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美の渉猟

感性を刺激するもの・ことを、気ままに綴っていきます。
お能・絵画・庭・建築・仏像・ファッション などなど。

映画『孤狼の血 LEVEL2』ー広島の地層に埋まる怒りのマグマー

2022-05-20 19:52:42 | 映画

一昨日、ネイルサロンで、
『孤狼の血 LEVEL2』を見た。
(施術中に映画やバラエティなどの映像を見ることができる。)

映画評で「鈴木亮平の極悪非道ぶりがすごい」と
読んだことがあり、興味があったのだ。
(ちなみに役所広司主演の『孤狼の血』は見ていない。)

その極悪非道ぶりは、
ホントにすごかった。
初っ端からすごかった。

あんまり書くとネタバレになるので、
印象的な場面と感想だけ。

映画の冒頭、
鈴木亮平扮するヤクザが、出所後、
収監中にいざこざのあった刑務官の、妹を訪ねる。
というより、
刑務官の妹がピアノ教師をしている家へ、
手下と共に押し入る。

で、妹を襲うのであるが、
そのとき、なぜか、
妹の目を潰す。

鈴木亮平が、刑務官の妹の顔を両手ではさんで、
両手の親指を、妹の目に突っ込むとき、
ホントに怖かった。
このシーンを最後まで見ていられず、
画面から顔をそむけてしまった。
耳には妹の悲鳴だけが聞こえてきた。

「ネイルをしてもらいながら見る映画じゃなかったかも」と思いながらも、
そのまま続行した。

「目を潰す」ことにこだわる理由は、
映画の中で、おいおい明らかになる。

主役は暴対刑事役の松坂桃李。
いい感じだったが、
鈴木亮平が強烈すぎた。

舞台は広島の架空の町。
原作者は柚月裕子さん。
『仁義なき戦い』などのヤクザ映画のファンで、
「ヤクザの世界を描くなら絶対広島が舞台」と思って、
『孤狼の血』を書いたという。
(ただしLEVEL2は、内容は『孤狼の血』の続編ではあるが、
原作小説には描かれていない完全オリジナルとのこと。)

映画を見ていたら、
広島がヤクザ映画の舞台になる理由が、
だんだんわかってきた(合ってるか知らんけど)。

広島は、原爆を落とされた町だからだ。

戦争というものの惨禍をもっとも強烈に
経験させられた町。

そして最も弱い立場の者に、その惨禍はより一層降り注ぐ。
その最も弱い立場の者が、怒りを募らせて、
ヤクザになる。
そんな気がする。

鈴木亮平扮するヤクザは、少年の頃、父親に虐待されていた。

ラスト近く、松坂桃李と鈴木亮平が殴り合うシーン。
鈴木亮平は「オレには死神がついとってなかなか死ねんのよ」と言う。
このシーンの鈴木亮平の演技は、
ビキニ環礁の水爆実験が生んだ怪獣という設定のゴジラのごとく、
「存在の悲しみ」のようなものを感じさせて、秀逸だった。

 

『仁義なき戦い』は戦後すぐの時代設定。
主演の菅原文太扮するヤクザは復員兵だった。

『孤狼の血』は戦後ではなく平成初めの時代設定で
原爆とは関係なさそうだが、
広島の地層に、怒りのマグマが埋まっているような気がする。
鈴木亮平のブチぎれた演技を見ていると、そう思う。

原作者の柚月裕子さんは岩手県の出身。
ご両親を東日本大震災で亡くされたという。

東日本大震災の復興をより複雑にしているのは、
言うまでもなく原発事故。

旧日本軍や日本政府、大企業の論理の中で
犠牲になってきた市民の怒りのマグマが、
『仁義なき戦い』や『孤狼の血』、あるいは『ゴジラ』に
通底しているように感じる。


映画「ココ・アヴァン・シャネル」

2022-04-13 18:50:04 | 映画

私が通っているネイルサロンでは、
施術中にネトフリなどの映画を自由に選んで見ることができる。
これがなかなか楽しい。

今日選んだ映画は「ココ・アヴァン・シャネル」。
シャネル役は「アメリ」のオドレイ・トトゥ。

「アメリ」は見ていないけれど、
私はこの人が演じた「ダ・ヴィンチ・コード」のヒロインが好きだった。

黒カーディガンと白シャツと、膝丈スカートとヒールの低い靴で、
トム・ハンクスに手を引かれ、パリの町を駆けずり回る役だった。
(その点はちょっと「シャレード」のオードリー・ヘップバーンっぽい。)

