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お母さんピアノを弾いてください

優しい母が認知症、強制入院。介護で体を壊し退職。弟とのメールのやりとり、詩や短歌で介護の現実を紹介していきます。

鍋の会

2008-12-17 00:38:41 | Weblog
 母が入所している、特別養護老人ホームで鍋の会。
 5時からなので弟うは仕事で来られない、今日は私だけ。

 TVに出てから職員の方が良く顔を覚えてくれるようになった。

 この間も、生涯現役フェアで元職員の方にも声をかけられた、少しずつ地域にも入り込んでいけてるかもしれない。

 外国の方から来たクリスマスカードを持って行ったが、全部はもう読めないようだが、名前とかはちゃんと覚えている。


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母の誕生日

2008-12-13 14:24:55 | Weblog
「今日は12月11日ですよ。」

「何の日か知ってますか?」

「そりゃあもちろんわかりますよ、誕生日でしょう。」

 この間は自分の誕生日を覚えていなかったのに。

 認知症が時々分からなくなる。言語やが委縮して元に戻らないはずだけど、話したことを後でつなげると、結構覚えていたりする。

 母にサンタ靴のお菓子を買った。高いお土産買っても、置いておく場所も着ることもない。
 母がサンタ靴が好きだと昔話してくれた。それで、子供のころを思い出してくれればと買ってきた。

「おいしくない」

「私が買ってきたのにそんなこと言ったら失礼ですよ」

「でもおいしくない」

 変な会話です。たぶん、母は自分の置かれている場所に恨みや不満があるのでしょう。
 出されるお菓子と、よくないものだという先入観があるのです。
 むかしのサンタ靴は駄菓子だったな、、、、。

 と言いながら、よく食べる、、、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





 施設では、体操しているけど、多くの老人は行わない、でもそばで

「今体操してるよ。」

 というと、係りの人の動きを見てまねをする。

 歌をうたのだけど、歌詞が見えない、耳が聞こえにくいから歌わない、、。

 これって、もっと個別対応できる部分を考えれば解消しいくと思う。補聴器を施設で片一方なくし、その後施設ではつけさせない。

「そばでいえば理解してるようですから、、」

 でも集団レクなど、側で言ったりしない、、、、。

 視力、聴力を補うつけていることが分からないような補聴器とか目がねがあれば、ずいぶん人とのコミュニケーションは向上すると思う。

 




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老人保健施設 初入所

2008-12-05 11:18:10 | Weblog
2008、12,現在 私には仕事がありません。ずっと読んでくださっている方は分かると思いますが、、。

 2007年3月、4年早く退職したのです。その前に1年半療休したのですが、その後復帰した時、毎日時間療休2時間を取る処置が出たのに、管理職が

「そんなこと現場でできないし、でも取らせないと俺たちが怒られるからハンコを預からせてくれないか。とれない日は闇でその週のうちに取らせるから。」

 それを10カ月やられました。給料も下がります。それ以上続けたら殺されます。

 この歳で辞めたものには仕事などありません。
 すべて介護への無理解から生じたものです。ですから、私はすべてを書くつもりでいるのです。

 無理解でどれほど多くの人が苦渋をなめていることか、無理解な言葉がどれほど患者の家族に負担を与えているか知ってほしいのです。

 こうして書くのも正直いろんな場面がフラッシュバックして苦しいのです。でも書かないのはもっとつらいのです。

 ところどころ、被害妄想かと思う人もいるかもしれません、でもすべて事実だけ書いています。
 嫌な場面は、感情を抑えられないので不愉快に思われるところもあるかも知れません。でもそれは許してください。
 美しい兄弟の介護の物語で終わらせてもらいたくないのです。

 ・・・・そういう向きもあるのです、、、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
老人保健施設からの電話

待ちに待ったものでした。

 まず電話で入所の意志を確認。ホームに診療情報提供書を書いてもらう。
所内会議で決定、私たち家族に通知。

 もちろん、ホームにもその旨を話す。

 三月の初旬に転出する、、、、経費は三月分丸丸取られたが、、、、、。

 一年分の入居費、三百万の約半分だけ戻ってきた。
  
 老人保健施設は三か月のみ、でも入居費はいらないし、月々の費用だけでいいのである。
 大部屋で7万位だった。個室だと20万以上する。

 もちろんもっと少ないところもある。

 家族には負担が少ないのは確かだ。

 ただし、これらの施設都や区が認定した施設の場合だ。当然補助もありやすいのである。民間の施設であることに変わりない。

 だけど安いから、申込者が多くどの施設も半年待ちが普通です。
 希望した場所に行けると言うのではありません。複数申し込んでそれで空きが出たらすぐに申し込むと言うのを繰り返します。




