2010.05.06の記事から、本堂の考察が止まっていましたが、
やっと、条件をみたす構成にたどりついたので、少しづつですが進めていきます。
さて、
安土城跡発掘調査報告6、によると、
見寺(そうけんじ)本堂は
P86「側柱の柱間を桁行・梁行とも八尺等間にとっている」 とされていて、
前の見寺コンペの参加チームも、すべて八尺等間で復元案を作成していましたが、
調査報告書の図に、八尺等間の格子をのせてみると……
外陣は八尺等間なのですが、
内陣の両側にあたる部分の側柱は、どうみても八尺等間ではありません。
このプランでは、右側の柱はかろうじて礎石に乗せられますが、
左側は、そもそも礎石に乗せられないのだから、絶対に八尺等間のハズがない!
ということで、
見寺本堂の柱間は、桁行が八尺等間で、
梁行が変則の柱間であると考えられるのですが、
通常の五間堂は、桁行方向は中央間が広いか、脇間が狭いかのどちらかで、
等間というのは、ほとんど例がありません。
安土城跡発掘調査報告6で、側柱が等間の例に挙げている、
P87「山形県・黄金堂、栃木県・地藏院本堂等」などは、
すべての柱間が等間なので、等間にした理由は、
手抜き工事工程の省力化、によるものと思われますが、
見寺本堂では、側面の梁行の柱間を変えていたり、桁行も、
正面に三つ並ぶ扉の幅を変化させて、単調に見えないように工夫されているので、
桁行が等間なのは、何か別の理由があると考えられます。
この、
梁間は変化させているのに、桁行を等間にしなければならない理由、を考えると、
安土城跡発掘調査報告6・P86の
「来迎柱を後退させ内陣を広くとるところは新しい傾向を示しているが、」
という結論とは、全く違った本堂の履歴が考えられるようになり、
「新しい傾向」と考えなくて良ければ、簡単に辻褄が合うではないか!
ということで、続きはまた近いうちに・・・・・ 来月になるかも。
やっと、条件をみたす構成にたどりついたので、少しづつですが進めていきます。
さて、
安土城跡発掘調査報告6、によると、
見寺(そうけんじ)本堂は
P86「側柱の柱間を桁行・梁行とも八尺等間にとっている」 とされていて、
前の見寺コンペの参加チームも、すべて八尺等間で復元案を作成していましたが、
調査報告書の図に、八尺等間の格子をのせてみると……
外陣は八尺等間なのですが、
内陣の両側にあたる部分の側柱は、どうみても八尺等間ではありません。
このプランでは、右側の柱はかろうじて礎石に乗せられますが、
左側は、そもそも礎石に乗せられないのだから、絶対に八尺等間のハズがない!
ということで、
見寺本堂の柱間は、桁行が八尺等間で、
梁行が変則の柱間であると考えられるのですが、
通常の五間堂は、桁行方向は中央間が広いか、脇間が狭いかのどちらかで、
等間というのは、ほとんど例がありません。
安土城跡発掘調査報告6で、側柱が等間の例に挙げている、
P87「山形県・黄金堂、栃木県・地藏院本堂等」などは、
すべての柱間が等間なので、等間にした理由は、
見寺本堂では、側面の梁行の柱間を変えていたり、桁行も、
正面に三つ並ぶ扉の幅を変化させて、単調に見えないように工夫されているので、
桁行が等間なのは、何か別の理由があると考えられます。
この、
梁間は変化させているのに、桁行を等間にしなければならない理由、を考えると、
安土城跡発掘調査報告6・P86の
「来迎柱を後退させ内陣を広くとるところは新しい傾向を示しているが、」
という結論とは、全く違った本堂の履歴が考えられるようになり、
「新しい傾向」と考えなくて良ければ、簡単に辻褄が合うではないか!
