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お母さんピアノを弾いてください

優しい母が認知症、強制入院。介護で体を壊し退職。弟とのメールのやりとり、詩や短歌で介護の現実を紹介していきます。

何で帰らせないんだ!

2008-11-20 23:53:48 | Weblog
 体力的にはこの頃が一番疲れていたはずだ、、。

 たぶん体と言うのは、限界を過ぎてしばらくはもつのだろう。それから二年後に療休に入るのだから。

 二週間なんてあっという間である。
 母を有料老人ホームに入れる日が来た。
 場所は砧にあって、家からは車で20分くらいだ。
 でも電車では最寄りの駅はかなり遠い。

 老人ホームの特色は、住宅地や駅の近くに作りにくい。どうしても交通の便が悪い所にしか建てられないのだろう。

 最初は個室をと言うことだったが、そんな高額な部屋はいらない。それに個室だとこもってしまう、それが一番心配だ。

 母の部屋には若いころの写真とか家で読んでいた本とか持って行った。
でも次に来る時にはみんな、外してある。

「恥ずかしいから。」
「英語など読んでると自慢してるように思われると嫌だから。」

 そして必ず、衣服をまとめている。書いてて悲しくなる。母はいつでも帰る気でいた。

 有料だけあって食事とかはいい、、、でも結論から言うと公立であれ有料であれやることは同じだ。

 認知症だからと言って特別なプログラムがあるわけではない。個別のリハビリがあるわけではない。

 認知症予防の薬を出してるわけでもない、、。この辺は政府が真剣に考えてほしいのだ。介護する人間が圧倒的に少ない。
 介護の仕事に対する報酬が低すぎるのだ。

 より密接な介護を希望する者は、金持ちであることが必要だ。

 介護を受ける人は今後どんどん増える、期待するサービスはもっと増えるだろう。それに対する政策があるのか?
  
・・・・・・・・・・・・・・・・

 このころから精神的にまいることが多くなった。

・一つは職場で、一つは教会で、、。

 母が場所を変わるたびに牧師に言うのだけど、会員に知らせない。礼拝後、私が起立して母の現状を訴え、訪問してくれとたのんだ。かつて教会の内紛で婦人科医長を10年務めたのに、病気になれば「はいさようなら」
「冷たいんじゃないですか」

 牧師がむっとして、手をふった。会が終わると

「なんで話すんですか。聞いてて苦しいよ。母親のことをおもいだしてしまうじゃないか。わたしに言えばいいでしょ。」

 私はそれで不信感を持った。話しても何も伝えない、、、それが彼の役目なのか。
 弟が朝出勤前に、彼を訪ね悩みを告げたのに
「大した事ないのでしょ。」
 とかめんどくさそうに対応する。
「教会はそんなことを言う場所じゃない。」

 なんなんだそれは、、、。

・・・・・・・・

 職場では、例の部活の顧問がますます態度を大きくしてきた。
 母を入所させたことを知ってからよけいにその態度が変わる。
 
 要するに、お前はもう早く帰宅する理由がないだろう、だから俺の代わりに仕事しろ、、そういう姿勢が見え見えだった。

 ある日の午前、授業をしていた教室に、ぬすっとあらわれ

「代休、、この間の日曜日の、、。」
 
 生徒のいるところで言う話ではない。生徒の前だと文句を言えない、、それを見込んでのことだ。○○木曜の総合の時間、この男は休んだ。
 それが一回ではない、意図的に総合の時間なのだ。担任が行うべき時間だ。

 ある日、帰りの会の代替えで教室にいた。補習がその後ある、少し帰りの会が伸びた。まだ補習の時間まで、7分くらいある。

 その男はどなりこんできた

 人を見降ろし指差し

「みんな時間をまもらんじやないか、こんなんだったら俺は補習なんかしないぞ!」

 言い終わると去っていく
「先生かわいそう、、。」
 怒る理由が分からない、増して私に言うべきことじゃない、まして生徒の前で言うべきじゃない。

 職員室までは我慢したが、、、

「こんな学校なんて大嫌いだ!俺だって、母親の所へ行きたいんだよ!なんで行かせないんだ!」


 と叫んで机の上のものを放り投げた。


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2週間の入院

2008-11-18 23:56:42 | Weblog
 昨日は別用で母のところへ行った。

 母に住所や生年月日を聞いても間違える、、少し前まではちゃんと言えたのに、、。
 毎回行くたびに聞いてあげた方がいいのかなあ、、。漢字もだいぶ間違える、、、。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2002年10月

 J病院から医療センターへ。
 
「母は家に帰るの?」
 と聞いてくる。
「お引っ越しだよ。」
 と答えた。

 必ず弟と二人で行く。とても一人ではあつかえることではない。
 車で行く途中暴れはしないか、ドアを開けないか、、、心配なことは沢山ある。
 車中は必ず話しかけていく、でないと不安になってしまうだろうから。
 安心させるために、明るい口調で話す。

