マダム・マリのあとについて狭い廊下を5mほど歩き、アンドレは突き当たりの部屋の前に来た。
トントントン。
「フィリップ、入ってもいいかしら?アンドレさまをお連れしたわ。」
「どうぞ。」
マダム・マリがドアを開けると、質素だが趣味の良いシンプルな家具が置かれた部屋が目に入った。窓には白いカーテンがかかり、初夏の日差しを和らげている。その向こうには黄色や薄紅色のオールドローズが咲く中庭があった。表通りからは分からなかったが間口の狭さとは裏腹に、実際は案外奥行きのある建物だった。部屋の中央には樫の木でできた大きなテーブルが置かれ、年の頃60近いシルバーグレーの髪で、仕立ての良い上着を着た男性が椅子に座ったまま、開いたドアへ視線を送った。二人は部屋に入った。
「フィリップ、こちらがアンドレさまよ。ジャルジェ将軍のお嬢さまのオスカルさまといらして、結婚指輪のデザインをお決めになったわ。とても二人にぴったりなの。完成が楽しみでたまらないわ。」
「それはよかった。初めまして。会計を担当しておりますフィリップ・バルローと申します。」
フィリップは椅子から立ち笑みを浮かべながら、アンドレに右手を差し出した。
「アンドレ・グランディエと申します。宝石のことはまったくわからないので、今日はマダム・マリに助けていただき、本当に感謝しています。」
「ははは、なぜ世の女性たちがあれほど宝石に熱を上げるのか、男にはよくわからない世界ですからね。私も何度か妻のアクセリー選びに付き合わされましたが、ただただ疲れました。最後にはどれも同じに見えるんですよ。後日しっかり請求書が私のもとに届き----。」
「さあさあ、フィリップ。あとのことは任せましたよ。アンドレさま、しばらくの間オスカルさまをお借りしてもいいかしら?お二人の話が終わるのを待つ間、いろいろ珍しいものをお目にかけようと思うのだけど---。」
「お願いします。オスカルが今まで知らなかった世界を見せてやってください。彼女も喜ぶでしょう。」
「了解しました。ではのちほど----。」
部屋には男二人が残された。
「アンドレさま、今日は慣れないお務めでさぞお疲れだったでしょう。」
「ええ。結婚準備がこれほど大変とは予想していませんでした。」
「こんなのはまだ序の口ですよ。」
「えっ?」
「この先、式場選び・招待客のリスト作成・当日着るウェディングドレスやタキシード選び・祝宴でお出しする料理・結婚披露パーティーの式次第など、決めなくてはいけないことが山積みです。特にジャルジェ家はとても由緒ある貴族の家柄ですから、どれ一つをとっても、慎重に落ちのないようにしなければいけませんから非常に気を遣うはずです。」
「そうなんですね。」
「でもアンドレさま。大変大変と嘆いていても仕方ありません。いっそ結婚式までのすべての段取りを、楽しんでしまったほうがいいですよ。おそらく人生で一度きりの経験ですから----。」
「そういう心境になれるといいのですが---。そうですよね。ムッシュ・バルロー。」
「ああ、フィリップと呼んでください。」
「ありがとうございます、フィリップ。」
「さて本題に入りましょう。先週ジャルジェ将軍と奥さまがこちらにお見えになりました。将軍は『来週オスカルとアンドレが、結婚指輪を選びにやってくるからよろしく頼む。』と仰せられました。奥さまからは『どうか二人が気に入った指輪を選べるよう、手助けをお願いします。』と。お二人は『指輪の代金はすべて私たちに支払わせてほしい。』とおっしゃいました。将軍が言うには、アンドレさまは子どもの頃からオスカルさまを守り続け、加えてお屋敷のお仕事も愚痴一つ言わず何でもこなし、ジャルジェ家のために非常に尽くしてくれた。アンドレさまがいたから、オスカルさまは近衛連隊長も衛兵隊長も務まった。いつだって影のようにオスカルさまに寄り添い、軍務がスムーズに運ぶよう気を配ってくれた。夫人は『軍隊という男性だけの世界に娘をおくことは非常に心配だったけれど、アンドレがいてくれたおかげで不安を解消することができた。アンドレがいて本当に良かった。』と言っておられました。そしてお二人ともアンドレさまが長い間、身分の違いで苦しんでいたことに気づいてあげられなかったことを、非常に悔んでおられました。『アンドレの長年の苦しみを思えば、結婚指輪くらい安いものだ。むしろこんなことでしか埋め合わせできないのが心苦しい。』と将軍は仰せになりました。隣で奥さまは涙ぐんでおられました。」
アンドレの目から大粒の涙がこぼれた。慌ててポケットからハンカチを取り出し拭った。
「旦那さま----。奥さま-----。」
「もうおわかりですね、アンドレさま。あなたは代金について何も心配することはございません。そして---将軍と奥さまから申しつかったことがもう1つございます。『このことはオスカルにはくれぐれも内緒にするように。』と。いいですね。」