ということで、続きはまた近いうちに・・・・・ 来月になるかも。
当方、社寺・城郭建築(金剛組・亀山建設)や石庭(夢窓疎石・雪舟・小堀遠州・重森三玲)、襖絵(狩野・長谷川・東山魁夷)、穴太衆・野面積みの石垣見物を趣味としており、偶然見つけた安土城復元案・掲示板のリンクを辿って、時折こちらのブログも拝見しております。
さて、見寺復元案がいよいよ最終段階に入ったとのことで、お知らせしたい情報がありますので、こちらにコメントさせていただきます。
すでに東大寺戒壇院・善福院釈迦堂・建長寺仏堂はチェック済と思いますが、寄棟裳腰屋根寺院のもう一例として、大阪吹田・大光寺近くの佐井寺・旧本堂(昭和9年倒壊)が「かつて」ありました。
その古写真が吹田市立博物館でパネル展示されていますので、大光寺の鐘銘調査の際には一応チェックをお勧めいたします。
http://pc.gban.jp/?p=31238.jpg
私見ながら、見寺に現存する仁王門・三重塔に共通する※組物から類推するに、小規模な伽藍全体に調和を醸し出し、かつ雰囲気を引き締めるためにも、方丈の組物もおそらくこれと同じ仕様と見るのが適切と思われます(山頂の小さな敷地に詰め込まれた移築堂塔の建築様式が不統一だと、
寄せ集め感が漂い、「自分の小寺すら統一できない男に、天下が統一できるわけがない」などと陰口を叩かれる危険?)。
※【下から上に①円柱→②長押→③支綸付き三手先出組+蛙股/間斗束】
http://www.sukima.com/words/kumimono/kumimono.htm
よって佐井寺・旧本堂に見寺現存2棟の組物を適用して、柱間装置に折り畳み式唐戸や正面両脇の華頭窓を加えれば、具体的なイメージをもって焼失した見寺方丈を追体験できるのではないでしょうか。
私のような素人相手なら、東大寺戒壇院の細部を修正(華頭窓の幅を縮小、正面向拝の縋破風を撤去)して、そのまま見寺方丈として再建しても一向に支し障えないのですが(笑)。
以上、復元の参考になれば幸いです。
追伸
今週月曜日BS-TBS放送の「THEナンバー2」で滝川一益を特集していました。
その中で本能寺の変後の清洲会議の話題になり、安土城・織田信雄放火説について、羽柴秀吉によって流布された偽情報である可能性を示唆していました。
清洲会議直前に、信雄が安土城を焼いたという噂を流すことで織田家中における信雄の信用や評価を貶め、三法師の家督相続を有利に運ぼうとした秀吉の情報戦が奏功した結果を、フロイスがそのまま記録したのではないかというものです。
実際、秀吉は中国大返しの際、敵国となりうる播磨・摂津を通り抜ける際、「信長公は本能寺を脱出して、膳所にて御無事」という偽手紙を在郷の領主たちに出しまくって裏切りを防ぎながら無事切り抜けたそうですから、さもありなんですね。
また、明智憲三郎氏は著書「本能寺の変~427年目の真実」で、神君伊賀越えを経て三河に逃げ帰った徳川家康が信長の弔い合戦を装って出陣し、安土城という自領への脅威を取り除くために放火したのでは?という新説を唱えています。
誰が安土城天主に火を放ったかについては、まだいろいろと楽しめそうです(笑)。
ダラダラと冗長なコメントで申し訳ありません。
大光寺の鐘銘調査についてですが、
見寺と、超光寺の鐘銘から考えて、大光寺の鐘は、天保二年のものとほぼ推測でき、
あとは鐘に巻尺を当てて、口径が64㎝より大きいことを確認すれば、大光寺の鐘は天保二年で確定、となります。
このサイトでは、あくまでも創建当時の見寺の姿を復元するのが目的なので、
江戸時代末期に作られた鐘については、機会がなければ見に行かないかもしれません。
本堂の復元プランについてですが、
> よって佐井寺・旧本堂に見寺現存2棟の組物を適用して、柱間装置に折り畳み式唐戸や正面両脇の華頭窓を加えれば、具体的なイメージをもって焼失した見寺方丈を追体験できるのではないでしょうか。
> 私のような素人相手なら、東大寺戒壇院の細部を修正(華頭窓の幅を縮小、正面向拝の縋破風を撤去)して、そのまま見寺方丈として再建しても一向に支し障えないのですが(笑)。
見寺コンペの、東京大学の案の外観がまさにそんな感じでした。
でも私は、イメージを再構成するのと、復元案を作る事とは、だいぶ違いがあると思うのです。
発掘された遺構はもちろん、見寺文書に書かれる道具や行動は、
すべて、焼失前の本堂に関係するので、
全ての記録に矛盾のない構成を考えなければ、
復元案を作った事にはならないと考えているので、
いろいろと細かく考察していますが、
大雑把な外観イメージだけで見れば、
東京大学のプランとほぼ同じになりますので、
細かい所に興味がなければ、このサイトは、あまり役に立たないかも知れません。
> 清洲会議直前に、信雄が安土城を焼いたという噂を流すことで
>織田家中における信雄の信用や評価を貶め、
というのは、どうでしょうか?
