摠見寺 復元案

安土城にある、摠見寺(そうけんじ)の復元案を作成する プロジェクト日記

品川東海寺、沢庵墓(信長墓3)

2013-05-04 23:14:46 | 

今回も前回の東福寺南明院に続いて、卵塔と自然石の墓について別の例をあげてみます。

 

品川にある東海寺の大山墓地には、

江戸初期の僧である沢庵和尚の墓があります。

この墓は、門と竹垣で囲われた中に、石敷きの参道が延びて、灯篭と花立、

石の香炉が置かれ、石の柵で囲われた中心に、自然石が置かれています。

 

どうしてこのような変わった形になったのかと言うと、沢庵和尚の遺言に理由があります。

ということで、大仙院文書より、沢庵和尚の遺言。

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澤庵和尚遺戒寫
老僧遺戒之条々

一、我無嗣法之弟子、老僧身後、若萬一称我弟子於有者、是法賊也、報干官可處大罪矣、
【一、私に法を継ぐ弟子はない。私の死後、もし沢庵の弟子と名乗る者があったら、それは法の賊である。官に告げて 厳罰にせよ。】

一、我無嗣法弟子、則有誰成主而可受賓禮乎哉、自佗宗共為諷經可有來臨、當寺之首座一人出門外、遂理可奉還之、不可請入干内矣、
【一、私に法を継ぐ弟子はない。従って、弔問を受けるべき喪主になる者はいない。自宗他宗とも読経に来る者があれば、当寺の首座は一人で門外に出て、事の理由を述べて帰らせること。内に招き入れてはならない。】

一、老僧存命中、還衣鉢於先師塔、則我只黒衣之一懶衲也、
【一、私は生きている内に、衣鉢(嗣法のしるし)を先師の塔に返した。従って私はボロを纏った黒衣の僧に過ぎぬ。】

一、我身後、不可掛紫衣書像、以一圓相代眞者也、華燭爐可任意矣、
【一、私の死後、紫衣を纏った私の画像を掛けてはならない。一つの丸を書いて肖像の代りとせよ。花や灯明、香炉は自由にしてよい。】

一、鉢盂供具、一切不可備矣、
【一、鉢盂(はつう食事用の鉄製の鉢)など供物は一切してはならぬ。】

一、有志者、袖香合以只可焼一炷、是其人之志也、非干我事矣、
【一、志のある者は、持参の香合(こうごう)で香1本を立てればよい。これはその人の心で、私には関係ない。】

一、称香典、可有相應之携、雖芥子許不可収納之、遂理即時可返進之、法中俗家皆如件、
【一、香典と称して持って来たら、どんなに少なくても受け取らず、すぐに返せ、寺でも俗人でも受け取らないこと。】

一、我身後、不可受禪師號等矣、
【一、私の死後、禅師号を受けてはならぬ。】

一、本寺祖堂入牌之儀、不致之、若萬一欲遂自己之志者可有営之、竊取彼牌可焼却、此人尤可懇志干我之人矣、
【一、本寺の祖師堂に位牌を祀ってはならない。もし万一、各自の志でまつる者があれば、位牌を窃盗して焼き捨てよ。この人こそ私に最も親切な方である。】

一、本山在寺の諸長老迁化時、必有一山之施齋、我退本寺捨身於荒蕩、本寺之經営都不知之、施齋必不可致之、兼所存也、非今日之思矣、
【一、大徳寺にいる長老の遷化の時は、必ず一山をあげての御斎(おとき)がある。私は大徳寺を退いて身を荒野に捨てた者、本寺の営みなど一切存ぜぬこと。御斎は行ってはならない。これは前から考えていたことで、今思いついたのではない。】

一、連年有人寫予眞請讃、各加一語返、是寫結縁助人之志而已、
【いつも、画や肖像、禅語を求める人には、こう言って返した、人を助ける志があればそれが仏との結縁だ。】

一、為僧人望道號、是又為結縁授之、俗家男女亦同、右結縁一法也、与嗣法之人之號雲泥異也、若萬一以道號・眞賛之語称印可者可有之、啓干官以可行罪矣、
【僧侶や一般人が戒名を望むのは、仏に対する結縁の方法ではあるが、法を継ぐことと戒名には雲泥の差があるものであるから、もし万一戒名や賛を書いたり印可を与えると称する者がいたら、官に告げて罰せよ。】

一、老僧身相不可為烟、夜中潜擔将去、於人之不知野外、深掘地埋之、以芝草可蓋之、不可為塚形、可令如平地、之佗日欲令不得尋也、侍我左右二三子、再不可詣其所、矣、
【一、私の身を火葬にしてはならない。夜中ひそかに担ぎ出し、人知れぬ野外に深く地を掘って埋め、芝草で覆い、塚の形を造らず平地にせよ。後で探し出すことが出来ないようにするためである。身の回りを世話してくれた二、三名も二度とその場所に詣でてはならない。】