 私は、子供のころから縁起がうまい、、?いい子のふりや、悪ぶったり、、、、そんなことが役立ったのか、、。

 医療センターの建物はちゃんと覚えていた。

 だいぶ入院がなれたのか、以前に比べると不満とか口にしない。
 精神病棟だけど、老人精神病棟だと一日中喚き声が聞こえるし、夜中も騒ぐ人がいたり、落ち着かないのだ。

 本当に幸いと思うのは、その後どの施設でも母は手がかからない入所者である。

 乱暴なことをしないし、そのような言葉もはかない。

 それが母の本質、それが母を救っているのだ。私がもし認知症になったら、、、たぶんあばれるだろうな、、。

 暴力的な人は、退去させられるしヘルパーやケアマネも辞めることがある。

 そうなった場合、家族が引き取ることになっても、どうしようもないだろう。
テレビのニュースで、介護による悲惨な事件が報道されるたびに身につまされる。

 二週間なんてあっという間に過ぎる。

 すでに300万は振り込んである。全部私が出した、以前書いたとおり母の名義で貯めていた生命保険が満期になったのだ、その一部を使ったのだ。母を海外旅行に連れて行こうと思っていたお金だ。
 相続税を払うたしにしようと思っていたお金だ。
 以後このお金を少しづつ母が施設を変るたび、母に必要なものを買うたびに使って行った。

 だから1000万近く、いや以上母のために使ったのは間違いないのだ。

 まだ払えたからよかったのだ、、、だけどそれができなかったら、、、心中か休職しかない。
 こんな考えが頭をよぎったのも事実。





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有料老人ホームへ一時的に入所300万

2008-11-17 13:57:43 | Weblog
 10月も間近になった。
 J病院からの電話は
「保護入院の場合は同じ病院に三か月までしかいられません。延長はできません。」

「再入院はできないのですか。」

「保護入院した場合は都の条例で同じ病院に三か月以上入院できないのです。」

 そんなことは知りもしない、、。

 国立医療センターに電話をして


「こういう事情だが、そちらへ入院してもらえないだろうか。」

「無理だよ、こっちも空きがないから。」

 正直、医者もめんどくさいケースはどんどん追い出したいような気がしてしまう。

 10月10日を迎えてしまった。学校祭体育の部、、例のうるさい女性教師が休んでしまった。
 もともと前の学校で酒を飲みすぎで体を壊したとか、、それで

「私は病気だから部活を持たない」

と堂々と言いながら宴会では率先して大酒を飲み

「飲まない生活って考えられないんじゃないですか?」

 職員室で言うべき言葉ではないでしょう、、、。その人の代わりに1週間、担任、、、。
 子供には精いっぱい接することに変わりはない、、、それだけどは私のポリシーだ。

 体育祭、めいっぱい応援して、みんなの前で踊りをおどったりして、勢いをつけた。代理で会ったがブロック優勝。

 親御さんからもお礼の書き込み、、、。

 翌日、代休の日、朝から電話作戦。軒並み老人保健施設に電話、

「認知症」と聞いただけで、「断られる」

「病気になった場合はいったん退所してもらいます、介護保険法の変更で、負担が全部施設にきてしまうので、、」

 老人保健施設は病院じゃないから治療を行わない。

 だから、病人は入所させない。

 病気をしない、老人なんていないじゃないか、、、!!!

 なんとか数か所、とりあえず家族が見学に来てくださいとの話を取り付けた。

 そんな中で福祉さセンターにも相談をした。そこで

「たいてい、数か所申し込んで空きが出てから、そこへ入れていくのが通常ですよ。」

 ショックだった。

「有料で地方ならあります。」

 電話をすると、ほとんどが群馬、福島、さいたま、、、何時間もかかる。

 安さだけで決めると、それこそ姥捨て山、、、、家族だって尋ねることが難しくなる。

 しかもおおかた

 入居費、2000万円、~3000万円、一番高いのは5000万円、、、これがキリスト教の老人ホームだったりする。

 月々の基本料、平均20万、、それにプラス、冬は光熱費が上がる、おむつ代、クリーニング代、、、、23万位はすぐ越える。

 そんななか

「民間無料相談所」がありますよと聞いた。

 ネットで検索すると、家の近く都立大学の駅そばだった。

 すぐに電話をして行ってみた。

 カタログを見て片っ端から電話した。

 その中で、

「緊急で必要な方のために1年間の入居費300万、月々17万、、諸経費で20万位」
 というのがあった。電話をして事情を話した。
 
「それだったら対応できるかもしれません。」
「決まり次第、退所して老健に移動することもできます。その場合は300万をつき割でお返しします。」

 1日はあっという間に過ぎた。

 夕方、その施設から電話があった。

「おひとり空きが出そうです。よろしければ7時からですからこちらへおいでくださいますか。」

 砧まで車を運転して行った。

 もうここしかない、ここで契約をすることにした。
 終わったのは8時をとうに過ぎていた。

 ただ困ったことが起きた。J病院を退所してから、湯量老人ホームに入所するまで2週間日が空く。


 翌日、医療センターに電話した


「有料老人ホーム○月○日入所が決まりました。それまでの間で良いのですが、医療センターに入院させてくれませんか。」

 
「確実に入所できるのですか?」

「はい、契約を済ませております。」

「それでは私の権限で、2週間だけ入院させます。」

 ありがたいのか、、、そうでないのか、、、。この際利用できるものはどんどん利用しなくてはいけない。

 すぐにJ病院へ電話した、医療センターへ次は移します。

 これから母の旅が始まる、あっちへ行き、こっちへ行き、そして申し込んだ老人保健施設はまず家族が行き(ほとんど私、兄など行くはずもない、母はもう頭がおかしいからそれで幸せだろう、、とか大したことがないみたいなことを言う)

