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遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

永井荷風#58摘録 断腸亭日乗~市川暮らし#11~交友録その7

2024年03月29日 | 日記
市川真間 手児奈堂 
wooboo - 投稿者が撮影, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9588513による

市川図書館サイトを見ていたら面白そうな人物がいた
荷風の原稿・書簡・色紙・短冊など偽筆・偽作して売り捌いたという

まずは荷風の「来訪者」を読んで見る~青空文庫にリンク
これは偽書ではなくホンモノ ミステリー仕立て+艶話の作品・・・面白い!
この冒頭に木場貞という男が出て来る

その木場貞が「来訪者のモデル」という短編を書いている~青空文庫にリンク
荷風作品のモデルがその名前で作品を書いているのである
荷風の「来訪者」はそれだけでも面白いが 新たなミステリーが加わった感じ

実は この「木場貞」という筆名が 伊庭真猿のものなのである
もちろん伊庭真猿名での著作も青空文庫化されている


今日はここまで それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#57摘録 断腸亭日乗~市川暮らし#10~交友録その6

2024年03月28日 | 日記
 品切れ中

前回で相磯凌霜のことが分かりかけてきた
並行して阿部雪子のことも調べていたが こちらも少しずつ進展している
二人とも荷風の市川暮らしには欠かせない人物
そこで「戦後日瀝その一」よりこの年の二人の足跡を要約記述引用する

敗戦後の1946/S21年1月から荷風は市川に住んだ(従弟の杵屋五叟宅に寄寓)
1/27 夕刻凌霜子来話 「新富町の妾宅が焼けずに済んだので記念に」と
 鮓と萩の餅を数個ずつ貰った
2/11,23,28,3/10,14,4/10,20,21,25,29  凌霜子来る
 4/20の凌霜の句(欄外記述) 
出汐まつ舟の灯や春の雨  佗住や足袋干すほどの春日影

8/28  凌霜子來る 船橋市海神町の別宅に案内され夕食をご馳走になる
日中は誰もいないので 執筆・讀書に使ってください と言われる
9/2,11,19,26・・・凌霜子來る

9/20、21 荷風は近傍の売家を見に行くが気に入らない
10/3ー6,31,11/1,19,20 海神へ行き散歩・執筆する

11/21 小篇「羊羹」書き上げる 帰途菅野の齒科医に寄り病歯を拔く~11/22,24ー29,12/1-2 海神で執筆する
12/5  午前貸間(小西方)を見る
~12/6-8 午後海神で執筆する 7日に短篇「指環」脱稿する~
12/9  小西氏を招いて飲む
12/10 午後小西邸内の一室を借りラジオ避難所とする
12/11,13 小西邸で執筆する(12日は海神へ) 
12/16,18,19,20 小西邸で執筆する 短篇「畦道」脱稿

凌霜子の件はとりあえずここまで
荷風にとって五叟宅の環境がどれほど苦痛だったかがよく分かる 

次は阿部雪子に移ろう

5/4  午後阿部雪子來る 白米を贈られる 
林龍作(※)氏 去年蘆屋で兵火で秘藏の樂器などを焼かれたという
 Vn奏者・・・阿部雪子も林氏からVn演奏を習っていた(らしい)
その後 7/1,8/19,9/10,11/11,12/3,12/15に訪れている

阿部雪子は偏奇館時代の荷風と知り合っている(1943/S18/2/14)
上野の美術学校(現・東京芸大)構内の「国宝調査会」に勤めていた
住まいは大森区(現・大田区)南千束
阿部雪子で分かったことはここまで

荷風の晩年の存在を支えた二人 この続きは次回に
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#56摘録 断腸亭日乗~市川暮らし#9~交友録その5

2024年03月27日 | 日記


昨日 情報不足に泣かされた相磯凌霜(あいそ・りょうそう)
荷風の晩年には欠かせない人物なので ネットを中心に情報を探した
結果 分かったことを以下に列挙する

鉄工所重役だった 鉄工所の名は新井鉄工所(冒頭写真:本社ビル)
創業1903/M36年の百年企業 所在地は現・墨田区江東橋2丁目 
2020年に製造業から撤退 総合不動産業「アライプロバンス」 となった
 コーポレート・ムービー   Webサイトへのリンク


相磯の本邸は現・大田区池上 (戦後は茅ケ崎に住んだ) 
 読書家・蔵書家で 邸内には平屋の書庫が建っていた

▶相磯の妾宅 現・中央区新富町 妾の名は小星(読み方不詳)
 戦後 相磯が市川菅野を初めて訪れた日の「日乗」の記述要約 
1946/S21 夕刻凌霜子来話 「新富町の妾宅が焼けずに済んだので記念に」と
 鮓と萩の餅を数個ずつ貰った
(荷風が熱海に疎開中も 2人一緒に2回熱海を訪れ書物や食物を贈っている)

▶相磯の別邸 現・船橋市海神  京成海神駅より北へ徒歩5分
新富町の別邸(妾宅)を船橋に移したらしい
「家人は昼は留守 先生 お好きな時に来られて自由にお使い下さい」
  五叟家の喧しさを聞いていた相磯 これも荷風への労わりだったのかも・・・
やがて 荷風も海神へ日参することになった
昼は留守だという小星 カフェの女給などで働いていたのだろうか

これは冒頭写真と同じ時に撮った写真だと思う 中に凌霜子もいたりして・・・

相磯のことが少し分かって来たところで今日はお終い
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#55摘録 断腸亭日乗~市川暮らし#8~交友録その4

