海と空

天は高く、海は深し

イザヤ書第24章を読む

2008年04月09日 | 日々の聖書

イザヤ書第24章を読む

聖書を読むことがあるとしても、そのときは日本語訳よりも英語訳などの外国語訳で読む場合が多い。今現在、聖書を読む場合に使っているのは、主として「和英対照聖書」である。その日本語訳は新共同訳であり、英語訳の方は GOOD  NEWS  BIBLE である。ネットで調べてみると,このテキストGood News Bible(Today's English Version)の翻訳はRobert G. Bratcherという人の翻訳であるらしい。日本の共同訳のように多数の学者による共同訳ではないようである。
(Good News Bible  http://www.bible-researcher.com/tev.html  )

日本語訳にせよ英語訳のいずれにせよ、もちろん不完全な訳で、それぞれの翻訳者たちの生きた時代と国民性によってそれぞれに解釈された聖書であるにはちがいない。

聖書やキリスト教については、私は次のような立場に立っている。テキストとしては、新旧約聖書については七十人訳旧約聖書(Septuagint)とコイネー新約聖書を最終的なテキストとして認めている。そして、神学としてのヘーゲル哲学。基本的にはこの立場に尽きているといえる。

ただ、もしブログ記事などで英語訳聖書を引用することがあるとすれば、1851年に英国でSeptuagint Bibleの英語訳の労をとられたSir Lancelot C. L. Brenton氏の翻訳を使いたいと思っている。日本とは異なって、欧米の聖書研究は今もなお盛んなようで、幸いにもSir Lancelot C. L. Brenton氏の翻訳は、ネットでも読める。
(Septuagint Bible Online http://www.ecmarsh.com/lxx/index.htm )

ただ、残念なことに現在のところ私のコイネーギリシャ語の能力はきわめて不十分で、Septuagint Bibleも原典新約聖書も十分に読めない。コイネーギリシャ語の能力の向上は今後の課題であると思っている。学生時代に、もし教養科目としてギリシャ語があって、そこで基本的な学習をしておればヨカッタのにと、この年齢になって後悔している。もちろん、外国語の能力の不足は聖書やキリスト教の本質についての理解の障害になるものではないけれども。

Esaias  Chapter 24

24:
1 Behold, the Lord is about to lay waste the world, and will make it desolate, and will lay bare the surface of it, and scatter them that dwell therein.

 2 And the people shall be as the priest, and the servant as the lord, and the maid as the mistress; the buyer shall be as the seller, the lender as the borrower, and the debtor as his creditor.

3 The earth shall be completely laid waste, and the earth shall be utterly spoiled: for the mouth of the Lord has spoken these things.

4 The earth mourns, and the world is ruined, the lofty ones of the earth are mourning.

5 And she has sinned by reason of her inhabitants; because they have transgressed the law, and changed the ordinances, even the everlasting covenant.

 6 Therefore a curse shall consume the earth, because the inhabitants
thereof have sinned: therefore the dwellers in the earth shall be poor, and few men shall be left.

 7 The wine shall mourn, the vine shall mourn, all the merry-hearted shall sigh.

 8 The mirth of timbrels has ceased, the sound of the harp has ceased.

 9 They are ashamed, they have not drunk wine; strong drink has become bitter to them that drink it.

 10 All the city has become desolate: one shall shut his house so that none shall enter.

 11 There is a howling for the wine everywhere; all the mirth of the land has ceased, all the mirth of the land has departed.

 12 And cities shall be left desolate, and houses being left shall
  fall to ruin.

ここで描かれているのは、神の世界審判である。そして、この世界審判の理由は、住民たちの犯す罪のためであり、人々の律法に対する離反のためである。イザヤをはじめとする預言者たちのこの認識は一貫している。

私たちは、すでに第一次、第二次世界大戦を神の世界審判として経験している。次に世界審判があるとすれば、それは核による世界戦争として現象するのではないだろうか。その意味でもイスラエルをめぐる中東の情勢については注視される必要があるだろう。ユダヤ人とその周辺諸民族との紛争は、今に始まったことではなく、人類の歴史的な記憶以来の、5、6000年来の出来事である。

 

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主の祈り

2008年01月22日 | 日々の聖書

主の祈り

「天におられる私たちの父よ、
御名の聖められますように。御国の来ますように。
御心の天におけるように地にも行われますように。
私たちに必要な糧を今日もお与えください。
私たちに咎ある人を私たちが赦すように、
私たちの罪を赦してください。
私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。