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申し込んで8か月後

2008-12-05 00:17:19 | Weblog
一月なんてあっという間に過ぎる、、、。

この頃から弟のメールがすこしづつ変化してくる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今母と一緒にホームのベッドで寝ている。いっそこのまま死んでしまいたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 女性よりも男性の方が母親との関係は切りにくいと私自身そう思う。

 私自身がたとえまいっていてもそれを口にできず、それを少しでも言うと

「甘い」「誰でもいつかそうなる」

くらいしか返事がない。

 だから余計に人に話したくなかった。
 だいたい話しても、早く帰宅させることもなかったし、この翌年に私は療休を取る時に管理職は 

「そうかあ、原因は前に我々が来る前にあったんだね。」

 これから休みに入る者を前にして何と言う奴だ、心底人が憎いと思うようになっった。

 三月、リフレッシュ休暇の期限がせまった。
作年、臨時の担任で取れなかったから、教頭が今年取っていいいと言っていたから、それはみんなに周知されていると思った。

 学年で一人、リフレッシュで一週間中国に行く人がいる、

しかし、、、、、私が休もうとしたら、、、


「休む人がいるわよ、私たちも休もうかしら。」

 例の遠距離通勤を主張する女性教員だ。

 この時学年主任は市全体の進路の担当で、学校にいない、だから私が学校に残れと言う、、、、。

 主任にも理由を話したけど、、モゴモゴ言っただけだ、、、。

教頭も校長も、同じく結論を言わない。

 私は32で転職した、だから50過ぎて初めてリフレッシュ休暇を取れる、、、。

 昨年は部活のも一人の顧問は
「私は権利を行使しますから。」

 といい、一週間休んだ、、、その頃私は臨時の担任で母が最も症状の激しい時だった。

 後に私の不満を主任は

「あの時は、療休で休んだ先生がいたから他に代理の先生がいなかったしなあ、、、。」

 とすり替えて理解している、、、それをまた休んだ先生とか校長に言ったらしい、、、。

 ちなみに、私のリフレッシュ休暇を妨害した教員は、二年後に介護休暇を5日間とって自宅の北海道に帰った。その学年の職員旅行が北海道でその後でだ。
 嘘がばればれで、要するに3年生を受け持ったから、休んで当然だ、だから介護休暇にして休むということだ。

 私の介護を妨害しておいてよくもまあそんなことができるものだ、また管理職がそれを受け入れる神経が分からない。

 就職して28年たって一度もその恩恵を受けずにすぎてしまった、、、。母のことでリフレッシュ休暇を使いたいと思っていたのに、、、、、。

 ただの一回でも「すみません」の一言を彼らが言わない、だから言うまで私は、その理由を追求する。

 そして母の狂った部屋へ来て弟の前で謝罪させたい。

 怒りで体中ぶるぶる震えていた、、、。

 そのなか、目黒の老人保健施設から電話があった。

「以前お申し込みになりましたが、その後お母様はどこか施設にお入りになりましたか?」

 申し込んで8か月後だった。

 


 


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お出かけ

2008-12-04 14:07:11 | Weblog
正月二日が過ぎた、母を老人ホームに返す日。

 抵抗するか心配だった。

「お出かけするよ。」

 で外に出た。後になるとぐずることも随分あったりっするが。

 思うに母は穏やかで、声を荒げたことがない。人の悪口も言わない。昔の日本人であると思う。
 故に人への思いやり、義理とか大切にした人だ。

 私もその影響を受けているとはいえ、とても母の真似はできません。
 でも、最近の風潮

「人の悪口を言う」
「自己主張ばかりして人に迷惑をかけても笑って済ませてしまおうとしたり」
「大人しくしていればつけ上がる」
「利用するだけ利用して、恩義を忘れる風潮」