2024年03月26日 | 日記
今日は市川時代の荷風の日誌に登場No.1の凌霜子こと相磯凌霜がテーマ
まずは 市川市サイト「荷風をめぐる人々から」の要約引用

相磯凌霜(あいそ・りょうそう) 鉄工所重役 1893/M26ー1983(S58) 
本名:相磯勝弥 晩年の荷風のもとに出入りし 様々な見聞を残した
船橋市海神に別邸 荷風は同居人のラジオ音を逃れ そこで執筆した
晩年の荷風の財産の管理や葬儀の段取りなども行なった~
(以下 相磯や関連の著作物が描かれているが省略) 市川市Webリンク 

相磯の生地、家族、略歴等をネットで探してみた
神田生まれ 中学を出て米国へ遊学 帰国後に銀座の商事会社に勤務
わかったのはそのくらい ほんと愛想が無い!

以下 「摘録 断腸亭日乗」 「戦後日瀝第一」 から荷風と相磯の交遊を描く
(例によって超要約記述引用 必要に応じて他資料も参照した
記述文後ろに#がついているのは摘録には無い日付け

 最初の出会い
1942/S17 10/16 荷風行きつけの銀座・金兵衛で凌霜と初めて会う#

翌年から次第に交友が深まってゆく
1943/S18 03/08 凌霜子より古い「文芸倶楽部」を借りて読む 昔の作品有
  06/17 夕刻凌霜子来話 共に金兵衛で食事 子より甘納豆貰う
  
この後は連日のように凌霜子と会っている
  10/03 夜金兵衛で食事 凌霜子がいた
  10/04 夜金兵衛で食事 凌霜子が来る
  10/05 凌霜子から黄橙のジャムを貰う
  10/07 鴎外先生の墓掃除に吉祥寺へ 夜金兵衛 凌霜子来る

1944/S19 省略凌霜子は来話,電話、食品や料理の贈物など荷風を世話する

1945/S20 02/25 凌霜子より電話
  23日の空襲で神田・上野・浅草など広範囲に焼けたと知る
  03/09 「偏奇館」東京大空襲で焼失

「偏奇館」焼失後 荷風は6月に明石経由で岡山に疎開 敗戦後 熱海を経て帰京し 翌年1月から五叟一家と共に市川市に住む

この間の凌霜子の情報が全く無い
別邸が京成電鉄の海神駅近くにあることは分かっているが
本邸はどこ? 家族は? 会社(鉄工所)は?・・・どれも不明

阿部雪子の謎に 相磯凌霜の謎が加わって 調べるのがタイヘン!
2人は知り合いだったのだろうか? という疑問も・・・

というわけで 今日は写真も動画も何も無し 
あまりに寂しいので 2ショットを再掲

それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#54摘録 断腸亭日乗~市川暮らし#8~交友録その3

2024年03月25日 | 日記

  明治後期~大正前期の帝国劇場

1947(S22)年 荷風は悲惨な正月を迎えた
その様子を「摘録 断腸亭日乗」から要約記述する

01/01 早朝腹痛下痢 午前正岡容氏来訪 午後小西方へ
01/02 午前小川氏春街氏来話 正午凌霜子来話 午後小西方 下痢止まず
01/03 腹具合がとても悪い 午前小川丈夫氏来話 午後小西方へ
01/04 午前医師吉田を訪い投薬して貰う 午後小西方へ
夕方阿部雪子来訪 切餅を贈られる 夜 人語・ラジオ聞こえず
早く腹痛を治して小西邸内に移りたい
01/08 ・・・この日から小西邸内で暮らした模様・・・

殆どの人は既に掲載済(春街氏は不詳)だが 正岡容の文庫紹介を忘れていた
荷風のことも様々書いているので青空文庫にリンクしておく

「浅草燈籠」・・・浅草オペラがテーマ 荷風の「おもかげ」「踊子」「勲章」 言及※
※このうち青空文庫化は「勲章」のみ 一度紹介した気もするが再度リンク

「艶色落語講談鑑賞」・・・東京パレスの話あり 荷風も3日にあげず通った

大正東京錦絵」カチューシャ前後・・・松井須磨子のオペラの話など
 この本に出て来る川柳作家の阪井久良伎の本(青空文庫) 「眞間名所」

「カチューシャ可愛や」・・・歌手不詳・背景画像で選択した


 さて 上述01/04の医師吉田については 市川市サイトに次の紹介がある 
(適宜要約)
吉田機司(よしだ・きじ)医師・川柳作家 1902/M35ー1964/S39
本名:吉田喜司 福島県出身 1937/S12年 京成真間駅近くに病院開業
1946/S21年 徳川夢声・古川緑波・正岡容と共に「川柳祭」を創刊
1947/S22年 1月 腹痛に悩む荷風を見かねた正岡が吉田を紹介
 以降荷風のかかり付け医者となる 
1959/S34年 検察医として荷風の検死に立会う
1960/S35年 葛飾区に転居する

ここで 最後の1行が気になって「葛飾区 吉田機司」でネット検索
何と 葛飾区鎌倉の吉田機司クリニックが出て来た!
そのサイトの「院長ご挨拶」ページにリンク・・・現在はお孫さんが経営中
病院の外観・運営方針・院長の経歴等々 かなりユニークな病院のようだ

というところで今日は終わり
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]