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お母さんピアノを弾いてください

優しい母が認知症、強制入院。介護で体を壊し退職。弟とのメールのやりとり、詩や短歌で介護の現実を紹介していきます。

入院の手続き

2008-11-08 00:42:29 | Weblog
医者に今後を相談した。

「強制入院させたことで、恨みは残らないか。」

”恨みは残らないようにしていきます。”

「もしも本人が嫌がったら、どうしましょうか。」

”病院で連れて行く手段を考えます。必要ならば専門の業者もいるので紹介します。”

”指定病院をいくつか紹介しますから、訪問されお話を聞かれその後は予定とかは決めてください。それに合わせて、診断書を書きますから。”

「とてもそんな余裕がありません。また年休も取れません、先生がよいと思われる病院に決めてください。」

 こうして、母の行先が数日後に決まった。

 N区にあるJ病院だった。老人専門病院で、精神保健法に基づいた収容ができる病院だった。

・・・・・
 この間、良い意味では携帯メールが実に活躍した。
 弟とメールで常に情報交換していた。
 
 涙が出てくる、、、

 入院が決まったときのメールだった。

・・・・・

 やがて、J病院の担当者とも連絡が取れて日取りも決まった、、、。

 だが、またしても

「恨みが残らないようにしてください。」

”そんなこと分かんないよ、”

「えっ、でもそう言ったでしょ!」

”そんなこと言わないよ。”

「ついては、本人はまだ入院を嫌がってます、連れて行くサービス会社を溶解してください。」

”そんな会社知らないよ。警備保障会社とか聞いてみてください、1回25めんくらいでしょう。でそれがだめだったら、家族で連れて行ってください。”

「でもそれが難しいのですが。」

”だって年寄りでしょ、いざとなったらふんじばっても連れていけるでしょ。”
 
 まただ、、、、なぜ皆言葉をたがえるのだろう、、、。そして


    「そんなこと言わなかった、言ってない」

 無責任すぎる、、、。
 決して私はうそを書いてもいない、また誇張もしていない。

 また私自身憐れみを乞うために、書いているのでもない。
 いじめをテーマに本を書かれた人が以前こう話していた

「本当はいじめの体験など話すことはすごく、精神的につかれるし苦しいのです。でもそうしないと、そうすることが自分の義務のように思うのです。」

 私もそれと同じなのです。思い出せば苦しいです、頭が興奮します。怒りも爆発します。やり場のない怒りです。人はすべて責任を回避するからです。
見たくないものにふたをしてしまうのです。

 しかし、語らないと同じことが繰り返されるでしょう。

 また今家族に認知症の人がいたり介護のことで悩んでる人に少しでも、解決のヒントになってくれればと思うのです。

 だから書き続けます、言い続けます。

 私たち自身、どれほど人の体験が役立ったか知れません。ありがたかったのです。


 

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強制入院まで

2008-11-06 22:58:24 | Weblog
 修学旅行を控え、帰宅時間がさらに遅くなる、、。

 繰り返すが私が転職したのが32歳、そのころから感じているのが会議の長さと会議の非効率さ。

 教師はどうしてかくも理屈やで話が長いのか、、、、教師と言うよりは大学進学率が増加して、自称インテリが増えたせいか、理屈で世の中を縛り付けている人が増えたと痛切に感じる。

 五月から近くのデイホームに行くようになった。ここは家からも車で5分、しかも新しく設備もよい。ロングステイも可能で特別養護老人ホームにもなっている。

 いざとなったらここに入居できるとも思ったのだ。それが実は誤算だった。
そんなに簡単に入居できない場所だった。

 デイホームには都合3回くらいしか行かなかったと思う。

 ヘルパー周4回に増やしたにもかかわらず、母の症状は激化して行った。

 1回が2時間、これを午前と午後交互に入れた。だから4時までなら私が一時間年休を取れば、家には五時過ぎには帰宅できる、それをさんざん管理職にも同僚にも言った。

校長はノーコメント、「あっそ」だけ。

主任は「施錠する人がいないからなあ。」
 学年の鍵の施錠くらいみんなでなぜやれないのか、、。私は学年に、家族や自身が病気の人とかいた場合は自ら仕事を代わったりし声がけをして、

