これまでの考察で、見寺本堂の前身寺院は、
三間堂を五間堂に拡張されたもので、
一枝寸法は、0.6666尺 と推測しました。
甲賀周辺の中世密教本堂の例をみると、
長寿寺・円光寺・西明寺前身堂が鎌倉時代、
桑実寺が南北朝時代に作られた五間堂であり、
西明寺本堂の七間堂への改装が南北朝時代、
金剛輪寺・善水寺・常楽寺・園城寺金堂、
長命寺・浄厳院などが室町時代の七間堂という傾向からして、
甲賀周辺地域の中世密教本堂は、
鎌倉時代の標準が五間堂で、
室町時代になると七間堂が標準に変わったことが、
残された遺構の例から読み取れます。
また、
一枝寸法が、0.6666尺の例をみると、
平安末期の中尊寺金色堂から、鎌倉時代の
大報恩寺本堂・大善寺本堂・鑁阿寺本堂・
室生寺本堂(灌頂堂)など、
建立年代が、ほぼ鎌倉時代にかたよっています。
この例からすると、
見寺の前身寺院が五間堂に改造されたのは、
鎌倉時代ではないかと推測でき、
信長が移築したくなるには、
すこし時代が古すぎるような感じがしますが、
見寺三重塔の例をみると、
前身の長寿寺三重塔が竣工したのが、
安土城建設より百年以上前の享徳三(1454)年で、
これだけなら、信長の移築時にも、
だいぶ古い感じがしたと思うのですが、
長寿寺の三重塔は天文二十四(1555)年に、
西縁が壊れたのを修理しているので、
この時に全体の補修を行ったとすれば、
安土城建設の約二十年前のことで、
建築年代はたいして違わないのに、
常楽寺ではなく、長寿寺の三重塔が持ち去られたのは、
この時の修理で見た目が新しくなったことが原因と思われます。
この三重塔の例のように、
見寺本堂の前身寺院も室町時代に補修工事を受けて、
見た目が新しかったので移築されたと思われます。
と、
ここで疑問に思ったのが、発掘調査報告書では、
見寺の本堂は、もともと一重だったものを、
移築の際に二階部分を増築したものと推測しており、
見寺コンペの参加チームもその前提で計画していたのですが、
江戸時代に建てられた甲賀市水口にある大岡寺(だいこうじ)本堂は、
寄棟屋根の二重の本堂なので、
見寺前身本堂も、
移築の際に二階部分を増築されたのではなく、
もともと甲賀に建っていた時に二階部分を増築された物を、
信長が気に入って見寺に持ち去り、
甲賀地域には二重仏殿の記憶が残っていたので、
江戸時代に二重の本堂が建てられた可能性は否定できません。
それに、この大岡寺本堂、寄棟屋根以外にも、
柱の上にのみ組み物を置く所や、木鼻の形、
降り棟の取り付き部分より、少し下まで柱が見える所など、
見寺絵図に見える見寺本堂によく似ているので、
同じ系統の大工が作った可能性は十分に考えられます。
ということで、見寺本堂の前身寺院は、
甲賀地域において、三間堂として創建されたものが、
鎌倉時代に五間堂に拡大され、
さらに室町時代に二重仏殿に増築改装されたものが、
信長によって安土城へ移築されたと推測できますが、
ちょうど良さそうな例がありましたので、
次回は、見寺前身寺院と考えられる、
甲賀市の寺院について紹介します。
三間堂を五間堂に拡張されたもので、
一枝寸法は、0.6666尺 と推測しました。
甲賀周辺の中世密教本堂の例をみると、
長寿寺・円光寺・西明寺前身堂が鎌倉時代、
桑実寺が南北朝時代に作られた五間堂であり、
西明寺本堂の七間堂への改装が南北朝時代、
金剛輪寺・善水寺・常楽寺・園城寺金堂、
長命寺・浄厳院などが室町時代の七間堂という傾向からして、
甲賀周辺地域の中世密教本堂は、
鎌倉時代の標準が五間堂で、
室町時代になると七間堂が標準に変わったことが、
残された遺構の例から読み取れます。
また、
一枝寸法が、0.6666尺の例をみると、
平安末期の中尊寺金色堂から、鎌倉時代の
大報恩寺本堂・大善寺本堂・鑁阿寺本堂・
室生寺本堂(灌頂堂)など、
建立年代が、ほぼ鎌倉時代にかたよっています。
この例からすると、
見寺の前身寺院が五間堂に改造されたのは、
鎌倉時代ではないかと推測でき、
信長が移築したくなるには、
すこし時代が古すぎるような感じがしますが、
見寺三重塔の例をみると、
前身の長寿寺三重塔が竣工したのが、
安土城建設より百年以上前の享徳三(1454)年で、
これだけなら、信長の移築時にも、
だいぶ古い感じがしたと思うのですが、
長寿寺の三重塔は天文二十四(1555)年に、
西縁が壊れたのを修理しているので、
この時に全体の補修を行ったとすれば、
安土城建設の約二十年前のことで、
建築年代はたいして違わないのに、
常楽寺ではなく、長寿寺の三重塔が持ち去られたのは、
この時の修理で見た目が新しくなったことが原因と思われます。
この三重塔の例のように、
見寺本堂の前身寺院も室町時代に補修工事を受けて、
見た目が新しかったので移築されたと思われます。
と、
ここで疑問に思ったのが、発掘調査報告書では、
見寺の本堂は、もともと一重だったものを、
移築の際に二階部分を増築したものと推測しており、
見寺コンペの参加チームもその前提で計画していたのですが、
江戸時代に建てられた甲賀市水口にある大岡寺(だいこうじ)本堂は、
寄棟屋根の二重の本堂なので、
見寺前身本堂も、
移築の際に二階部分を増築されたのではなく、
もともと甲賀に建っていた時に二階部分を増築された物を、
信長が気に入って見寺に持ち去り、
甲賀地域には二重仏殿の記憶が残っていたので、
江戸時代に二重の本堂が建てられた可能性は否定できません。
それに、この大岡寺本堂、寄棟屋根以外にも、
柱の上にのみ組み物を置く所や、木鼻の形、
降り棟の取り付き部分より、少し下まで柱が見える所など、
見寺絵図に見える見寺本堂によく似ているので、
同じ系統の大工が作った可能性は十分に考えられます。
ということで、見寺本堂の前身寺院は、
甲賀地域において、三間堂として創建されたものが、
鎌倉時代に五間堂に拡大され、
さらに室町時代に二重仏殿に増築改装されたものが、
信長によって安土城へ移築されたと推測できますが、
ちょうど良さそうな例がありましたので、
次回は、見寺前身寺院と考えられる、
甲賀市の寺院について紹介します。
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