海辺の暮らし

この歳まで引越しや旅行を繰り返してきた私が、これからの旅も交えて街や漁港のことを書いていきたいと思っています。

恐山にも何度も行ったけれど、泊まる気にはなれなくて。

2009-02-28 16:32:07 | Weblog
まあ仕事で、下北半島にもよく行った。
考えてみれば、特に信仰深いわけでもないのに、恐山にも3~4回行っている。むつ市を出て山道を走るうちに、あちこちのコーナーに赤い涎掛けをした小さな石の地蔵がたっている。小さいうちに死んだ子供を弔う地蔵で、セルロイドの風車がお守りをするようにまわっている。この風景は、寺山修二の「田園に死す」そのままで、不気味なファンタジーは実在の風景を引き写したものだったのだ。
恐山は単なる山の地名ではなく、温泉が噴出する地獄を思わせる風景の中、慈覚大師が開いた霊場で寺院があるのはもちろん、宿坊もある。つまり、田舎のお婆さんたちが農閑期になるとお参りと休養を兼ねて訪れ、温泉に浸かって羽根を伸ばしたと私を案内してくれた人は言っていたけれど、どうも不気味で泊まるような気にはなれない。
境内と言うか、地獄めぐりをしてみると、そこここに小さな社があり、中を覗くと酒器とか時計など、日常身につけるものが入っている。そこにまつられた人の遺品だ。ここでも、からからと風車がまわっている。
そんな中を歩いていくと、白い砂とあくまでも青く澄んだ湖がある。宇曽利湖だ。硫黄分の強い湖には、魚一匹すむことが出来ず、あくまでも静かだ。
こんなところで宴会を出来るとしたら、お婆さんたちは相当な度胸だと思うのだが、私の知人の脚色だろうか。
まあ、宴会はともかく、ここにはイタコがいて口寄せ、つまり死んだ人と話をさせてくれる。それを求める人たちにとっては、訪れるべき場所で、恐れる場所ではないのだろう。
知人の父親は、青森に住みながら一度もそこを訪れたことがないという。恐山に向かおうとすると小さな事故とか何か障りがあり、どうしてもたどり着けないのだと言うのだが、それを信じてしまいそうな場所だ。

青森県北津軽郡小泊村はもうなくなってしまって。

2009-02-27 10:25:20 | Weblog
10年ほど前まで私は仕事で小泊村に通っていた。小泊といっても場所が分からないだろうか。津軽半島の日本海側のはずれにある港町だ。隣町は三厩村といって、竜飛岬が有名だ。
青森空港を降りて、レンタカーを借りると五所川原とか太宰治で有名な金木町、蜆で知られた十三湖を左手に見ながらさらに北上し、海辺に出たらもう間もなく小泊だ。四季それぞれのこの道を走ったが、ある秋の霧深い朝にりんご園の間をぬけて通る抜け道を走っているとき、樹高が低い林檎の木に大きな赤い林檎がたわわに実っているのが目に入ってきた。そのときの、こんな小さな木にこんな大きな林檎が実るのかと言う驚きは、いまでも残っている。
小泊は、真烏賊(スルメイカ)漁が盛んで、港に行くとかなり大きなスルメを洗濯物のように紐にかけて天日干にしている。舟を出してもらって港の外を一回りしたことがあるけれど、透明度の高い水底に海胆がいっぱい生息しているのが見えた。食堂では、店主がもぐって獲ってきた海胆を駐車場の脇で剥いていて、それをたっぷり乗せた海胆どんぶりが1800円くらいだった。
役場の課長の話では真冬の日本海が荒れると、港の前の防波堤のところにあるひとつ50トンもある消波ブロックが動くと言う。厳しい土地だ。
3年ほど前に教えてほしいことがあって、旧知の課長に連絡すると、町村合併になると言う。小泊村と中里町が合併して、中泊町になるのだと言う。二つの名前を足して二で割っただけの単純な名前だ。住民を納得させるにはこれしかなかったのかもしれないが、もう私の知っていた小泊村はなくなってしまった。平成の大合併とか行って全国の市町村で同じようなことが起こっているけれど、昔学校で覚えた地理が役に立たなくなってしまった。なんだろうな~。

