海辺の暮らし

この歳まで引越しや旅行を繰り返してきた私が、これからの旅も交えて街や漁港のことを書いていきたいと思っています。

銀座で鰻を食べたくなったら。

2009-03-16 12:51:30 | Weblog
ある日、今日はどうしても鰻を食べたいと思うことがある。銀座には竹葉亭や宮川をはじめ鰻の名店は数多い。しかし私は、6丁目の松屋から二本裏通りにある「ひょうたん屋」の鰻が食べたくて仕方がなくなるのだ。この店は、実は関西風で腹開きをした上、鰻を蒸さない。だからといって脂ぎっているということもなく、むしろ香ばしい焼き上がりが食欲をそそる。1,500円くらいのどんぶりから始まって、上が2,200円だったと思うのだけれど。
午後6時の開店が待ち遠しくて、近所のライオンでビールを飲みながら今かいまかと時間をつぶすこともあった。「ひょうたん」は鰻がおいしいだけではない。焼き鳥もいいし、つまみも旨い。私はあまり良を食べる方ではないので、5,000円くらいで済んでいたような気がするが、今でもそうだろうか。
また、この店の姉妹店が銀座の1丁目にあって、そこも名店と呼ぶ人がいるけれど、私はなんと言っても6丁目がごひいきだ。

忘れてはいけないビアホール、レバンテ。

2009-03-15 09:38:34 | Weblog
どうも再開発というやつは、街の姿を変えてしまう。
JR有楽町駅を出て交通会館の筋向いに古い古いビアホール「レバンテ」があった。冬場になると生から調理したものまで的矢牡蠣のオンパレードだ。夕暮れの迫った時間帯に、窓際の席でビールを飲みながら駅の方を見ていると、新幹線がゆっくりと出て行ったり、入ってきたりするのが見えた。隣が東京駅なので、新幹線といえどもゆっくりした動きになる。席で、弁当を食べている人の姿が見えるくらいの速度だ。私は、この席がお気に入りで、JRで来る人との待ち合わせにはよく使った。いや、もちろん一人でも飲んでいました。的矢牡蠣とか紹介しておきながら、私はいつもチーズとかソーセージの盛り合わせで軽く済ませていた。食事のつもりで入ったことがないのでどうしてもそうなってしまう。値段も手ごろで、一人で飲んだら4千円は行かないだろう。
この古色蒼然としたビアホールが再開発で立ち退きになり、一年後くらいに再開したのはいいのだけれど、東京国際シティフォーラムの中に移っていたのだ。それでも、顔なじみの店員もいるし、席を選べば東京駅を出入りする電車が見えてそれなりに楽しめる。ただ、時々顔を見かけると丁寧に挨拶してくれた老支配人の姿はない。移転の前にちょっと話をしたときに、この店は大蔵財閥がつくったもので、ホテルオークラとも縁続きだと歴史を話してくれたものだったが。

銀座でも1丁目の方で時間が空いたときには。

2009-03-14 10:39:05 | Weblog
前回に続き、明るい時間から酒を飲む話なので、やや気がひけますが酔っ払いの小父さんだから仕方がありませんね。1丁目界隈で人と一緒で打ち合わせが終わった後だったら、だいた「つばめグリル」に行ってツバメ風ハンバーグステーキなんかをつまみにビールの中ジョッキ、大体2杯かな。他にもつまみを頼んで、値段は一人2500円見当。
6時近くなっていて、次の約束がなければ懐具合を見て有楽町との境にある高速道路下のショッピング街地下にある「葡萄屋」この見せた焼き鳥の店だけれど、昼のと焼き鳥どんぶりは、近くにいるときのお楽しみ。レバーや正肉、つくねなどのほか卵のそぼろや山菜がのっていて1,200円くらいだったような気がします。
夜は、ちょっと高め。何を食べてもおいしいと思うけれど、一人7,000円くらいは見ておかないと。
ここでもあがりきれないときには、結局銀座を横切って8丁目方向に移動し、最後は「くに」。ワンパターンだなあ。

