摠見寺 復元案

安土城にある、摠見寺(そうけんじ)の復元案を作成する プロジェクト日記

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二階の窓から

2012-07-18 21:47:50 | 考察
木曽路名所図会の記事によると、見寺の二階は、
「閣上より見下せば湖水渺々として風色いちじるし」
というように、湖の眺めが楽しめたようです。

見寺本堂の位置から湖が眺められるのは、
西と北の方角になるのですが、

見寺境内絵図を見ると、本堂の西側には
梁行八間の庫裏が棟をずらす形で建てられています。

禅宗寺院の庫裏は屋根が高くそびえたつ特徴があり、
見寺文書の中でも、庫裏の二階の記事が書かれているので、
本堂より庫裏の方が2mほど地面が低い位置にあるとはいえ、

本堂二階の窓より庫裏の屋根の方が高い可能性が高く、
西側の窓の正面から湖を見る事ができないので、

湖の眺めが楽しめた見寺本堂二階の窓とは、
北側にある窓のことと考えられます。


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窓のない仏龕

2012-04-22 15:54:21 | 考察
フロイスの「日本史」(松田毅一訳)によると、

見寺の創建時に、二階に置かれた物について、

「神々の社には、通常、日本では神体と称する石がある。
 それは神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、
 信長は、予自らが神体である、と言っていた。
 しかし矛盾しないように、すなわち彼への礼拝が
 他の偶像へのそれに劣ることがないように、

 ある人物が、それにふさわしい
 盆山と称せられる一個の石を持参した際、
 彼は寺院の一番高所、すべての仏の上に、
 一種の安置所、ないし窓のない仏龕を作り、
 そこにその石を収納するように命じた。」

と書かれています。

この「窓のない仏龕」について、

秋田裕毅氏の「織田信長と安土城」P192の本の中では、

「この閣の部分は、見寺の一番高所、本尊の頭上、
 窓のない部屋となり、フロイスの記述と一致する。」

と書かれ、
二階部分は窓のない部屋になっていると解釈しているのですが、

木曽路名所図会の記事では、
「閣上より見下せば湖水渺々として風色いちじるし」

と書かれるように、閣からの眺めが記載されているのですから、
二階には窓があったと考えられ、
窓のない仏龕は、部屋の中に作られていたということになります。



そこで、「窓のない仏龕」の形態について考えてみると、
わざわざ「窓のない」と説明を付けて記述しているという事は、
フロイスにとっての仏龕とは、
窓のある状態が普通であると思っていた、ということになるのですが、

ヨーロッパの大聖堂の壁龕を考えてもらえればわかるのですが、
仏龕や壁龕というものは、本来壁の窪みの部分なので、
窓の付いている壁龕というものは、ほとんど例がありません。

ほとんど例のないものを、一般的なものだと考える人はいないので、
フロイスの言う仏龕の窓とは、通常言う所の「窓」では無いと考えられます。

それでは、何を窓と考えていたかというと、語源から考えれば、
そもそも「窓」というのは壁に開けた開口部の事なので、
壁龕の入口も、壁に開けられた一種の窓と言える事になります。

壁龕の入口が常に閉ざされて開けられることが無ければ、
それは「窓(開口部)のない仏龕」と表現するのにふさわしい状態ではないでしょうか。

また仏龕というからには、基本的な形状は、
壁に開けられた開口部であると考えられ、

以上の事から、見寺二階に作られた「窓のない仏龕」とは、
和歌山県にある善福院釈迦堂のような、
来迎壁に扉が付けられ、壁の後ろ側が廚子になっている状態であれば、
資料に書かれる条件を満たすことができます。


さらに、フロイスの日本史では、
信長は仏ではなく「予自らが神体である」と言っているので、
祭祀にあたって神道の方法で行った可能性が高く、

盆山は、信長をあらわす御神体として、通常の神社の御神体と同じように、
開けられることのない扉の奥に安置されていたと考えます。
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東福寺三門と泉涌寺舍利殿