思いがけない道の駅の繁盛振り。

2009-02-26 09:11:15 | Weblog
伊東にも「マリンタウン」と言う道の駅があるけれど、吹浦にも「ふらっと」と言う道の駅がある。仕事柄、といっても何をやっているか書いていないのでわからないでしょうが、まあ、私は日本の田舎を歩き回ったことにかけては、人後に落ちない。その田舎に、ある日道の駅が出来始め、どうなることやらと思っていたのだけれど、今日の隆盛。慶賀至極である。
なぜこんなひねくれた言い回しをしているかというと、道の駅も国土交通省の補助金事業で、現在の多くの道の駅のイメージで言えば一般道路に出来た高速道路のサービスエリアのイメージでしょう。ところが、補助金の対象になっているのは駐車スペースとトイレ。長距離トラックのドライバーが車を止めて仮眠を取ったり、帰省ラッシュのときトイレに困らないようにするところまでが当初の企画だったようだ。
20年位前に青森県の十和田湖近くで「道の駅」と言うものを作るという企画を始めて耳にした。現場に行くと、国道脇ではあるけれど周囲に何もない荒地。これを町で買い上げて、施設を作るという。農協の生鮮野菜や地域物産の販売所を併設する計画になっていた。
不明にして私は「誰がこんなところで物を買うんだ」と思っていた。お役所仕事に地権者の利権が絡んだ話でとても商売にはなるまいと思っていたのだ。
ところが、遊佐の道の駅も初年度か二年目には黒字を計上していた。漁師の奥さんたちは新鮮な魚を土地のやり方で調理して出す。季節によって山で採れた茸や筍、マタタビなど、都会では見かけないものを売っているのでドライブの途中の一服で寄ったついでに買い物をして帰る客も多い。
元は便所の話だったのに、地域活性化の核になりつつある。

吹浦から日本海に沿って少し北上すると、秋田県の象潟。

2009-02-25 10:34:59 | Weblog
象潟や雨に西施がねぶの花 松尾芭蕉

象潟は芭蕉が奥の細道で訪れた最北の地だ。国道から少し右に入り線路を渡ると「蚶満寺(かんまんじ)」の駐車場がある。そこに立って付近の景色を見渡すと、田んぼの中に島のような小山が浮かび、そこに松が生えている。その風情は、まるで松島のようだ。というか、江戸時代にはまさに松島のようにこの寺の淵まで海が寄せていたのだが、ある日大きな地震によって一帯が隆起し、いまのような景色ができながったのだそうだ。芭蕉が見ていた頃には、まだこの辺りは海辺だったのだ。そう思うと、大地の運動が太鼓のものではなく、いつ起こっても不思議ではないことが感じられる。
関東大震災も、油断はならないのだ。ただ、地震列島の日本では、その大惨事がやってくる前に、他でも大きな地震が相次いで発生しており、いまそこにある危機として東京直下が多大地震を想像できなくなっているんだろうと思う。私自身、もうそうなったら死んでしまうのだろうなと言うようなことしか考えていない。
与太話のように言われる、富士山の噴火だった、実のところ火山活動が続いている以上は、予測しておくべき災害のひとつだろう。人間の持ち時間が地球の持ち時間と違いすぎるので、100年ほど前のことはただの記録としてしか感じられないんだ。
この金融大恐慌と言うやつも、忘れていた大災害のひとつで、問題は人災だと言うことだこと。人災も、忘れた頃にやってくる。
ああ、象潟も港町で、話したいこともあったのだけれど、今回は話がずれてしまった。また、この件はいつか。

