摠見寺 復元案

安土城にある、摠見寺(そうけんじ)の復元案を作成する プロジェクト日記

信長150回忌法要その2

2009-05-08 22:27:59 | 資料
享保16(1731)年の信長150回忌法要について、
記録の動きから式次第を作ってみました。
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6/2 朝7:00 大鐘

--☆拈香法語☆-- 導師服装 伝法衣
殿鐘三会大衆上殿
導師拝請
七下鐘導師入堂
拈香師拝請
晋同三拝
拈香法語
拈香師退場
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対真小參の準備

--☆対真小參☆-- 導師服装 伝法衣
殿鐘三会
導師拝請
七下鐘導師入堂
小參師拝請
侍者問訊
両序問訊
侍者請法香
垂語
問答
提綱
小參師退場
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--☆諷経 行道☆-- 導師服装 九條袈裟
殿鐘三会
導師拝請
七下鐘導師入堂
宣疏跪炉
啓請
甘露門
行道
回向
散堂
--☆お斎☆-- 導師服装 布衣
喫斎(昼食)
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記録には無いものの、禅宗なので、どこかで
般若心經や大悲呪は唱えていたのではないかと・・・?

現代の一般的な法要は、
三番目の諷経と四番目のお斎のみだと思われますが、
信長150回忌の仏殿での法要は、全体が三部にわかれていて、
導師が何度も出入りを繰り返しています。

この、導師の行動ですが、仏殿東門から出入りし、
「殿後」つまり仏殿の裏側で着替えを行っています。
また、図によると仏殿東西の出入り口は、
南の角から少し北に離れた所で、東西対称の位置に作られています。

会場の形は、中央の須彌壇が北側に凹んだ配置になっていて、
通常の密教寺院の、内陣側に張り出すのとは逆の形式なので、
創建時からこの時までの150年の間に、
大規模な改修があったものと思われます。

信長150回忌法要

2009-05-07 23:46:28 | 資料
見寺殿一百五十年諱法會當日式

六月二日、辰の刻、
一番大鐘(だいしょう)、大衆(だいしゅ)衣を整う。
二番殿鐘(でんしょう)、大衆出頭。

衆集いて殿鐘を上げむ[と]、
両序(りょうじょ)立班(りつはん)、大衆同じく立つ。

拈香(ねんこう)和尚に告報(こくほう)す、
和尚、侍衣(じえ)侍香(じこう)聴呼(ちょうこ)を相(あい)随(したが)え、
出でて東門より仏殿に入り、東邊(へん)の椅子に坐(ざ)す。
侍衣・侍香・聴呼・齋(いつ)く[と]、和尚の後ろに侍(じ)す。

維那(いな)宗諄首座、位を離れ出でて拈香和尚に問訊(もんじん)し、
拈香の佛事を請(しょう)す也(なり)。宗諄首座、位に歸(かえ)る。

和尚中央に進み、侍衣、東序(とうじょ)の後に立つ、
侍香、和尚の後ろに侍す。
和尚、普同問訊(ふどうもんじん)す、侍香瓣香(べんこう)を捧(ささ)ぐ。

[和尚が拈香法語(ねんこうほうご)を唱える]

和尚、語を唱(とな)え了(おわり)て、牌前に進み香を炷(た)き、
中央に歸(かえ)りて問訊す。
身を轉(まろ)め、亦東門自(より)出でて、殿後に入る。


大衆、坐(とど)め休(きゅう)す。
行者(あんじゃ)、[殿]南に、對靈(たいれい)して
北面に陞座(しんぞ)の坐を設(もう)く。
椅子の後(うしろ)べに柱杖(しゅじょう)を靠(か)く、
左に大卓(だいたく)を設く、
上に香爐(こうろ)大香合(だいこうごう)拂子(ほっす)を安ず。
坐を設け了(おわ)る。


両序、位を轉(まろ)め立班、大衆同じく立つ。
和尚に告報(こくほう)、東門自(より)入りて東邊の椅子に坐す。
侍衣・侍香等前の如く。

維那、宗諄首座、位を離れ出でて和尚に問訊し、
是(こ)れ、陞座(しんぞ)を請する也。

和尚、位を離れ出でて南邊の椅子に坐す、
侍香、東序の後に立つ、侍衣・侍香、椅子の前に出でて問訊す。
次に西序次に東序、各位、問訊了る。

侍香、卓に進み請法(しょうほう)の香を炷(ちゅう)す、
身を轉(まろ)め、和尚に問訊し、拂子を進む。

和尚、拂[子]を拈じて垂語(すいご)。
禪客(ぜんかく)出陣して、問答す。
和尚、法語(ほうご)了りて下座(げざ)、

亦、殿後に入りて[伝]法衣を脱(あらた?)め、九條[袈裟]に換う。


両序立班、大衆同じく立つ。
和尚に告報(こくほう)、和尚出でて、中央に進み燒香、
行者(あんじゃ)磬(けい)を鳴らし、維那、啓請(けいしょう)を挙(こ)す。

和尚中央に立ち、維那、南無薩[婆]胆多(なむさぼたた)を挙(きょ)し、
和尚西序に問訊し、直ちに行道(ぎょうどう)、
次に大衆、次に東序、五段の大衆、歸位(きい)、両庵[班]立班、