 老人保健施設に出向き話を聞き、こちらの状況を説明し、診療情報提供書を書いてもらい送る。

 いくら所内会議で入所の判定をするとはいえ
 何か月もたってから断るところが多数ある、、、失礼な話だ。
 
「認知症はフラフラ出歩くし、暴力もあるとこまりますから。」

 要するに面倒なことは引き受けない、

「病人」「認知症」は老健では引き受けない、急病でない限り「病院へ連れて行かない」「通院する時は退所してもらう」ということなのだ。

 これをクリアーする老人などいない、そんな老人は施設など入らない。
最近はだいぶ変わったようだが、しかし

 これ以来、母は認知症の治療を受けてないのだ、、、、、。

 母はどんどん認知症が進んだのだ、これが制度の不備だとどうして言えないのだろうか、、、!!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 弟のメール

 とにかくよかった。いつも兄上のおかげです。兄上がいなかったら今回のようなことはできませんでした。
 




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笑顔で歌う母

2008-11-16 12:06:39 | Weblog
 思い出すと苦しいことばかり、、、。
 最近の母のことも書いておきます。

 昨日土曜日は、母のいる特別養護老人ホームで、歌の会があったのです。

 最初はどういうものか想像できなかったのですが、外部から歌を指導してくれる人がやってきて、それを入居者と家族で歌うというものでした。

 とりあえず、この間テレビの取材に協力していただいたのでそれのお礼をしておきました。

「結構デイサービスの方も見ていて、好評でしたよ。」

とか話してくれました。

 実はここのデイサービスに来られている方をこの間、NPOの活動だったけど、家の片づけの手伝いをしたのです。

 前も書いたけど、母にしてやれないことを退職後したかった、だから活動の一つに高齢者への福祉を選んだのです。

 もしかしたらその方がテレビを見られたのかもしれませんが。

 母をはさんで私と弟が歌いました。
 弟はもともとミュージカル、デイレクター、私は小学校から合唱団、大学がグリークラブ(男声合唱)、卒業後は、聖歌隊とで歌ってきたのです。

 声質はTOPテノールでかなり高いですし、まともに歌うと目立ちすぎてしまいまうす
 それで母の耳元で歌うようにしました。母は声が聞こえると元気がでますから。

 後で職員さんから 
「天野さんのいい声が聞こえて来ました。」

 とか言われてしまった。

 ピアノの先生はまだ二十代前半で可愛い人だった。

 思わず名刺を出して、挨拶をしてしまった。

「どうしてここでやろうと思ったのですか?」
「なんか自分でできないことはないかと思って。」

 こういう人がいると実にうれしく思うのですよ。

 こういう芽をつぶしちゃあいけないのですよ。

 私は先生になる前、一か月に一度、身体障害者の施設で「詩」を教えていたのです。その活動は三度くらい新聞でも取り上げてもらいました。

 しかし、教師になると教頭から

「そんなことは教師なったらできないから、やめろ。」
同僚からは
「学校が荒れてるんだぞ、やめちゃえよ。」
「自己満足でやってるんだろ。」
「自分の詩が良いと思ってるんだろ。」

 詩を教えてすぐに学校に帰るのだけど、すごく嫌な顔をされる、

「学校はなあ、部活がボランティアなんだよ。」

 こういうことを言ってた人はあとで、管理職になって「福祉教育」とかの担当者になっている。
 実際にはそんな活動は一切していない人がですよ。

・・・・・・

 何はともあれ、今日の母は楽しそうだった。久しぶりに笑顔も見せた。写真を撮るといつも笑わないのだけど、今日は笑っていた。







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保護入院は三か月

2008-11-15 01:10:10 | Weblog
この頃から、年休が多くなる。後に

「介護で休みが多いと主任にできないから」

 と校長がこの年度の終わりに人事を通達してきた時言った。
 つくづくこの人間性のなさに怒髪天を抜くのだが、、。私は担任希望と書いておいたのに余計なことを言うやつだ、と言うより人の話など聞いてない奴だ。

 思うのだが自分より年上の世代は部下に対して偉そうに言う。歳下の世代は自信過剰なやつと、口のきき方がぞんざいなやつが多い。
 自分の職場だけなのかもしれないが、、。