まことに、御国と力強い御業と輝かしい栄光は、
永遠にあなたのものです。」


マタイ書第六章第八節以下より

彼らのまねをしてはならない。あなたたちの父はあなたたちが求める前から、あなたたちの必要とするものをご存知だ。
だから、あなたたちはこのように祈りなさい。
「天におられる私たちの父よ、御名の聖められますように。御国の来ますように。御心の天におけるように地にも行われますように。私たちに必要な糧を今日もお与えください。
そして、私たちに咎ある人を私たちが赦すように、私たちの咎めを赦してください。さらに私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。」


ルカ書第十一章第一節以下

その人はある所で祈っておられたが、その祈りが終わると、彼の弟子の一人が言った。「主よ、私たちにも祈ることを教えてください。ヨハネが彼の弟子たちに教えられたように。」そこで、その人は彼らに言われた。「あなたたちが祈るときにはこう言いなさい。天におられる私たちの父よ、御名の聖められますように。御国の来ますように。御心の天におけるように地にも行われますように。私たちの日々の糧を日ごとにお与えください。私たちに咎ある人を私たちが赦すように、私たちの罪を赦してください。そして、私たちを試みに遭わせず、さらに私たちを悪よりお救いください。」


福音書のこの二カ所の記述は内容は本質的にはおなじであるけれど、微妙な違いもある。

マタイ書の文脈では、イエスが丘に登られたときに、ともに附いてきた弟子たちに、イエスの教えにとって核心となる事柄を「丘の上の教訓」として教えられたが、この「主の祈り」はその際に教えられたものである。そしてイエスはさらに、隠れたところにおられる父なる神に祈る場所として、自分の部屋を勧められ、それも長々と言葉数を多くする異邦人のまねをしないようにさとされた後に、この祈りを一つの型として教えられたものである。

ルカ書の文脈では、ただ単純に、イエスがある場所で祈り終えられたときに、弟子の一人に請われて教えられたことになっている。

しかし、いずれも主が弟子たちに直接に教えられた祈りであることから、これらは「主の祈り」として、キリスト者の祈りの核となっている。

この小さな祈りの中には、キリスト教の核心的な概念が含まれている。哲学もまた、無限に深い興味をもって、それらの概念を研究の対象とするものである。哲学はこれらの宗教的な表象を概念的に把握することをめざしている。「御国」「御心」「御名」「罪」「咎」「悪」「誘惑(試み)」「赦し」「救い」が具体的にどのようなものであるか。「名は体を現す」とも言われるが、名(概念)の実体が問題である。

このきわめて短いこの祈りの文言に明らかなように、イエスは、「父なる神」が私たちの祈りの対象として活けるものであること、その「神」は「天」におられること、天においては神の「御心」が行われているが、この地上にも神の御心が行われて、「神の国」の到来するように祈ることを教える。

後半は私たち自身のための祈りであり、それは、飢えや身体のために日々の糧を求め、心の幸いのために悪や誘惑から救われ、また私たちの犯した罪や咎の赦しを願う祈りである。

しかし、それにしてもイエスはこのような「祈り」をどこから学んだか。それは言うまでもなくエリヤやイザヤの旧約聖書からであり、さらには詩篇そのものからである。詩篇第百四十五篇第十一節の賛美歌は、この「主の祈り」に付け加えられて、キリスト者の日常の祈りの言葉になっている。

詩篇第百四十五篇第十節以下

あなたに造られた全てが、主よ、あなたに感謝し、
あなたの愛に生きる人は皆、あなたを誉め讃える。
彼らは御国の輝かしい栄光を言い、
あなたの力強い御業を語る。
主の力強い御業と
御国の輝かしい栄光を人の子らに知らせるために。
あなたの御国は永遠の王国で、
あなたの支配は代々にわたる。

 

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日々の聖書(16)――イザヤ、異邦人の預言者

2007年07月06日 | 日々の聖書

日々の聖書(16)――イザヤ、異邦人の預言者

このように主は言われる。
律法を守り、正義を行なえ。
私の救いは間近く、私の裁きも明らかになる。

幸せである。
これを行う者、それらを堅く守る人の子、
安息日を守りそれを汚すことのない者、
その手を悪に染めない者は。

主のもとに集い来る異邦人の子たちよ。
言ってはならない。
主は自分たちを主の民から分け隔てられると。
宦官たちも語ってはならない。
自分たちは枯れ木に過ぎないと。

主は宦官たちに言われる。
安息日を守り、私を歓ばせることを選び、
私との契約を堅く守るなら、
我が家において、我が城の中で、
息子や娘たちに勝る分け前と名誉を与える。
私は彼らに永遠の名を与えて、切り離すことはない。