2012-03-25 16:04:10 | 考察
2月に、亰の冬の旅で東福寺山門が特別公開されていたので見に行ってきました。

建物内では写真撮影禁止だったので、外観だけ。
二階の扉は中央部分のみ開けられ、二重の幕で覆われていたので、

内部の照明の明るさに慣れるまでは、細かい部分が良くわからない状態でした。


通常の寺院の山門は、梁のすぐ上に鏡天井が張られていて、
天井が低い感じがするのですが、

この東福寺山門は、大仏様の技法が使われていて、
二重の梁に、化粧屋根裏で垂木があらわれていて、
中央部分にのみ鏡天井が張られています。

と説明してもよくわからないと思うので、亰の冬の旅サイトから


室町時代の応永32(1425)年に、足利義持によって再建されたものです。


午後からは泉涌寺に、

泉涌寺の舎利殿は、慶長年間に建てられた内裏の御殿を移築し、
上層部を付け足したことにより重層に変えたもの、ということです。


泉涌寺は現在、真言宗泉涌寺派総本山となっていますが、
明治以前は、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場とされ、
創建当時から中心伽藍は禅宗風に作られていたので、

舎利殿も禅宗風にするために、内裏の御殿を移築した時に、
上層部を付け足して重層にしたものと思われます。



さて、見寺境内絵図にかかれた本堂ですが、

泉涌寺の舎利殿のように、二階部分はほとんど高さが無いようにかかれています。

また、木曽路名所図会の図においても、

見寺本堂の二階の窓に、人の姿らしきものがかかれていますが、
窓から覗いているのは胸から上だけで、
頭のすぐ上に窓枠がかかれている事から、
窓の高さは一尺五寸前後位の、高さの低いものであったと考えられます。



前回までの考察で、
見寺本堂は、大池寺(青蓮寺)から移築されたものと考えましたが、

大池寺は、鎌倉時代末期に東福寺開山、聖一国師の高弟によって、
天台宗から禅宗寺院に変わっているので、

もともと大池寺にあった中世密教本堂を禅宗仏殿風にするために、
泉涌寺の舎利殿のように上層を重層に改造してもおかしくはなく、

法系は東福寺のものなので、東福寺開山堂のような二階建てにする事もあり得る事で、
また、東福寺山門のように大仏様の技法を使って建てれば、
二階の外観は禅宗仏殿風に高さを低く取っていても、
室内の高さは、外観の見た目より天井を高めに確保でき、

また、窓枠から覗くのが胸から上という事は、
胸から下は窓枠より下にあるはずで、二階の床面は、
下層の屋根が上層に取り付く位置より、低い所にあると考えられます。



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大池寺の由来

2012-01-02 17:46:57 | 考察

大池寺甲賀市水口町にある大池寺の由来
---大池寺の碑文より---

「臨済宗 大池禅寺
当山は、天平年間に行基菩薩が開
創されたと伝えられている。潅漑用に
心字の池を掘り、その中央に寺を建
て、一刀三礼の作と称せられる丈六座
像の釈迦如来像を安置し、邯鄲山青蓮
寺と称して国泰安民の祈願所とされた。
 南北朝元亨の頃、京都東福寺開
山聖一国師の高弟 当山中興の祖であ
る無才智翁禅師によって、天台の寺院
を禅刹と改められ七堂伽藍も整備さ
れたという。大池寺庭園
 その後、天正五年の戦火により釈迦
丈六座像の仏像のみ焼失を免れ、これ
を寛文七年当山の再興開山である丈
巖慈航禅師によって仏殿(本堂)方
丈(書院)茶室(松濤庵)等が再
建された。尚 寺号も周囲の池に因み
龍護山大池寺と改められた。
大池寺蓬莱庭園は、江戸初期寛永
年間に小堀遠州作と伝えられる サツ
キ一式の大刈り込み 観賞式 枯山水
庭園である。」

拝観09:00~17:00(冬季~16:00)
大人¥400-中学生¥300-小学生¥200-

サツキの刈り込み庭園が有名で、サツキの咲く時期には観光バスも来るらしく、
バスも止められる広めの駐車場に車を止め、切通しを抜けると、
左右に池を従えた中に、山を背にしてお寺が建っています。

