摠見寺 復元案

安土城にある、摠見寺(そうけんじ)の復元案を作成する プロジェクト日記

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

大光寺の鐘

2012-05-20 23:30:41 | 
大阪の吹田市にある大光寺の鐘は、
明治時代に安土城にある見寺から売られたもので、

梵鐘の由来を記した掲額によると、

 寛永二十年十月に飯田加衛門入道宗運が鋳造。
 大きさは高さ5尺、口径2尺9寸、

とされているのですが、
見寺と、超光寺の鐘銘からして、
この鐘は天保二年に作ったものと考えられるので、

大阪に行ったついでに大光寺の鐘を見てきました。


口径2尺9寸ということは、現在の見寺の鐘よりも大きいので、
それだけでも天保二年の鐘だとわかるのですが、

鐘の下部の駒ノ爪の張り出しが大きいのも、新しい傾向を示しています。

非常に珍しいのが、
鐘の突き座が、縦帯と中帯の交点より下に、
別に設けられていることで、

どうしてこのようになったのか理由を考えてみると、

江戸末期の鐘にしては、中帯の位置が高すぎで、
乳の数が三段四列の48ヶと、鐘の大きさの割に少ない事から、

この鐘の作者は、
奈良~平安時代頃のデザインで鐘を作りたかったのだが、
古代の鐘のように撞座の位置を高くすると、
音の響きが悪くなる事を知っていたので、
撞座を縦帯と中帯の交点より下に別に作ったと考えられ、

もしかすると、信長の先祖の出身地とされる、
織田剣神社の梵鐘を模して作ったのかも。


その辺りはまた別の問題ですが、

とりあえず
見寺の鐘は、
寛永二十年鋳造の鐘が安土の見寺に、
天保二年鋳造の鐘が吹田の大光寺にあることがわかりました。

ということで、創建時の鐘はいまだ行方不明です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

超光寺の鐘

2011-05-29 20:19:17 | 

5/3(祝火)に安土城へ行った帰りに、 超光寺の鐘も見てきました。

滋賀県では「飛び出し坊や」という子供の看板が 流行っている?らしく、

道端のあちこちに立てられています。

静岡県では見た事がないので、写真を一枚(^^)

 

超光寺では、憲法記念日にきちんと国旗を掲揚していました。

さて、

三年前に来た時には、全く気にしていなかった 鐘楼の鐘ですが、

今回は銘文をチェックしてきました。

ということで、超光寺の鐘の銘文、

---------------

照峯山超光寺第四世法
光院鏡圓上人者領主安
土惣見寺寛沖大和尚之
時開基贈大相國一品泰
岩大居士信長公二百五
十回忌法會天保二年六
月執行供養之爲大梵鐘
新鋳發願應特命而独力
經営供進矣領主嘉賞訣
功績而寛永二十年鋳造
之舊鐘下賜干鏡圓以爲
超光寺法器拝受爾来一
百二十星霜間晨橦夕撃
矣昭和十六年秋十月滋
賀縣知事近藤壌太郎閣
下安土史跡顕彰之爲有
惣見寺還付之懇請超光
寺住職檀信徒一同奉命
拝承仍而賜斯洪鐘者也

---------------


---------------

   銘曰
興亜戦時 舊鐘還元
新鋳洪鐘 藤公恵賜
昭和聖代 曾祖鏡圓
古功實現 末裔満悦
繖岳西麓 麗湖東畔
靈杵暁撞 梵音夕傳
頓覺迷梦 普益顕冥
天長地久 國豊民安
佛曰増輝 邦家泰寧


皇紀二千六百一年晩秋良辰

第六世照峯山超光寺住職
本願寺布教使宗務所出仕
親授壹等清谷恵眼謹識

--------------
鋳工人
 近江國長濱
第十五世 西川徳左衛門
          藤原重久
--------------

 

ということで2010-01-30の考察はだいぶ違っていました。

銘文によると、天保二(1831)年に見寺の鐘を作った功績で、

寛永二十(1643)年の鐘を見寺から貰い、

現在超光寺にある鐘は、昭和十六(1941)年に、

元見寺の寛永二十年の鐘を滋賀県知事の要請で

見寺に戻す代りに贈られたものと書かれているので、

 