 また話がそれてしまった。母の入院を書いた後、感情の起伏がまた高まってしまったようだ。
 でも書かないおれない、、、。書かない方が苦しいし、以前も書いたけど、介護に対する認識を広めたい思いが強いのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 検査入院は夏休みの終わりにした。
 毎週のように母のところへ弟と行った。
 行くたびに、老人精神病棟のすさまじさにたじろいでしまう。
 机をバンバン叩き続ける男の人、「来ちゃダメ!」と叫ぶ人、、、、
 実は、見まいに行くと見まいに来てくれないお年寄りが焼きもちを焼くのである。

 毎週のように見舞う家族は実は少ないのが現実だ。

 この頃はまだ、母は言葉の力は落ちていない、言葉の使い方もはっきりしている。
 英語の手紙を読むと、ちゃんと理解できた。
「発音良くなったわねえ。」
 とほめられてしまった。たまたま、オーストラリアに行って帰って来たばかりだったからだろう。

 二学期になると、学校祭で休むどころじゃない、、、私が介護で苦労してることなど忘れている。

「こっちの方へ引っ越して母親を施設に入れればいいじゃないか。」
「家を売ればいいだろ。」

 いい加減にしろと言いたい。

 で、この頃になると、部活の顧問は、授業中、教室にやってきて生徒のいるところで
 ブスッとした顔で、
「この間日曜日に出た代休、、、午後もらうから。」

 要するに
「俺は日曜日部活に出た、だからお前が代わりに俺のクラスに行って総合学習の時間をやれ。」

 ということ。普通は管理職を通すだろうし、生徒の前では言わないことだ。管理職に言わずに私に言いに来ることは、私を軽んじている証拠だ。
 管理職などに休んでることは話してないだろう。

 そんなさなか、J病院から電話があった。

「もなく2か月が過ぎて、入所期間である三か月を終えようとしてますが、次の施設は決まってますか?」


 心臓が止まりそうだった。
 
「保護入院は三か月です。」

 そんな話聞いてない、、、、。




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自分の入院

2008-11-14 16:27:25 | Weblog
母を入所させた後、弟に母が入所させたことを牧師に伝えるように話した。
たいてい教会の会員で病気で入院したりすると、週報に載せ、会員に伝えるのだ。

 しかし入所後最初の日曜日、教会の週報には母のことは載せておらず、牧師もそのことを皆に話さない。

 母は数少ない戦前からのクリスチャン、祖母の代から信者になり、教会のオルガ二ストとして活動したり、婦人会の会長として10年も役を勤めた。

 特に旧牧師の一族が新牧師に逆らい、教会を混乱させた時なども、派閥など関係ない母にみなから「天野さんしかいませんから。」と引き受けさせられ、夜も寝られないような苦労をさせられた。

 なのに強制入院と話せば意味が分かるだろうと思っていた牧師が一切それに触れない。

 礼拝後、私が立ち上り母のことを話した。

 牧師の顔が不機嫌になる。

 教会のお年寄りたちは、「どこの病院ですか。」と聞いてきた。
 兄は私や弟の姿を見て、ニヤニヤしている。兄弟が苦労してても何なら声の一つもかけるようなことはなかった。 それは今に至るまでそうである。、

 自分が親に大事にされなかったとか、、、その恨みを持っている。
だけど、父親が定年後の生活のために建てたアパートに結婚後住んで、しかも世田谷の土地50坪まで相続している。

 父の葬儀の時も一切手伝わない、彼の会社からは一人も手伝いを出さない。そんなことを頼むことすらしていない。

 牧師も以前の母を知らない、口を開けば「私の母親に似ているから話を聞くと苦しいよ。」

 それじゃあ、牧師の役割など無くても良い。
 私が病気で退職した時も一言も紹介するわけでもない。
「教会は個人的な話をしてはいけない。」

 だのに、誰それは結婚する、会社が決まった、就職した、、、、いったい何を基準としているのか。

 この頃から「不信感」が増してきた。

 先々週、、とうとう牧師と怒鳴り合い、、、

「よしそれならもういい、やるか、かかってこい、いくじなしめ、」

 これが牧師の言うことか。なんかテレビドラマの見過ぎじゃないのか。

「同情を買おうとしてるんだろう。教えてやろうか、そういうのを若い人の言葉で”ひがも”というのだ、被害妄想だ。」

「いい歳をして、杖などついてかっこつけやがって。」

 この牧師は頭がおかしいのかと思った。


 私が杖をかったのは4年前、、、その場で杖をたたき折った。

 私には救いの場所がない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 時間が前後してしまった。

 母を入所後、何度か夜私の家に電話があった。
 福祉センターの言われた通り、三か所特養を申し込んだ。

 そうこうするうち、そろそろ私の体自身に異変が起きていた。

 とりあえず、職場の近くのS病院へ検査入院した。

 二日間、病院へ宿泊しながら、通勤していた。

 数日後
 
「睡眠時無呼吸ですね。」

 たいてい医者の言うことは
「太りすぎ」「たばこを吸いすぎ」

 なんだが、私の場合は「安定剤」「睡眠導入剤」で筋力が弱ることもあるだろう。

 それにストレスが加わった、、、寝られるわけがないし、怒りを抑えきれる訳でない、、、。

 矛盾を体に抱えてしまった。







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もういいでしょ、もう安心だろ

2008-11-12 20:26:18 | Weblog
 入院は終わりじゃなかった。すべての始まりだった。
 母を置いて帰るのはすごく精神的に苦痛だった。誰だって自分の親を強制入院させたくはない。

