「では、私はここで。」
「ご苦労だった。気をつけて帰りたまえ。」
「はっ。」
オスカルから近衛連隊長の地位を引き継ぎ早3年。ジェローデルは見事にその任務をこなしていた。いかなる時も冷静な姿勢を崩さず的確な指示を出す。加えてそのノーブルな顔立ちと佇まいに、彼に憧れる若い娘は大勢いたが、ジェローデルには一向に浮いた話が聞こえてこなかった。そのため宮廷の口さがない人たちの中には、
「彼は男性しか愛せないのでは---。」と囁く者すらいた。
ジェローデルの身辺を世話するマルセルは、いつものように勤務を終えた隊長を屋敷まで送り、彼が玄関先に消えたのを見届けてからその場を離れた。
「フローリアン、お帰りなさい。今日は風が強かったから、レナール侯爵夫人のお屋敷で開かれたお茶会へ行くのが一苦労だったわ。まるで春の嵐ね。あなたも大変だったでしょう。」
居間に入ると、侍女が母の髪を整えているところだった。
「いつものご夫人方が集まったのですか?」
「そうよ。話題はもっぱらオスカルさまの結婚のことばかりだったけど----。アンドレが本当にあの家でやっていけるのかしらとか、オスカルさまは結婚しても軍隊をやめないのかしらなど----。」
ゴシップや噂話---宮廷に集まる貴婦人たちの一番のご馳走だ。不倫話を得意気に自慢しあったり、誰それと誰それが別れたとかくっついたとか。そんな話を年中飽きもせず繰り返している。退屈しのぎに戯れの恋に興じる日々。恋は彼らにとって、カードゲームや賭け事と同じ単なる遊びの1つにすぎないのかもしれない。そういう母上だって年下の恋人を持ち、堂々と公の場に出て行っている。
「それはそうと、あなた宛ての手紙が届いていたわ。スウェーデンからよ。差出人はソフィア・フォン・フェルゼンとあるわ。王妃さまのお相手の、あのフェルゼン伯の身内の方かしら?」
「---------------------------」
「はい、これ。あなたもそろそろ結婚してもいい頃よ。兄のドミニクにはもう3人の子どもまであるのに、あなたときたら----。」
「母上---。」
「そのソフィアという方はどうなの?確か一度宮廷で見かけたことがあるわ。スウェーデンからいらしていたから、お世辞にもファッションセンスは良いとは言えなかったけれど、上品で賢そうに見えたわ。」
「--------------------------」
「でもスウェーデンでは、お付き合いするにはちょっと遠いわね。さて私はこれから出かけるわ。おやすみなさい、フローリアン。また明日。」
わかっています、母上。夜の闇に紛れて、あの方のもとへ行かれるのですね。
ソフィアからの手紙を持ち、ジェローデルは自室に入った。既に侍従が明かりを灯しておいてくれたので、部屋の中にはろうそくの柔らかい光がゆらめいていた。
ソフィア嬢----とっさにあのヴェルサイユ宮殿での一夜を思い出した。私が女性に対し抱いているイメージといえば、競って着飾り髪を盛り立てて人々の注意関心を惹き、ダンスやお喋りに興じている。興味・関心はファッションやダンス、舞踏会にオペラや恋の話。そんな彼女たちを口説くくらい、私にはわけないこと。耳元で愛の言葉を囁き、そっとくちづけをする。ダンスの相手を務めれば、ほとんどの娘は私になびくだろう。だがそんな私の女性観に当てはまらないひとが二人いる。一人はオスカル・フランソワ隊長。もう一人がソフィア嬢。いったいソフィア嬢は私に何の用があって、手紙をしたためたのか?ジェローデルは軍服を脱ぎ、ブラウスの襟元を緩めた。そして丁寧に封筒を破いて手紙を取り出した。薄紫の便せんを広げると、パラリと何かが落ちた。注意深く拾い上げると、すみれの押し花だった。ソフィアの手紙は、間違いのないフランス語で書かれていた。
ソフィア嬢が、フェルゼン伯と共にフランスに来る。「在仏中、パリのマティニョン通りにある屋敷に、ぜひあなたさまをご招待したい。」と。ソフィア嬢と話していると、私の心をすべて見透かされてしまうようだ。あの方はきっと、私がオスカル隊長をどう思っているか察しているだろう。ソフィア嬢の前ではどう繕ってもダメだ。分身、鏡----うまい例えが見つからない。男と女の間に、恋愛だけでなく友情も成立するのなら、まさしく彼女は私の親友と言えるかもしれない。離れていても再会すれば、二人を隔てていた空間や時間は一気に吹き飛び、またあの夜のように何でも語り合える気がする。私たちは似た者同士だ。ジェローデルは左の手のひらにすみれの押し花を乗せた。顔を近づけると爽やかなオーデコロンの香りがした。
