
サン・ドニ大聖堂には、ルイ16世・アントワネット、そして石の心臓の持ち主だったルイ・シャルルらを祭る地下室がある。
アントワネットとルイ16世は隣同士で眠っている。左右にそれぞれ3つ、棺が並べられているが、真ん中の向かって左がアントワネット、右がルイ16世のものである。フランス革命中、アントワネットは称号なしで「カペー未亡人」「女囚280号」と呼ばれていた。けれどルイ18世は棺の上に「レーヌ・ド・フランス」と彼女の正式の称号を刻んで、名誉を回復している。



そしてルイ・シャルルの石の心臓。両親とともにヴェルサイユを追われた時、わずか4歳。ルイ16世は処刑され、母アントワネットと引き裂かれると、革命市議会議員の靴屋のシモン夫妻に預けられたシャルルは、革命思想の洗脳教育を受け、母親を罵倒するほどになる。幼い子供への教育は恐ろしい。けれど1794年、再びタンプル塔に幽閉される。この時の様子がWikiに詳細に書かれているが、読んでいてぞっとする。これを知ったらアントワネットはどんなに悲しみまた憤るだろう。さすがの池田先生も、シャルルのことは新作エピとして描くには悲惨すぎてできないだろう。以下引用。
元は家族の食堂であった部屋にルイ17世を押し込んだ。厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子からするりと入れられた。ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、ルイ17世はくる病になり、歩けなくなった。その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。もはや彼に人間的な扱いをする者は誰もいなかった。
孤独な生活を送った彼は1795年、わずか10歳で病死した。しかし死亡時の状況に不明な点が多いため、ルイ・シャルル替え玉説が根強く残った。シャルルを検死した医師が、秘かに彼の心臓を取り出しアルコールに漬けて保存したが、アルコールが蒸発し心臓は石のように硬くなった。石の心臓の大きさは、私の握りこぶしを一回り小さくした感じ。再びWikiから引用。
2000年4月、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世と思われる遺体と心臓のDNA鑑定がなされた。しかし遺体の損傷が激しいため、鑑定にはかなりの時間を要することとなった(マリー・アントワネットの兄弟姉妹やいとこ、現在のハプスブルク=ロートリンゲン家の人物との比較でDNA鑑定は行われた)。その結果は「タンプル塔の遺体はルイ17世のものに間違いない」というもので、2004年6月にようやくルイ17世のものと判定され、フランス王家の墓があるサン=ドニ大聖堂に埋葬された。


またシャルルの心臓の向かい側には、夭折した兄ルイ・ジョセフのレリーフが飾られている。

大聖堂の2階に上がると、アントワネットとルイ16世の祈りの像がある。後世の人が作った像である。


アントワネットの胸は、多くの人が触れるのか変色している。祈りを捧げるにしては豪華なアクセサリーを付け、やや派手ないでたちに見える。アントワネットってこういうイメージなのか?ルイ16世一家はようやく今、この大聖堂で一家揃って安らかに眠っている。
読んでくださり、どうもありがとうございます。
アントワネットとルイ16世は隣同士で眠っている。左右にそれぞれ3つ、棺が並べられているが、真ん中の向かって左がアントワネット、右がルイ16世のものである。フランス革命中、アントワネットは称号なしで「カペー未亡人」「女囚280号」と呼ばれていた。けれどルイ18世は棺の上に「レーヌ・ド・フランス」と彼女の正式の称号を刻んで、名誉を回復している。



そしてルイ・シャルルの石の心臓。両親とともにヴェルサイユを追われた時、わずか4歳。ルイ16世は処刑され、母アントワネットと引き裂かれると、革命市議会議員の靴屋のシモン夫妻に預けられたシャルルは、革命思想の洗脳教育を受け、母親を罵倒するほどになる。幼い子供への教育は恐ろしい。けれど1794年、再びタンプル塔に幽閉される。この時の様子がWikiに詳細に書かれているが、読んでいてぞっとする。これを知ったらアントワネットはどんなに悲しみまた憤るだろう。さすがの池田先生も、シャルルのことは新作エピとして描くには悲惨すぎてできないだろう。以下引用。
元は家族の食堂であった部屋にルイ17世を押し込んだ。厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子からするりと入れられた。ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、ルイ17世はくる病になり、歩けなくなった。その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。もはや彼に人間的な扱いをする者は誰もいなかった。
孤独な生活を送った彼は1795年、わずか10歳で病死した。しかし死亡時の状況に不明な点が多いため、ルイ・シャルル替え玉説が根強く残った。シャルルを検死した医師が、秘かに彼の心臓を取り出しアルコールに漬けて保存したが、アルコールが蒸発し心臓は石のように硬くなった。石の心臓の大きさは、私の握りこぶしを一回り小さくした感じ。再びWikiから引用。
2000年4月、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世と思われる遺体と心臓のDNA鑑定がなされた。しかし遺体の損傷が激しいため、鑑定にはかなりの時間を要することとなった(マリー・アントワネットの兄弟姉妹やいとこ、現在のハプスブルク=ロートリンゲン家の人物との比較でDNA鑑定は行われた)。その結果は「タンプル塔の遺体はルイ17世のものに間違いない」というもので、2004年6月にようやくルイ17世のものと判定され、フランス王家の墓があるサン=ドニ大聖堂に埋葬された。


またシャルルの心臓の向かい側には、夭折した兄ルイ・ジョセフのレリーフが飾られている。

大聖堂の2階に上がると、アントワネットとルイ16世の祈りの像がある。後世の人が作った像である。


アントワネットの胸は、多くの人が触れるのか変色している。祈りを捧げるにしては豪華なアクセサリーを付け、やや派手ないでたちに見える。アントワネットってこういうイメージなのか?ルイ16世一家はようやく今、この大聖堂で一家揃って安らかに眠っている。
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