 弟とご苦労様を言いあい、それぞれのねぐらに向かった。隣同士だから。

 夜、病院から電話があった。介護士さんから、お母さんが電話したいというのでかけさせました、とのことだった。

 入院の際にこれは確認済みだった。

「幸道さんじゃないのでしょう。」

「えっ、だって私ですよ。」

「違う、声が違う、、。ねっ幸道さんじゃないのでしょ。」

 家が乗っ取られて別のひとがいるのだと思っているのです。

 しばらく、やりとりして看護師さんと交代した。

「大丈夫ですよ、落ち着かれたら寝られると思いますよ。」

 その夜は電話は一回だけだった。

 翌日、ちゃんと仕事に行った。
朝の打ち合わせで私は立ちあがって

「家庭のことですが、昨日母親を強制入院させました。これからもまだご迷惑をおかけするかもしれませんがよろしくお願いします。」

 目の前の席にいた美術の男性教諭のみうなずいてくれたが、、、。

 ほかは何も言わない。じゃあ理解していないかと言うとそうではない。

 放課後、部活があった。
その時もう一人の顧問から

「こう言っちゃあ何ですが、お母さんが入院したことだし、もういいでしょ。今度から土日も出てくれませんかねえ、私も子供が小さいので、、。」

 怒りが頂点に達した、、、

 要するに、お前は母親の世話をしなくても良いだろ、土日も部活をやれ、俺は休むから、という意味である。

「母親を日曜に連れ出しますし、まだやることは多いですから。」

 この顧問は弟と同じ年だ、だが口のきき方を知らない。猫の毛を逆なでにするようなこと、神経に触るようなことを平気で言ったりしたりする。

 ほかの教員は

「天野さんかわいそうに、こき使われて、、、。」
「あまり言うことをきかない方がいいよ、わがままなんだから。」

 部活だけではない、校務分掌もみな同じにされている、例の無神経な女子教諭もそうだった。

 後年、私が療休をとるとき、
「どうしてみな一緒にさせたのですか。校長は私だと年上で文句も言わず、御しやすいと思ったのではないのですか。」

 と聞いたら、

「うーーーーん」

 と腕を組んで黙ってしまった。

 たぶんその通りでしょう、他の教師がみな陰口をきくようなトラブルメーカーとただでさえ苦しい思いをしているのに組ませるのか、、。

 もちろん強制入院のことも校長や教頭に話した。

 ご苦労様も言わない、「あっそ、、」

 これほど無神経な管理職がいるものか!

 同じ苦労でも、周囲に理解があればかなり楽だ。事実以前勤務したところは、もっとたがいにいたわり合っていた。

 それがこの学校、、結局辞める羽目になった学校だが、、、、嬉しいことなどない。カリカリとして足を引っ張り、わがままを言う人間がのさばっていた。

 部活をやらない女性教諭は、相変わらず文句ばかり言い、私は遠距離だ、病気だ、そのくせ大量に酒を飲んでいる。

 部活の顧問は、木曜の午後が総合学習の授業なのだがその日になると、急にやってきて

「午後休むから教室に行ってくれ。」

と話してくる。

 私にいいに来ているが、管理職に話してない。それは無断欠勤ではないか。
最初はきがつかなかった、今となっては学活、道徳、総合、みんな体よくこの教員は私にやらせていた。

 逮捕されても良いから、殴りつけてもけりを入れても、飽き足らないやつらだ。

 少なくとも事情を知った後、退職後私から抗議の手紙を見たら

「すみません」なりわびる気持ちや行為があってしかるべきだ。

 体に変調をきたしたのもこの頃だった。だるさが治らない、、、。

 7月29日、東京家庭裁判所に行く。

 「成人保護者」の決定なのだ。

 母の保護者に私がなるのだ。

 精神衛生法では家庭裁判所で保護者に認定されないと、入院させることができない。
 今思うと、病院が時間をずらして、そうしたのであろう。日付は家裁に行った日が「保護入院」になっているから。

 福祉センターからは、「特別養護老人ホーム」の申込書と一覧を渡された。また老人保健施設の一覧も渡された。

 特別養護老人ホームの意味はわかったし、入所できるまで待つのが大変だと言うことも知っていた。

 しかし、老人保健施設については、甘く考えていたというか、よく理解できなかった。また保護入院が、三か月だと言うことも後で知った。

 医者が説明不足と言うか、流れを図式にして渡すとかすればよいのに。

 ネットとかで検索しても新しい資料と古い資料が交錯していた。

 その後、母を特別養護老人ホームに入れるまでまた、戦いが始まる。





 





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入院は終わりじゃなかった。

2008-11-11 22:39:46 | Weblog
 病院に行く途中、私たちは絶えず母に語りかけていた。

「ほら環八だよ。」

「木がずいぶん大きくなったね。」

「ここから杉並区だよ。」

”まだつかないの。場所はどこ?”