和尚、燒香如常(にょじょう)、囘向(えこう)了(おわ)る。

和尚、亦、殿後に入りて、道具衣(どうぐえ)を脱ぎ、布衣(ほい)に換え、
書院に就(つ)き于(て)、叉手(さしゅ)着座(ちゃくざ)喫齋(きっさい)。

見寺の扁額 その2

2009-02-02 22:02:12 | 資料

12月の記事見寺の扁額 その1 の続編。

見寺には、江戸時代の校割帳に載っていない扁額があって、
それが、写真上記の、額面に「扶桑第一山」と書かれた物です。

この扁額は形状から言って、
楼門に懸けられていたものと推測でき、また
現存するのに校割帳に書かれていないということは、
人の立ち入らない楼門内に保管され、忘れ去られていたと考えられます。

江戸時代の校割帳では、楼門には写真下の、建部伝内筆、
「遠景山 下漫々 捴見寺」("そう"は手偏に総の旁)
の扁額が掛かっていたとされているので、
もともと掛けられていた「扶桑第一山」を外して、
「遠景山・・・」の扁額に変えられたわけで、

さらに、建部伝内は信長の時代の人なので、
「遠景山・・・」の扁額は信長の時代に作られたもので、
見寺の創建時には、楼門以外の建物に
掛けられていたということになります。

では、楼門以外の建物というと、一般的に言って、
表門か本堂のどちらかになるのですが、
本堂の「圓通閣」の額が、江戸時代に作られたもので、
「遠景山・・・」の額を「圓通閣」に変えた可能性が高く、

見寺の創建時の扁額は、
楼門に「扶桑第一山」
本堂に「遠景山 下漫々 捴見寺」
が、掛けられていたと考えます。


木魚が無い!!!

2009-01-28 22:23:33 | 資料
現在本堂の内部構造を考察中で、
見寺文書の中の「遠景山見禅寺校割帳」などにより、
本堂内部に置かれた物を調べているのだが、

それによると、江戸時代(1745年)の見寺本堂には、

木魚が無い!!!

磬と鈴(この読みは"りん"だと思われる、別名磬子)はあるのに、
お寺の本堂に、当然あるべきはずの木魚が無いのはおかしい、

と思って調べてみたら、

木魚は黄檗宗の隱元が日本に持ち込んで、
黄檗宗経由で日本に広まったとか、

ということは、現在当たり前のようにお寺で叩いている木魚は、
少なくとも江戸時代中期以降、
場合によっては明治になってから常識化したもので、
それ以前は使われていなかったようだ。

ということは、よく戦国時代のドラマで
木魚を叩いている法要シーンは"嘘"だったわけで・・・、

なにかすごく騙されていた気分なので、今日はこの辺で・・・・。

圓光寺学校

2009-01-13 21:56:15 | 資料
見寺の事実上の四代目住職は“圓光寺学校”とされているが、
これってどう見ても組織名であって、
個人名ではないのではないかと思われるので、ネットで調べてみた。


>圓光寺学校
>慶長6(1601)年に徳川家康が、足利学校第9代目学頭の
>三要元佶(さんようげんきつ)(天文17(1548)-慶長17(1612)5/20)
>を招いて伏見に開いた学問所。 僧俗を問わず入学を許し、
>孔子家語(こうしけご)貞観政要(じょうかんせいよう)などの漢籍を刊行した。
>このときの書物は伏見版、圓光寺版と呼ばれ、現在も圓光寺には
>我が国最古の木製活版52,320個が残されており、重要文化財になっている。
>三要元佶の死後、圓光寺は相国寺に場所を移し、
>更に寛文7(1667)年に現在地の一乗寺に移転して今日に至る。


やはり“圓光寺学校”は組織名のようだが、組織の代表者クラスになると、
個人でも組織名で呼ばれる事が現在でもあるわけで。

見寺の正仲剛可は元相国寺の僧であり、
圓光寺は三要元佶の死後、相国寺に場所を移転しているので、
圓光寺の二代目住職は、相国寺と深い繋がりがあると考えられ、
正仲剛可と圓光寺の二代目住職とは、相国寺の関係でつながっている事になります。

また、圓光寺開山の三要元佶は慶長17(1612)に死亡していて、
「正仲剛可置文」の書かれた慶長16(1611)は死の前年にあたるので、
「正仲剛可置文」の書かれた頃には、圓光寺の事実上の責任者は
二代目住職に移っていた可能性もあり、