「どうぞお帰りください、後は私がやりますから。」

 と言ってきたつもりだ。


部活熱心な教員は「部活は誰が面倒見るんだ」

 以前の学校では、父親が病気で毎日1時間年休を取っていた教師がいた。当然私もそれが許されると思っていた。

 一言でいえば思いやりがなさすぎる。

 学校の目玉が「人権」だと転勤した時、校長は話したが、どこに人権があるのだろうか。

 母はヘルパーをつけても、デイホームに行かせても、認知症の症状は進んで行った。

 家に帰ると、

「財布がない」「あの人が来た」「これは妄想じゃない。」「どうしてわかってくれないのか。」

 財布を弟と探していると、
「いくら探したってないよ」
と母が言う。

 とんでもないところから出てくる。
冷蔵庫だったり、食器棚だったり、箪笥の裏だったり

 見つけると思わずこちらがついいらだつと
「みんなで馬鹿にして、、」
と涙ぐむ、、、。

 布団で祈る母の姿を何度も見た。
弟が言う
「きっと僕たちが信じてくれるように祈ってるんだよ、」

 私もそう思った。

 デイホームから帰ると、何がない、あれがないと騒ぎだす、、。

「だから外出なんてしたくない。あの人が来て持って行ってしまう。」

 自信ありげに言う、でもそれは皆自分で隠してしまったことだ。

 電話の発信記録で、警察、消防、弁護士、警備会社、、親戚、お隣、、、、ありとあらゆるところにかけていることが分かった。

 デイホームに電話すると、
「今日は具合が悪くて外出できません。」
と話して行ってないことも分かった。

 真夜中母から電話があった

「とうとうあの人が穴を掘り始めた、それだけ。」

 と電話を切った。母は何とかして私にその人がいると信じてほしいのだ。

すぐに家に行くと、弟が懐中電灯で周辺を照らしている

「いや、母親があの人がいるなんて言うから一応みてるんだけ ど、、、。」

 母は床に伏せていたが私を見ると

「あの人が機械で穴を掘り始めたのよ。あの人はこの家がどうしても欲しいんだから。おかあちゃまが○○さん(以前私が頼んできてもらった警察の人の名)に遠慮してるとでも思うの。」

 その形相はもう昔の知的で優しい母ではなかった。ピアノを独学で弾き、曲を簡単に採譜し、数ヶ国語を話す母ではない。
 フランスのパリ大学の講師でもあるジョエルさんに
「彼女は私さえ行ったことのないパリの道を知っていて道順まで話せた。」
と言わしめた母はいない。

「誰も見えなかったよ、、。」
「だっておかあちゃまが懐中電灯で照らすと、ぱっと体を小さくしてササと逃げて行くの。」

 目の前で母が狂って行く、、、。
こらえきれず、弟が
「僕だって殴りたい気持ちだよ。」
「だったら殴ってよ。」

 医者に話した、

「うーん、もう強制入院しかないですね。」

 
 

  

 



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入院、退院、デイホーム

2008-11-05 22:37:15 | Weblog
母を入院させて、夜尋ねて

「寝られますか?」

と聞くと良く寝られると答える。

「もう少しここにいたいですか?」

と聞くと

「いたいわねえ。」

と言う。
 
 医者にそう言う気持ちになることがこの入院の目的だから、そのように仕向けるようにと言われたのだ。

 しかし、退院前日、訪問すると

「何しに来たの?」

と険しい顔、

「誰だっていたくないわよ」 

 言葉がだんだんきつくなっていく

翌日、弟と病院へ行く
医者が

「まだ入院しますか?」

と聞くと

「いえ、結構です。」

 家に帰ると母親は

「誰だって家が良いに決まっている。」

 また口論になった

「お医者様は、ちゃんと治る病気だと言ったよ。」

「えっそうなの?」

「そうだよ、いろんな人と日中合うようにしたりすると、いいんだよ。」

 そこで、デイホームにとりあえず、通うことになった。

 母が施設を嫌う一つの理由は、こう書いては申し訳ないのだが、でもどの家族も同じ悩みを打ち明ける、、、。

 ”こんなこどもじみたことができるか!”