「練馬だよ。」

”遠いわねえ。”

 母の世代だと練馬は遠い田舎なのだ。母は決して閉じこもりではない。一人でどこにでも出かけたものだ。交通機関や道などは実によく知っていた。タクシーに乗れば、大体一度で道筋を覚えた。

 もう過去と現在が混在し始めていたのだ。

”入院はどのくらい”

”本当はおかあちゃまの頭がおかしいから病院へ行くの?”

 その後二人とも返す言葉がなかった。泣きそうだ、、、。

 病院が見えてきた、弟に病院の玄関前までつけるように言う。

 なんとしても病院内へ一歩でも入れねば、、、、。

 玄関前で弟が駐車場から来るのを待つ。母は弟が一番可愛いのだ、だから少しでも離れると不安なのだ。無理して病院内へ入れると、危険と考えた。

 弟が荷物を持って入っきた、母の方を抱くようにして歩いて行く弟。

 受付で話しをする、病棟を案内される。庭に坊さんの像があった。

”ここは仏教なのね。”
 
 若いころ洗礼を受けた母にはいろんな苦労もあったろう、、。でもその母に、発症した後の教会は冷たかった。

 病棟で職員に会う。

 老人精神病棟、、、、まるで映画の世界。

 ギャー、来ちゃダメ!いっちゃダメ!おい!

 机をたたき続ける老人、、、、母はそれを見てすくむ。



 すぐに看護師さんが母を連れて行った。

「お母さんこちらへ行きましょう。」

 なれている、瞬間的に母の不安を察知したのだろう。にっこりと母に笑いかけて連れて行った。

 それが母が実社会から去った瞬間である。 

 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


 病院の人と話をした。持ち物チエック。

「メガネは渡しません。危ないので。」

英語の本を見つけた。

「これは?」

「母は英文科なので、少しでも読ませたいのです。」

 かかりのひとはブスッとした表情になった。

「読みたければ週刊誌もあります。」

「母親は週刊誌など読みません。」

 弟と声が合わさってしまった、、。

 余計気に障ったみたいだった、、、。


 この日以来、、、、

 母は年に数回家に戻すだけになった。最初は正月とか二泊でもさせようと思った。でも無理だった。

 この日から、母は認知症がさらに進んだ、、、、、、、。


  母は過去と現在をさまよい、「老人語」「家族語」を話す。
 家族にしか想像できないこと、それを母の言葉から瞬間的に想像して理解する。
 言語能力に最も優れていた母、その言語中枢をやられた。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 とうとうこの日のことを書くことになったのだなあ、、、、今書いててそう思う。
 発症したきっかけは1997年12月、発症したのが1998年5月頃、入院が2002年7月。
2007年3月私は病気退職、、、、。

 入院は終わりじゃなかった。


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入院前日、当日の朝、エピソード

2008-11-10 22:20:06 | Weblog
 入院の前にいくつか書き忘れたことがあったので、話が前後しますが、書いておきます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2002年の5月ごろです。保健婦さんから手紙が来たのです。
母のところをヘルパーの派遣会社のケアマネと尋ねた時のことを書いてくれたのです。

”えーと、どれから書いていいのか、、、。先日○○のケアマネの○○さんと尋ねました。お母様とお話をしていたのですが、会話が途切れました。その沈黙を破ったのはおかあ様でした。

「実は、毎晩あの人が寝ているところへやってきては、私を脅かそうとしてお化けの真似をするのですよ。でも私は気がつかないふりをするのです。警察に話しても信じてもらえないし、世の中頼りになりませんね。」
 
 ○○さんとこの話を聞いて二人ともどう言葉を返していいのか分かりませんでした。”

 この手紙もとってあります。保健婦さんもケアマネさんはとてもよく母に接していただいたと今でも感謝しています。仕事とはいえ、親身になっていただいたと本当にそう思います。
 この手紙の件はもちろん、医者にも伝えました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 母の強制入院が決まってから、しばらくしある日、体が持たず年休を取りました。慢性の睡眠不足がもう限界に来てました。朝職場に電話して、また寝ていたのです。
 しかし、昼ごろ表ががやがやしてきました。サイレンの音も聞こえますし、赤いランプが窓に反射しています。
 もうそれだけで、何が起きたのか分かりました。

 すぐに私の家のチャイムがなりました。
 ドアを開けると、消防士の人が立ってました。
「お隣の方はおかあ様ですか?」
「はい。」

 で、消防士の人は私を制止しました。私もピンときました。母が家の外に出て来たのです。会話が聞こえました。

”じゃあ、何も心配しなくていいのですね”

”大丈夫です、何も燃えていませんよ。お母さん、あまり心配しすぎないようにね。すぐに消防車よんだらだめですよ。”