銀座で早い時間にあいてしまったら。

2009-03-13 10:25:27 | Weblog
私が仕事の打ち合わせに出かける先は、20代前半に仕事を始めたときから伊東に引っ越すまでの間、いつも銀座だった。勤め先が銀座だったこともあれば、個人の事務所を銀座に持っていたこともある。そんなこんなで、近頃の銀座は知らないけれど、私なりのお決まりのコースがある。
勤め人ではないので、昼間の打ち合わせが終わってしまうと、ぽっかりと時間があいてしまうことがある。まあ、軽く飲んで行きつけのBarくにが開くまでの間、時間をつぶそうかというときには、いる場所にもよるが大体ビアホール。4丁目の交差点より新橋よりにいれば、通りに面した重厚な店構えのライオン。私は、飲むときにそんなに食べる方ではないので、チーズ程度をつまみに生の中。ちょっと文庫本でも読みながら小一時間ほどの間に2杯ほど飲んで店を出る。3千円前後の感じだろうか。
その後、本格的に飲む前に腹に入れておこうと思えば、維新号で五目麺を食べるか、吉田で蕎麦か、木屋でうどん、それにまたビール。1500円見当。
6時近くなったら、くに。気分によっていろいろ飲む。ボトルキープのない店なので、気ままに酒を選べるのが嬉しい。5~6千円。
私の、銀座の酔っ払い方だ。

伊東の蕎麦、饂飩の味について。

2009-03-12 13:06:29 | Weblog
私は伊東に3年半ほど住んでいたのに、とうとううまい蕎麦屋と饂飩屋を見つけることが出来なかった。こんなことを書くと叱られてしまいそうだが、どの店に入っても汁がしょっぱ過ぎるのだ。私も関東の育ちで、関西の人からは塩味の強いものが好みのように言われるのだけれど、伊東の塩味はあまり経験したことのないレベルだ。
もちろん、たった一人でそう何軒も食べ歩くことは出来ないので、外観や手打ちの看板を目当てに駅界隈の繁華街やその裏通りにある店を覗いたのだが、当たりに出会わなかった。
独断と偏見の味日記としては、伊東で麺類は鬼門ということにしておこう。

独断と偏見の旨い飲み屋、魚屋リスト。

2009-03-11 11:49:06 | Weblog
私が魚矢に通い詰めた最初に店がいわき市小名浜にある「さんけい魚店」だった。かなり大きな店で、寿司屋や小料理屋も買い付けに来ていた。紅ズワイをはじめとする蟹をずいぶんたくさん買った。
いわきで旨いと思った寿司屋は、やはり小名浜にある「浜籐」と「ひろ鮨」の2軒だろうか。
もちろん港町で魚屋も寿司屋もいっぱいあるが、私のお勧めはここだ。また、名前は出さないが港の近くに店を構える観光バスが店の前に停まる大きな魚屋では、土地の人は買い物をしない。がっかりすること請け合いだ。

海には危ないこともいろいろあって。

2009-03-10 11:17:51 | Weblog
以前、いわき市の浜を散歩しているときに、打ち上げられている水母がビーチサンダルを履いた足の先に当たってしまったことがある。これが、カツオノエボシで、死んでいてもその触刺に触れるとまさに感電したような痛みが走る。
そんな事件などなくとも、岩場で小さな巻貝を獲ったり、小魚を追いかけているときに足を滑らせて切り傷を負うことなどしょっちゅうだ。
その上に私は、学校にプールがなかった時代に育ったので、水泳を教えられてことがない。大学に入って、仲間と海水浴に行っても、足の立たない場所に行くことなどもってのほかで、肩までの深度を保っていた。もちろん泳げる連中には馬鹿にされたが、危険が分かっていて無理をすることはない。
そんな私が40歳を過ぎてダイビングのライセンスを取った。泳げないのに潜ろうというのだから、悪戦苦闘。いわき塩名浜にあるスクールに通ったのだが、半年くらいかかってしまった。東北ということで、海に入ることが出来る時間が限られていたという事情はあるものの、おおむね私の恐怖感が原因だった。
ダイビングはライセンスを取ってしまうと数回潜っただけで、面倒になってしまった。機材が大げさで移動するにも一苦労なのだ。
それでも、シュノーケリングを何とか身につけた収穫は大きく、ゴーグルだけで30分くらい海面やそのちょっと下の辺りを楽しむことが出来るようになった。もちろん、足が着かない場所でもお平気である。
ところが、こういう生半可な技術が危険の素で、伊東にいる時代ちょっと風がある日に沖合い堤防までいて遊んでいた。さあ帰ろうと思うと、向かい風で言ってしまえば漣程度のものなのだが、これが呼吸を妨げる。せいぜい100m程度の距離なのに、これは溺れるかなと覚悟を決めかけた。
伊東の駅からすぐそばにある海水浴場だけれど、9月の後半ともなると誰もいない。無様なことになったと思ったけれど、何とか岸までたどり着くことが出来た。
年を食っているのだから、己を知らないと。

