜桜を見に行った。
事前予約制で人数制限されていたので、
程よい人数のもと、夜桜を堪能した。

三宝院庭園は見られなかったが、霊宝館に入ることができた。
霊宝館は、とてもりっぱな建物だった。広すぎるぐらい広かった。

間近に見る五大力尊、曼陀羅図、十二神将図などなど、
醍醐寺の霊宝は迫力があって、しかも華やか。

秀吉の「醍醐の花見」の時に詠まれた、
和歌の短冊も展示されていた。
短冊は、秀吉に始まり、
北政所、前田利家、淀殿、松の丸殿と、
序列にしたがって並べられ、
なかなか興味深い。

それらの中で、本当に思いがけず、
宗達の「舞楽図屏風」に再会。

何年か前の醍醐寺展で見たときは、
五大力尊などの仏像群に迫力負けしていたが、
今は仏像群とは離れて展示されていて、
この屏風の素晴らしさを堪能できた。

三島由紀夫も絶賛した屏風だ。
「剛毅な魂と繊細な心とが、対立し、相争うたまま、一つの調和に達してゐる。装飾主義をもう一歩といふところで免かれた危険な作品。芸術品といふものは、実はこんな危険な領域にしか、本来成立しないものだ」。

寒の戻りでかなり寒かったが、
醍醐寺の華麗な歴史を、改めて知った夜だった。


クラーナハ!世にも冷たい美女たちがやってくる。

2016-11-26 19:00:54 | 絵画
 朝、PCに向かってはいるのだが、なかなか1本が書き上げられない。デヴィッド・ボウイのラスト・アルバムを聴いた感想から「I can’t give everything away デヴィッド・ボウイの遺言」というタイトルで書こうとしているが、思いはさまざまに錯綜して、まとまるまでには時間がかかりそうである。ということで、ちょっとした雑感を書きます。

 いま東京・上野の国立西洋美術館ではドイツ中世の画家クラーナハ(昔はクラナッハと言っていたのだが)の大回顧展を開催中だ。クラーナハの絵が日本にやってくる、しかも「大」回顧展で、と知ったとき、私は驚きと感激で息が止まりそうになった。クラーナハを知ったのはたまたま目にした1枚の絵。それは「ユーディット」だった。豪華絢爛な衣装を着て艶然と微笑む美女。その目は大きく見開かれてはいない、まぶたが少し瞳にかかり、見る者を少し見下すような挑発するような感じ。唇は口角がほんの少し上がっているだけ。その「冷艶な」という表現がふさわしい顔が、すばらしく私の好みだった。私の好きな女優は1970年代に活躍したシャーロット・ランプリングやドミニク・サンダ(いまならモデルのロージー・ハンティントン・ホワイトリーだ)だが、彼女たちと同じ冷ややかなエロティシズムをたたえた顔だ。赤毛の長い巻き毛に大きな縁の帽子をかぶり、首にはチョーカーとネックレスをつけ、真っ白な胸元を見せた複雑なつくりのドレスを着て手には革手袋。その革手袋をつけた右手には剣(剣と美女という取り合わせも好きだ)、そして左手には、男の生首を持っている。ユーディットとは旧約聖書に登場する女性の名前。自分の町に攻めてきた敵将を誘惑して一夜をともにし、男が油断したスキにその首をとって町を救ったという。そんなことを成し遂げたあと、手袋に帽子に豪華な装身具まで身につけて艶然と微笑んでいる、その取り合わせの妙にクラクラしてしまう絵だ(そう言えば髪は結い上げられていない。これは情事のあとを表しているのかも)。
 さまざまな画家がこの聖書の話を絵にしているが、双璧はこのクラーナハとクリムトだろう(単なる私の趣味だが)。この「ユーディット」の他にも、体は裸なのに豪華な帽子とチョーカーを身につけ、結い上げた髪には真珠をちりばめて、これまた艶然と微笑む「ヴィーナスとクピド(キューピッド)」も魅力的だ。私はいっときクラーナハの画集が欲しくて欲しくてたまらなかったときがあったが、美術全集には入っておらず、単独の画集もなく、新聞や雑誌の切り抜きで我慢するしかなかった。それが突然の大回顧展、東京まで行こうかしらと思っていたら、来年なんと大阪にやってくるのである(中之島の国立国際美術館に)。生きていてよかった。図録もグッズも買い放題だ。もしかしたら、美術館に何度も行ってしまうかもしれない。図録は2冊買ってしまうかもしれない。展示室に足を踏み入れたとたん、冷ややかに微笑む美女たちに取り囲まれるシーンを想像して、ときどきうっとりしてしまう今日この頃である。