 しばらくして、母は家の中に入り、消防士が手招きをしました。
下に降りていき、消防士と会話をしました。

「お母さまは、何かご病気のようですね。」
「はい、妄想がひどくて、○○病院に通ってて、○○日に強制入院することも決まってるのですよ。私も体がまいって今日は年休を取っていたのです。」

 それを聞いて消防士はすぐに理解したようです。もっともこういうことは一回や二回ではないので、情報は伝わっていたと思います。私も、最初こういうことがあったとき、すぐに状況をしらせましたから。

 時に、区の無料法律相談会から電話があったと福祉センターから連絡もあったりしました。

「家に住み着いている人を追い出したいがどうしたら良いかという内容だったので、内容を変だと思い、福祉センターに紹介が来たのです。事情をお話してよろしいですか。」

 こうした連絡は本当にありがたいことでした。とても気が良くつくといいますか、悩んでいる人の立場になってると思います。

 私自身、母のこうした症状を隠さずにいました。どんどん知らせていきました。
それがことを大きくさせなかった結果にもなりました。
 ただ、母はどこへ連絡しても本気で活動してくれないことにいら立ちも募らせたことだろうとは思います。

 でも私がそうした行動を取る以外にどんな方法があるでしょうか。一番よいのは母の不安を少しでも取り除くために、家にいる時間を多くすることだったはずです。それを職場の人は理解してくれなかったのです。

 結果、ろくに休養も取れず、母の症状を悪化させ、私自身体を壊したのですもの。おまけにリフレッシュ休暇まで妨害する、、、、どういう神経をしているのか、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ある夜など、12時頃帰宅した、、。
私だって人間です、ずっと家にいることはつらいものです。それで外出しました。

 家に帰ると 沢山の人がいました。覆面パトカーでしょう、赤いランプが回っている車もありました。

「息子さんですか?」
「はいそうです。」
 私をみつけた、私服の方ですが呼びとめました。
 どこかで見かけたのかなあ?

「不審者がいると電話があって、来たのですが。あっ、あなたの家の方を指さしてますよ。知らせろということでしょうね。」
 
 母は私に妄想じゃないんだと言うことを分からせようとしてるのです。そのために警察を呼んだりしているのです。

”警察も来た、だから不審者がいるの、それを信じて”

「お母さんはどこか病院とかに行かせてます?」

 病院に行かせてることも、警察でそのために御厄介になったこと、強制入院の手づきをしてること、、、など話した。

「おかあさん、もうちょっとしたことで警察よんだりしたらだめだよ。」

 警察のひとは母にそう言っていた。

 私もおまわりさんたちにあやまったりした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 強制入院前日、事情を校長に話した

「あっ、そ。」

 一言なんか言えないのか、、怒りがこみ上げる。主任も、うなずくだけだ。ことの重大さを全く理解していない。

 弟からメール
・・・・・・・・・・・・・・・

 会社に明日母の強制入院で休みます。涙ぐんで言いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こんな状況で私が泣くわけにいかないでしょ。分かりますか?

 その夜は三人でごはんを食べました。

「明日、○時に出かけるよ。」

 拒否られたら、、、それが最大の不安。

 そして当日の朝、もう弟は暗黙の目での合図で行動、だった。
着替えさせる、荷物を持つ、家の外に出る、鍵をかける、車をおとうとが取りに行き、家の前に止める、母を中に入れる。

 すべて笑顔で行った、少しでも不安を与えたら、拒否されるだろうから、、。


 
 
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母が入院への承諾をする…本当はだましたのだが

2008-11-08 22:04:31 | Weblog
入院の日は決まっている、しかし、母へは話せないでいた。

 警備保障会社にも聞いてみた、

”やってるところもありますが私どもでは行っていません。あえてと言われればやりますが、一人20万以上は行きますよ。”

「行っている会社を紹介してくれませんか・」

”それは分からないですよ”

仕方がないので、入院予定先に電話してみた。

「迎えに来るとかはできませんか?」

”それは無理です”

「では警備会社など紹介してください。」

”そう言うケースもありますが、私の方では把握してません。”

 強制入院とはこんなにも難しいことだった。なぜこうした詳細をあらかじめ家族に明かさないのか、、、。

 これらの電話は、みな休憩時間とか放課後、こっそり携帯でしていた。
それくらいは許してほしい、ただし次にすぐ授業があるときなどは無理だ。時間など無いし、あったとしても気持ち的に無理だ。

 もちろん、入院先の担当者にも会った。年休を取っていくほかない。それをすごい嫌な眼で見られた。特に転勤したばかりの女子教諭とか部活の顧問は、、、。
 仕事をさぼってるかのような嫌味も言う。