などは耐えられません。

 明治・大正の人はこういうところは厳しいと思う。戦争中の日本が異常な時期で、本来日本は見知らぬ旅人でも、もてなしたりとか、おおらかな面があったでしょう。


 母をホームに帰宅させてから一週間後、ホームの新年会があった。

 仕事帰りなので、遅れてしまった。

 母は集団でやることにはどうしても消極的である。要するにお遊戯や、ダンスのようなものである。

 この頃からだんだん耳が聞こえなくなってきた。
 小グループのリハビリも、声の指示が聞こえていない。
 周りを見てまねはできる。

 そのことはホームの人にも言っているのだが。

 有料ホームだけあって、お祭りでもかなりお金がかかっている。

 変な言い方だけど、そうでないところは、雰囲気がまるで病院だもの。




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料理し、食べる、生きている

2008-12-02 23:03:02 | Weblog
母を帰宅させたら、母はごはんを作ろうとした。

どんなにおせち料理を作ってあるからと言っても、聞こうとしなかった、、。

止めさせようとすると、涙を流した。

母は母であろうとするのだ。

それが分かるから心苦しいのだ。

 おせち料理を食べながら母は

 食べるように手で指示していた

「自分で作った気持になってるんだなあ。」

弟と話した。

 その夜は弟は側で寝た。

翌日弟からメール
・・・・・・・・・・・・・・・

母は、しょっちゅう起きて歩くし、朝四時頃には完全に起き上がり眠ることができなかった。
・・・・・・・・・・・

 5人兄弟の真ん中である。男2人、女3人の中心である。
 祖母は男の一人を亡くし、娘(母のおば)を亡くしている。
 末の妹は病弱であった。

 そのためか、母はなんでも手伝わされたようだ。ねえや(今でいえば住み込みのメイド)が二人いても母は同じ4時に起こされ手伝わされたとのことだった。
 その時、祖母も一緒に起きてたので、思うに母はいずれよその家に嫁ぐから若いうちに鍛えておこうという意味だったらしい。

 後年母からそれを聞いた。
ただ若い時には、どうして自分だけ手伝わされるのか、不公平だなと思ったこともあるようだ。

 ある意味、母はそのおかげで全然生活環境の違う、父の家庭でもやっていけたのだろう。
 
 私も三人兄弟の真ん中、実は私も同じことを感じたものです。
 
 もっともそのおかげで、母の認知症の時も手続きなど全部できたし、わたりもつけられた。
 で、色々しなきゃあいけなくて体壊したのだから、、、。

 でも、どれが良いとか悪いとか言えない、、、それが人生だろう。

 二日目の朝

弟からのメール
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

母は4時に起きて、自分でパンを焼いて食べていた。 

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 さすがに弟もびっくりしたようだ。

 どんなになっても、自分で料理を作り自分の口で食べたい、、、最近の介護はそれを重視している。
 それは本当によく分かる。

 生きている実感だもの、、。


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正月 帰宅して2泊

2008-11-27 22:24:14 | Weblog
 正直、終業式が待ち遠しかった。
 だが家に帰ってももう母はいない、、、。

 生きているからまだいいとか、そんななぐさめ?を聞いたらみんなどう思うでしょうか。

 弟はおせち料理を作り始めた。

・・・・・
弟のメール

母の味を忘れたくない。

・・・・・

 彼は結構器用で、母が家にいるときでも料理を手伝っていた。味噌づくりなども覚えていた。

 母に正月には帰らせ、食事をさせようというのである。

 二日間、母を家に戻すことにした。

 新年の礼拝にも出させ、家に連れてきた。

 最初は喜ぶのです。そのままだったら家に置いても大丈夫だろうかとか、弟と話していた。
 でも一時間と持たない、、、。たちまち落ち付きがなくなる。

 以前と同じで、部屋をチェックしてまわるのだ。

 こっそり見ていて、どこかに財布とか置いてないか見つけようと思うのだけど、その気配はない。
 というより、こちら側の意図は分かるような雰囲気もある。
 認知症は、決して痴呆と言う言葉の通り、何も分からない状態ではない。

 記憶力は部分的に通常と同じであるかのような行動をする。

 その辺は専門家の人にどういう仕組みなのか教えてもらいたいものだ。

 完全に記憶が無くなったのなら、なぜ突然思い出すことがあるのだろう。しかも微細な面まで、専門用語まで、、。
 
 弟は母のそばに布団を敷いて寝ていた。

翌日のメール
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母は動きまわるし朝早く起きるので寝られない。

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クリスマス、外出

2008-11-25 23:04:33 | Weblog
2002年12月

クリスマスが近づいた。
弟が母を一時帰宅させたいと言ってきた。
もとより一時帰宅させたいと思っていたので、運転を弟に頼んだ。

教会の祝会に連れて行った。

まわり人のは

「お母さんお元気そうですね。」

 実はそれがすごくつらい、、、。認知症は見かけは異常がないように思えるから、、。

 今思うと、

‘‘大した事ないのに大げさに言っていたな、それがこれで分かった。‘‘

 という意味を含んだ発言もあったのだろう。


 認知症の人も、家族以外の人に会うとしゃきっとしてしまうことがある。余計に理解してもらえない。

 話しかけてほしいと私はさんざん言うのだけど、話しかけて来る人が本当に少ない。話をしても一方的に話すので、耳の遠い(ほとんど理解していない)母には聞こえないし、相づちをうってしまうので、理解したと思ってしまうのだろう。
 