信雄の信用や評価は、信長の生前から低かったのではないかと・・・。
この時点では、明智光秀を打ち取った総大将は信孝という事になっていて、
会議の結果も、跡目が三法師で後見が信孝となったので、
もともと落ちている信雄の信用がさらに落ちた所で、
秀吉にとって有利にはならないどころか、この件が信雄にばれれば、
清洲会議の時点ではもう考えていたであろう、
暗愚な信雄と組んで信孝を葬り、織田家を乗っ取る計画に支障が出るものと考えられます。
また、家康放火説ですが、家康は
信長の弔い合戦を装って出陣し、甲斐を自分のものにしているので、
安土城にかまっているヒマはなかったのではないかと思われます。
佐井寺旧本堂は水に流していただく方向でおねがいします(^^;)
信長の伊賀甲賀攻めで壊滅的な打撃を受けた忍者たちが、この時とばかりに略奪、さらには復讐目的で腹いせに安土城天主に放火したという説が妥当なのでしょうか。落雷で焼失という説も…
実際、伊賀市では未だに信長を絶対に許さないという末裔の方がおられ、神君伊賀越えが在郷の服部半蔵の全面的な協力により成功したのは、かつて家康が信長の伊賀攻めに従うふりをして、実際には被害を食い止めていたためという説があるそうです。
家康放火説が成り立たちにくいのは納得です。明智憲三郎氏の説は、信長による本能寺での家康討ちを光秀が乗っ取ったというもので、家康亡き後の徳川領への国替えが土岐氏壊滅に繋がると光秀が考えたのがその動機だそうですが、なぜそう考えたのかの説明がなく、史実と異なる点があったりして、資料の読み込みによる細かな事象の解明には斬新さと説得力があるものの、残念ながら幹の部分でスッキリとは相成りませんでした。。。
>でも私は、イメージを再構成するのと、復元案を作る事とは、だいぶ違いがあると思うのです。
>遺構はもちろん、見寺文書に書かれる道具や行動は、すべて、焼失前の本堂に関係するので、
>全ての記録に矛盾のない構成を考えなければ、復元案を作った事にはならないと考えている
淳也さまに激しく同意です。大変すばらしい見識と趣味をお持ちだと思います。
確かに、天主復元案にしても、目を細めて遠くから眺めれば、内藤説も宮上説もたいして違わない、という話になってしまいますね(^^;) 大変失礼をばいたしましたm(_ _)m
私事ながら、淳也さまの安土城復元案に出会うごく最近まで、佐々木譲「天下城」や山本兼一「火天の城」の刷り込みから宮上説一辺倒だったのですが、
http://www.sasakijo.com/note/tenka1.html
淳也さまの解説、例の方の論文を読むうちに、徐々に天守指図の内藤説にも魅力を感じ始めております(特に玄関のある東側立面は美しい)。閑話休題、
http://pc.gban.jp/?p=31340.jpg
このブログを拝見しておりまして、復元のポイントは以下の3点に集約されるかと思います。
①盆山石の展示方法、②来迎壁の後退、③礎石が梁(南北)方向で不規則
このうち、今回ご指摘の③ですが、本堂が移築か新築かによっても異なると思いますが、西隣の能舞台の桟敷席への出入口(唐戸)のために、梁(南北)方向の中央柱間が広く取られた結果、それに押される形で北端柱間が犠牲になったとすると、桁(東西)方向は等間隔となる遺構と合わせて、東大寺戒壇院の裳腰屋根から下を90度回転させた感じでしょうか。
②は、内陣中央の紅梁4本の延長と、大瓶束の設置で解決可能と思われます。
http://www.city.uwajima.ehime.jp/www/contents/1286424712063/index.html
残る①ですが、田舎の旧家で、仏間の仏壇の天袋に神棚が設置されている例を見かけます。
http://wadaphoto.jp/maturi/images5/touhoku100l.jpg
http://www.3838.co.jp/littleheaven/200803/img/7_19.jpg
本来は仏像の上に神棚を置くのは失礼らしいのですが、信長ならやりそうな気がいたします(^^)
そこで、この方法を適用しまして、後に十一面観音像が収まる程度の高さの神棚(天袋)をもって、盆山石を展示していたのではないかと考えますが、いかがなものでしょうか。
下手の横好きでツッコミどころ満載かと思いますが、よろしくおねがいいたしますm(u_u)m
追伸:
復元案の模型製作の御参考になりそうなサイトを発見しましたのでお知らせいたします。
薬師寺西塔1/25模型製作工程
http://ikalugamokeikoubo.blog90.fc2.com
すべて平屋で、天井が高いものも多いので、一見ありそうな配置ですよね。
この盆山安置方法は、見寺コンペでは武蔵野大学が使っていましたが、
見寺文書の、寛文四辰八月九日の「捴見寺校割納所方江預置覚帳」の中に、
「一鰐口三丁(内一ヶ塔用一ヶハ鎮守ニアリ一ヶハ二階)」
と書かれたものがあったり、
木曽路名所図会の記事にも、
「閣上より見下せば湖水渺々として風色いちじるし」
という部分等々があり、二階があって人が登れる状態であったことは確実です。
②の来迎壁の後退について、虹梁の延長と、大瓶束の設置で解決する方法は、
鳥取環境大学と広島大学が使っていましたが・・・。
と、こうやって見ると、
人が思いつく範囲というのは、だいたい似ているんだな~と思いましたが、
事例をいちいちコメント欄で説明するのも面倒なので、
そのうち本文で説明すると思われますので、期待しないで待っていて下さい(^^)
追伸
「さすガッス」大阪ガスのCMのコピーです。原発事故以来勢いを盛り返しております(^^)