※庫裏の入口付近にも数台分の駐車場があるので、奥まで車で行ってもOK

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大池寺の由緒書きを見て不思議に思ったのが、
「天正5(1577)年に織田信長の兵火によって焼かれた」
と、されている点で、

甲賀地域と信長の戦いは、
永禄11(1568)年の信長上洛戦の時に、観音寺城から
六角義賢が甲賀へ逃げ延びた時に始まり、

元亀元(1570)年6月の野洲河原の戦い、
元亀2(1571)年の比叡山焼き打ちに伴う天台寺院焼き打ちなどを経て、
天正2(1574)年に石部城から六角義賢が信楽に逃れた事で、
甲賀地域の土豪が信長の配下に組み込まれるので、

天正5年になって、焼き討ちされるほどの抵抗ができるとは不自然です。

また、
大池寺には平安末期の感じのする丈六釈迦座像があるのですが、

池と山に囲まれている大池寺の境内に、
信長軍の兵士が攻め寄せて来た、と考えた場合、

七堂伽藍に火が放たれる事態にまで事が至れば、
もう逃げ場所は裏山しか無いのだが、
これほどの大きな丈六仏を持って山道を逃げるのは不可能に近いし、
池に沈めて難を避けたにしては仏像がほとんど傷んでいないので、

信長軍に攻められて七堂伽藍が焼かれたのに、
釈迦丈六座像のみ焼失を免れた、という寺伝はすこし不自然であり、

また、
甲賀地域の寺社で、焼き討ちにあったという言い伝えは、
ほぼ元亀年間に集中しており、天正5年というのは元亀5年の書き間違いでは…
と、一瞬思ったのだが、元亀は4年までしか無かった…!

ということでもう一度、甲賀郡志を読んでみると、

甲賀郡志の大池寺の記事では、石碑の表記と少しニュアンスが違っていて、
「天正五年兵災に罹り」(甲賀郡志下P803)、と書かれていました。

兵災というのは、兵士による災いの事なので、
火事でなくても使える表記で、

安土城の建設は天正4(1576)年から始まるので、
天正5(1577)年に、見寺用の建物が徴発されても不自然ではなく、
以前の考察から、
見寺の本尊は一字金輪仏頂尊(2008-12-01| 資料)
と考えられるので、
平安期の丈六の釈迦は、信長にとって不用の仏像であり、