記憶の始まりにあった港。

2009-02-24 09:48:03 | Weblog
私の記憶の一番初めにしまわれている港は伊東に比べてずいぶんこじんまりとした、東北の日本海に面した小さな町の港だ。山形県北飽海郡遊佐町吹浦(ふくら)のみなとだが、初めてそこを見たときの記憶はない。なにしろ、当時の私はまだ二歳か三歳だったのだから。私が物心付いたのは、それから数年、やはり山形県の酒田市で幼稚園に通いだした頃からだ。酒田も港町だが、庄内平野の米を江戸に運ぶ、北前船の交易の歴史も古い豊かな港だ。
しかし、このあたりを小学校の二年生の頃には離れ、私は千葉県の市川で成長し、大学に通い、結婚したので、普通なら故郷というほどの思い出もないはずなのだが、両親が吹浦の人と深い縁があり、何かとその港町を訪ねる機会があった。実は、昨年の夏から秋にかけて二回ほどこの町を訪れている。
酒田から車で国道7号線を秋田方面に下っていくとすぐに遊佐町だ。駅から7号線のバイパスの方向に車を向けると、天気さえよければ大きく鳥海山がそびえているのが目に入る。出羽富士と呼ばれるだけあって、端正な山だ。その麓、上り口に吹浦がある。漁港で登山口なのだ。
小さな港では、華奢な柳鰈とか、はたはたが獲れる。夏には大きな岩牡蠣も名物だ。町の鮮魚店ではみな店先で遠火の炭火であぶり焼きにした魚を売っている。
母の話では、そんな魚が小さな頃の私のおやつだったそうだ。
今では、国道やバイパスが二十年前の景色さえ思い出せないくらいに町を切り裂いてしまったけれど、逆にバイパスが車の流れを町から遠ざけたおかげで古い町の一角は昔の生活をしのばせる形で残った。
私の港に住みたいと言うときの原風景は、確かにこの町にある。

銭湯の元気な爺さん。

2009-02-23 08:41:36 | Weblog
あれは、私が伊東に移って最初の大晦日のことだから、もう6年以上も前になる。私は銭湯のいちばん風呂を狙って2時の開店ちょうどに入ったのだが、大晦日と言うことで常連の爺さんたちがすでに湯船に浸かっていた。
私も湯船に体を沈めて、一年をあれこれ振り返ったりしていたわけだが、横で大きな声が刷る。最初は喧嘩でもしているのかと思ったのだが、単に声の大きい爺さんが威勢のいいことを隣のやや若い爺さんに話しているのだった。
つい聞いてしまったのは、その爺さんの歳が大変なことになっているような気がしたからだ。
「俺はね、安い床屋なんか行かないんだ。何しろ、軍人恩給をもらっているからね。お前さんたちの年金とは額が違うよ。15年軍隊にいると、手柄なんか立てなくても曹長さんだ。曹長といえば、兵隊の中ではいちばんえらいんだ。年金も多くなるさ」
そんな話だ。私の暗算だが、戦前の軍隊の徴兵検査は20歳からだったと聞いたことがある。そこから単純に15年間軍隊にいたとすると、敗戦の利に35歳だ。
それで、あの年が戦後59年だとすると、爺さん90代も半ばではないか。
私は長湯はしないので、そんな話の途中で風呂をあがったのだが、爺さんの単価が耳に残っている。
「俺はさ、年金もらって競輪に行って、温泉に入って、飲んで、それで良いんだ、金なんか残しても仕方ないからぱっぱっと使わなきゃ」なんていってたが、元気でいてくれるとうれしいね。

雨の日の海は憂鬱で。

2009-02-22 12:12:21 | Weblog
窓の外にはいつも海が見えた。いかにも贅沢な世界なのだが、冬の雨の日の海は心の奥にまで憂鬱の波を運んできた。伊東に住んでいることをネガティブに考えてしまうくらい景色だ。
50代で伊東に移り住むということは、こちらにそんな気持ちはなくとも半分リタイアした印象を与える。銀座の酒場に顔を出す回数が目に見えて減った。伊東に帰る約2時間が気を重くさせて、早めに新幹線を捕まえ車内でビールを飲みながら家路に着く方を選ばせるのだ。仲間たちは、私が現役でなくなったと考え出す。中には、私より10歳以上も歳の多い人たちもいるのだが、その人たちは週に2~3回は店に顔を出しているのだから当然の判断だろう。
昼なお暗い海を見つめて、私は沈んでいく。
だらしのないもので、いま住んでいる市川の家からは駅までの歩きの時間を入れても30分見ておけば東京駅まで出られる。有楽町、銀座もすぐそこだ。しかし、いままた私は沈み込んでいる。60歳を過ぎてしまって、そこのこの大恐慌で先が見えないことが大きいだろう。
今日はよく晴れた冬の日曜日だけれど、目の前に海はなく近所の塀が迫っている。気持ちが沈むから、世界も沈んで見えているだけのことなのだ。