 現実の世は、テレビは本で介護や福祉、教育の本を読めば感動する人は多い。
 
 だけど、目の前に介護を必要としている人や介護で大変な家族がいたとしても、何もしない。それが現実だと思う。

 目の前に見える不幸には目をそむけるのだろう。トルストイの小説、「復活」だったかなあ、

「私は貧しい農民たちを助けたいと思う、しかし蚤や土で汚れた農民を見ると憎しみが湧いてしまうのです。」

 と自分の心を告白する貴族の婦人の場面があった。目に見えなきゃあ、10円20円の寄付はするだろう、でも目の前に不幸には目を背けるのだろう。


 クリスマスの日はそのままホームに帰宅させた。

 それをすごく嫌がった。

 それでもこの頃はまだ、認知症は長谷川式で30だった。

 不思議に思うのだけど、医療センターでは、こうした検査をしていないしMRIを頼んでやっとしてもらったが年相応の脳で別段問題がないというのだ。


 大病院なのになぜMRIの結果を家族に見せずに口頭ですましたのか、、、。

 J病院で初めて、長谷川式検査のことも知ったし、CTスキャンの写真を見せて、脳の委縮した写真を見せられ、前頭野の言語中枢がやられていることなど、詳しく教えてもらった。

 病院によってなぜ患者の家族への対応が異なるのか。

 それ以来、私は必ず薬の名前から、処方などすべて見せてもらったり、目の前でメモを取ることにしている。

 そうするだけで、かなり説明が詳しくなる。それが母のためでもあり、患者と家族の権利を守ることになると思う。

 
 その時撮影した写真が上のです。まだ普通の人に?見える状態です。

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弟からのメール

 正月は母を家で過ごさせたい。二日間家で宿泊させます。





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二人だけの誕生日

2008-11-24 23:27:26 | Weblog
誕生日

 母の誕生日、12月である。この頃は進路で早く家に帰れない。おまけに学年主任が市の進路委員会の長にされ、副主任は市の野球の代表とかで急きょ副主任にされている。

 校長など今思い出してもむかむかするので、人の介護の大変さなど全く頭にない、最初から考慮する気持ちなどないのだろ。

 それでは何のために前の学校の校長が奔走してくれたのか全く無駄になってしまってるし、意向を全く無視してる。

 この人は数年後に校長会長になるので、最初からそれを見越して自分の不利になるようなことは一切しなかったのだろう。

 学校が部活で優勝すれば校長の名誉になる。それだけのことだ。事実、部活のためなら何でもわがままを聞いている。

 校長が握りつぶしてたのが現状だ。そのつけをなんで私や家族が払わねばならないのだ。

 12月になると気がつくと3年で残ってるのは私だったりす。わずか15分で帰宅できる人間が半分だ、なのに一番遠い私が最後なのか。

 母親のことを言うと、「誰だって大変だ」ほとんどこれですまされる。こういう風潮は日本のすべての職場で繰り返されているだろう。

 批判する人間は、実は大した苦労をしていない。それが現状だ。この間テレビで桐嶋洋子が

「ニートなんて少しも同情しない、世界の国を見たらいくらでも仕事のない人がいるからそれにくらべたら大した事ない。」

 と話していた。私は今無職状態、体を壊しこの歳で早期退職したら仕事なんてない、そういう現実がある。それを見てない、だから理解できない、、。

・・・・・・・・・・・・・・・
 家に帰りたい、

「今日は母の誕生日だ」
「家に帰らなくていいのですか?」

 さすがに気の毒に思ったのか、親しい先生が話しかけてくれた。

 この学年で、この人ぐらいだったな、状況を理解したのは。理解しても全体が協力してくれねば何にもならない。

 7時すぎた、大急ぎで帰った。家から車で環八を走る。九時少し前、ホームに着いた。

 手にはミニクリスマスツリー

 当直の人が

「お母さまは、寝ておられます。」

 部屋に行くと母は寝ていたが、私が来ると目を覚ました。

「寝てるの、どうしたの?」

「病気なの。」

 母はそこを病院だと思っている。

「ねえ今日は何の日か知っている?おかあちゃまの誕生日だよ。」

「そうなの、おかあちゃまいくつになったのかしら。

「80歳だよ、長生きしたね。」

「そんなになったの。」

 母は驚いていた。

 周りはみんな寝ていて静かだった、

 母と二人だけの誕生日だった。

 老人ホームのベッドで、、、。 
 

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 ひたすら電話、、そして待つ

2008-11-21 22:11:33 | Weblog
 教頭がすっ飛んできた、校長はこっちを見てただけ。この人は絶対に自分の手を汚さない、、と思う。
 そういう人でないと二校目で校長会長になんかなれないのかもしれないが、、。