大池寺に伝わる天正5年の兵災とは、
信長軍によって伽藍の建物が持ち去られた事なのではないでしょうか。



大池寺に伝わる釈迦丈六座像や寺伝から考えて、大池寺は、
平安時代末期頃に丈六仏が作られる規模の寺院として存在し、
鎌倉末期頃に禅宗寺院となった事がわかります。


これまでの見寺本堂の考察で、見寺の前身寺院は、

三間堂として作られたものが、
平安末期~鎌倉期に五間堂に拡大され、
室町時代に二重仏殿に改造される、と考えられ、

禅宗の建築の類例を見ると、鎌倉期の建長寺指図では、
法堂の二階に千仏閣と書かれているので、

天台宗の本堂である単層の密教本堂を、
禅宗の仏殿に変えようと思った場合、

鎌倉~室町時代頃であれば、
密教本堂の上に二階を増築する事は、
十分あり得るのではないかと考えられ、

以上の事から、
見寺本堂は、大池寺(青蓮寺)から移築されたものと考察します。






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甲賀周辺の本堂や一枝寸法の時代傾向

2011-08-21 19:47:22 | 考察
これまでの考察で、見寺本堂の前身寺院は、

三間堂を五間堂に拡張されたもので、
一枝寸法は、0.6666尺 と推測しました。


甲賀周辺の中世密教本堂の例をみると、

長寿寺・円光寺・西明寺前身堂が鎌倉時代、
桑実寺が南北朝時代に作られた五間堂であり、

西明寺本堂の七間堂への改装が南北朝時代、
金剛輪寺・善水寺・常楽寺・園城寺金堂、
長命寺・浄厳院などが室町時代の七間堂という傾向からして、

甲賀周辺地域の中世密教本堂は、
鎌倉時代の標準が五間堂で、
室町時代になると七間堂が標準に変わったことが、
残された遺構の例から読み取れます。


また、
一枝寸法が、0.6666尺の例をみると、

平安末期の中尊寺金色堂から、鎌倉時代の
大報恩寺本堂・大善寺本堂・鑁阿寺本堂・
室生寺本堂(灌頂堂)など、
建立年代が、ほぼ鎌倉時代にかたよっています。


この例からすると、
見寺の前身寺院が五間堂に改造されたのは、
鎌倉時代ではないかと推測でき、
信長が移築したくなるには、
すこし時代が古すぎるような感じがしますが、


見寺三重塔の例をみると、
前身の長寿寺三重塔が竣工したのが、
安土城建設より百年以上前の享徳三(1454)年で、
これだけなら、信長の移築時にも、
だいぶ古い感じがしたと思うのですが、

長寿寺の三重塔は天文二十四(1555)年に、
西縁が壊れたのを修理しているので、
この時に全体の補修を行ったとすれば、
安土城建設の約二十年前のことで、

建築年代はたいして違わないのに、
常楽寺ではなく、長寿寺の三重塔が持ち去られたのは、
この時の修理で見た目が新しくなったことが原因と思われます。



この三重塔の例のように、
見寺本堂の前身寺院も室町時代に補修工事を受けて、
見た目が新しかったので移築されたと思われます。


と、
ここで疑問に思ったのが、発掘調査報告書では、
見寺の本堂は、もともと一重だったものを、
移築の際に二階部分を増築したものと推測しており、
見寺コンペの参加チームもその前提で計画していたのですが、


江戸時代に建てられた甲賀市水口にある大岡寺(だいこうじ)本堂は、


寄棟屋根の二重の本堂なので、

見寺前身本堂も、
移築の際に二階部分を増築されたのではなく、
もともと甲賀に建っていた時に二階部分を増築された物を、
信長が気に入って見寺に持ち去り、

甲賀地域には二重仏殿の記憶が残っていたので、
江戸時代に二重の本堂が建てられた可能性は否定できません。

それに、この大岡寺本堂、寄棟屋根以外にも、
柱の上にのみ組み物を置く所や、木鼻の形、
降り棟の取り付き部分より、少し下まで柱が見える所など、



見寺絵図に見える見寺本堂によく似ているので、
同じ系統の大工が作った可能性は十分に考えられます。



ということで、見寺本堂の前身寺院は、

甲賀地域において、三間堂として創建されたものが、
鎌倉時代に五間堂に拡大され、
さらに室町時代に二重仏殿に増築改装されたものが、
信長によって安土城へ移築されたと推測できますが、

ちょうど良さそうな例がありましたので、
次回は、見寺前身寺院と考えられる、
甲賀市の寺院について紹介します。




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一枝寸法の再考

2011-07-26 22:35:38 | 考察
寛政三年の「境内坪数並建物明細書」によると、
見寺本堂の屋根は出組と書かれています。

「匠明」の木割では、
出組の軒の出は地垂木の出7支、飛檐垂木5支となっていて、
垂木本数でいうと丸桁から地垂木6本、飛檐垂木5本で
軒を構成することになっています。

実際の類例を見ても、出組の五間堂の場合、
地垂木6本、飛檐垂木5本が一般的のようなので、

見寺の軒も、地垂木6本、飛檐垂木5本で構成すると考えると、

一枝寸法0.66666尺の時に、柱真から茅負まで9.33尺、
室町時代頃の瓦屋根の場合、裏甲の出がそれほど大きくはないので、
瓦の先端まで10尺程度とみることができ、
ちょうど瓦敷遺構に雨を落とすことが可能になります。


