ゴールデンウイークに、安土城の摠見寺へ行ってきました。
安土城入口のトイレと休憩所が新しくなっていたので、
近江八幡市に吸収合併されて、
財政に余裕ができた効果かと思ったら・・・
駐車場料金500円を徴収する事で、
建設費と維持管理費をまかなう計画のようです。
見寺は、2年ほど前から日曜祝日の天気の良い日に公開との事で、
入口の券売機で1000円の券を買うと、受付で、
安土城跡のパンフレットと、摠見寺の特別入場券が渡されます。
摠見寺の入口を入って、石段を上ると、
来客用と一般用の、式台が二つ並んだ入口が見えてきます、
本堂はそれほど広くなく、八畳を三つ並べた方丈型本堂の間取りで、
仏間には、写真撮影禁止の札が出ていたので、隣の部屋の縁側から。
本堂の奥には茶室が二つあって、緋毛氈の敷かれた席に座ると、
抹茶とほうじ茶と羊羹のセットが出てきます。
目の前の庭には、蹲踞などもあって、なかなか良い所です。
さて、
本堂仏間は、八畳敷きの奥に、四畳敷きの部屋を介して、
二間を三等分する幅の、作り付けの厨子になっています。
それぞれの厨子には、四枚引違の格子戸がはまり、
中央間に、像高40㎝、室町時代の十一面觀音、
向って右側に、像高56.8㎝寛政八(1796)年の円鑑禅師(正仲剛可)坐像
向って左側に、像高68.8㎝の信長像が、安置されています。
摠見寺入口で売っていたパンフレットによると、
信長像の胎内には、舍利袋が納められており、
正徳四(1714)年十月二十七日と、寛保二(1742)年七月十三日に、
これを確認したとの墨書があった、とされているので、
現在、摠見寺の本堂に祀られている三つの像はすべて、
焼失前の本堂に安置されていたものと考えられます。
パンフレットには、信長像の横幅は書いてありませんでしたが、
安置されている場所の状況から見て、
横幅約90㎝奥行約60㎝位、だと思われます。
また、この信長像には、前にも紹介した泰巖宗安記のブログに、
>江戸時代末期、旧本堂が延焼した際、仮に某氏としておきましょうか、
>某氏のご先祖さんが、この木像入りの厨子を背負って下りた。
>この功で、当時の住職から、総見寺重宝である銀杯を賜ったと言う。
という記事が載っていたので、
背負って下りられる位の大きさの、移動できる厨子の中に安置されていたらしく、
1761~1765の間に作成された「方丈列牌図」によると、
信長像の入った厨子(御霊屋)は、八尺の柱間の東牌堂の中心に置かれ、
左右に大名用位牌が三つづつ並べられて、左手の柱に信忠像の掛軸が掛けられ、
位牌の状況から、東牌堂の東側は壁だと考えられるので、
焼失前の本堂に安置されていた、信長の厨子(御霊屋)は、
横幅1~1.2m、奥行0.7~1m、高さ1~1.5mの春日厨子であり、
1761~1765頃には、本堂に向って右端の柱間の一番奥にある、
脇壇の中央に安置されていたと、考えられます。
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