また、異邦人の子どもたちが、
主のもとに集い来て仕え、
主の御名を愛し、
安息日を汚すことなく守り、
私との契約を堅く守るなら、

私は彼らを私の聖なる山に導き、
私の祈りの家で歓びを与える。
彼らの完きいけにえと捧げ物は、
私の祭壇のうえで受け入れられる。
私の家はすべての人々のための
祈りの家と呼ばれるからである。

(イザヤ書第五十六章第1節~第7節)

主の救いと恵みは、たんにモーゼの律法がはじめて啓示されたユダヤ人に対してのみ賜るのではない。それは全世界の人々に対しても、すべての民族にも及ぶものであることを、イザヤはここで明白に告げている。

そして、イザヤはその救いと恵みが、ただ一人の選ばれた主の僕の苦難と死によってもたらされることも預言している。私たちの罪のすべてを、ただ一人の選ばれた主の僕が身代わりに担うことによって、そのことによって多くの者の罪が購われる。イザヤは先の第五十三章でこうしてイエスの生涯を預言し、イザヤは旧約におけるイエスの最大の証人になった。イザヤ書の第五十三章ほどイエスの出現を明確に預言している個所はない。

はじめはイスラエルの人々の教えに過ぎなかったモーゼの律法が、異邦人の、全世界の人々の教えとなることがこうして告げられる。一民族の特殊な宗教に過ぎなかった教えが、その偏狭な民族の限界を克服して、普遍的な宗教へと発展してゆく軌跡をここに見ることができる。モーゼの啓示がはじめてイスラエルの人々にもたらされて、一つの民族の特殊な教えに過ぎなかったのに、その民族の境界が乗り越えられることによって、この真理を信じる者はすべて救われるというその教えは全世界に、すべての民族に伝えられることになる。

預言者イザヤはその意味で旧約と新約とをつなぐ太い綱であり、それゆえに、ユダヤ人たちはこのイザヤ書を、とくに、そのイザヤ書の第二部をあえて取り上げようとしない。なぜなら、この個所のイザヤの預言によって、新約においてイエスの生まれ来るその必然性の証明をユダヤ人は認めざるを得ないからである。

モーゼの教えがイスラエル人のみならず、すべての国民の、すべての民族の教えとなることによって、あまたの特殊の中から普遍性の生まれ来る過程をこのイザヤ書第五十六章は明らかにしている。それはモーゼの倫理的世界が本質的に持つ普遍性のゆえである。イエスも、「天と地が消え失せるまで、モーゼの律法はその一点一画も消え失せることはなく、そのことごとくは成就される」(マタイ5:18、ルカ16:17)と語って、モーゼの律法の完全性、永遠性、絶対性を告げている。それゆえに、この地上にあるあまたの民族宗教の中で、ただモーゼの律法に連なる教えだけが、世界性を獲得し、時間と空間を超越して行く。イエスもまたイザヤの預言に深く通じることによって、自らの使命を自覚するに至ったに違いない。イザヤはこうしてキリスト・イエスの出現とその教えが異邦人たちに、全世界に伝わり行くことの証人となった。

 

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日々の聖書(15)――神の裁き

2007年06月05日 | 日々の聖書

日々の聖書(15)――神の裁き

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

神の裁きは、哲学においては必然性として捉えなおされる。哲学は必然性を追求するのものであり、そこに神の意思を探求しようとするからである。論理学が「神の叙述」であり、ロゴスの把握であり、その意味で、哲学が神を対象としていることは、宗教と同じである。

そして、神が世界を裁くという聖書の世界観は、歴史において理性が働いているという哲学の認識と本質的には同じである。聖書においては、神が天地を創造したとされるのであるから、そこに、自然や人類の歴史に、神の意思が貫かれていると見るのは当然である。かって老子も「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉で同じ事柄を表現している。

路傍のあやめの花にも、空の鶯の囀りにも、神の働きを感じることもできる。そこにも神の摂理が働いている。時には、何の罪のない幼児がさまざまな事故に遭遇して、命を失うこともある。それも、ある意味では「神の意思」であるというほかない。それは、われわれ人間の想像を超えている。人類の歴史的な産物である国家もまた同じである。国家もその働きから言って、概念的には神の意思を担っている。

政治の世界も同じである。そこにも、また何らかの必然性が、宗教的に言えば、神の裁きが貫かれているとしか言いようがない。国家も国民も個人も、絶対的な神の意思によって裁かれるのであり、その裁きの網の目から漏れることのできるものはいない。

