まあ仕事で、下北半島にもよく行った。
考えてみれば、特に信仰深いわけでもないのに、恐山にも3~4回行っている。むつ市を出て山道を走るうちに、あちこちのコーナーに赤い涎掛けをした小さな石の地蔵がたっている。小さいうちに死んだ子供を弔う地蔵で、セルロイドの風車がお守りをするようにまわっている。この風景は、寺山修二の「田園に死す」そのままで、不気味なファンタジーは実在の風景を引き写したものだったのだ。
恐山は単なる山の地名ではなく、温泉が噴出する地獄を思わせる風景の中、慈覚大師が開いた霊場で寺院があるのはもちろん、宿坊もある。つまり、田舎のお婆さんたちが農閑期になるとお参りと休養を兼ねて訪れ、温泉に浸かって羽根を伸ばしたと私を案内してくれた人は言っていたけれど、どうも不気味で泊まるような気にはなれない。
境内と言うか、地獄めぐりをしてみると、そこここに小さな社があり、中を覗くと酒器とか時計など、日常身につけるものが入っている。そこにまつられた人の遺品だ。ここでも、からからと風車がまわっている。
そんな中を歩いていくと、白い砂とあくまでも青く澄んだ湖がある。宇曽利湖だ。硫黄分の強い湖には、魚一匹すむことが出来ず、あくまでも静かだ。
こんなところで宴会を出来るとしたら、お婆さんたちは相当な度胸だと思うのだが、私の知人の脚色だろうか。
まあ、宴会はともかく、ここにはイタコがいて口寄せ、つまり死んだ人と話をさせてくれる。それを求める人たちにとっては、訪れるべき場所で、恐れる場所ではないのだろう。
知人の父親は、青森に住みながら一度もそこを訪れたことがないという。恐山に向かおうとすると小さな事故とか何か障りがあり、どうしてもたどり着けないのだと言うのだが、それを信じてしまいそうな場所だ。
考えてみれば、特に信仰深いわけでもないのに、恐山にも3~4回行っている。むつ市を出て山道を走るうちに、あちこちのコーナーに赤い涎掛けをした小さな石の地蔵がたっている。小さいうちに死んだ子供を弔う地蔵で、セルロイドの風車がお守りをするようにまわっている。この風景は、寺山修二の「田園に死す」そのままで、不気味なファンタジーは実在の風景を引き写したものだったのだ。
恐山は単なる山の地名ではなく、温泉が噴出する地獄を思わせる風景の中、慈覚大師が開いた霊場で寺院があるのはもちろん、宿坊もある。つまり、田舎のお婆さんたちが農閑期になるとお参りと休養を兼ねて訪れ、温泉に浸かって羽根を伸ばしたと私を案内してくれた人は言っていたけれど、どうも不気味で泊まるような気にはなれない。
境内と言うか、地獄めぐりをしてみると、そこここに小さな社があり、中を覗くと酒器とか時計など、日常身につけるものが入っている。そこにまつられた人の遺品だ。ここでも、からからと風車がまわっている。
そんな中を歩いていくと、白い砂とあくまでも青く澄んだ湖がある。宇曽利湖だ。硫黄分の強い湖には、魚一匹すむことが出来ず、あくまでも静かだ。
こんなところで宴会を出来るとしたら、お婆さんたちは相当な度胸だと思うのだが、私の知人の脚色だろうか。
まあ、宴会はともかく、ここにはイタコがいて口寄せ、つまり死んだ人と話をさせてくれる。それを求める人たちにとっては、訪れるべき場所で、恐れる場所ではないのだろう。
知人の父親は、青森に住みながら一度もそこを訪れたことがないという。恐山に向かおうとすると小さな事故とか何か障りがあり、どうしてもたどり着けないのだと言うのだが、それを信じてしまいそうな場所だ。