摠見寺 復元案

安土城にある、摠見寺(そうけんじ)の復元案を作成する プロジェクト日記

甲賀周辺の本堂や一枝寸法の時代傾向

2011-08-21 19:47:22 | 考察
これまでの考察で、見寺本堂の前身寺院は、

三間堂を五間堂に拡張されたもので、
一枝寸法は、0.6666尺 と推測しました。


甲賀周辺の中世密教本堂の例をみると、

長寿寺・円光寺・西明寺前身堂が鎌倉時代、
桑実寺が南北朝時代に作られた五間堂であり、

西明寺本堂の七間堂への改装が南北朝時代、
金剛輪寺・善水寺・常楽寺・園城寺金堂、
長命寺・浄厳院などが室町時代の七間堂という傾向からして、

甲賀周辺地域の中世密教本堂は、
鎌倉時代の標準が五間堂で、
室町時代になると七間堂が標準に変わったことが、
残された遺構の例から読み取れます。


また、
一枝寸法が、0.6666尺の例をみると、

平安末期の中尊寺金色堂から、鎌倉時代の
大報恩寺本堂・大善寺本堂・鑁阿寺本堂・
室生寺本堂(灌頂堂)など、
建立年代が、ほぼ鎌倉時代にかたよっています。


この例からすると、
見寺の前身寺院が五間堂に改造されたのは、
鎌倉時代ではないかと推測でき、
信長が移築したくなるには、
すこし時代が古すぎるような感じがしますが、


見寺三重塔の例をみると、
前身の長寿寺三重塔が竣工したのが、
安土城建設より百年以上前の享徳三(1454)年で、
これだけなら、信長の移築時にも、
だいぶ古い感じがしたと思うのですが、

長寿寺の三重塔は天文二十四(1555)年に、
西縁が壊れたのを修理しているので、
この時に全体の補修を行ったとすれば、
安土城建設の約二十年前のことで、

建築年代はたいして違わないのに、
常楽寺ではなく、長寿寺の三重塔が持ち去られたのは、
この時の修理で見た目が新しくなったことが原因と思われます。



この三重塔の例のように、
見寺本堂の前身寺院も室町時代に補修工事を受けて、
見た目が新しかったので移築されたと思われます。


と、
ここで疑問に思ったのが、発掘調査報告書では、
見寺の本堂は、もともと一重だったものを、
移築の際に二階部分を増築したものと推測しており、
見寺コンペの参加チームもその前提で計画していたのですが、


江戸時代に建てられた甲賀市水口にある大岡寺(だいこうじ)本堂は、


寄棟屋根の二重の本堂なので、

見寺前身本堂も、
移築の際に二階部分を増築されたのではなく、
もともと甲賀に建っていた時に二階部分を増築された物を、
信長が気に入って見寺に持ち去り、

甲賀地域には二重仏殿の記憶が残っていたので、
江戸時代に二重の本堂が建てられた可能性は否定できません。

それに、この大岡寺本堂、寄棟屋根以外にも、
柱の上にのみ組み物を置く所や、木鼻の形、
降り棟の取り付き部分より、少し下まで柱が見える所など、



見寺絵図に見える見寺本堂によく似ているので、
同じ系統の大工が作った可能性は十分に考えられます。



ということで、見寺本堂の前身寺院は、

甲賀地域において、三間堂として創建されたものが、
鎌倉時代に五間堂に拡大され、
さらに室町時代に二重仏殿に増築改装されたものが、
信長によって安土城へ移築されたと推測できますが、

ちょうど良さそうな例がありましたので、
次回は、見寺前身寺院と考えられる、
甲賀市の寺院について紹介します。





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