エレミヤの言葉にもまた、彼が生きた当時の人々、国民に対する神の裁きが告げられている。彼と同時代人の、彼の生きた社会の様相を、エレミアは記録しているが、それも、ただ記録するだけではなく、その「裁き」についても預言している。

エレミアは言う。

民衆は愚かで、分別もなく、
悪には知恵が働くが、善きことを行うことを知らない。(同書4:22)

エルサレムの通りを巡って人々をよく見るがいい。
市場に行って探してみよ。正義を行い、真理を求める者を一人でも探し出せるか。
もしいれば、主はエルサレムを許されるだろう。(同書5:1)

十分に食べ物を与えたのに、彼らは姦通し、
遊女とともに時を過ごす。
そして、太った種馬のように、情欲に燃え、
隣人の妻を慕い、いななく。(同書5:7~8)

預言者は嘘ばかり言い、
祭司は好き勝手なことをおこない、
人々はそれを喜んでいる。
お前たちは最後にはどんな目にあうか。(同書5:30)

エレミアとともにこうした時代を生きたエルサレムのユダヤ人たちは、紀元前587年ごろ、バビロニアの王ネブカドネザルによって、バビロニア(現在のイラク)に奴隷として囚われていった。ユダの王は目をつぶされ鎖につながれ、神殿も破壊された。そのときの悲惨な様子は、続篇のエレミアの「哀歌」の中に克明に描写されている。エレミアは明らかにそこに神の裁きを見ている。

こうした歴史的な事件は、何もエルサレムだけの出来事ではない。小ながらも、現代の日本においても、独立行政法人「緑資源機構」の汚職容疑で、関係者が三人、自ら命を絶っている。

その一人は、現職の農林水産大臣の松岡利勝氏だった。自らの命と引き換えにしなければならないほど、この事件が深刻なものになっていたということである。安部晋三内閣は、現職大臣の自殺によって守られたともいえる。農林水産行政で辣腕を振るった、松岡利勝氏が、そこまで追い詰められたということである。そこに働いていた過酷な必然性を、哲学もまた洞察せざるを得ない。個人の運命も、内閣の運命も、国家国民の運命も、神の御手からまぬかれることはできない。

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

 

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日々の聖書(14)――人か神か

2007年05月23日 | 日々の聖書

日々の聖書(14)――人か神か

主は言われる。
呪われよ。人に信頼し、
肉にすぎないものに頼る者は。
彼の心は主から離れている。
だから、彼は荒地の枯れ木のように、
恵みの雨を見ることもなく、
誰も住まない荒野の干からびた塩の地に、
住まうことになるだろう。
幸せだ。主に信頼し、
主に望みをおく者は。
彼は小川のほとりに植えられた木、
流れに深く根を張り、
日照りに悩むこともなく、
その葉は青く繁っている。
旱魃の年を恐れることもなく、
果樹が実を結ばないこともない。

(エレミア書第十七章第五節~第八節)

ここでも人間の二つの類型が示されている。肉にすぎない人間に頼る者と神に頼る者である。人間不信もここに極まるというべきか。しかし、これが聖書の人間観であることは否定しようもない。エチオピア人がその黒い皮膚を、豹がその斑の毛皮を変えられないように、人間は罪深く、直く正しい人には変われない。(エレミア書13:23)

そんな人間であっても、人に頼らず、神に頼るものは幸せであるという。
なぜか。人に依頼するものは結局は、彼の心は神から離れるからである。
唯一の神、主を前にしては、常に選択を迫られる。お金か神か。人か神か。
人間は二人の主人には仕えることができないからである。(マタイ書6:24)

エレミアもつねに詩篇に慣れ親しんでいた。それは、ここでも明らかである。
エレミアの口には、詩篇冒頭の数節がおのずから口ずさまれて来る。
主の教えを愛し、日夜口ずさむ者は、小川のほとりに植えられた木のように、
その葉はつねにみずみずしく、いつも果実を実らせている。
ただ詩篇の第一篇では神の教えを愛する者と神に逆らう者とが対比させられていたが、
ここではエレミアは人間に頼る者に対し、神に頼る者とを比べている。

この人間類型は、現代においても基本的には変わらないのだろう。
科学や民主主義や自己に頼るものは、結局は人間に頼るものである。
エレミアの眼には、彼らの心はすべて主から遠く離れている。
だから彼らは、砂漠の枯れ木のように、恵みの雨を見ることもない。