一、我息已絶、則於夜速可送干野外、若又晝、則不称死而密待夜可送之、為僧者、晃・玖二人外不可遂行、送去帰來而後、一衆香拝珍重、雖大悲呪於机前不可誦之、
【一、我が息がすでに絶えたなら、夜間であれば速やかに野外に送れ。もし昼間なら死んだと言わず秘密にして、夜を待って送れ。僧は晃と玖の二人の他はいらない。埋葬から帰って来たら香を焚き拝をするのは結構だが、たとえ大悲呪であっても、経を読誦してはならない。

一、寺中寺外不可立石塔、先師春浦和尚之偈曰、本身無舍利、臭骨一堆灰、掘地深埋處、青山絶點埃、思之念之、
【一、寺の内外に石塔を立ててはならない。先師の春浦(しゅんぽ)和尚の偈(悟りの境地を表現する漢詩)に、
   本身無舎利  本身に舎利無し
   臭骨一堆灰  しゅうこついったいの灰
   掘地深埋処  地を掘って深く埋む処
   青山点埃絶  せいざんてんあいを絶す
というものがある。この偈を念じてこの意味を考えなさい。】

一、称年忌殊不致經営、只可為月忌之思、遠忌尤不可掛心頭、或五十日後の吊慰者、俗家之葬紀也、法中強不為之而已、
【一、年忌法要を営んではならない。ただ毎月の命日に思うだけにせよ。遠忌法要を行おうと思ってはならず、また、五十日後のとむらいは俗家の葬法であるから僧侶が行ってはならない。】

 

右澤庵尊宿遺戒十六條、在東海製之、其上座春澤和尚所筆、法鑑老人得之稲葉侍従泰應居士、今茲元禄戊寅之秋、大心義統寄付干尊宿所剏祥雲精舍

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この遺言によると、沢庵和尚の希望は、全く痕跡を残さないようにしたかったようですが、

残された弟子、(沢庵和尚はそんなものは居ないと称していますが、現実には、一般的にいって弟子にあたる人物は存在しているので、)それらの弟子としては、師の墓をそんなに粗末にしたくは無いわけで、”一休さんのとんち”なみの解決策がとられています。

具体的な墓の形に対する沢庵の指示は、

『塚の形を作らず平地にせよ』

『寺の内外に石塔を立ててはならぬ』

ということなので、自然石を横に重ねて置けば、石塔を立てているわけではなく、塚の形さえ作らなければ、石柵で囲い、石灯篭や花立、香爐や参道、竹垣に門を作っても、遺言の文字には反していない事になります。

 

さて、東海寺の初代住職は、そうとうな過激思想の持ち主でしたが、

その後はだんだん普通に近づいて行きます。 

沢庵和尚の墓の隣には、台座に自然石を乗せただけの墓がありますが、

その向かいには、台座に乗せられた卵塔の墓になり、
さらに横の奥は、卵塔と台座の間に装飾が付くようになって行きます。
 
この東海寺の墓の流れから考えても、初代の沢庵の墓は、
卵塔の一種と言えない事もなく、
 
天保年間に改修される以前の安土城にある信長の墓が、沢庵墓所の脇にある墓のように、低い簡単な台座の上に自然石が乗っている姿であった場合、墓石の分類名から言えば卵塔と記録されても不自然では無いので、 最初に作られた信長の墓は、現在の亀甲積の台座の上に乗せられている自然石が、低い簡単な台座の上に乗せられた形態であったと考えられます。
 
と、前回と同じ結論になった所で、
 
前回の最後の中山道名所図会に画かれた五輪塔の件ですが、
これが、どうして書き間違う事になったのかについては、
やはり安土城へ行った方が説明しやすそうなので、
次回は安土城にある墓を訪ねてみます。

 

 


東福寺南明院(信長の墓2)

2013-01-06 18:40:24 | 

三種類が記録された信長の墓の内、卵塔と現在の自然石の形態は、同じ墓石の改修前と改修後の姿であると思われるので、ここでは自然石と卵塔の墓について例を挙げて説明します。

 

 東福寺三門二階の天井や梁には、室町時代の画僧、明兆の画いた絵が残っています。この明兆さんは、東福寺塔頭南端にある南明院の二代目住職で、淡路に生まれ、北宋の李龍明の画法を学び、寺院専属の画家として活躍した人物で、僧侶としての位は仏殿の管理を務める殿主であったために兆殿主とも呼ばれています。