 なのだ、、、、。悲しいことだが、ギリギリの人には

「自分がそこまで落ちたのか」

 と言う思いがわいてしまうのだ。

「これじゃあ幼稚園じゃないか。」
 
 その言葉を聞くのは家族にもつらいのだ、、。

 結局私が三か所一緒に見て回り、一番近い場所を選んだ。母もここは新しくてきれいだと話した。

 大事なことだけど、外見はやはりきれいで清潔感があること、決してそこに入ることで、自分はもうダメなんだという意識を持たせてはいけないのだ。

 このあたりは実に難しい。

 毎週土曜とか行くわけにもいかない、部活の試合がまじかだった。
校長は、忙しい時は俺が引率するとか言っていたが、そんなことは一度もない、、、。

 同じ顧問にも嫌味を言われる、、、。

 3年になったばかりで副主任、なんでそうなるのか、今まで副主任をしていたものが部活で市の代表になるから忙しい、だから天野さんやりなさい、、、だという。

 母の介護のことなど一切考慮などしていないのだ。

 こうして母の症状はエスカレートしていく。


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介護への無知は、人事や人間関係で薄情な仕打ちにしかならない

2008-11-04 20:24:35 | Weblog
2002年4月2日

 一晩悶々として仕事場へ行く。
 私の仕事場は、田園都市線 中央林間駅から徒歩15分くらいのところ。
 自宅世田谷といっても、自由が丘(目黒区)に近い。自由が丘からなら、東急コーチで二つ目のバス停。
 その前は、小田急相模原駅からさらにバスのところだった。朝5:45分に家を出ていた。校長の計らいで、一番近いT中に転勤させてもらったのだ。

 母のことを話し、運動部以外はなんでもやるから、と懇願したにもかかわらず、T中の校長は全く理解してないし、学年主任もその事情が判されていない。

 それで一年が過ぎた。転勤してきた女性教師がいきなり

「天野先生も遠距離通勤だけど私も遠距離だから。」

 いきなり初対面の挨拶で、何を言っているのか全く分からない、、。職員会議で唖然とした。

 その女性教員、部活を持ってない、、、。

 ことあるごとに、

「私は遠距離通勤だ、私だって病気だ。」「車が運転できないから電車で来る。だから1時間以上もかかる。」
という。

 こんなことが遠距離通勤の理由になり、部活を免除される理由になるのか、、、、、。

 私は、この地で勤め始めた年に免許を取った。でないと移動が極めて不便である。それ以前は、自転車を駅に置いて通ったものだ。

 11kmなら自転車で通えば1時間もかからない。もよりの駅まで自転車を使うとかすれば、1時間なんてかからない。
 頭が悪いというより、性格異常だ。

 病気のことも、以前の学校で、酒を飲みすぎ体を壊したことを言っているのだ。
転勤してからも、部活はしないのに、酒だけは飲んでいる。

 住んでいるところは、同じS市のY台、、、googleで調べても11km、、、。

 後で知ったが、校長と同じ北海道の出身、それもあるのか、、。私のリフレッシュ休暇を妨害したのもこの教師。
 そのくせ、3年生を卒業した後、介護休暇で北海道へ帰っている、ちょうど学年旅行が北海道へ行った後だ。
 もちろん、学校はやっている、、、。
 校長も、私が一年半の療休後偶然、市民会館前で会ったとき
「おーー、今度は休めるでしょう。」

 転勤した後になんで私の、療休後の処遇、「毎日2時間とれという処遇」を知っているのか。しかもその慮休は、教頭がハンコを取り上げ勝手に取ったことにして押されていた。

「休めませんよ。」

と話したら

「いや、まあ、その、、」

 そばに教え子がいたからか、、、。

 とその場を去って行った。卑怯すぎる、、、。自分の人事がまずかったことを知っている証拠ではないか、、、。


 4月2日、私がどんな思いで、職員会議で人事の発表を聞いていたことか、、。

 母が二週間の入院中も
「母が入院してますから、早く帰宅させてください。」
 と話しても、全くの配慮もない、、、。入院先は東京医療センター、、、家から車で行けば10分くらいだ、だが家につくまでの時間がない、、。

 結局、土日とかしか行けない。
教会の牧師にそのことを話しても、問題視しない、みんなに話すわけでもない。
この牧師、ただの一度でも母のところを訪ねたか、、というと今に至るまで無い。


 介護への無知は、人事や人間関係で薄情な仕打ちにしかならない

 それは、ニートやフリーター、うつ病への偏見と同じようなものだ。怠けてるとか、被害妄想だとか、自己管理ができてないとか、誰でもそれを克服するのだとか、自分がその立場になれば初めて分かることだ。

 それが悲しいことだが。




 





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母の入院、、、眠れる夜だが

2008-11-03 23:08:24 | Weblog
 家出のまねごとをしていたある日、、といっても隣の家にいて弟と連絡を取りつつ、母の様子をうかがっいていたのだが、、弟から電話。