"圓光寺学校"とは、元相国寺僧の圓光寺二代目住職の事だと考えられます。



と、勝手に推測しましたが、
圓光寺の関係者に関する資料をもう少し調べてみないと、
はっきりした事は解らないので、その辺は今後の課題ということで・・・。

見寺の扁額  その1

2008-12-15 22:01:12 | 資料
「安土山見禅寺舊記寫」によると、

佛殿二階の閣には「円通閣」の額一面が掛けられていたとある。

円通とは、観音の別名である、円通大士によるものなので、
本堂二階に本尊として観音が安置された事により、
「円通閣」の扁額が掛けられたものと考えられる。

そして、この扁額の文字については、「小嶌宗心筆」とあり、
こじまそうしん、とは江戸初期の能書家で本阿弥光悦の弟子の
小島宗真(1580~1655?)のことであると考えられ、

小島宗真筆ということは、この扁額は、見寺中興とされる、
愚門宗哲座元(住持:寛永十六1639~貞享三1686)の時代に作られた可能性が高く、

観音像が二階へ遷座したのは、正仲剛可の時ではなく、
愚門宗哲の時だった可能性も考えられる。

もっとも、扁額と本尊の遷座は同期していなければならない、
という訳では必ずしもないが、少なくとも愚門宗哲の時までには、
本尊の観音像は二階に遷座していた事にはなる。

さて、それでは、「円通閣」の前には、
どんな扁額が掛かっていたのかというと・・・・。



ちょっと資料が足りないので、
見寺の扁額その2 は、2月以降に続く予定(^^)/~~

一字金輪仏頂尊

2008-12-01 21:49:19 | 資料
11/22に見寺コンペに行ったついでに、
安土町の図書館で資料のコピーを取ってきました。

コンペが終わってからだったので、5時過ぎから6時の閉館まで、
大量のコピーに対応していただいた図書館の方、ありがとうございました(^^)。

で、見寺文書を見てみると、
松茸を贈った記録なんて、わざわざ取っておかなくても……

というのは別の話。

寛文四辰八月九日の「捴見寺校割納所方江預置覚帳」の中の
佛壇の記事の中に、

一、文珠普賢像 付獅子白象  弐体

というのがありました。
前に書いた8/4日の記事では、裏付け資料が無い状態で考察していたのですが、

この資料により、見寺本尊の脇侍は、ただの文珠普賢像では無く、
騎獅子文珠・騎象普賢だった事が記録から裏付けられ、
釈迦如来がいない状態で、騎獅子文珠・騎象普賢がいる事から、

見寺創建時の本尊は、後に三重塔に移され、大日如来と思われていた

一字金輪仏頂尊 (大日金輪) であったと確定して良いと思われます。


表四足門

2008-11-18 22:46:52 | 資料
二週間も垂木支割りの計算を続けてると、いいかげん飽きてくるので?
今日はちょっと簡単な考察を・・・(^^)


見寺の表門は、記録によると表四足門との事で、

発掘調査報告書の復元案にも、
四足門の平面図で復元図が書かれています。

ところが、発掘した礎石の配置図を見ると、
あきらかに、薬医門の礎石配置だと思われます。

では、なぜ薬医門の礎石配置をしている表門の記録が、
四足門とされたのかというと・・・

大型の薬医門は、前面の軒の垂れ下がりを防ぐために、
修理時に、親柱の前に控柱を入れて支える事がよくあり、
見寺においても、江戸後期には控柱を入れて支えていた。

と、考えれば、たとえ構造が薬医門のものであっても、
親柱の前後に四本控柱が立っていれば、
柱の数から言えば、四足門には違いないので、

見寺の表門は本来、薬医門であり、
江戸時代の修理で、控柱が二本追加された物と考えられます。

類例発見

2008-10-22 23:43:29 | 資料
見寺本堂の礎石配置の平面は、
桁行きより梁行きが若干長く、来迎柱が四本後退していて、
中世密教本堂の五間堂としては類例が無いと思っていたのだが、
似たような例を発見した。

温泉寺本堂は、桁行き12.66m、梁行き12.85mで、来迎柱四本後退。
中山寺本堂も、桁行き13.15m、梁行き13.49mで、来迎柱四本後退。

先日出てきた、側面柱間逓減の方法が似ている、
明王院本堂の鎌倉時代建築を除けば、

地蔵院本堂も、鞆淵八幡大日堂も南北朝以降の建築なので、

見寺移築前の建物も、室町期の建築の可能性が高そうです。

中途半端な発掘調査?

2008-03-04 23:58:36 | 資料
先日から発掘調査報告書を読んでいるのだが、
意外と、調査されていない部分が多いのが気になる。

本堂の下層遺構の栗石の性格や、
天正期の遺物が含まれる土砂で造成された庫裏の下層遺構については、
トレンチ調査のみで発掘調査が終わってしまったので、これでは、
創建当時の見寺については、全く不明としか言いようが無いし、

それに、二王門や三重塔、米蔵、庫裏の敷地の張り出し部分については、調査してないではないか!

費用や時間が限られているから仕方が無いとはいえ、もう少し精細な調査をして欲しかったです。