建物内部の間取りを考えているのですが、
昨年5月に、「見寺、信長像」の記事の中で、
>パンフレットには、信長像の横幅は書いてありませんでしたが、
>安置されている場所の状況から見て、
>横幅約90㎝奥行約60㎝位、だと思われます。
と、考察しましたが、
東牌堂と御霊屋周りの寸法について、いろいろ計算してみると、
信長像の奥行が50㎝以下でないと、上手く納まらない・・・・
一般的に、
霊廟に祀られる木像は、正面からの見た目が重要なので、
横幅や高さに比べて、意外と奥行が薄い場合があるのですが、
見寺の信長像はどうなのだろう?
やはり、もう一度見に行かないと、間取りの件は進まないようです。
ゴールデンウイークに、安土城の摠見寺へ行ってきました。
安土城入口のトイレと休憩所が新しくなっていたので、
近江八幡市に吸収合併されて、
財政に余裕ができた効果かと思ったら・・・
駐車場料金500円を徴収する事で、
建設費と維持管理費をまかなう計画のようです。
見寺は、2年ほど前から日曜祝日の天気の良い日に公開との事で、
入口の券売機で1000円の券を買うと、受付で、
安土城跡のパンフレットと、摠見寺の特別入場券が渡されます。
摠見寺の入口を入って、石段を上ると、
来客用と一般用の、式台が二つ並んだ入口が見えてきます、
本堂はそれほど広くなく、八畳を三つ並べた方丈型本堂の間取りで、
仏間には、写真撮影禁止の札が出ていたので、隣の部屋の縁側から。
本堂の奥には茶室が二つあって、緋毛氈の敷かれた席に座ると、
抹茶とほうじ茶と羊羹のセットが出てきます。
目の前の庭には、蹲踞などもあって、なかなか良い所です。
さて、
本堂仏間は、八畳敷きの奥に、四畳敷きの部屋を介して、
二間を三等分する幅の、作り付けの厨子になっています。
それぞれの厨子には、四枚引違の格子戸がはまり、
中央間に、像高40㎝、室町時代の十一面觀音、
向って右側に、像高56.8㎝寛政八(1796)年の円鑑禅師(正仲剛可)坐像
向って左側に、像高68.8㎝の信長像が、安置されています。
摠見寺入口で売っていたパンフレットによると、
信長像の胎内には、舍利袋が納められており、
正徳四(1714)年十月二十七日と、寛保二(1742)年七月十三日に、
これを確認したとの墨書があった、とされているので、
現在、摠見寺の本堂に祀られている三つの像はすべて、
焼失前の本堂に安置されていたものと考えられます。
パンフレットには、信長像の横幅は書いてありませんでしたが、
安置されている場所の状況から見て、
横幅約90㎝奥行約60㎝位、だと思われます。
また、この信長像には、前にも紹介した泰巖宗安記のブログに、
>江戸時代末期、旧本堂が延焼した際、仮に某氏としておきましょうか、
>某氏のご先祖さんが、この木像入りの厨子を背負って下りた。
>この功で、当時の住職から、総見寺重宝である銀杯を賜ったと言う。
という記事が載っていたので、
背負って下りられる位の大きさの、移動できる厨子の中に安置されていたらしく、
1761~1765の間に作成された「方丈列牌図」によると、
信長像の入った厨子(御霊屋)は、八尺の柱間の東牌堂の中心に置かれ、
左右に大名用位牌が三つづつ並べられて、左手の柱に信忠像の掛軸が掛けられ、
位牌の状況から、東牌堂の東側は壁だと考えられるので、
焼失前の本堂に安置されていた、信長の厨子(御霊屋)は、
横幅1~1.2m、奥行0.7~1m、高さ1~1.5mの春日厨子であり、
1761~1765頃には、本堂に向って右端の柱間の一番奥にある、
脇壇の中央に安置されていたと、考えられます。
2008-09-28の考察、
一支寸法は174mm 0.5714尺
は、たぶん間違ってます!!
安土城跡発掘調査報告6 見寺 P84 の
>来迎壁を後退させ内陣を広くとるところは
>新しい傾向を示しているが、
という部分に、気を取られすぎでした。
「新しい傾向」と考えなくても、
”来迎壁を後退させているように見える”
状態は作れるじゃないですか!!
ということで、一年半かけて計算してきた支割りは、
もう一度最初から出直しです。
安土城へ行く予定だったのだが、
雨だったので、予定変更して、
先月コピーしてきた
信長の150回忌法要の資料をUPしました。
図や解説はまた後で。
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織田信長が創建し安土城跡に残る見寺(滋賀県安土町下豊浦)は、これまで非公開にしていた本堂を、5日から毎週日曜と祝日に特別公開する。
同寺は室町時代の三重塔(重要文化財)や二王門(同)などが現存するが、本堂は嘉永7年(1854)に焼失した。現在の本堂は明治時代以降の建築で、隣に茶室がある。
本堂には本尊の聖観世音菩薩像や、江戸時代の制作とみられる織田信長座像を安置している。公開に合わせ襖を新調し、西村惠信・前花園大学学長の禅画『十牛図』を張った襖や、山本燈舟・同寺執事の水墨画『安土八景』、日本画家赤沢嘉則さんの『老櫻』などの襖絵が見られる。安土城天守閣跡から発掘された金箔瓦なども展示する。
加藤耕文住職は「地元や観光客から要望が多く、公開する事にした。茶室でお茶を楽しんでもらえれば」と話している。
特別公開は安土城跡入山料500円の他に特別拝観料1000円が必要。対象は高校生以上で、抹茶接待が付く。
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見寺の本堂が公開されるそうで、
早速見に行く予定を・・・・。
不景気なのに(不景気だからか)ヒマが無いのはなぜ?