ということで、
見寺本堂の一枝寸法は、2008-09-28の考察で一度捨てた方の、

正面中央間の8尺を12支で割った、0.6666尺と考えます。


ちなみに2008年頃は遺構尺は1.005尺と考えていたのですが、
滋賀県の類例で、長命寺本堂の0.9990尺や石津寺本堂の0.9944尺のように
現行の一尺より短いものもあり、礎石の測量図上では誤差の範囲とも取れるので、

厳密にいえば同じはずはないのですが、

遺構尺一尺は現行の一尺寸法と同じ303mmとして計画します。






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本堂一階、軒の出に関して

2011-07-18 15:10:33 | 考察
「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」によると、P17

建物8(書院跡)の入口に当たるL字型の花崗岩切石の前面に、
南北方向に向かって伸びる瓦敷きの遺構があり、
建物8(書院)への導入路になっている。

と、されているのですが、



寛政三年の「境内坪数並建物明細書」には、

書院には式台があって、入口には明き五尺一寸の玄関門が建っている、

とされているので、

正式な導入路は、玄関門と式台を結ぶ中軸線にあるはずで、
発掘された瓦敷き遺構は、たとえ導入路だとしても、
門脇の潜り戸と、式台脇の通用口を結ぶ動線にしかなりません、

普通、導入路を作る場合、まず先に中央通路部分を作るのが常識であり、
中央通路には何もなく、脇の通用口だけに敷瓦の導入路が作られるのは非常識だ!



と思っていた所、2008年刊行の「特別史跡安土城跡発掘調査報告書1」
では、すこし表現が違っていた。


P87[瓦敷き遺構]
建物8の入口にあたるとみられるL字型に配した花崗岩切石の前面に南北方向に通路に向って延びる遺構である。L字状切石の前面には約1.5m四方の平瓦と軒丸瓦を平置きして敷き詰めたスペースがあり、これより南へ幅約40㎝長さ4mに亘り平瓦を菱形に飛び石状に配し、その間を軒丸瓦・軒平瓦の瓦当文様を見せるように埋め込み隙間に平瓦の木口面が見えるように差し込んで比較的に意匠をこらした通路としている。



L字状切石が建物入口の石敷きだとすると、
さらにその前面に約1.5m四方の瓦敷スペースがあるのは変なのですが、


延享二年改書の「遠景山見禅寺校割帳」の中にこんな部分がありました。

一、水溜大桶 内壱ヶハ庫理之用 壱ヶハ風呂屋之用 弐箇
一、用水溜桶 小手桶十五ヶ有  壱箇



二つの大桶が、境内東側の風呂屋と、境内西側の庫裏にあるのだから、
場所が書いて無くても、手桶が付属する残り一つの用水桶は本堂の消火用と考えられ、

付属する手桶十五ヶは、用水桶の上に五段に積み上げられていたと考えられます。


標準サイズの7~8寸の手桶を五つ横に並べると横幅が105㎝~120㎝になり、
積み上げる時には普通、間に一~二寸ほどの隙間が出来るので、
積み上げた手桶の横幅は、120㎝~150㎝と考えられ、
このサイズがほぼ用水桶の横幅と同じになるはずなので、

用水溜桶は、発掘された約1.5m四方の瓦敷スペースにちょうどぴったり納まることから、

この瓦敷きスペースは、防火用の用水溜桶が置かれていた場所であると考えられます。


また、見寺の書院と本堂は非常に近接しているので、
樋がなければ、雨の日に本堂の縁側が水浸しになってしまうので、
本堂と書院の接合部には雨樋が渡してあったはずで、
天水桶を設置するには、ちょうど良い場所ではないかと思われます。