「以前家に住んでいた、スイス人の○○さんが家に来た。逢いたがってる。」

 電話で彼女と話した、母のことを説明し、知り合いの方々に事情を説明してくれともたのんだ。

 以来、そのかたとは連絡はとれていない。
というより、母は住所録から手紙から、かなり処分してしまったのだ。父親が亡くなり25年目の頃、家じゅうを片づけてしまっていた。

 入院前日、3月31日、弟から入院に付き添ってくれるかどうかの確認の電話。
もちろん、行く。
 前日は母のところへ戻り食事をともにし翌日、4月1日、病院へ連れて行く。

・・・・・・・・・・・・・・・
 職場では、臨時の担任のクラスの生徒が、歌を担任に送りたいというから、歌を練習して、録音して最後に
「先生大好き」という言葉を全員で言うのを録音した。

 4月1日の夜は私も弟も複雑な気持ち、、、、ともかくゆっくり眠れる、、、。
 
 入院前医者から

「ここは開放房です、しかし逃げ出したり、暴れたりすることがあれば閉鎖房に入れることもありますがよいですか。」

「はい」としか言いようがない、、、。


 翌日、4月2日、、悪夢のような出来事が職場で起きる。
 
  




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家出、、、柱に頭をぶつける

2008-11-02 21:22:32 | Weblog
 2002年、この年は毎日が地獄だった。

 母の症状は悪化の一途、医者は入院を勧める。

「入院することにより、入院が安心できる場所だと分からせるためだという。」

「母は入院を嫌がりますが。」

「それをさせるのが家族でしょ。」

 この医者の言葉遣いというか、語調はトゲがあるようで、それだけでもストレスになったが、、、。

 医学上のムントテラピーの大切さぐらい、今どきの人間なら分かる。そういう医学上の分野を知らずとも、患者や家族の者の心理をもっと配慮するような発言をするべきだとあらためて思う。

 母の入院は四月1日に決まった、しかし母は入院を拒否する。

 ますます、妄想の症状を悪化させた。

 入院すれば家を離れる、そのすきに「あの人」が来て家を乗っとってしまう。

 それが母の理由だ。

 どうしたら、入院させることができるか、私の取った行動は

「あなたが入院しないのなら、私は家を出て行く。」

「そんなことはしないで!」

「あなたは私たちをボロボロにしている、仕事もできない、結婚だってできないんだ。」

 どなりながら、私は柱に頭をぶつけた、ゴンゴン音がした、額も割れた、、。

 そして家を飛び出て、隣の自分の家に帰った。

 もちろん弟とメールでやり取りした、そして母への手紙を書いた。

・母の行動はおかしい。
 それに気づいてください。
 入院するまでは家に帰らない。


 翌日弟からメール

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こたつの上にある手紙を母は読んでました。
「やっぱり私はおかしいのかしら。」と聞くから
「うんおかしいよ」
と答えました。
「やはり入院しようかしら。」
と母は言ってました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 母が入院するまで家には帰りませんでした。入院には同行しましたが。 

・通院させること
・入院させること

 家族にとってそれがどんなに大変なことか、理解する人はまだ少ない。
私の兄も

「痴ほうになって何も分からなければその方が幸せだろ。」

 ですましてしまう。

 退職してNPOに参加してからも、良く聞かれるのが

「どうやって、病院に通わせたの?」
「どうやって入院させたの?」

 これほどみんな悩んでるのです。それができないから苦しんでるのです。

 私はこう答えました。

「だましました。」
「演技しました。」

 認知症になったからと言ってすべてが分からないのではない、いわば「老人語」を話してると思えば理解できる。

 あなたが子供のころ、幼いころ、何も分からなかったですか?ちゃんと人格をもっていたでしょ、言語化できなくても、嫌なこと楽しいことは分かっていたでしょ。それと同じですよ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この間、臨時の担任としてクラスの生徒の家庭訪問、毎日の学級新聞、そして療休した先生へクラスの生徒から全員の手紙と、合唱を録音したり、、、。

 途中で担任が変わる時気をつけること。

・本担任のことを忘れさせてはいけない。
・しかし、前の担任の方が良かったと思わさせてもいけない。

 私が気をつけたことはそのことだ。だからこそ、毎日学級通信を出したり、通知表も書きなおした。

 校長など、管理職がどれだけ同じことをしてきたか、、正直怪しい。


 