何気ない普段着の姿がとても魅力的に見えた。
膝から下の脚が細いのがいいのかもしれない。

今日の映画は、
ココ・シャネルが姉と共に孤児院に預けられるところから始まり、
お針子やキャバレーの歌手、キャバレーで知り合った将校の愛人生活を経て、
デザイナー、シャネルになるまでの物語。

働かない上流階級の人々との不毛で退廃的な暮らしの中でも、
シャネルは周囲に流されず、「私、働きたいの」と言い続ける。

コルセットに締め付けられたドレス、羽根飾りの帽子を捨て、
シンプルに徹し、時には男性の服を仕立て直して着る。

愛人の将校の館で出会った英国人男性との旅先で、
パーティ用の服を仕立てる時も、
「それでは形が崩れます」と渋る仕立屋に、
「言うとおりにして」とはっきり言い、自分のスタイルを決して曲げない。

あんまり書くとネタバレになるので、紆余曲折を経て、
すでに成功し、ファッションショーを開く場面が最後。

そのファッションショーが、すばらしかった。
すばらしく美しかった。
泣けるほど美しかった。

愛人生活の頃の服装は、
革新的ではあっても、まだ野暮ったかった。
それが、英国人男性からの、
「君のスタイルはそのままにして、優雅にすればいい」という
アドバイスが生かされて、
締め付けがなく、機能的で、しかも優雅な服に生まれ変わっていた。

ファッションショーはサロンで開かれていた。
サロンの階段から、美しい服を着たモデルが次々と降りてくる。
シャネルは定番のシャネルスーツを着て、
階段の奥に座って煙草を吸いながら、その様子を眺めている。

かつてキャバレーの裏階段で、
煙草を吸いながら舞台を盗み見ていた姿がそれに重なる。
(映像が重なったのか、私の記憶の中で重なったのか、忘れてしまったが。)

ショーが終わり、階段に座っているシャネルに対して、
モデルもサロンの客も、全員が拍手している。

映画は途中、あまり盛り上がりもなく、
「まあまあかな」と思いながら見ていたが、
この最後の場面の美しさを見て、
すべてはこの美しさに行き着くための道のりだったのだ、
と思った。

孤児院育ちという不遇さに屈さず、
愛人生活に流されず、
自分のスタイルを崩さず、
唯一無二の「美の王国」を築いた人。

自分の感性を人にゆだねないことの大切さを、
思い出させてくれた映画だった。


「ブリット」と「新幹線大爆破!」

2022-03-23 12:30:00 | 映画

昨日、NHKBSプレミアムで、映画「ブリット」を見た。
一度見たことがあるし、
そんなん見てる場合か?という状況なのだが、
主演のスティーブ・マックィーンが好きなのと、
凄まじいカーチェイスに圧倒された覚えがあり、
「あのカーチェイスをもう一度見たい!」と思って、見てしまった。

ちなみに「ブリット」のあらすじは、
上院議員から議会の証人の護衛を依頼された腕利き刑事が、
護衛の最中に証人を殺し屋に殺されてしまい、
裏に何かあると嗅ぎ取り、独自に真相を探るというもの。
刑事がスティーブ・マックィーン、
上院議員がロバート・ボーン(「タワーリング・インフェルノ」でも議員役)、
刑事の恋人役がジャクリーン・ビセット(まだそんなに美しくなかった)、
そして今回初めて気づいた、チョイ役のタクシードライバーにロバート・デュバル。

久しぶりに見たカーチェイスは、やっぱりすごかった。
BGMなしで、延々と続く。
007の映画でもよくカーチェイスはあるが、
非現実的で必然性を感じない場合が多い。「無理やり見せてる」感じ。
それに引きかえ、「ブリット」のカーチェイスは
ドラマの流れの中で必然的に発生する。
しかも、スティーブ・マックィーンはレースに出るほどの車好きで、
それが高じて「栄光のル・マン」という映画をつくったぐらいの人である。
この映画でも延々と続くカーチェイスを演じている。
(さすがに危険な場面はスタントマンが演じたそうだが。)