遊佐の海には、鳥海山の伏流水が湧き出してすごく冷たい。

2009-03-09 12:36:41 | Weblog
標高2.236mという数字からは想像もつかないほど鳥海山は雄大な山だ。富士山の標高が3,776mといっても、裾野からしてすでに相当標高が高いところから始まっている。対する鳥海山は、まさに海辺から巨大な山が盛り上がっているのだ。車で気軽に山小屋まで行って、そこから軽装で上る人が結構いるが、遭難事故も多い。手ごわい山だと言うことを意識しておくべきだろう。
その鳥海山の伏流水は周辺のあちこちで湧き出している。遊佐町の街中を歩いていても、道路わきなど思いがけないところで湧き水を見かける。胴腹の滝は裾野の奥の森の中で湧き出し滝となって流れていて、天然水を求めて汲みに行く人も多い。
そして、海水浴場でも湧き水が冷水域をつくり、油断していると体がしびれて溺れそうになるほどだ。
この海中から湧き出す水が、海中の生物層を豊かにしている。この辺りの岩牡蠣も身が厚く、男でも一口では食べきれないほど大きく育つのも、水のおかげだといわれている。
私の死んだ父は、戦時中に青年期を過ごしたにもかかわらず、魚を一切受け付けないというわがままな体質をした人間で、物資の不足していた時代にいったい何を食べていたのだろうと思うのだが、この牡蠣のフライは大好物だったそうだ。私も以前に試したが、上げてみるとまるで豚カツのような大きさになる。
しかも、ミルクが溢れる牡蠣独特の旨みは格別だ。
かく言う私も、父が魚を焼いた臭いがするというだけで烈火のごとく怒り出す家庭で育ち、子供の頃に魚を食べたという記憶がほとんどない。大学に入って酒を飲むようになって、恐る恐る鮪の刺身とかに手を出したのが、魚食いの始まりだった。
それがまさか、魚を追って漁港に住むまでになろうとは思いもしなかった。

夏の終わりには鳥海山から赤とんぼがおりてきた。

2009-03-08 09:39:21 | Weblog
まだ、吹浦の話を続ける。ただしこれは私がもう父親になって、子供をつれて吹浦に滞在したときの話だ。
もうじき夏休みも終りという頃だったから、東北では初秋といった方が正しいのかもしれない。その朝、宿泊していた家の庭を見ると一面に赤とんぼが飛びまわっていた。というよりも、ひしめき合うようにして飛んでいたのだ。
こんな密度の高い群れを見たのは初めてで、子供たちと虫かごをもって捕まえてみた。網などというものは必要なく、群れの中に手を差し込み、軽く手を握るとそこには数匹の赤とんぼが捕らえられていた。
面白いと思ったのはほんの数分で、虫かごも一杯になってしまうし、あとはただ呆然と群れが風の流れに載って移動していくのを見送るばかりだった。
後に聞いた話では、赤とんぼは夏の暑い間は高い山で涼んでいて、下界が快適な温度になるとおりてくるのだという。それにしても、あの大きな群れにはレミングの移動のような破滅のための集団移動のような背筋の寒くなるところがあった。
温暖化が及べば、鳥海山で涼むことも出来なくなる赤とんぼは、どこに行ってしまうのだろうか?

いまも壁にかかる、小さな港の油絵が吹浦を思い出させる。

2009-03-07 10:38:40 | Weblog
私が吹浦に住んでいたのはせいぜい5歳くらいまでのことで、記憶と言うほどのものが残っていないのは当然だろう。それでも、幾つか憶えていることはある。それが、何か重要なものと言うわけではなくて、どうして憶えているのか分からないような日常の破片なのだけれど。
今では吹浦の駅から海岸線に出るには、国道7号線を渡らないといけない。いまから56年前にはそんなところに国道などなく、小さな港の横を松林の方に舗装されていない道が続いていた。母に手を引かれて、その道を何度も歩いたことは憶えている。
おそらくその光景は秋のことだったのだろう。松林のはずれから集落に続く道を手前で左にそれると、お婆ちゃんと呼んでいた人の家があった。おじいちゃんは亡くなってすでに3年ほどたっていたのだと思う。
私たち親子が住んでいたのは、その家のすぐそばの小さな家で、何かと言えばお婆ちゃんの家に遊びに行くのが私の日課だった。
その日、お婆ちゃんの家に続く砂地の小道を歩いているとき、コスモスと矢車草が風に揺れていた。その光景が頭から離れない。
よく晴れた日のことで、空気は乾いていた。この記憶も、秋を証明している。庄内平野の夏は湿度が高く、とても凌ぎにくいところなのだ。
その先で私はお婆ちゃんと会ったのだろうか?それは憶えていない。その小道に揺れるコスモスばかりが思い出されるのだ。