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海と空

天は高く、海は深し

3月22日(金)のつぶやき

2013年03月23日 | Myenzklo

吉田松陰『東北遊日記』。 1852年嘉永5年2月閏廿四日 晴。本庄を発す。川あり。舟もて之れを済る。海浜に出で平沙を行き、道川に至りて午食す。是れ亀田候岩城伊予守領する所なり。本庄・道川の間に石脇・松崎の二駅あれども、海浜を行きしをもって経ず。道川を過ぐれば長浜あり、亦経ざりき。


塩越よりここに至るまで、本庄・亀田の二封地は皆四十八町を以て里と為すと云ふ。長村に至り海を離れて村に入る。是れより秋田の得する所に係る。新屋を経、舟もて御裳川を済る。川は雪水方に漲り、濶さ八町ばかり、渡処より川口に至るまで一里にして、大船泝りてここに至るべし。


久保田に宿す。是れ佐竹左京大夫二十万石の都城なり。行程十一里。久保田の地、最も斗出せるものを牡鹿と為し、二峯峙立せるを本山と為し、新山と為す。昨より之れを遠望して、二島と以為ひ、稍近づきて又一島と以為ひしに、長村に至りて初めて其の内地と連なれるを知りぬ。


土人云はく、「是の地五十三村、歳入二万石、港三、止賀・船川・船越と曰ふ」と。秋田の米価は三斗を以て苞と為すもの一貫七百銭なり。数日間、土人の往還する者を見るに、皆面を裏み頭を冒ひ、僅かに両目を露すのみ、比々皆然り、亦土風の笑ふべきものなり。


新潟よりここに至るまで、大抵海浜平沙、漫々浩々として行歩頗る困しむ。


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3月21日(木)のつぶやき

2013年03月22日 | Myenzklo

大正15年1926年4月26日(月)雨:雨 雷鳴り、雹降り、風暴れ凄い日であった。歯痛と疲労にて終日床に就いて休んだ。引き続き小問題にて悩まされる。然し乍ら我が心には大問題が横たわる。それは此の世の問題に非ず、人に関わる問題に非ず、神と宇宙と実在とに関わる問題である。#内村日記a


只斯かる問題について語る人なきを悲しむ。今の話題と云へば低いツマラナイ此の世の問題である。家計整理とか農村改良とか云ふのが其の最良の部分に属するのである。宗教問題と云へば会堂建築、教勢拡張位ゐが其の頂上である。「汝の住居は俗人の中に在り」である。願ふ今日と雖もソクラテス、b


プラトー、アリストテレス、カント、ヘーゲル、フィフィテ等と共に此の世の人等とは全然別の世界に棲息せんことを。#内村日記<<一日分の日記は平均ツィッター三個分くらいのようである。


昭和2年1927年12月7日(水)晴 札幌の孫へ長い手紙を書いた。後でグスタフ・クレーゲルGusutav Kreeger のインガーソル講演を読んだ。霊魂不滅論を哲学史的に述べた者である。教へらるゝところが多かった。哲学の目的は人の霊魂を教会の束縛より釈放つに在り #内村日記


との意見に全然同意せざるを得ない。教会を最善の物と思ふ位ゐ間違った考へはない。その点に於てブルノー、シャフツベリー候と全然同意である。哲学は教会の敵である。b#内村日記


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3月17日(日)のTW:#概念、#発展、#絶対者、#理念、#弁証法、#有機的生命

2013年03月18日 | Myenzklo

概念は手でつかめるものではないし、一般に概念を問題にするとき、眼や耳は用をなさないからである。にもかかわらず概念は、前にも述べたように、同時に絶対に具体的なものである。というのは、概念は有および本質を、したがってこれらの二つの領域の富全体を、観念的な統一において自己のうちに


含んでいるからである。・・・概念を単に形式的なものと考えて、内容と形式との対立を主張する態度について言えば、吾々はすでにこのような対立を、反省が固定するその他のあらゆる対立と同じく、弁証法的なものとして、すなわちそれ自身によって克服されたものとして、後にしてしまっているのである。


概念は形式と考えられないこともないが、しかし、その場合はそれはあらゆる豊かな内容を自己のうちに含み、また自己のうちから解放する、無限の、創造的な形式と考えなければならない。――――前に述べたように、論理的理念の諸段階は絶対者の定義と見ることができるのであるが、