今回新たに気づいたのは、カーチェイスと並んで緊迫する、
犯人を空港で追いつめる場面について。
滑走路で、動く飛行機をかいくぐりながら追い詰めていくという、
これまたすごい場面である。
しかし、見ていた時、
あれ?どこかで見たことある、と思った。
それは、「新幹線大爆破!」という日本映画で、
犯人役の高倉健が、空港で追い詰められる場面であった。

滑走路の場面の前には、刑事が搭乗口で犯人を捜す場面があるのだが、
それも似てる!のである。

公開は「ブリット」が1968年、「新幹線大爆破!」が1975年。

「似てる」ついでに書くと、
またまたスティーブ・マックィーン主演の「華麗なる賭け」の冒頭で、
ホテルの部屋の中でマックィーン演じる大金持ちが、
銀行強盗をさせる人間を面接するとき、
逆光で自分の顔はわからないようにしておいて、
面接に来た人間に強烈なライトを浴びせる場面。

これも、「蘇る金狼」という日本映画で同じような場面を見た。
公開は「華麗なる賭け」は1968年、「蘇る金狼」は1979年。

そんなに映画を見ていない私でも気づくぐらいだから、
70年代の日本映画はアメリカ映画からパクって、いや、影響を受けていたのだろう。

「似てる!」とは別に、
「ブリット」という映画を見終わったあとの気分は、
苦かった。
事件は解決するのだが(犯人射殺という形で)。
この苦さは、スティーブ・マックィーンの他の映画、
「華麗なる賭け」、「タワーリング・インフェルノ」でも感じた。
いずれも1960年代後半から70年代前半にかけての映画だ。

これらの映画には、
何かが解決したあとの爽快感がないのである。
もう少し緻密に言うと、
爽快感一辺倒では終わらなくなっていて、
いろいろな種類の「苦み」が残るのだ。

「ブリット」なら、事件は一応解決したが、
このまま刑事を続けて、血と暴力にまみれた人生でいいのか。

「華麗なる賭け」なら、大金持ちの犯罪者は真摯な愛を尻目に外国へ高飛びしたが、
それが本当に人間として幸せなのか。

「タワーリング・インフェルノ」なら、108階という超高層ビル火災はおさまったが、
こんなビルが本当に必要なのか。

さまざまな「苦み」が残される。

それは、当時のアメリカが、
ベトナム戦争真っ只中にあったことと無縁ではないだろう。

映画「パットン大戦車軍団」の冒頭で、
「戦争に負けない国・アメリカ」の象徴として、
画面いっぱいに星条旗が映し出されるが、
その星条旗が、以前ほど雄々しくはためいてはいないことを、
映画製作者という知識人たちは、敏感な感性で感じ取っていたのではないだろうか。


映画『御法度』

2021-10-13 14:59:27 | 映画

前回の記事掲載から、はや一カ月。ようやく庭の本の原稿執筆に取り掛かっているので(遅いんじゃ)、ブログ記事を書く気が起こらなかったのだ。そんな たるんだブログに、諦めずにアクセスしてくださっている方々、本当にありがとうございます。

10月11日、NHKBSで映画『御法度』を久しぶりに見た(映画なんか見てる場合かとも言えるのだが)。1999年公開。監督は大島渚、主演はビートたけし、音楽は坂本龍一という『戦場のメリークリスマス』体制の映画だ。さらに衣装はワダエミ。しかし当時の一番の話題は、伝説の俳優・松田優作の息子、松田龍平のデビュー作ということだった(と思う)。

原作は司馬遼太郎の新選組短編集から二編を組み合わせたもの。司馬遼太郎の小説の中で私が唯一読んだことのある『前髪の惣三郎』がその一つだった。加納惣三郎という十九歳で前髪をまだ残している美少年が新選組に入隊し、隊士たちが惣三郎をめぐって愛欲の炎を燃やすという内容だ。