「ソフィア------」そっと押し花にくちびるを近づけた。瞼を閉じると、あの時のソフィアの顔が浮かんでくる。
「ソフィア------」傷まないように大切に押し花をつまみ、軍務手帳の間に挟んだ。
「そんなこと急に言ったって!もうあちらさんには『今日、行きます。』って予約してしまったし。」
「おばあちゃん、オスカルはこのところ仕事と結婚式準備で疲れているんだ。今日くらい、そのどちらからも解放してやりたい。俺が今から早馬を飛ばし、丁寧に断ってくるよ。」
「そう簡単に断ると言うけれど、あちらさんはちゃんと時間を割いてくれているわけだし----。アンドレ、信頼も大事だよ。これからもお付き合いが続く方たちだから。」
「わかっている。けれどこのままではオスカルが参ってしまう。オスカルには昨夜『明日はゆっくり起きればいい。』と言ってある。ごめん、おばあちゃん。でもおばあちゃんの気持ちはありがたいよ、本当に。ごめんね。」
「---------------------------」
非番の日。このところばあやはオスカルの休日を狙って、エステや髪の手入れ、ドレスの仮縫いなど結婚式に必要な準備スケジュールを入れてくる。最初はばあやに言われるがまま従っていたが、さすがに二人とも疲労の色が濃くなってきた。もちろん、ばあやの気持ちには感謝している。だが正直なところ、一日くらいゆっくり休める日が欲しいが二人の本音だった。ならば俺が憎まれ役になればいい。おばあちゃんに叱られるのは、昔から慣れっこだ。寂しそうにうなだれて部屋を出て行くばあやの後ろ姿を見て、アンドレは気の毒になったが、しかしオスカルを守ってやりたかった。今日は確かソリエに、エステに行く日だったな。仕方ない、今から俺が丁重に断りに行ってこよう。アンドレは厩に向かった。
今、何時だろう?サイドテーブルの時計を見る。9時15分。しまった!熟睡してしまった!確か今日も何か予定が入っていたな?いったい何だっけ?
久しぶりに時間を気にせず眠ってしまったが、心地よい目覚めにオスカルは満足していた。窓から入り込む陽射しが日に日に強くなってきている。母上もばらの開花を楽しみにされていたっけ。
ようやく昨夜、すべての招待状にメッセージを書き添え、アンドレと祝杯を挙げたところまでは覚えているが、その先は覚えていない。テーブルの上に何もないところを見ると、ちゃんと片付けてくれたのだな。いつもありがとう、アンドレ。
「おはよう、オスカル。もう起きたかい?」アンドレはオスカルのベッドに近づきながら、声をかけた。
「ああ、アンドレ。おはよう。」ベッドの中から答えた。
「爽やかな天気だ。外は気持ちがいいぞ。朝食を食べたら、久しぶりに遠乗りに行かないか?」
「えっ?」
「今日は本当ならエステに行く日だけれど、今断ってきた。お前に相談もせずすまない。」
「---------------------」
「最近のお前の様子を見ていると、休ませてやりたくて---。それで勝手に今日のエステを断ってしまった。いけなかったか?」
「いや、いいんだ、そのほうが。ありがとう、アンドレ。」
オスカルは両腕を伸ばしてアンドレの首に巻きつけ、自分からくちづけした。アンドレはオスカルに覆いかぶさるような体勢で、さらにくちづけを繰り返す。オスカルの柔らかな2つの膨らみが、アンドレの胸板と互いの服ごしに重なる。オスカルの柔らかな体の感触が伝わってくる。アンドレの体が疼く。ここまでだ。アンドレはオスカルから離れた。
「朝食をベッドまで運んでやろうか、お姫さま?」
「いや、大丈夫だ。」
「遠慮するな。たまには贅沢な気分を味わうのもいいぞ。今、取りに行ってくる。」
アンドレ----いつも私のことばかり気を遣って。いったいお前はいつ休んでいるのだ。休みが必要なのはお前も同じだ。私と付き合うと365日、24時間営業になるぞ。それでもいいんだな。あとで後悔しても知らないぞ。オスカルは「ふふふ---」と笑いながら体を起こし、着替えの準備を始めた。
続く
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