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くすりの反動

2008-11-01 23:50:01 | Weblog
 薬を変えたことの反応としか思えない、、、。

 医者にどんなに話しても、以前の薬は処方しない、母の症状は一気に悪化する。

 毎日家に帰ると、兄弟で電話の発信履歴を調べる。
 
 ご近所だったり、警察だったり、消防だったり、親戚だったり、、、。

 すべて、確認して事情を話して謝ったり、理解を求めたり、、、

 毎晩、家に帰ると鍵がなくなった、財布を取られた、、、それで家中探す、、夜中にパトカーや消防車を呼んでしまう。

 家が安らぎの場でなくなった。

「家族で抱え込まない」

 当たり前すぎる、意見、、、だがどんなに相談しようと、関係機関に行こうと、夜は家族しかいない。日中は母は一人なのだ。

 そんな単純なことを学者や評論家、国家の担当部署、議員は理解してはいない。

 もちろんそういう状況を学校でも話した、、、、しかし、、、、全く理解してもらえていなかった。

 校長や学年主任、教頭にとっては、介護休暇を取らせることなど、全く念頭にない。ねぎらいの言葉など一つもない。

 この間テレビ放送されたが、弟が包丁で刺し違えをしようとしたのもこの頃だ。

 そんな状況下、学年の一人の女性が療休に入ることになった。だから臨時の担任になれと言われた。
 
 もっとも激しい症状の時、帰宅時間がさらに遅れる。
 しかも、32歳で教師になったから、20年後たったこの年が「リフレッシュ休暇」の年だった。 

 同じ時期に採用された、部活のも一人の顧問は
「権利を行使しますから、1週間休みますから。」
と卒業式が終わると休んでしまい、その間部活もすべて私が行うことになった・

 教頭いわく
「来年3年生でしょうから、一年間延ばせますから、来年リフレッシュ休暇をとってください。」

 しかし取らせてくれたことはなかったし、同僚から休むことを妨害されることになる。

 療休を取る先生も、自分の病気が重たいからでしょうが、私個人に
「お願いします。」
の一言もない、、、。翌年この教師から逆切れされてしまうが。



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再発

2008-10-31 13:14:26 | Weblog
 2002年、正月は家族三人で団欒を取れた。

 弟とはおせち料理づくりを手伝っていた。もともと料理が好きでよく作るし腕も確かである。

 このままよい方向に向かうなあ、でも手足が衰えたのは事実だった。

 そんなある日弟からメール。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今日・・・・センターに行きました。そこで母が薬を飲んでないことを知りました。
 前回、医者と私が話していたのを聞いていたというのです。
 副作用で手足が衰えるという話をちゃんと聞いていたのです。
 「医者が言うには本人が拒否したら飲ますわけにいきません」
というのです。

 とりあえず、薬を変えることにしたそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この医者は、常に責任を逃れることしか考えていないように思えてならない。
 母親のいる前で、話をしていくように勧めたのは彼自身だ、しかし母が薬に副作用があることを知ったのは、彼の問診のやり方に問題がないとは言えない。

 本来そんな大事なことは患者本人の前ではやらないだろう。

 それから数週間後、朝、、

「あの人、昨夜は家にいたみたいよ。」

 午前中弟からメール

「再発?」

 医者は、「患者の納得いかない処方はしない」の一点張り。

 半年後、母は強制入院した。2年後私は療休を取る、、、。







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テレビで放送後、ン十年ぶりの電話、感謝!

2008-10-30 23:37:21 | Weblog
 夜、色々な方から電話をいただいた。
 放送前に、母へ来ていた手紙や古い手帳から、新しく住所録をワードに打ち込んで、およそ100通、、、、短期間で我ながらよくやったもんだ、、。

 なんせ、、、手紙とか住所録、、妄想の母は隠したりいつの間にか捨ててたから、、、。

 母のこと、そして母のことを知らせることができなかった理由など、そして放送を見てほしい、、という手紙。

 この機会を逃したら、母を知る人に母のことを知らせることができないだろう、、、その思いだった。


 私が幼稚園だった頃、母と親ししくてた方からの電話、その娘さん、事実上、私のお姉さんだった方とン十年ぶり、、。

「幼稚園のころカバンを持ってた可愛い姿が浮かぶわ、、、」


 可愛い、、、久しぶりに言われたぞ、、、。


 九州から三十年ぶりの人からの電話、、なんでも父が亡くなった時、国連で父に哀悼の意を表したとか、、、、。
 そんな話は初めて聞いたが、、、。

 気になり検索した、、日本のサイトではHITしなかったが、

 seravas international MASUO AMANOで、出てきた、、。

 今さらながら、不肖の息子だった、、、。

↓この中の、his wife が母のことです。


http://72.14.235.104/search?q=cache:kfR7B3vphrcJ:www.servas.org/siexco/images/1/1b/SINewsNo07Spring77.pdf+Servas%E3%80%80international+Masuo%E3%80%80Amano&hl=ja&ct=clnk&cd=2&gl=jp