残りの、南北方向に向かって伸びる瓦敷きの遺構についてですが、
見寺三重塔周辺には、このような石敷きがされています。



この石敷きは、一見通路のようにも見えるものの、
塔の周りを廻る通路ではなく、常識的にいって三重塔の雨垂れ受けなので、

書院前の瓦敷き遺構も、

門脇の潜り木戸と通用口を結ぶ通路ではなく、
本堂の雨垂れ受けであると考えます。



瓦敷き遺構が本堂の雨垂れ受けだとすると、
本堂の軒の出は、本堂端に置かれた礎石の中心から
瓦敷き遺構の中心まで、約3mもあることになります。


出組の五間堂で3mの軒の出というのは、標準より長めなので、

2008-09-28の考察、一支寸法は174mm 0.5714尺では納りません、



ということで、次回はまた支割についてみて行きます。

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三間堂を五間堂に増築

2011-07-10 12:15:48 | 考察
昭和49年発行の「滋賀県史跡調査報告11」の中に、
見寺本堂跡の実測図があり、

その図では、本堂梁行中央間は、
内陣梁間にあわせて外側の柱間も9.25尺になっています。


この柱間寸法の復元数値は、
「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」の、
まとめの部分でも踏襲されているので、

「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」P86
「側柱の柱間を桁行・梁行とも8尺等間にとっていること、」

という文は、単なる書き間違いであると考えられ、


見寺本堂の柱間は、桁行が八尺等間で、
梁行が変則の柱間であると考えられるのですが、

通常の五間堂は、桁行方向は中央間が広いか、脇間が狭いかのどちらかで、
等間というのは、ほとんど例がありません。

この、
非常に珍しい平面がどうして出来上がったのかと考えると・・・。



 滋賀県・湖東三山の西明寺本堂は、桁行が七間ある七間堂なのですが、
通常の七間堂より、軒高が低くて落ち着いた印象があります。

これは、鎌倉時代に建てられた五間堂の柱・組物をそのまま再利用して
改造したためで、軒高は五間堂の平均的な高さのまま拡大されたので、
西明寺本堂は、七間堂としての標準的なプロポーションをもっていません。


見寺の前身寺院が、増築によって作られたものと考えれば、
桁行と梁行の柱間の矛盾が説明できるのではないでしょうか。


つまり、初めに海龍王寺や海住山寺文珠堂のような三間堂があって、
それを増築して五間堂になったと考えれば、

海住山寺文珠堂は、桁行が8尺3間で梁間が7尺2間、
海龍王寺西金堂は、桁行が10尺3間で梁間が10尺2間、
海龍王寺経蔵は、 桁行が8尺3間で梁間が8.7尺2間

という例からして、三間堂の桁行は等間が原則であり、また、
見寺の内陣部分の、桁行が8尺3間で梁間が9.25尺2間という寸法は、
三間堂としても問題ない寸法だと考えれられ、

この三間堂を増築して、五間堂に拡大しようとすると、
中央の桁行三間部分は、必ず八尺等間になり、
通常の五間堂のように桁行を変化させようとすると、
両端の脇間を狭くするしかなくなるのだが、

八尺等間にした場合の、桁行合計40尺というサイズでも、
五間堂としては小さ目であり、
三間堂を増築して五間堂にするという制約のために、
桁行八尺等間になったと思われます。



梁行に関しては、桁行八尺等間なら外陣部分の梁間も八尺二間となり、
その後ろに内陣9.25尺二間が納まり、

鎌倉~南北朝時代の五間堂にいくつか例のある、
桁行より梁行が少しだけ長い、ほぼ正方形平面にするために、
梁行中央間を内陳梁間にあわせ、残りの側柱二間は
柱間をすこしずつ低減させて納めれば、

発掘された礎石配置のような平面になります。


ということで、

見寺本堂の前身寺院は、
三間堂をもとにして、五間堂に増築されたものと考えます。



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八尺等間???

2011-06-20 20:50:20 | 考察
2010.05.06の記事から、本堂の考察が止まっていましたが、

やっと、条件をみたす構成にたどりついたので、少しづつですが進めていきます。



さて、

安土城跡発掘調査報告6、によると、

見寺(そうけんじ)本堂は

P86「側柱の柱間を桁行・梁行とも八尺等間にとっている」 とされていて、

前の見寺コンペの参加チームも、すべて八尺等間で復元案を作成していましたが、

調査報告書の図に、八尺等間の格子をのせてみると……




外陣は八尺等間なのですが、

内陣の両側にあたる部分の側柱は、どうみても八尺等間ではありません。

このプランでは、右側の柱はかろうじて礎石に乗せられますが、

左側は、そもそも礎石に乗せられないのだから、絶対に八尺等間のハズがない!