悲しい芸者山車。

2009-02-21 11:16:36 | Weblog
さんやれ祭りには、各町会が大きな山車を市中を引き回すかなり盛大な祭りだ。開催時期を確認しようといまネットで検索してみたのだ、伊東市の行事に乗っていない。これは不思議な話だ。あまりに祭りが多くて、忘れられてしまったのだろうか?
ともかく、9月くらいのまだ残暑が厳しい時期だった。この頃は祭りを守り立てる若者が減ってしまったので、情緒のあるはずの山車もエンジンが付いていて悲しい。それでも、各山車に10人くらいは人が付いていて、角を曲がるときなど結構力技がいる。山車の上では子供たちが太鼓や笛を吹いて囃している。
その中に、芸者さんの組合が繰り出している山車があった。
伊東では芸者を講師にした「お座敷大学」なんてものを開催しているくらいで、いまでも芸の出来る芸者が生き残っている。
まさに、生き残っているというしかない高齢の芸者が多く、その人たちが襟に手ぬぐいなど巻いて汗をかきながら山車に付いて歩く姿は、本当に物悲しい。あれは、もう少し考えてあげたほうが良いんじゃないだろうか?

伊東で見かけた、チラシの大型不動産物件。

2009-02-20 08:45:51 | Weblog
私は伊東時代もいまも産経新聞を購読している。友人たちの多くは朝日新聞で稀に赤旗も併読していると言う人間もいる。この人たちにはどうも、産経新聞に偏見があるようで非難の臭いのする「え~」の後に、いろいろと忠告されることになる。つい先日も同じ経験をした。それは、構わない。私も考えがあってとっているのだから。
伊東時代のある日、その産経新聞に挟み込まれた不動産広告チラシに何気なく目をやると、驚く数字、驚く売り物件が出ていた。価格は、2億円くらいだったと思う。もとは、全室離れの高級旅館が売りに出されていた。写真を見ると、5千坪とか言う広大な敷地の日本庭園に、小ぶりな家が点在していた。
今ではバブル崩壊も遠い話で、目の前の大恐慌に目が眩む思いをしているが、前の大崩壊も大変長く尾を引いたもので、つい5年前までその後処理が続いていて、この広告物件もそのひとつだった。
実のところ、伊東に移ってすぐの頃にあちこち見て歩いたのだが、閉鎖された会社の保養施設がやたらと多かった。維持費や固定資産税のことを考えれば一刻も早く手放したいところなのだろうが、買い手が付かないらしい。管理をしている小父さんがむなしく玄関周りを掃除していたりする姿は、侘びしい。
今回は、バブル崩壊どころではない。トヨタでさえ赤字に転落してしまうのだから、何が起こるかわからない。そんなときに、日本の国会は内向きの話で空転を繰り返しているのだから、お先が本当に暗い。眩暈がしますね。

壊れていく海岸線の景色。

2009-02-19 09:59:44 | Weblog
これは伊豆半島に限ったことではないのだろうが、昔の海水浴と言えばいわゆる風光明媚な松原の先に波が打ち寄せる海岸線があり、夏には老いた松と松の間に脱衣場とシャワーを提供する海の家が点在している。ベニヤ敷きの床に茣蓙をひいただけのその情景は、いまの江ノ島、鎌倉あたりの浜茶屋と比べると貧しいものだったけれど、家族で海水浴に行ったときの忘れられない風景だ。
実際、10年ほど前までは国道135号線を熱海から伊豆半島のほうに走り始めると、まもなく伊豆多賀の辺りの松林のあたりに昔の風景をしのぶことが出来たものだった。ところが、この海があちこち埋め立てられ、今更の人工海水浴場に変貌していく。私が住んでいたたった3年の間に、置いて巨木となった松も伐られ、自然の砂浜が消えてしまったのだ。
以前に川奈のいるか浜の時に書いたように、玉砂利の浜にすることで砂浜に座った後のような砂を払う手間がなくなる。そんな、きわめて小さな観光客のニーズをもとに、こんなつまらない海水浴場がつくられていくのだ。
いるか浜の玉砂利は、確か北海道のほうから運んできたものだといっていた。おそらく、そちらでも玉砂利を剥ぎ取ることで裸になってしまった大地があったに違いない。世界でいちばんコンクリートを使っている国が日本だと言うことだが、そのコンクリートが火傷のように日本の海岸線を醜くしている。