「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」によると、P17
建物8(書院跡)の入口に当たるL字型の花崗岩切石の前面に、
南北方向に向かって伸びる瓦敷きの遺構があり、
建物8(書院)への導入路になっている。
と、されているのですが、
寛政三年の「境内坪数並建物明細書」には、
書院には式台があって、入口には明き五尺一寸の玄関門が建っている、
とされているので、
正式な導入路は、玄関門と式台を結ぶ中軸線にあるはずで、
発掘された瓦敷き遺構は、たとえ導入路だとしても、
門脇の潜り戸と、式台脇の通用口を結ぶ動線にしかなりません、
普通、導入路を作る場合、まず先に中央通路部分を作るのが常識であり、
中央通路には何もなく、脇の通用口だけに敷瓦の導入路が作られるのは非常識だ!
と思っていた所、2008年刊行の「特別史跡安土城跡発掘調査報告書1」
では、すこし表現が違っていた。
P87[瓦敷き遺構]
建物8の入口にあたるとみられるL字型に配した花崗岩切石の前面に南北方向に通路に向って延びる遺構である。L字状切石の前面には約1.5m四方の平瓦と軒丸瓦を平置きして敷き詰めたスペースがあり、これより南へ幅約40㎝長さ4mに亘り平瓦を菱形に飛び石状に配し、その間を軒丸瓦・軒平瓦の瓦当文様を見せるように埋め込み隙間に平瓦の木口面が見えるように差し込んで比較的に意匠をこらした通路としている。
L字状切石が建物入口の石敷きだとすると、
さらにその前面に約1.5m四方の瓦敷スペースがあるのは変なのですが、
延享二年改書の「遠景山見禅寺校割帳」の中にこんな部分がありました。
一、水溜大桶 内壱ヶハ庫理之用 壱ヶハ風呂屋之用 弐箇
一、用水溜桶 小手桶十五ヶ有 壱箇
二つの大桶が、境内東側の風呂屋と、境内西側の庫裏にあるのだから、
場所が書いて無くても、手桶が付属する残り一つの用水桶は本堂の消火用と考えられ、
付属する手桶十五ヶは、用水桶の上に五段に積み上げられていたと考えられます。
標準サイズの7~8寸の手桶を五つ横に並べると横幅が105㎝~120㎝になり、
積み上げる時には普通、間に一~二寸ほどの隙間が出来るので、
積み上げた手桶の横幅は、120㎝~150㎝と考えられ、
このサイズがほぼ用水桶の横幅と同じになるはずなので、
用水溜桶は、発掘された約1.5m四方の瓦敷スペースにちょうどぴったり納まることから、
この瓦敷きスペースは、防火用の用水溜桶が置かれていた場所であると考えられます。
また、見寺の書院と本堂は非常に近接しているので、
樋がなければ、雨の日に本堂の縁側が水浸しになってしまうので、
本堂と書院の接合部には雨樋が渡してあったはずで、
天水桶を設置するには、ちょうど良い場所ではないかと思われます。
残りの、南北方向に向かって伸びる瓦敷きの遺構についてですが、
見寺三重塔周辺には、このような石敷きがされています。
この石敷きは、一見通路のようにも見えるものの、
塔の周りを廻る通路ではなく、常識的にいって三重塔の雨垂れ受けなので、
書院前の瓦敷き遺構も、
門脇の潜り木戸と通用口を結ぶ通路ではなく、
本堂の雨垂れ受けであると考えます。
瓦敷き遺構が本堂の雨垂れ受けだとすると、
本堂の軒の出は、本堂端に置かれた礎石の中心から
瓦敷き遺構の中心まで、約3mもあることになります。
出組の五間堂で3mの軒の出というのは、標準より長めなので、
2008-09-28の考察、一支寸法は174mm 0.5714尺では納りません、
ということで、次回はまた支割についてみて行きます。
建物8(書院跡)の入口に当たるL字型の花崗岩切石の前面に、
南北方向に向かって伸びる瓦敷きの遺構があり、
建物8(書院)への導入路になっている。
と、されているのですが、
寛政三年の「境内坪数並建物明細書」には、
書院には式台があって、入口には明き五尺一寸の玄関門が建っている、
とされているので、
正式な導入路は、玄関門と式台を結ぶ中軸線にあるはずで、
発掘された瓦敷き遺構は、たとえ導入路だとしても、
門脇の潜り戸と、式台脇の通用口を結ぶ動線にしかなりません、
普通、導入路を作る場合、まず先に中央通路部分を作るのが常識であり、
中央通路には何もなく、脇の通用口だけに敷瓦の導入路が作られるのは非常識だ!
と思っていた所、2008年刊行の「特別史跡安土城跡発掘調査報告書1」
では、すこし表現が違っていた。
P87[瓦敷き遺構]
建物8の入口にあたるとみられるL字型に配した花崗岩切石の前面に南北方向に通路に向って延びる遺構である。L字状切石の前面には約1.5m四方の平瓦と軒丸瓦を平置きして敷き詰めたスペースがあり、これより南へ幅約40㎝長さ4mに亘り平瓦を菱形に飛び石状に配し、その間を軒丸瓦・軒平瓦の瓦当文様を見せるように埋め込み隙間に平瓦の木口面が見えるように差し込んで比較的に意匠をこらした通路としている。
L字状切石が建物入口の石敷きだとすると、
さらにその前面に約1.5m四方の瓦敷スペースがあるのは変なのですが、
延享二年改書の「遠景山見禅寺校割帳」の中にこんな部分がありました。
一、水溜大桶 内壱ヶハ庫理之用 壱ヶハ風呂屋之用 弐箇
一、用水溜桶 小手桶十五ヶ有 壱箇
二つの大桶が、境内東側の風呂屋と、境内西側の庫裏にあるのだから、
場所が書いて無くても、手桶が付属する残り一つの用水桶は本堂の消火用と考えられ、
付属する手桶十五ヶは、用水桶の上に五段に積み上げられていたと考えられます。
標準サイズの7~8寸の手桶を五つ横に並べると横幅が105㎝~120㎝になり、
積み上げる時には普通、間に一~二寸ほどの隙間が出来るので、
積み上げた手桶の横幅は、120㎝~150㎝と考えられ、
このサイズがほぼ用水桶の横幅と同じになるはずなので、
用水溜桶は、発掘された約1.5m四方の瓦敷スペースにちょうどぴったり納まることから、
この瓦敷きスペースは、防火用の用水溜桶が置かれていた場所であると考えられます。
また、見寺の書院と本堂は非常に近接しているので、
樋がなければ、雨の日に本堂の縁側が水浸しになってしまうので、
本堂と書院の接合部には雨樋が渡してあったはずで、
天水桶を設置するには、ちょうど良い場所ではないかと思われます。
残りの、南北方向に向かって伸びる瓦敷きの遺構についてですが、
見寺三重塔周辺には、このような石敷きがされています。
この石敷きは、一見通路のようにも見えるものの、
塔の周りを廻る通路ではなく、常識的にいって三重塔の雨垂れ受けなので、
書院前の瓦敷き遺構も、
門脇の潜り木戸と通用口を結ぶ通路ではなく、
本堂の雨垂れ受けであると考えます。
瓦敷き遺構が本堂の雨垂れ受けだとすると、
本堂の軒の出は、本堂端に置かれた礎石の中心から
瓦敷き遺構の中心まで、約3mもあることになります。
出組の五間堂で3mの軒の出というのは、標準より長めなので、
2008-09-28の考察、一支寸法は174mm 0.5714尺では納りません、
ということで、次回はまた支割についてみて行きます。
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