「---------------------------------------------------------------」
「どうか将軍と奥さまのお気持ちを汲んであげてください。お二人のお気持ちをありがたく頂戴してください。今、ここで話したことは絶対に口外しないと。」
「--------------------------------------------------------------」
アンドレは何も言うことができなかった。結婚を許してもらえただけでもありがたいのに、結婚指輪まで心配していただき、俺は---。旦那さまと奥さまの気持ちに報いるため絶対にオスカルを幸せにし、これまで以上にジャルジェ家のために働こう。
「私にも年頃の娘がおります。あなたさまのような素晴らしい男性に巡り会うといいのですが----。ははは。」
しばらく沈黙が流れた。
さわさわ さわさわ---心地よい初夏の風が南の窓から西の窓へ吹きぬけていった。中庭で誰かが花に水をくれている。ようやくアンドレの涙が乾いた。
「わかりました。フィリップ、いろいろお気遣いありがとうございました。」
「それでは契約書に目を通していただき、よろしければここに日付とサインをお願いします。」
アンドレはひととおり契約書を読み、内容に間違いがないことを確認して日付とサインを書いた。
「これですべて終了です。今日は本当にお疲れさまでした。私はまだ仕事がありますので、ここに残ります。アンドレさま、ご婦人方のところへお戻りください。あなたと会って話ができて良かった。今度はビジネスの話抜きで会いませんか?」
「ぜひそうさせてください。それから私たちの結婚式にあなたをマダム・マリと招待させていただきます。」
「それはありがたいです。今から予定を空けておきますよ。」
男二人は固く握手をし、アンドレは部屋を出た。
俺はいや俺たちはたくさんの人に支えられて生きている。周囲の人々の祝福を受けて結婚できる俺たちは、幸せ者だとつくづく思う。だがここに至るまでの年月は決して平坦ではなかった。オスカルの心がフェルゼンに向いていたり、ジェローデルとの縁談が持ち上がったこともあった。俺一人の力ではどうにもならなくて、いっそ二人で心中しようかと思い詰めた日さえある。なんという思い上がり、なんという自分勝手な振る舞いだったか!でもそれは俺はオスカルしか愛せない不器用な男だから。そんな俺を「愛している」と言ってくれたオスカル。お前ならいくらでもその身分と家柄にふさわしい男が選べるだろうに、こんな俺を愛し、妻になるという。オスカル、俺は絶対にお前を離さないぞ。そして生涯かけて守り愛し続ける。
オスカルと指輪選びをした部屋に入ろうとしてドアを開けると、淡いロイヤルブルーのドレスを着て、豊かなブロンドの髪を結い上げた細身の女性の後ろ姿が目に入った。おやっ?今日は貸切のはずだが----。お得意さまが突然やってきたのだろうか?マダム・マリがアンドレを見て微笑んだ。
「あっ、マダム。来客中でしたか?失礼いたしました。ムッシュ・バルローとの話はすべて終わりました。今日は私たちのために本当にありがとうございました。どんな指輪が出来上がるのか、待つ時間も楽しみです。ではこれでおいとまさせていただきます。-------オスカルはどこでしょう?」
続く
慣れない2人をサポートするマダム、とても素敵です。
指輪の代金は、ジャルジェ夫人の心配しなくていい、との言葉はそんな意味が含まれていたのですね。
皆に祝福され守られ、夢のようなお話です。次のアンドレの反応が早く知りたい~!
急かしている訳ではないのですが、本当に毎回楽しみなのです!
早くも今年も10月に入りました。
年々時の経つのが早く感じられます(´д`)
独りよがりなことを書いていないかと、不安になる時があるので、コメントを頂けると安心します。楽しみにしていらっしゃると伺い、本当に嬉しいです。私自身も(6)の流れに乗っている間に、(7)を書きたいなと思っています。劇画では動乱の中、周囲の祝福を受けることなく、きちんとした結婚式が挙げられなかった2人。ならばSSの世界では、その叶えられなかった夢を実現させてあげたいです。
>早くも今年も10月に入りました。
年々時の経つのが早く感じられます(´д`)
本当に早いですね。残暑らしい残暑もないまま、秋に入った気がします。だんだん日も短くなっていきます。だからこそ明るくhappyなお話を書きたいと思います。
多くのOAファンは、原作ではあまり描かれなかった幸せな恋人同士の2人をSSに求めているのでは?と思います。(私もその一人です。)アンドレの苦労は、ぜひ報われてほしいと。オスカルはひとたび恋に目覚めれば、女性モードが自然と開花していく気がします。それを愛おしく見つめるアンドレ----。そんな2人を描ければいいのですが。読み終えて、ほっこりとした気分になっていただければ幸いです。