それに対し、主に信頼し、主に望みをおく者は、
彼は小川のほとりに植えられた木のように、
葉は青く繁り、旱魃を恐れることもなく、
果樹は豊かに実を稔らせるという。
新約聖書ではイエスを信じる者には、聖き霊が生ける水となって流れてくるとも言われている。(ヨハネ書7:38)
エレミアにもイエスにも、詩篇冒頭の川のほとりに植えられた木のたとえが、つねにその心に湧き起こってくる。

 

主は言われる。
呪われよ。人に信頼し、
肉にすぎないものに頼る者は。
彼の心は主から離れている。
だから、彼は荒地の枯れ木のように、
恵みの雨を見ることもなく、
誰も住まない荒野の干からびた塩の地に、
住まうことになるだろう。
幸せだ。主に信頼し、
主に望みをおく者は。
彼は小川のほとりに植えられた木、
流れに深く根を張り、
日照りに悩むこともなく、
その葉は青く繁っている。
旱魃の年を恐れることもなく、
果樹が実を結ばないこともない。

(エレミア書第十七章第五節~第八節)

 

 

 

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日々の聖書(13)――イエスの平常心

2007年02月27日 | 日々の聖書

日々の聖書(13)――イエスの平常心

さて、ある日イエスは弟子とともに舟に乗った。彼は弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう。」と言った。そうして彼らは漕ぎ出して行った。
しかし、弟子たちが帆を揚げたとき、彼は眠り込んでいた。すると湖に嵐が吹いてきて、舟は水に浸かってしまい、弟子たちは恐れおののいて、彼の所にやってきて彼を起して言った。「先生、先生、溺れてしまいそうです。」 すると彼は起き上がり、風とうねる大波にむかってお叱りになった。するとすっかり静かになった。
そのとき彼は弟子たちに言われた。「あなた方の信仰はどこにあるのか」
すると弟子たちは、恐れ驚いてお互いに言いあった。
「この方は何という人だろう。命ぜられると風も波も彼に従うではないか。」

(ルカ書8: 22~25、マタイ書8:23~27、マルコ書4:35~41)

この一節からも、さまざまの事柄が読み取れると思う。自然をさえ従わせることのできるイエスの権威、あるいは、すべてに超然としたイエスの態度、あるいは、弟子たちの神に対する信頼心のなさなど。
弟子たちとその師であるイエスと間に見られるこの態度のちがいは何によるのだろうか。仏教などにおいても、修行を積んだ禅僧などにもイエスのような何事にも動じない平常心をしばしば見ることができる。ただ外見的には同じような不動心、何事にも超然とした平常心であっても、その由来は異なるようである。

「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言われるように、無神論の仏教ではその境地は無を観想する修行に由来する。

それに対して、イエスの教えによれば、畏れるべきはただ永遠の存在である神のみである。そこから、自己の生命に対しても、有限な存在としての人間の存在の本質的な虚しさの自覚も生まれてくる。そうして神以外の存在の一切に対する本質的に無頓着な態度から、生命の危機に対してさえも超然とした姿勢が生まれてくる。

だからイエスは言った。「身体を殺しても、それ以上に何もできない者を怖れるな」(ルカ12:4)と言い、「自分の命のために何を食べようか、何を着ようかと思い患うな」(ルカ12:22)と言った。哲学者ヘーゲルはこれを評して、歴史上もっとも革命的な言説であると言っている。

そして、さらにはイエスの祈りの精神がある。彼は弟子たちに「倦まず弛まず気を落とさず絶えず祈ることを教え」(ルカ18:1)彼自身も、血の汗を滴らせながら(ルカ22:44)祈った。イエスの不動心はこうした祈りの修練によってももたらされたのだろうと思う。そしてキリスト者とは、キリスト・イエスを唯一の師と認める者のことだから、イエスのこの境地は、当然にキリスト者の目指すべき境地でもあるのだろう。


さて、ある日イエスは弟子とともに舟に乗った。彼は弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう。」と言った。そうして彼らは漕ぎ出して行った。
しかし、弟子たちが帆を揚げたとき、彼は眠り込んでいた。すると湖に嵐が吹いてきて、舟は水に浸かってしまい、弟子たちは恐れおののいて、彼の所にやってきて彼を起して言った。「先生、先生、溺れてしまいそうです。」 すると彼は起き上がり、風とうねる大波にむかってお叱りになった。するとすっかり静かになった。
そのとき彼は弟子たちに言われた。「あなた方の信仰はどこにあるのか」
すると弟子たちは、恐れ驚いてお互いに言いあった。
「この方は何という人だろう。命ぜられると風も波も彼に従うではないか。」