そうすると今ここで吾々が見出す絶対者の定義は、絶対者は概念であるという定義である。・・・形式論理学でいう概念と思弁的論理学でいう概念との隔たりがどんなに大きかろうと、もっとよく吟味してみれば、概念という言葉のより深い意味は、一見そう見えるほど一般の用語に縁のないものではない。


吾々はある内容を概念から導き出すという。たとえば、財産にかんする諸法律を財産という概念から導き出すと言い、また逆にそうした内容を概念に還元するという。・・概念の運動はこれに反して発展である。他者への移行は有の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における


弁証法的過程である。概念の運動はこれに反して、発展である。発展はすでに潜在していたものを顕在させるにすぎない。自然においては、概念の段階に相当するものは、有機的生命である。かくして例えば、植物は胚から発展する。胚はそのうちにすでに植物全体を含んでいる。


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3月16日(土)のTW:#概念論、#絶対的観念論、#体系

2013年03月17日 | Myenzklo

第三部  概念論概念は独立的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして、概念はまた体系的な全体であって、概念のその諸モメントの各々は、概念がそうであるような全体をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。


したがって概念は自己のうちにありながら、即自かつ対自的に規定されているものである。【補遺】概念の立場は一般に絶対的観念論の立場であり、哲学は概念的認識である。というのは、哲学はその他の意識が存在するものとみ、またそのままで独立的なものと考えているものが、単に観念的なモメントに


すぎないことを知っているからである。悟性的論理学においては、概念は単なる思考の形式、あるいは一般的な表象と考えられている。概念は生命のない、空虚な、抽象的なものだという、感情や心情の側からしばしばなされる主張は、概念にかんするこうした低い理解にのみあたるのである。 s 121


実際においては事情はまさに逆であって、概念はむしろあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なものである。概念がそうしたものであるということは、これまでの論理的運動の全体の成果として明らかになっているのであるから、今さらここで証明するまでもないことである。


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3月14日(木)のTW:#時間、#永遠、#国家、#現在、#波多野精一

2013年03月15日 | Myenzklo

時と永遠の問題は古今を通じて哲学及び宗教の最も重大なる関心事に属する。それはまた最も困難なる問題の一つである。本書は旧著『宗教哲学』において展開されたる解決の試みに基づき、それを敷衍拡充を企図したものである。【波多野精一著『時と永遠』序】


国家が自給自足する体制が自立国家である証。小さな自給自足の単位を網の目のようにつなげて、分業体制や金融資本主義から離脱しよう、その後にそれを世界に広げて行こう、というのが目標です。あくまでも憲法の話はその手段でしかない。 wp.me/pKQj5-1eb

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「永遠」は種々の意味において時乃至時間性を超越乃至克服する何ものかと考えられ得るゆゑ、「時と永遠」の問題は種々の形において種々の観点よりして取り扱われうる。吾々は今これを宗教哲学の観点より取り扱はうと思ふ。波多野精一著『時と永遠』(s 5 )


「永遠」の観念が宗教においてはじめてそれの本来の力と深みと豊富さとを発揮し得ることによって実質的にも要求される。「永遠」は宗教に本来の郷土を有する観念である。このことによって「時」乃至「時間性」の取り扱い方も一定の方向を指し示される。(ibid s 5 )


※宗教のみならず、もちろん芸術においても、又哲学自身においても「時間と永遠」とは深く係わりをもつものである。だが確かに宗教においてこそ、この観念が深められ発達せしめられたのも事実だろう。私がここで学び取るべきことは、私にとっての「永遠」の概念を私自身に明確にしてゆくことにある。


※それによって、宗教や芸術や哲学やその他の一般的な事象についての私の視点を深め確立するためでもある。たとえば、「西行」の芸術の永遠性を問題にする場合にも、この「永遠」についての概念をどの程度の深さにおいて認識しているかによって、大いなる際を生じることになるだろう。


この波多野精一氏の『時と永遠』は氏の時間論であり永遠論である。時間と永遠の概念が、本書によって明らかにされている。本書に学ぶ意義は、それによって私自身の芸術論、哲学論、国家論、憲法論を深めてゆくためなのである。「国家と永遠」なども私が書かなければならない本である。


特に「永遠」の観念が宗教においてはじめてそれの本来の力と深みと豊富さとを発揮しうることによって実質的にも要求される。「永遠」は宗教に本来の郷土を有する観念である。このことによって「時」乃至「時間性」の取り扱い方も一定の方向性を指し示される。表象の内容をなすだけの又は単なる