 管理職にも理由は話す、しかしただの一度も
「ご苦労様」「大変だね」も言われたことがない。
 よほど、鈍感と言うか自分のことしか興味がないのだろうか。

 ある日、早く家に帰ることができる日があった。

 もう何も考えてなかった。入院は1週間後、、、

 私の悪だくみが、頭の中で渦巻いている、なぜか私の心は平静で、笑みが浮かんできていた。

 家に帰った。早い時間だから、母は安心したのだろう。

 そこで私は切りだした、、、

「あのね、おかあちゃま、病院のK先生から電話があったよ。この間総合内科で健康診断したでしょ。そうしたら、病気がみつかかってね早く入院した方がいいよだって。それでね、K先生が親切にも病院を見つけてくれたよ。良かったね。」

 通院させた時もそうだったが、、、私の人生時々、なんだか大変なことをたいして考えもせず、行ってしまうことがある。

 大それたことをしてしまう。こうして生きるほかなかった、苦しみを最低限にするためにも、それしかない。


「そうだったの、それは驚いたけど良かったわ。」

「ほんとによかったね、先生にお礼の電話しようね。」

 すぐに携帯で病院に電話した、もちろんだましたことも、そして入院することに本人同意してるから、意志を変えないようにお礼の電話だといってること、だから母と話してくれないかとも。

 電話で母は
「どうもありがとうございました、本当にお世話様でした。」

 母はどんな時でもこういう時は冷静で、丁寧であった。

 すぐにカレンダーに入院と書いておいた。忘れないように母の椅子の近くにいつもカレンダーを置いてある。

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弟にメール
弟の返事

「神の摂理か。」

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 終生、母をだましたことは悔いる、、、、他にどういう方法があったのか、ふんじばって連れて行くことなんかできない。

 入院や入所させた方法もよく聞かれる、それでみんな一番苦労しているのだ。
私は

「だましました。」
 
と言います。・…本当は泣きだしたい気持ちだ。

 その夜、母は急に気持が悪いと言いだした。

 弟と国立の夜間救急外来へ連れて行く。顔が青ざめて、真っ白な青。

「お袋、死ぬなよ。」

 弟が母の頭を抱いて言った。

 私は母の体調の変化の理由は想像できました。

 入院する、体が悪い、死の恐怖、、、です。

 担当した医師にいきさつを話す、ここの病院に通院してるわけですぐにカルテも
見て、了解したみたい。

「異常はありませんね。お疲れなのでしょう。」

 私が、たぶん入院への不安からだと思います、と言うと

「そうだと思います。」

と言われた。

 歳を取ると死ぬのが怖くない、認知症になると何も分からなくなる、、、とんでもない全部わかるのだ。それを常識にしてほしい。

 動揺する弟の前で平静を装う、仕事場では相変わらずバリバリやり、冗談ばかり言っていた。

 苦しみを出したくない、そうすればより理解されるだろう、、、、全く違っていた。

 後になって

「あんまり母親のことばかりしつこく言うな。」
「苦労を顔に出さないのが人生だ」

 とか偉そうに、まったく逆のことを言い始める、それが許せない。


介護休暇すら取らせなかったり、介護ための年休だって苦情を言い、介護への配慮すらせず運動部をもたせ、家の近いものがさっさと帰り、学年で最後に残るのが私だったり、若いくせに部活を持たない者がいたり、、、拒否したのに副主任にしたり、一切配慮はされていない。 


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お母さんピアノを弾いてください

タイトルとなった「お母さんピアノをひいてください」は抒情文芸平成13年春季号に掲載されたものです。 オリジナルモジュールで設置したので、常に上に来てしまうのですが、詩の形が崩れてしまいます。 妄想の中に一日いて おびえ閉じこもる母よ 死ぬほど私は辛いのです 小学生から大学まで首席の母 数カ国語を話し、独学で弾くピアノ 簡単なメロディーはすぐに採譜してしまう母私には できすぎた母だった 高等文官の娘に生まれ 私にも明治流の武士の作法を教えた母 母よ、あなたは私には重かった 父が浮気症でなかったら あなたはもっと幸せでおおらかに私を育てたろうに 悲しみとやり場のない怒り 私はもう子供じゃない 母には私はまだ十五の子供に見えるらしい 二度目の童子となった母 母を悲しませまいと自分を殺して生きてきた少年時 代、青年時代 母よ時には恨みもあるのです 私は普通の人なのです、あなたの家族のようなエリ ートにはなれません それもあなたの悲しみの一つです 私は独りです、それもあなたには悲しみですか 両親の不仲が私を学習に集中させなくなったほとん ど上の空の授業、とうとう不安神経症になった私 荒れた少年時代、机も椅子もよく投げた 立ち直らせてくれたのはあなただった 母よそのあなたが目の前で狂ってく なぜ、なぜ、なぜと叫ばずにおられない 心優しき弟はけなげに母をいたわり料理を作る 他の親族は己の主義に走り、以来家には無関心 挙げ句の果てに「お前達でやれ」とはそれがあなた の主義が出した正義ですか 私だって弱いのだ、いや本当に私は弱いのだでも仕 事でも、家でも強い自分を演じてきたそうしなきゃ 誰があなたをはげませたでしょう 私の救いはどこにある 私を慰める人はどこにいる 二度目の童子となった母 もう一度ピアノを弾いてください 私は歌うから、、、、、、。