ということで、

見寺本堂の柱間は、桁行が八尺等間で、

梁行が変則の柱間であると考えられるのですが、

通常の五間堂は、桁行方向は中央間が広いか、脇間が狭いかのどちらかで、

等間というのは、ほとんど例がありません。



安土城跡発掘調査報告6で、側柱が等間の例に挙げている、

P87「山形県・黄金堂、栃木県・地藏院本堂等」などは、

すべての柱間が等間なので、等間にした理由は、

手抜き工事工程の省力化、によるものと思われますが、

見寺本堂では、側面の梁行の柱間を変えていたり、桁行も、

正面に三つ並ぶ扉の幅を変化させて、単調に見えないように工夫されているので、

桁行が等間なのは、何か別の理由があると考えられます。




この、

梁間は変化させているのに、桁行を等間にしなければならない理由、を考えると、

安土城跡発掘調査報告6・P86の

「来迎柱を後退させ内陣を広くとるところは新しい傾向を示しているが、」 

という結論とは、全く違った本堂の履歴が考えられるようになり、

「新しい傾向」と考えなくて良ければ、簡単に辻褄が合うではないか!



ということで、続きはまた近いうちに・・・・・  来月になるかも。




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初期の摠見寺住職

2009-01-12 21:46:39 | 考察

最近の?学説では、摠見寺の歴代住職は

実際の開山が尭照、
公式の開山が正仲、
正仲死後に 玉甫、
その後 圓光寺学校、

という事になっているが、
正仲死後に住職になった玉甫は、織田系譜によると天正19年10/24に死亡、
玉甫の息子の正仲は、慶長16年1/8に死亡(舊記寫)で、年代が矛盾している。

「織田信長と安土城」の作者秋田裕毅氏は、正仲の死を天正16年の誤記と考え、
死亡年代が前後する矛盾を解決しているが、

摠見寺が江戸時代における寺の基本構成を作ったのは、天正20年の秀吉の土地寄進から、
慶長9年に行われた書院・庫裏・鎮守社・三重塔の修理によってなので、
慶長16年に圓光寺学校宛に文書が書かれるまで、無住であった寺に、
これほどの整備や寄進がされるのは非常におかしいので、

摠見寺の整備状況から見れば、正仲の死は記録通り慶長16年であると考えられる。

玉甫(織田信安)の死亡年については、天正19と慶長19の二説があるらしいのだが、
信安の息子が、信長の家督相続争いの時に、
同じく相続争いで親の信安を追い出していることから、
年齢は信長より一世代上であるはずで、天正19頃には70以上にはなってるだろうから、
玉甫が慶長16~19に見寺の住職を務めるというのは、ちょっと無理がある。

住職の年代が矛盾する原因は、「記録写」にある、
正仲死後に俗入道といえども玉甫が住職として・・・
という部分にあり、この「記録写」の原本に、
開山上人の死後玉甫が住職として・・・ と書かれていたと考えれば、
住職の年代が矛盾する問題が解決します。

なぜなら、実際の開山は尭照であり、公式の開山は正仲なので、
尭照の死後に玉甫が住職になったとすれば、
元記録の筆者は、開山上人=尭照と思って書いていても、
江戸時代の人は、開山上人=正仲だと思うはずで、

開山上人の死後玉甫が住職として・・・と書かれた元の記録を、
親切に、正仲の死後玉甫が住職として・・・と書き換えてもおかしくありません。


ということで、初期の摠見寺住職は、
通説とは、正仲と玉甫が入れ替わって、

創建から天正14年まで尭照、
天正14年の尭照死後、天正19年まで玉甫、
天正19年の玉甫死去から慶長16まで正仲、
慶長16年の正仲死去以降、圓光寺学校、

であると考えられます。

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