ゴールデンウイークにはたぶん、時間が取れそうです。
安土町史の編纂事業は、昭和58(1983)年と60(1985)年に、
資料編1と2が出版されたのみで終わってしまったようです。
見寺の資料も調査されたのは一部であって、
存在しているはずの、信長の年回法要の記録は、
刊行された安土町史には載っていませんでした。
蒲生郡志あたりにはのってるのかも・・・?
と思っていた所、蒲生郡志は東京都立図書館で蔵書しているらしい、
次に東京まで行く時間が取れるのは3/14~になるので、
次の更新は3月末の予定になりそうです。
現存する織田信長の木像の資料が掲載されていて、
その中の見寺の項目に、
>3.総見寺 滋賀県 束帯 施主不明 旧本堂の御霊屋に安置されていた。
>本堂の火事の際、被災を免れる。
とありました。
旧見寺本堂内部に安置されていた物は、
嘉永7年11月16日の火災で、全て焼失したと思っていたのですが、
織田信長の木像が被災を免れて現存しているからには、
ほかにも焼け残った物がある可能性もあり、なにより、
見寺の織田信長の木像を調べる必要が出てきました。
並んでいる位牌の状態から考えて、
1761~1765の間に作成されたと思われる「方丈列牌図」によると、
信長の木像は、東牌堂と書かれる位牌壇の、ほぼ中央に置かれた、
鍵付きの御霊屋内に安置されていた事になっているので、
現存する信長の木像が、本当に被災を逃れた旧本堂内部のものであれば、
木像の大きさから御霊屋と東牌堂の、
だいたいの大きさが推測できる事になります。
とはいうものの、
たしか昨年、安土城へ行った時、見寺の入口には、
「拝観謝絶」だか「立入禁止」の札が掛かっていたので、
一般に寺の内部は公開していないようです。
というより、たとえ公開されていても、
信仰対象になっている信長の木像が、
本当に旧本堂に安置されていた物かどうか、という調査に、
見寺が乗ってくれるとはちょっと思えないので、
この件の解決は、ちょっと望みが薄いようです。
やっと滋賀県史跡調査報告11のコピーを取ってきました。
やはり見寺創建時の楼門扁額は、
別のものが掛かっていたようだ。
と、扁額については解決したのだが、
また本堂内部について新たな難問が・・・。
ちょっと問題が手に余るので、詳細はまた後日。
画像は今日の富士山、
天気が良くて暖かかったので、久しぶりに窓を開けてみました(^^)
ということで、とりあえずコンペの感想。
新聞社とテレビ局も取材に来ていたが、
参加者は、学生と関係者がほとんどでした。
最優秀賞は、滋賀県立大学の「上総介ヲ宿ス」だったのだが、
個人的には、優秀賞だった鳥取環境大学のものが首席だと思いました。
ただ、鳥取環境大学の彼は、下を向いている時間が長かったような気が・・・。
コンペの要項の第一に「復元を基本とします」と書いてあるわりには、
みなさま、自由な発想で計画していて、なかなかおもしろかった。
特に、武蔵野大学の案は、外観は普通の?禅宗仏殿風なのだが、
内部は、土間床で、上に向って少しずつ回転してゆく形に梁が架けられていて、
実際に作られた場合、建築雑誌で高い評価を受けそうな、
現代建築のような、斬新な内部空間だった。
住職も、一次審査で票を入れてたから、復元コンペでなければ入選してたかも。
選外でしたが、広島大学の佐藤大規さんも発表していました。
佐藤大規さんを見るのは、初めてでしたが、なかなかカッコ良くて、
発表慣れしていて、声もイイじゃないですか。
広島大学の案は、鳥取環境大学と方向性が、かぶっていた事と、
「二間四面」と書かれる文献資料を厳密に解釈したために、
二階を二間四方で復元してあって、見寺境内絵図で描かれた仏殿と比べると、
少し、二階が小さすぎる感じがした事に、問題があったのではないかと。
あと、やはり素人受け?する為には、CG画像や模型は必須だったような…。
発表でも、和樣と唐樣の斗栱の違いを説明していましたが、
この違いは、専門家なら当たり前の常識だし、素人ならどっちでも関係ない?
事なので、わざわざ説明に時間を割く必要は無かったと思われ、
この辺りのことも、選外になってしまった理由かも。
模型に力が入っていたのは、佳作の東京大学でした、
なんでも材料費に10万かかったとか。禅宗仏殿としての完成度も非常に高く、
博物館に納品ならば500位しそうな、豪華な模型でした。が、
東京大学ということで?審査員に少しイジメられていました、
学生なんだから、なにもそこまで突っ込まなくても良いのでは…
といった感じで、傍から見てる分には、けっこうオモシロかった。
コンペ全体の感想としては、最優秀賞になった滋賀県立大学の案そのままで、
実際の建築が建てられると、資料との間の齟齬が多すぎて、問題だと思われるが、
最優秀賞で復元しないのは、コンペの趣旨として問題があるので、
今後の見寺の再建プロジェクトはどうなるのでしょうか?