(ルカ書8:22~25、マタイ書8:23~27、マルコ書4:35~41)

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日々の聖書(12)―――子供たちの泣き声

2007年01月14日 | 日々の聖書

日々の聖書(12)―――子供たちの泣き声

子供たちは母に言う。
パンはどこにあるの、
ぶどう酒はどこにあるの。
町の広場で
母の乳房に抱かれながら、
傷つき、衰え、
息絶えてゆく。

(哀歌第二章第十二節以下)

ユダヤ人は歴史上いくたびも過酷な境遇におかれてきた。先の第二次世界大戦のナチス・ドイツの手によるホロコーストも、歴史的には初めての体験ではない。すでに紀元前600年前後にも、腐敗し堕落したユダヤの指導者、宗教家、国民のために、その土地と神殿はバビロニア王によって破壊し尽くされ、その主だった住民は捕えられてバビロニアに連れて行かれた。

そのときの悲惨で過酷な光景が、預言者エレミアの手によって記録されている。上記の一節もその一つである。

神の裁きの厳しさは、そのもっとも天真爛漫で純粋無垢な乳幼児、児童に向けられる。

もちろん、こうした状況はユダヤ人にのみ臨むのではない。人類はすべての民族でこうした体験を重ねてきた。原爆投下などでは、日本の多くの幼児は、泣き声さえあげることができなかった。


現代のバビロニアであるイラクはさらに混迷と荒廃を深めている。現代のペルシアである隣国イランも現代のユダヤ国イスラエルとアメリカとの対立を深めている。エレミアの記録した状況が、二十一世紀の現代に繰り返されないと言えるだろうか。ブッシュ大統領が二万人余の兵士の増強を決めたばかりである。

北朝鮮では飢えと寒さに震えた幼児たちが、母の胸でパンとミルクをねだっているのではないか。今も世界中で子供たちの泣き声が絶えない。

子供たちは母に言う。
パンはどこにあるの、
ぶどう酒はどこにあるの。
町の広場で
母の乳房に抱かれながら、
傷つき、衰え、
息絶えてゆく。

(哀歌第二章第十二節以下) 

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日々の聖書(11)―――密かな弟子

2006年12月27日 | 日々の聖書

日々の聖書(11)―――密かな弟子

そしてこの後、アリマタヤのヨセフという、ユダヤ人を怖れてイエスの弟子であることを密かに隠していた者が、ピラトにイエスの死体を引き取ることを願い出ると、ピラトは許したので、彼は、イエスの身体を引き取った。

(ヨハネ書第十九章第三十八節)

公然と信仰を告白することが、昔からなかなかできなかったことは、すでにイエスの在世時からであったことがここでもわかる。イエスに対する公然の信仰告白が、昔から事実として、多くの犠牲なくしてできない場合が多かったことを示している。このアリマタヤのヨセフはユダヤ人たちから村八分にされることを怖れたために、イエスの教えの真理であることがわかっていながら、それを公然と告白することができなかった。

しかし、信仰告白がたんに村八分ぐらいで済んでいればまだ幸いである。とくに、わが国の織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの戦国武将のキリスト信徒に対する弾圧は苛烈を極めた。

それは何もキリスト信徒に対してのみではなく、当時の封建的な戦国時代そのものの気風が本質的に過酷な統治で人々に臨んだものだった。信長は一向宗徒を焼き討ちにしたし、豊臣秀吉の甥の秀次ですら、一たび謀反の疑いをかけられると、一族郎党が皆殺しにあった時代である。

安土桃山の時代に布教が始まったキリスト教も当初は多くの信者を獲得したが、その教義の実体が時とともに明らかになってくると、戦国の武将たちは警戒を隠さなかった。長く続いた戦乱の不幸を痛切に知っていた徳川家康は、それが天草の乱として彼らの地位を揺るがしかねないことがわかると、あらゆる手段で禁圧弾圧に及んだ。内政的には檀家制度によって仏教で民衆の思想統制を強固に図るとともに、外政的には鎖国制度をしいて、海外からのキリスト教の流入を防ぎ、国内からキリスト教の完全な排斥につとめた。

今日でもその事実はさほど明確に自覚されてはいないけれども、徳川の幕藩体制を、その内政と外政を大きく規定したのはキリスト教の威力に対抗するためであったと言える。そうした過酷な時代に、アリマタヤのヨセフのような多くの隠れキリシタンの日本人がいたとしても責めることはできない。

かっての徳川家康の居城であった駿府城の一角に今ではカトリックのミッションスクールがあるし、現代では、イエスに対する信仰を明らかにしたからといって、誰も生命を奪われることもない。信仰の自由は憲法によって守られる時代だからである。

