海と空

天は高く、海は深し

荻の上風

2006年10月30日 | 仏教
 

季節の変わり目を深く実感する今日のような日は、西行の歌を思い出す。秋の紅葉や春の花に触れては、西行の歌を介して世界を眺めたくなる。芸術家ならぬ私には、私の感性を芸術に形象化する技量はない。

日本にも歌人や俳人は多くいるが、その生涯の思想と行動について深く知りたいと思う者は少ない。西行はその数少ない一人である。私の見た西行の伝記をいつか書いてみたいというのは、いまだなお見果てぬ夢である。


松尾芭蕉や与謝野蕪村にないものが西行にはあると思う。芭蕉などは、私にとっては漢意(カラゴコロ)が強く、また現世的で、永遠の余韻が弱い。西行は仏教の影響を深く刻した歌人であったからだと思う。仏教思想が西行の和歌を深くしている。彼の歌には仏教の形而上学がある。

西行もまた多くの花を題材に詠んでいる。桜はいうまでもなく、紅葉、藤、なでしこ、菊、おみなえし、萩、桔梗、橘などそれぞれの季節に西行の思いを添えて詠んでいる。荻もまた秋を象徴する植物である。西行が秋風にそよぐ竹と荻に題材に取った和歌。二首。
おそらくこのふたつの歌は、同時に詠まれたものだろう。

   山里へまかりて侍りけるに、竹の風の荻に
   紛えて聞こえければ

1146 竹の音も  荻吹く風の  少なきに  たぐえて聞けば
   やさしかりけり

ある山里に参りましたところ、秋風が強くもなく、竹林の葉ずれの音も、あたかも荻の上を吹く風のように錯覚するほど、やさしいものでした。

   世遁れて嵯峨に住みける人の許にまかりて、 
   後の世のこと怠らず勤むべき由、申して帰りけるに、
   竹の柱を立てたりけるを見て


1147 世々経とも  竹の柱の  一筋に  立てたるふしは
   変らざらなむ

出家して嵯峨野に住んでいる人の許を訪ねて、怠らず仏道修行に勤め励むことなどを語らって帰りましたが、その人がわび住まいをしている庵に、竹の柱を立てていたのを見たことを思い出して詠みました。

西行は親友が出家して嵯峨野に隠棲している庵をひとり訪ねてゆきます。秋も深まりつつあります。よく晴れた日も夕暮れて、しかも、風もほとんど吹くか吹かずです。いつもなら、竹林のこずえを吹き渡る風も凄まじいけれど、今日は荻の上を吹く風のように、やさしく柔らかい。竹林に差し込む秋の夕日が、友を思いつつ道行く西行のわびしさをなおいっそうつのらせます。

友だちは、嵯峨野の山里に粗末な竹の庵を結んで暮らしていました。久しぶりの再会に、いろいろ話もはずみましたが、お互いに西方浄土に救い取られることを願って出家した身の上、この世の執着も煩悩も強いけれど、互いに仏道修行を勤めようと励ましあって別れました。その帰途、友だちの庵にまっすぐな竹を柱に据えていたのを思い出して、次のような歌を詠んだことでした。

あなたのお住まいになる庵の、竹の柱がまっすぐ一筋に立っていたように、あなたが悟りをめざした仏道修行の志も、いついつまでも変らないでほしいものです。

こうした歌からも、西行などが生きた時代―――平安、鎌倉期――に、人々がどのような世界に生きていたかを垣間見ることができる。当時の人々にとって、生は決してこの世限りで終わるものではなく、むしろ、死後の生のために現世を生きていたことがよくわかる。