現在の見寺にある鐘は、寛永二十年鋳造の鐘で、

吹田の大光寺にある寛永二十年の見寺銘が彫られた鐘は、

天保二(1831)年に鋳造され、作られた時に

旧銘が彫りこまれたものと考えられます。

 

見寺文書の

「天保二年辛卯五月廿六日鐘供養雑記」によると

天保二年正月に、鏡円法師が鐘の新調の話を出した時に、

最近鐘の鳴りが悪くて、須田村まで音が聞こえにくい、

といった理由が挙げられているので、

 

一般的に考えて、新しく作られた鐘は、音を大きくするために

寛永二十年の鐘より大きく作られたはずで、

現在の見寺に懸けられている鐘の口径は64㎝で、

吹田の大光寺の鐘の口径が64㎝より大きければ、

大光寺の鐘は、天保二年に鋳造された旧銘の鐘で決定!となるのですが・・・。

 

 

結局、創建時の見寺の鐘は、

いまだに見つかっていない、という結論になりました。

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

安土城見寺の鐘銘

2011-05-21 22:38:18 | 


安土城にある見寺の鐘の銘文


---------------

安土山見禅寺者

贈大相国一品泰岩大居士信長
公之開基也奕世佼其後裔
住山矣宗哲蔵主其葛而
敲磕干余門庭者有年乎茲
今也鑄洪鐘掛着於梵塲之
次乞銘之仍綴蕪詞充其請云

銘曰

日域靈刹 近左名區
高城陳蹟 效以鴻盧
寄相國廟 拓安土居

----------------

家業繼述 荘厳綿敷
圓通榜閣 清浄滞湖
巨鐘鍠爾 勤備緇徒
發賢聖 徳到獨孤
上達無上 麁久三麁
依聲覚性 記事啓愚
禮樂重器 法道要樞
時不可失 何離須臾
伏冀
大樹誕膺景福
長祝

----------------

寛永二十年癸未十月良辰

長徳山主特英壽采識焉





-----------------

大意

安土山の見寺は、信長によって作られました。
その後、信長の末裔が住職となり、
宗哲さんがいろいろ境内を整備して、
鐘を作ることになり、鐘に刻む銘文を
頼まれたので、こんな感じに文を作りました。
(銘文は省略)
寛永二十(1643)年十月
知恩寺住職の特英壽采が書きました。



(長徳山主特英壽采識焉)の後、
間隔が空いて、枠の後ろのあたりに、
製造者の名前らしき物が彫ってあるのだが、
写真の撮り方が悪くて読めなかった(T-T)

さて、この銘文からすると、
寛永二十年の鐘は、安土城の見寺と、
大坂の吹田市にある大光寺の、
二つ存在することになります。

同じ時に二つも鐘を作るとは考えにくいので、
どちらかの鐘が、天保二年の製作で、
造られた時に以前の鐘の銘文を写された、
いわゆる旧銘という事になるので、
両方の鐘を見てみないと、判断ができない、

ということで、この続きは、
吹田市の大光寺の鐘を確認してからということで……。

っていったい、いつになるのだろう?

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

摠見寺の鐘

2010-01-30 19:51:32 | 

春になったら、また安土へ行こうと思ってるのだが・・・。
まだ一ヶ月以上先の話なので、
今日は、行った時に確認する予定の、
摠見寺の鐘について考えてみます。


現在の摠見寺には、大手道から見える位置に
比較的新しい鐘楼が建っていて、鐘が下げられています。

この鐘と鐘楼については、
小杉放菴記念日光美術館」のサイトに、由来が載っていて、

(参照
TOP>小杉放菴について>小杉放菴についての詳細>小杉放菴と松岡範宗)

「・・・鐘もあった筈だと、ひとびと心がけて居るうちに、摠見寺銘のある鐘が三ヶ處で發見された、
代々の住持のうちに、鐘を賣った和尚、又作らせた和尚、又賣った和尚があったわけです、
其のうちの最も古き年號のを買いもどした、・・・
・・・松岡和尚在住期に果たせなかった鐘楼再建は、一九五五(昭和三十)年に、
安土町、能登川町、近江八幡市といった安土山近隣の町からの寄付により実現された。・・・」