 

そしてこの後、アリマタヤのヨセフという、ユダヤ人を怖れてイエスの弟子であることを密かに隠していた者が、ピラトにイエスの死体を引き取ることを願い出ると、ピラトは許したので、彼は、イエスの身体を引き取った。

(ヨハネ書第十九章第三十八節)

 

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日々の聖書(10)―――富と貧しさ

2006年12月21日 | 日々の聖書

日々の聖書(10)―――富と貧しさ

富貴の人に気に入られようとする者は多く、贈り物をくれる者には誰しもが友だちになる。だが貧しい者は、兄弟にすら憎まれる。まして友人たちはいっそう彼から遠ざかる。貧しい者の言葉には誰も耳を傾けない。

(箴言第十九章第六~七節)

富は多くの友人を作るが、没落して貧して窮した者には、兄弟や信じていた親友すら離れ去る。このような事実を体験するのは、バブル経済に天国と地獄を体験した平成の世の日本人のみに限らないらしい。

紀元前200年、300年もの昔に作られた聖書の『箴言』のなかにもこのように語られているからである。砂漠に生きたアラブ人、ユダヤ人、エジプト人たちもそうだったらしい。人間の本性というのは、古今東西そんなに変わらないことがわかる。


豊かになるにしても貧乏になるにしても、実際の世の中は、往々にしてままにならないものである。人は誰しも好むと好まざると、運命の巡り合わせから、不本意な境遇に陥ることはある。人間の生はもともと不安である。だから誰しもそれなりの覚悟はしておけということなのだろう。

私たちは、この聖書の言葉から、何を学ぶことができるだろうか。それは第一に人間のもって生まれた弱さだろう。そうした行為は弱さから来るからだ。もちろん、人間にはもって生まれた強さというものもある。しかし、弱い人間の限界の一面として、この箴言が記しているような態度をとる人間は多い。それを恨んでも仕方のないことである。

それは人間の弱さのせいであって誰も非難はできない。だから、人は逆境に立ち至ったときのために、ふだんから人間関係にそれなりの覚悟をしておくことだろう。また一方で、そうした事態を招かないように人事を尽くすことだろう。

さらに望ましいことは、イエスを私たちの共通の絆として、同じ主と仰ぐことのできる友を得ることだろう。なぜなら、彼はその堅き信仰によって、不確かな富に望みをおかず(テモテ前6:17)、主の貧しさによって豊かであるから(コリント後8:9)。彼は、富める時も貧しいときも支えてくれるにちがいないから。

イエスを友として授かれば、ましてなおさらである。彼ならこのような態度をとることはありえない。しかし、この世ではこれが大方の人間の真実なのだろう。

富貴の人に気に入られようとする者は多く、贈り物をくれる者には誰しもが友だちになる。だが貧しい者は、兄弟にすら憎まれる。まして友人たちはいっそう彼から遠ざかる。貧しい者の言葉には誰も耳を傾けない。

(箴言第十九章第六~七節)

 

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日々の聖書(9)―――緑なす葉

2006年12月14日 | 日々の聖書

日々の聖書(9)―――緑なす葉

流れの河岸に植えられた木のように、彼は時が来れば実を結び、その葉もしおれることはない。
   
(詩篇第一章第三節)

あらゆる生命にとってなくてはならないものがある。それは水である。人間は少々食べなくても生き長らえることはできるけれども、水がないとそうはいかない。遭難にあったときに、水があるかどうかが運命の分かれ道になる。

そして、「みずみずしい」という日本語があるように、水に潤っていることが、生き生きとしていることの、活きていることの証しになっている。植物と同様に人間も水がなければ萎れて枯れ、やがて死んでしまう。

人間は肉体と精神からなる生き物である。肉体にとって水が不可欠であるように、精神にも水を欠くことができない。肉体と同様に心や精神の成長のためにも水はなくてはならないものである。

しかし、肉体にとっての水に相当するものは、精神にとっては何か。詩篇の第一章では、それは主の教えであるという。信じる者にとって、日々に主の教えを口ずさむことは、心に水を注ぐようなもので、それで心もふたたび生き生きとしてくる。精神が枯れ衰えることもない。