嵯峨野は今もいたるところに竹林におおわれている。秋も深まった頃に荻の花の上を吹き抜ける風は西行の当時と同じだろう。

今までに見たもっとも美しい荻野原は、遠州灘近くにあった公園の、池のほとりで、秋の風に荻の穂花がそよいでいた光景。

 2006年10月27日

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詩篇第八十四篇註解

2006年10月13日 | 詩篇註解


詩篇第八十四篇

ギティトの調べにのせて指揮者に。コラの子供たちの賛歌。

どんなに愛されていることか。あなたの幕屋は。万軍の主よ。
主の庭を慕って、私の心は絶え入るばかりです。
生ける神に向かって、私の身と心は喜び歌います。
あなたの祭壇の傍らに、
スズメが宿を見出し、
ツバメが巣を作って雛を育てるように、
万軍の主、私の王、私の神よ。
なんと幸せなことか。あなたの家に住まう人は。
あなたを賛美する彼らは、さらに。セラ
なんと幸せなことか。
あなたの中に力を得、あなたの道を心に見る者は。
涙の谷を過ぎるときも、そこを泉に変え、
初雨もまた祝福となる。
彼らは力強く歩き、シオンで神々の神を見る。
主よ、万軍の神よ、私の祈りを聴いてください。
耳を傾けてください。ヤコブの神よ。セラ
私たちの盾をご覧になり、
あなたが油注がれた者の顔を顧みてください。
まことに、あなたの家の中庭で過ごす一日は、ほかの千日にも優ります。
悪人の天幕に住まうよりは、
私の神の家の門口に立つことを選びます。
まことに、主なる神は太陽にして盾。
主は恵みと誉れをお与えになる。
まっすぐに歩む者に、良いものを拒まれない。
万軍の主よ、
なんと幸せなことか。あなたに信頼する人は。


第八十四篇註解       太陽にして盾

巡礼のときに歌われたらしい。
ギティトとはハープのような楽器らしく、ガトからダビデが持ってきたとも言われる。
主の宮に旅だつ巡礼者は、主の宮の中庭をあこがれ慕って身も心も絶え入るばかりである。主の住まわれる宮はそれほど人々から愛されている。
その憧れ切なさが募るほど、それはやがて生ける神への出会いを予感して歓喜に代わる。恋する者にこがれるように、巡礼者は切ない憧れを歌う。
スズメやツバメがそこに巣を造るように、巡礼者は主の宮にたどり着き、そこに宿り憩う。主の宮に宿る人は、まして、主を賛美する人はどんなに幸せなことか。なぜなら、彼らは主の中に力の源と巡礼で辿り行くべき平安の道とを心の中に見出しているから。

私たちの生涯も巡礼のようなものである。涙の谷もあれば、苦難の山もある。

しかし、主に信頼する者には、嘆きも苦しみもすべて歓びの泉に変わる。雨も恵みの雨となる。
彼らはますます力強く歩み、ついにシオンで神々の中の神にまみえる。そこで私たちの祈りの聴き入れられることを祈る。

第十節にある「私たちの盾」とか「あなたが油注がれた者」とは誰のことだろうか。巡礼者たちを導き上った指導者か、あるいはダビデのような民族の指導者のことかもしれない。キリスト・イエスと読むこともできる。父なる神が独り子キリスト・イエスを顧みられ、永遠にいとおしまれるように。

木立に囲まれた美しい主の宮の中庭で過ごす一日は、他の所で過ごす千日にも優る喜び。まして荒野の日照りに悪人たちと同じ天幕に住まうぐらいなら、主の家に門番に立っていた方がましである。

主は、大地の恵みの源である太陽と私たちの身を護る盾にたとえられる。
主は、正しくまっすぐな道を歩む者に限りない恵みと誉れをお与えになり、良きものを何一つ拒まれない。主に信頼するものは、なんと幸せなことか。

しかし、旧約の人々がこうして憧れ巡礼で訪れたエルサレムの神殿はすでにイエスの死後、予告どおりに崩壊して今はない。今日では「嘆きの壁」として一部が存在しているばかりである。昔の神殿の麗しい面影はない。
イエスは「この山でもエルサレムでもないところで礼拝するときが来る」(ヨハネ書4:21)と言われ、イエスの宿る、聖霊の宿る私たちの身体こそが神殿とされるようになった。(コリント前書6:19)

そして、人間の手によって造られた幕屋、神殿にではなく、イエスは天に昇られて、そこで永遠の祭司としての位に就かれたのである。

こうして地上の神殿は天上に上げられ、私たちは、この天にある神殿に向けて、地上の巡礼の旅を続けることになる。しかし、たとい、神殿の場所が地上のエルサレムから、天上のエルサレムに遷されたとしても、地上の巡礼者が主の宮の麗しさを憧れ慕う心は変わらない。

 


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