We have been treated to lunch and teaand a walk around the Ginza area by Ser-vas hosts Kunio and Noriko Tanaka inTokyo; information about the local areaof Sendai and its crafts by Shohei Taka-hashi while we were "between trains";tea at home and a performance of ancientShinto music at the local shrine by AkioNishimura in Kyoto; lunch at our hoteland a Japanese dinner and very pleasantevening at the home of Noboru and MasakoNishida in Osaka; and an interestingevening of conversation with a youngSwiss woman and Ellis and Leora Harveyof northern California after a home-cooked meal at the home of Masuo Amanoand his wife in Tokyo.The experiences and the individuals havebeen impressive, interesting, and worth-while. Thanks for the hospitality andhelp of our hosts and for Servas itself.10
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Page 11


 私は私で、キザでネコ科のシャレ男で生きていく、、、。


 かなり重たい内容の放送だったが、、、介護の大変さを紹介するためにその部分を強調してるとも言えるけど、それがまた現実、目をそむけないでほしい。

 私のギャグなども笑いで自身を鼓舞していたような部分もあるし、それがあったから良かったのだろう。
 小さいから、いじめられないように気丈にしてたからまだ乗り越えられたのだろう、、、。
 時に、やりすぎるけど、、、、反省。

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最後のクリスマス

2008-10-30 12:32:38 | Weblog
2001年のクリスマス

 これが我が家で三人そろって祝う最後のクリスマスになった、、、。
母はもうお料理ができなくなってるから、弟が手伝い、私がアイスクリームやワインを買う。

 レンタルビデオで「クリスマスキャロル」を借りる。

 母は英文科時代、ディケンズを読んでいてその本はまだある。

 少しでも頭の衰えを取り戻せるか、、そんな思いで見せていた。

 皆で歌も歌った。

 最後の、最後の、我が家でのクリスマスだった。








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お母さんピアノを弾いてください

タイトルとなった「お母さんピアノをひいてください」は抒情文芸平成13年春季号に掲載されたものです。 オリジナルモジュールで設置したので、常に上に来てしまうのですが、詩の形が崩れてしまいます。 妄想の中に一日いて おびえ閉じこもる母よ 死ぬほど私は辛いのです 小学生から大学まで首席の母 数カ国語を話し、独学で弾くピアノ 簡単なメロディーはすぐに採譜してしまう母私には できすぎた母だった 高等文官の娘に生まれ 私にも明治流の武士の作法を教えた母 母よ、あなたは私には重かった 父が浮気症でなかったら あなたはもっと幸せでおおらかに私を育てたろうに 悲しみとやり場のない怒り 私はもう子供じゃない 母には私はまだ十五の子供に見えるらしい 二度目の童子となった母 母を悲しませまいと自分を殺して生きてきた少年時 代、青年時代 母よ時には恨みもあるのです 私は普通の人なのです、あなたの家族のようなエリ ートにはなれません それもあなたの悲しみの一つです 私は独りです、それもあなたには悲しみですか 両親の不仲が私を学習に集中させなくなったほとん ど上の空の授業、とうとう不安神経症になった私 荒れた少年時代、机も椅子もよく投げた 立ち直らせてくれたのはあなただった 母よそのあなたが目の前で狂ってく なぜ、なぜ、なぜと叫ばずにおられない 心優しき弟はけなげに母をいたわり料理を作る 他の親族は己の主義に走り、以来家には無関心 挙げ句の果てに「お前達でやれ」とはそれがあなた の主義が出した正義ですか 私だって弱いのだ、いや本当に私は弱いのだでも仕 事でも、家でも強い自分を演じてきたそうしなきゃ 誰があなたをはげませたでしょう 私の救いはどこにある 私を慰める人はどこにいる 二度目の童子となった母 もう一度ピアノを弾いてください 私は歌うから、、、、、、。