その惣三郎に松田龍平が扮したが、私には美少年に見えなかったので(トロンとした独特の眼つきは不気味さを秘めていたが)、映画全体に説得力が足りなかった。これは惣三郎が超絶に美しくないと成り立たない映画だと思う。例えば『ベニスに死す』の超絶美少年、ビヨルン・アンドレセン並みの美貌だったら、隊士達が狂うのも十分わかるのだが(今現在の松田龍平さんは独特の存在感のあるステキな俳優さんだと思っています。『大豆田とわ子と三人の元夫』も良かったし)

『戦メリ』にしても、主役の英国人将校セリアズが美しいから、日本人将校ヨノイが敵ながら心を奪われ、頑なな心を開くのだ(映画の中では「彼はヨノイの心に種をまいたのです」と表現されていた)。セリアズに扮したのは、超美形のロックスター、デヴィッド・ボウイであった。しかし『戦メリ』でのボウイは、残念ながらあまり美しく撮れていなかった。だからあの映画も、私にとっては説得力がなかった(ボウイの主演映画『地球に落ちてきた男』では、この世のものとは思えないぐらい美しかったのだが)。『戦メリ』で誰よりも存在感があったのは、ビートたけしだった。

今回『御法度』を再見してみて、やっぱり映画としては説得力が足りないと思った。坂本龍一の音楽も、ワダエミの衣装もいいのに、それぞれの要素がバラバラで、結末に向かって収束していかないまま終わっているように思う(この点も、マーラーの交響曲が心を震わせるように鳴り響く『ベニスに死す』との差を感じる)。特に坂本龍一の音楽はとても美しいのに、もったいない(でも美しすぎて、男色におぼれて身を滅ぼすことがテーマである映画の音楽としては、毒気が足りないとも思う)。

バラバラの要素の中で、しかし今回初めて発見したものがある。それは京都という町の描写だ。惣三郎が禅寺の庭を前にして座り、壮麗な瓦屋根を見上げて「すごい…」とつぶやく場面。夜、寺の長い階段上で、隊士の一人、山崎が刺客に襲われる場面。いずれも白と黒のコントラストを意識して撮影されたと思う。そのコントラストの強さに、京都の町が持つ凄みが生かされている。戦乱にまみれてきた歴史から来る凄みである。京都で生まれ、京都で学んだ大島渚ならではの描写ではないだろうか。

※『ベニスに死す』…監督ルキノ・ビスコンティ。たぐいまれな美少年の、太陽神アポロンのような輝かしさと、彼に恋して命を落とす高名な作曲家の、白髪染めを黒く垂れ流しながら死んでいく、その醜さとみじめさ。美と醜をこれ以上なく際立たせて、描き切った名作。やっぱりビスコンティはすごいと、『御法度』を見て改めて思った。


映画「アンダーグラウンド」

2021-08-26 17:18:10 | 映画

NHKBSプレミアムで映画「アンダーグラウンド」(1995年)を見た。

今は存在しない国、ユーゴスラヴィアを舞台に、
第二次大戦中のドイツ軍による首都ベオグラード爆撃から
90年代のユーゴスラヴィア内戦に至るまでを
ユーモラスかつファンタジックに描いた作品。
カンヌ国際映画祭パルムドール受賞。

なんかすごかった。
見た後はしばらく動けなかった。

第二次大戦下、ポーランドのダンツィヒを舞台にした映画
「ブリキの太鼓」も大変な映画だったが、
見終わった後の心持ちは、
「アンダーグラウンド」の方がもっと重い。

それは、「ブリキの太鼓」は一応、
第二次大戦終了によって映画の結末にケリがついた感じがあったが、
「アンダーグラウンド」は戦争につぐ戦争を描き、
ケリがついた感じがないからだ。

NHKスペシャル「映像の世紀」第10集が、
ちょうど映画で描かれたあたりの時代をまとめているが、
そのタイトル「民族の悲劇 果てしなく」を思い出した。

でも映画全体の演出は、
「ユーモラスかつファンタジック」なのだ。
それでもこの重さは胸に残ってまだ消えない。

感想をまとめるのはとても無理なので、
「見た」という記録だけにとどめます。