 三門公開の時の説明の人から、明兆さんの墓が南明院の南にある墓地に残っていると聞いて、お墓参りに行ってみました。

南明院は、東福寺南門(六波羅門)を出て南に歩いて行くと道が上下に分岐している所にあります。 

この南明院の裏の墓地に回ると、秀吉の妹で徳川家康に嫁いだ朝日姫の墓が建っています。

 この墓は、上下で石の質が違うので、元は上部の五輪塔だけが地面に据えられていたものが、改修の際に下の台座が付け加えられたものと思われます。 

墓地を改修する場合、このように元の墓石を立派に見せるために台座が付け加えられる事はよくあるので、安土城にある信長の墓も、亀甲積の二重の台座部分は、天保年間の改修の時に付け加えられた物である可能性が指摘できます。

さて、その南明院を出て、分岐の下の道に入り住宅地の中を下って行くと、T字路に突き当たります。

 このT字路を左(東)に曲がり、最初の角を右に曲がって坂道を上ると、住宅案内の看板が道端に立っています。

この案内看板に書かれている藤原俊成卿墓所、というのが南明院の墓地で、この中に明兆さんのお墓もあります。 昔の記録には南明院南の山林の中にあると書かれているのですが、現在では完全に住宅地のまんなかのような場所にあります。

入口には案内の石碑が立っていますが、これが無かったら完全に民家の入口としか思えない場所です。

 
ここの路地を入ると、右側奥に石段があり、石段正面に塀に囲まれた一郭があり、
この場所が、南明院初代住職の業仲明紹と明兆の自然石墓と、
鎌倉初期の歌人、藤原俊成とその子孫の浄如尼の五輪塔のある場所です。

 
入口には、五条三位俊成卿、東福寺兆殿主墓地、の石碑が立っています。
 
下の写真、画面左の自然石が南明院開山、業仲明紹の墓で、
左上の自然石が、三門天井画をかいた明兆(兆殿主)の墓、
右側手前の大きい方の五輪塔が五条三位と呼ばれた藤原俊成の墓、
右端の小さい方の五輪塔が浄如尼の墓と伝えられています。
 
 
明兆さんの頃は自然石を墓にしていた南明院でも、時代が下ると普通の墓が欲しくなるようで、脇の墓地には卵塔が墓石として並んでいます。
 
 おもしろいのが、手前の卵塔はただの切石の台座に乗せただけなのに、だんだん台座が高くなって行き、台座にも装飾が付けられるようになっていく所です。 卵塔は無縫塔とも呼ばれ、語源である、縫い目がない石を追求していけば最終的には自然石になるので、この南明院の墓所は、最初の住職の墓所は純粋に自然石を墓石にしたものの、代が下るにしたがって、無縫塔と呼べる範囲内で少しでも立派な墓にしたい、という残された弟子の思いがあったのではないでしょうか?

この南明院墓地の墓石の進化の流れから考えれば、明兆さんのお墓も、墓石の分類で言えば卵塔の一種と言えないこともありません。

 天保年間に改修される以前の安土城にある信長の墓が、明兆さんの墓のように、低い簡単な台座の上に自然石が乗っている姿であった場合、墓石の分類名から言えば卵塔と記録されても不自然では無いので、 最初に作られた信長の墓は、現在の亀甲積の台座の上に乗せられている自然石が、低い簡単な台座の上に乗せられた、明兆さんの墓のような形態であったと考えられます。
 
 
 
 さて、残された問題は、中山道名所図会に画かれた五輪塔です、これは、簡単に言ってしまえば書き間違いと思われるのですが、どうして書き間違う事になったのか、次回は品川にあるお墓を訪ねてみたいと思います。
 

信長の墓1

2012-09-15 21:26:16 | 

安土城、伝二の丸跡にある信長の墓は、
亀甲積で作られた二段の台座の上に、
自然石がのせられているという、
変った形をしています。

この墓が現在の形になったのは、
伝二の丸の下に立っている
護国駄都塔の裏に彫られた文から、
天保年間(1830~1843)の
改修工事によってだと
考えられるのですが、

天保の改修以前の記録をみると、

文化二(1805)年発行の
木曽路名所図会の図では、
信長の墓は五輪塔として画かれていたり、



元文二(1737)年8/5の仁正寺大守代々登山記録では、
「天主卵塔 表坂百々橋迄 裏坂江藤道筋 掃除申付ル也」

というように、信長の墓は卵塔だと書かれています。

それぞれの記録をまともに信じると、
信長の墓は、
卵塔→五輪塔→自然石 
と三回形態が変えられたことになるのですが、

宗教的な考え方からいえば、
故人の身体と同じとされる墓石の形を、
改修の度に何度も変えるのは不自然ではないでしょうか?

と前から思っていた所、
二月に行った東福寺で丁度良い解決策を見つけたので、
次回は東福寺にあるお墓を紹介します。