ということで、現在摠見寺にある鐘は、
3ヶ見つかった摠見寺銘のある鐘のうちの最古のものということです。

他の摠見寺銘の鐘について、一つは判明していて、

参照(エボのメモ帳--大光寺の梵鐘--(09-06-03))

「吹田市にある浄土真宗本願寺派の大光寺にあり。
梵鐘の由来を記した掲額によると、寛永二十年十月に飯田加衛門入道宗運が鋳造。
大きさは高さ5尺、口径2尺9寸。
明治14年に大光寺の什物となった。」


ということで、寛永二十年に作られた鐘は大光寺にあり、
摠見寺の記録では、寛永二十(1643)年と天保二(1831)年に、
鐘供養を行った事になっているので、
現在摠見寺にある鐘は、
寛永二十年と天保二年に作られた鐘ではない事になります。

小杉放菴記念日光美術館のページには、現在の見寺の鐘が、
どこから来たのかについては書いていないのですが、
前に安土に行った時に撮った、超光寺鐘楼の写真に答えがのってました。


      梵鐘由来
超光寺第四世鏡円法師が安土見
寺の梵鐘鋳造の功により、文政十年
その一つを賜りし名鐘なり、
戦後、摠見寺に鐘がなく、因縁ある
当寺の鐘を譲り、これはその代りに
受けしもの、
鐘楼は昭和五十五年三月門信徒に
より新築、


つまり、摠見寺に現在ある鐘は、もとの超光寺の鐘ということ、ですが・・・。

この由緒書きは少しオカシイ!!
摠見寺の梵鐘鋳造の話が出たのは、天保二(1831)年正月で、
鏡円法師の肝煎りで鐘供養が行われたのが、その年の5月26日なので、
文政十(1827)年の段階で、「梵鐘鋳造の功」などあるはずがない!

これはたぶん、天保十年の書き間違いで、
摠見寺の記録によると、
鐘供養に使った四本柱の仮堂を、天保九年に超光寺へ寄付したとされているので、

天保九年に超光寺へ下賜された仮の鐘楼が、天保十年に組み上げられて完成し、
落慶法要が行われた事の書き間違いであり、
梵鐘鋳造の功により賜ったのは、鐘ではなく鐘楼であると考えられます。


ともあれ、寛永二十年以前の最も古い銘のある鐘が、超光寺にあったということは、
寛永二十年に鐘が鋳造された時に、古い鐘が超光寺へ下賜されたもので、
天保二年の鋳造時には、寛永二十年の銘の鐘を貰ってはいないと思われます。

超光寺は天和二(1682)年創立、とされていますが、浄土真宗の寺院というのは、
もともと信者の道場として作られて存在していたものが発展していって、
本山の許可と免許を受けた所で寺院の創立となるので、
寺院創立前の寛永二十年の段階で鐘を下賜されてもおかしくはありません。

以上のことから、

現在摠見寺にある鐘は、
摠見寺~寛永二十(1643)年に超光寺へ~昭和三十(1955)年に摠見寺へ戻る。

寛永二十年銘の鐘は、
寛永二十(1643)年見寺~天保九(1838)年鐘楼から下ろされる~
明治十四(1881)年大光寺へ売られる。

天保二年銘の鐘は、
天保二(1831)年摠見寺仮堂~天保九(1838)年鐘楼へ~明治の頃売られる。

このように考えられます。


と、ここまできた所で新たな疑問が・・・・・・・


摠見寺は、信長が甲賀の寺院を徴発して移築により作られた物なのだから、
創建時の鐘に、摠見寺の銘が入っているはずがない!!!

ということは、現在の摠見寺の鐘は、正仲剛可の時代に、
秀頼・淀君の寄付によって作られたものではないだろうか・・・?


ということで、
この件の続きは、現在の摠見寺の鐘の銘を確認してからということで。(^^)v

コメント
この記事をはてなブックマークに追加