客観的存在者としての理論的認識の対象をなすだけの永遠は、宗教においてはほとんど無用の長物である。このことに応じて、吾々の論及は時乃至時間性に関してもそれの特殊の形に重点を置かねばならぬであろう。これは時と永遠との相互の密なる連関よりして当然期待される事柄である。(ibid s5)


吾々は体験の世界に深く探り入って、吾々自らその中にあり又生きる「時」、すなわち生の「時間性」の本来の姿を見究めなければならぬ。二吾々は、主体は、「現在」において生きる。現に生きる即ち実在する主体にとっては「現在」と真実の存在とは同義語である。(ibid s 7 )


現在が延長をも内部的構造も欠く一点の点に過ぎぬならば、この帰結は避け難いであろう。点は存在する他の何ものかの限界としての意義しか有せず、しかもこの場合現在によって区画さるべき筈の「将来」も「過去」も実は存在せぬ以上、時は本質上全く虚無に等しくなければならぬであろう。a


しかしながらかくの如きは体験における時を無視して客観的時間のみを眼中に置く誤った態度より来る誤った結論に過ぎないのである。時を空間的に表象することは、客観的時間の場合には避け難き事であり、従って現在を点として表象する事も許される事、b


又特に時を数量的に取扱はうとする場合には避け難き事であらう。しかもかかる考え方の覇絆を脱すべく努めることが、時の真の理解に達しようとする者にとっては、何よりも肝要なる先決条件なのである。現在は決して単純なる点に等しきものではなく、一定の延長を有し又一定の内的構造を具えている。c


体験においては、時は一方現在に存するともいひ得るが、しかも他方において、その現在は過去と将来とを欠くべからざる契機として己のうちに包含する。現在は絶え間なく来たり絶え間なく去る。来るは「将来」よりであり、去るは「過去」へである。c


将に来たらんとするものが来たれば即ち存在に達すればそれは現在であるが、その現在は成立するや否や直ちに非存在へと過ぎ去り行く。この絶え間なき流動推移が時である。かくの如く将来も過去も現在を流動推移たらしめる契機としてそれのうちに内在する。d


ここでは生じるはいつも滅ぶるであり、来るはつねに去るである。動き生きるということが現在の、また従って時の、基本的な性格である。時のある限り流動は続き従って現在はいつも現在であるが、これを解して時そのものは不動の秩序乃至法則の如きものであり動くは単に内容のみと  d


考えるのは誤りである。内容に即して現在は絶えず更新されて行く。主体の生の充実・存在の所有として、現在は内容を離れて単独には成立ち得ない。むしろ内容に充ちた存在こそ現在なのである。内容と共に絶えず流れつついつも新たなのが現在である。(ibid s 8 )


 
 

 

 

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3月3日(日)のTW:#無、#場所、#西田幾多郎

2013年03月04日 | Myenzklo

RT @Nishida_Kitaro: 私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない。(「左右田博士に答う」)


春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に出で立つ少女         大伴家持(おおとものやかもち)         (万葉集・4139)フォレスタ - うれしいひなまつり: youtu.be/MhPe3AkjgKc @youtubeさんから


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2月26日(火)のつぶやき

2013年02月27日 | Myenzklo

この補償という面においては、損傷が破壊でありまた一般に回復できないものである場合には、がんらい損害の質的特殊性状の代わりに、損傷の普遍的性状、すなわち価値が取り上げられざるをえない。(ibid s 90 )ここで観念的にして普遍的かつ客観的な【価値】の概念が取り上げられている。


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2月25日(月)のつぶやき

2013年02月26日 | Myenzklo

§98単に外面的な定在あるいは占有に加えられた侵害は、何らかのあり方の所有もしくは財産に加えられた害悪であり、損害である。損傷としての侵害を廃棄することが民事上の補償、すなわち、一般に可能な限りの損害賠償である。


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2月12日(火)のつぶやき

2013年02月13日 | Myenzklo

だから(神は本質そのものだから)、神以外になお存在するようなものは、神から切り離されている。神から切り離されているということは本質を持たない、孤立したものであって、単なる仮象と見られなければならない。

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2月10日(日)のつぶやき

2013年02月11日 | Myenzklo

精神の内には、時間もなければ空間もない。"時間"、"空間"という観念があるばかりである。「精神と自然」

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私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない。(「左右田博士に答う」)

