
今週はジャルジェ将軍とオスカルに対し、良い感情を持たないブイエ将軍の登場。ティーンエイジャーの頃は「嫌なヤツ」と思った。ブイエ将軍の発言は、現代社会にも似たことを言いそうな男性(あるいは女性も)がいる感じがする。
男性と同じ土俵で、媚びずに能力を発揮しようとする女性に対し、妬みや面白くない感情を持つ男性はいつの時代にもいる。女性が行き詰った時、救いの手を差し伸べるどころか逆に「女なんぞに---」「だから女は---」と性差を理由にここぞとばかりに非難する。衛兵隊員たちが将軍に対し「捧げ銃」の指示に従わず、将軍が落馬する姿を見て嘲笑する。ブイエ将軍の怒りはもっともである。5人の兵士の営倉行きもやむをえない。将軍はオスカルに対し「所詮 女なんぞに軍隊が務まるわけがないのだ! 親バカもほどほどにしてほしいものだわい!」と嫌みを言う。自分の醜態をさらしてしまったから、感情的にもなっていただろう。
部下をしっかり統率できなかった非は正直に認めたオスカル。しかし将軍の「女なんぞに--- 親バカ---」発言には断固として抗議する。たとえ相手が上司であっても。こんなところもオスカルの魅力の一つ。自分の能力と性差は別。たとえ親子でも軍務においては別個の人間。オスカルは自分の意思で軍人を、衛兵隊長を務めているわけで、コネを利用しているわけでない。そこをはっきりと正す姿が潔い。
ところで実際のブイエ将軍って、どんな人だったろう?あまり資料が残っていないのだが、Wikiに面白い記述があった。まずブイエ将軍の肖像画から。それほど意地悪な人物には見えない。
名前がやたら長い。ブイエ侯爵フランソワ・クロード・アムル・シャリオールが本名。(1739~1800)名門貴族の出身。ラ・ファイエット将軍とは従兄弟。フランス革命前はカリブ海に赴任して、対イギリス作戦の指揮を執る。帰国してからはフランス東部の国境地帯の行政権を委ねられたことで、ヴァレンヌ逃亡計画に関わるようになる。彼はルイ16世に、自分が司令官を務める管区内の国境の町モンメティへ行くよう提案するが、この計画は失敗に終わり国外に亡命する。のちに彼は国王誘拐説の首謀者としてでっち上げられるが、外国にいるため反論できなかった。革命派はよほど彼の行為が許しがたいとみえて、現国歌の「ラ・マルセイエーズ」の5番の歌詞にこんな一節を残している。
フランス人よ、寛容な戦士として
認容と攻撃を慎むことも考えよ!
あの痛ましき犠牲者と
我らに武器を向けた事を後悔した犠牲者たちを許すのだ!
我らに武器を向けた事を後悔した犠牲者たちを許すのだ!
ただしあの血に飢えた暴君と
ブイエ将軍の共謀者らは別である!
あの無慈悲で残虐な虎どもは
自分の母胎を引き裂くのである!
ここまで恨まれるほど、彼は革命派にとって憎い存在だったのか?そしてこの歌詞は今もなお、歌い継がれているのだろうか?世界中どこの国歌を探してみても、固有名詞で個人攻撃しているのはフランス国歌だけなのでは?
ブイエ将軍はロシアに滞在した後、プラハにも行き回顧録を出版。1800年、ロンドンで60歳で亡くなる。息子のルイ・ド・ブイエはフランスで将軍となる。父は憎まれ、息子は受け入れられ----。何だかよくわからないが。
国歌では名指しで糾弾され、劇画でも憎まれ役として登場し、ブイエ将軍の子孫は今でも肩身の狭い思いをしているだろうか?気の毒である。どんな気持ちか、聞いてみたい気もする。
読んでくださり、ありがとうございます。
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