「主任とよく話をされたら。」

 まあ主任には今までのいきさつも話しましたが、この人自体介護のことを理解していない。
 理解していたら、転校した時にさっさと帰宅させてくれただろう。転校したてに

「天野さんにはあまり仕事をさせないように言われてるんだが、、。」

 とつぶやかれたのを覚えている。

 想像するに、校長自体が実情を知ってながら主任に伝えてないのだろう。そういうことはあり得ないし、当然学年全体に周知してあるべきだ、少なくともそれまでの勤務校はそうだった。

 話したけど、よい結果など期待なんかしていない。

 翌日、例の教員は

「私が怒ったのを気にされているようですが、私は時間が守れない学年全体に怒ったのです。」

 と笑みを浮かべて言った。直接私に「昨日のことはどうも」とか話をすればまだましだが、それすらもない。

 よくもまあ、しゃあしゃあと開き直れるものだと思う。

 思うにこの世代の人は「迷惑な隣人世代」だ。「俺が俺が」「私は私は」それしか言わない。自己中丸出しの世代だと思う。こういう人が今管理職になり始めてるから、教師のカバーなどできるはずがない。

 ほとんど毎週、母を引き受けてくれる「老人保健施設」に電話をしては、面談をし、診療情報提供書を書いてもらっては送っていた。

 もちろん、家族が書く書類には、入居させたい人の履歴、症状、それまでの経過、家族構成、、やたら多いのだから。

 正直言って、個人情報筒抜けの状態になる。

 多くは電話の段階で、「認知症」を理由に断られる。家から5分の所にある施設などは、情報提供書を出したのに、1か月以上もたってから断りの文を入れて送り返してくる。
 最初から断るつもりだったのだろうと思う。

 当事者でないとこういう苦労は分からないと思う。普通の仕事プラス精神的、肉体的疲労が蓄積する。

 老人で、認知症の症状がない人などいない思うけど、、、。

 大方の施設が「病気のある人」「認知症のある人」「徘徊癖のある人」「大声を出す人」断る理由を挙げている。
 今はだいぶ緩和されてきているとは思うが。

 世の中の「認知症」に対する考えなどそんなものだ、、悲しいが。
 
 母は家では妄想は出るけど、暴力は振るわないし大声も出さないし、徘徊もしない。それは説明しても理解してもらえない。
 かといって家に置いておける状態ではない。

 こんな状態が翌年の三月まで続く。アクセスしてはひたすら待つのだ。

 で、弟がこの頃から、沈んできた。鬱を訴え始める。

  


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お母さんピアノを弾いてください

タイトルとなった「お母さんピアノをひいてください」は抒情文芸平成13年春季号に掲載されたものです。 オリジナルモジュールで設置したので、常に上に来てしまうのですが、詩の形が崩れてしまいます。 妄想の中に一日いて おびえ閉じこもる母よ 死ぬほど私は辛いのです 小学生から大学まで首席の母 数カ国語を話し、独学で弾くピアノ 簡単なメロディーはすぐに採譜してしまう母私には できすぎた母だった 高等文官の娘に生まれ 私にも明治流の武士の作法を教えた母 母よ、あなたは私には重かった 父が浮気症でなかったら あなたはもっと幸せでおおらかに私を育てたろうに 悲しみとやり場のない怒り 私はもう子供じゃない 母には私はまだ十五の子供に見えるらしい 二度目の童子となった母 母を悲しませまいと自分を殺して生きてきた少年時 代、青年時代 母よ時には恨みもあるのです 私は普通の人なのです、あなたの家族のようなエリ ートにはなれません それもあなたの悲しみの一つです 私は独りです、それもあなたには悲しみですか 両親の不仲が私を学習に集中させなくなったほとん ど上の空の授業、とうとう不安神経症になった私 荒れた少年時代、机も椅子もよく投げた 立ち直らせてくれたのはあなただった 母よそのあなたが目の前で狂ってく なぜ、なぜ、なぜと叫ばずにおられない 心優しき弟はけなげに母をいたわり料理を作る 他の親族は己の主義に走り、以来家には無関心 挙げ句の果てに「お前達でやれ」とはそれがあなた の主義が出した正義ですか 私だって弱いのだ、いや本当に私は弱いのだでも仕 事でも、家でも強い自分を演じてきたそうしなきゃ 誰があなたをはげませたでしょう 私の救いはどこにある 私を慰める人はどこにいる 二度目の童子となった母 もう一度ピアノを弾いてください 私は歌うから、、、、、、。