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1月28日(月)のつぶやき

2013年01月29日 | Myenzklo

第5節 三位一体と自由の国―――第三部のテキスト分析「第三部 完成された宗教」の課題は、キリスト教を「宗教の概念」の完全な実現として叙述することである。その中心をなすのは、神の概念を三一的な「精神の生」として展開することである。>><<山崎純『神と国家』(s 184 )


その中で、キリスト教の三位一体の教義が理性の言葉で思弁的に捉え直される。この思弁的な正当化の基本はすでに『精神現象学』でなされていた。(第一章第三節)そのために叙述に安定性がある。一、この構成の変化とその意味、二、三一論と自由論との関わり、三、講義を締めくくる講述の変化


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1月5日(土)のつぶやき

2013年01月06日 | Myenzklo

第三節 聖餐における対象性の克服ギリシャ的和合の完成という歴史哲学的論理に、対象性(主客二元性)の克服という意識論的論理が重なってくる。ヘーゲルがはじめて全面的に試みたキリスト教の思弁的正当化は、この両面から捉えられなければならない。山崎純『宗教と国家』(s41 )


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12月25日(火)のつぶやき

2012年12月26日 | Myenzklo

「私の心の宝は神の御言葉」と教化の目的はソプラノの美しいアリアで歌われ、最終章では、神の御言葉に依り頼む者の罪科も救われる希望を、重厚なコラールの歌... blog.goo.ne.jp/aseas/e/94d421…


今年もまた、送るべき人にクリスマスカードも送りきれなかった。それに代えてせめて、ここだけでもお祝いをお伝えして。メリークリスマス!来る年も良き一年で... blog.goo.ne.jp/aowls/e/e4cdd7…


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12月2日(日)のつぶやき

2012年12月03日 | Myenzklo
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12月1日(土)のTW:#占有、#物、#意志、#特殊、#平等、#不法

2012年12月02日 | Myenzklo

占有取得によって物は、私の物であるという述語をえ、意志は物に対して積極的な関係を持つ。物が私の意志とこのように同一の物となることにより、物はまたそれだけ消極的なものとして定立され、私の意志はこの規定によって、特殊的意志、すなわち欲求、気まま等となる。【法の哲学§59】


けれども、一個の意志の特殊性としての私の欲求は、自己を満足させる積極的な物であり、物はそれ自身において即自的に消極的なものとして、その欲求という積極的な物のために存し、かつそれに奉仕する。――――使用とは、物を変化せしめ、無くし消耗することによって、このように私の欲求が、a


実現されることであり、物の無自己的性質はこれによって明らかにされ、物はかくて使命を果たすのである。所有者の意志が第一の実体的な基礎であって、それによって物が彼の物となるのである。a


それから派生した規定が使用であり、使用は単に、かの所有者の意志という普遍的な基礎に従う現象および特殊的仕方に他ならない。(ibid s64 )


財の平等について:がんらい人間はもちろん平等であるが、しかし、それは単に人格として、すなわち、その占有の法源に関してである。この意味では各人は所有を有しなくてはならないだろう。したがって、もし我々が平等を云々しようとするならば、考察しなければならないのは、a


このような平等である。けれども、特殊性の規定、すなわち私がいかに多く占有するかの問題は、これ以外の領域に帰するのである。ここにおいて、正義は各人の所有の平等たるべきを要求する、という主張は誤りである。b


がんらい、このような主張は単に、各人は所有を有すべし、ということを要求するものに過ぎないからである。むしろ特殊性とは、まさに不平等の存するところであり、ここでは平等はかえって不法であろう。人間がしばしば他人の財を欲しがるということは、まったくその通りである。c


けれども、まさにこれは不法である。けだし法はどこまでも特殊性に対しては無関係なものだからである。§49h


けれどもこれはまさに不法である。けだし法はどこまでも特殊性にたいしては無関係なものだからである。§49この箇所の記述は、とくに左翼の、革命家の狂信的な平等化要求に対する反証となるだろう。


しかし、現実に何が平等か、個別具体的に決するのは難しい。どこまでが資本家の搾取と見なされるか、という問題につながって来る。


※しかし、現実に何が平等か、個別具体的に決することは難しい。どこまでが資本家の搾取と見なされるか、という問題につながって来る。どこからが盗みで、どこからが正当な勤労の報酬と見なされるべきか、それを実際に決定するの難しい。


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