さらにキリスト教では、精神にとっての水は、ただに主の教えばかりではない。パンとぶどう酒に喩えられるイエスの身体もそうである。十字架の上で喉の渇くイエスは人々から酸いぶどう酒を飲まされたが、イエスのぶどう酒も渇きを癒してくれる。また、イエスを信じるものには、心に活きた水が川のように流れ出てくる。(ヨハネ書第7章第38節)だから、イエスも、喉の渇いている人は誰でも来て飲むように言われた。こうして、彼から日々に生ける水を飲むものには、岸に植えられた木々のように、彼の心や精神はいつまでも生き生きとして、枯れて萎れることもない。

流れの河岸に植えられた木のように、彼は時が来れば実を結び、その葉もしおれることはない。
   
(詩篇第一章第三節)

 

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日々の聖書(8)―――心と肉体

2006年12月11日 | 日々の聖書
 

日々の聖書(8)―――心と肉体

気を付けて祈っていなさい、誘惑に引き込まれないように。心は欲していても、肉体は強くはないから。   
(マタイ書第二十六章第四十一節) 

               
この言葉はイエスが弟子たちとともにゲツセマネというところに来て祈られたときに、イエスが祈っておられる間ですら、こらえ切れずに眠ってしまわれた弟子たちをいましめられた言葉である。

キリスト教が「心」と「肉体」を明確に分離して考えるようになったのは、おそらくイエスのこのような考えから来るのだろう。仏教や儒教などにおいては、これほどまでに心と肉体を分離して捉える思想的な伝統はない。

そして、私たち日本人にとって、キリスト教のわかりにくさの原因の一つも、この肉体と心を二分的に見る人間観と、その「心」が具体的に何を表しているのか、その概念が明確ではないことにあるのではないだろうか。

実際に、この「心」は、場合によっては、「精神」とか「霊」とか「魂」とかに訳されたりする。いずれにせよ、それは、神が人間を創造するときに、大地から土をこねて人を形づくり(肉体)、その鼻に「命を与える息」(精神)を吹き込まれることによって、人間が生きるようになったことから来ている。(創世記2:7)

だから、聖書における「心」「精神」「魂」「霊」などのもともとの語源は、「息」とか「風」のように、目に見えないものであり、神から与えられた生命の源である。この「息」がなくなれば、すなわち、「心」や「精神」がなくなれば、人間の肉体は死ぬものである。

もともと神から与えられた生命の息、心、精神はどんなに強くても、土で造られた人間の肉体は強くはない。だから、人間はどんなに心で神の教えや戒めを守ろうとしても、弱い肉体はそれを犯し破ってしまう。ここに人間の生まれながらに持つ悩みがある。イエスはその悩みに苦しまないように、忠告されて言われた。

気を付けて祈っていなさい、誘惑に引き込まれないように。心は欲していても、肉体は強くはないから。
   
(マタイ書第二十六章第四十一節)

 

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日々の聖書(7)――唯一の主

2006年11月30日 | 日々の聖書

日々の聖書(7)――唯一の主

日の昇る所から来る者も、日の没する所から来る者も、私の他に神はないことを彼らは知るだろう。私は主であり、私に並ぶものはない。

私に立ち返れ。そうすれば救われるだろう。地の果てから来る者たちよ。私は神である。並ぶものはない。

(イザヤ書第四十五章第六節および同章第二十二節) 

               
パレスチナから見て、日本は明らかに日出ずるところの国である。イザヤは
やがて全世界から唯一の主なる神を求めて人々の立ち返ることをこうして預言している。

紀元前六世紀頃のユダヤ人たちは、彼らの腐敗と堕落のために主なる神より裁きを受ける。バビロニアの王ネブカドネザルによってエルサレムの町と神殿は破壊され、王たちは拷問を受け、殺される。主だった住民もバビロンに連れ去られた。

しかし、裁きを受けたイスラエルもやがて主に立ち返って贖われ、解放される。上の言葉は主なる神が、ユダヤ人にパレスチナ帰還を許したペルシャのキュロス王に対して、イザヤを介して告げられた言葉である。こうしてバビロンに捕囚されたユダヤ人たちは解放される。

聖書においては神はこのような存在として教えられている。預言者や使徒たちら知恵ある人々によって書き記された、聖書のさまざまな物語や啓示や教訓などを通じて、神について知ることができる。

聖書の神は、絶対的な一者として教えられる。また、神は被造物のように有限ではなく、無限であり永遠の存在である。

また絶対的な存在であるから、唯一である。絶対的なものが二つとしてあるわけがない。二つあるのものは絶対的ではありえない。

神は何ものによっても侵されない。神聖にして人間から隔絶した方である。また、神は万物を創造し、自然と歴史の摂理を通じてみずからの意思を実現する絶対的な力である。その力によって神はまた裁かれる方である。

神はまた恵みであり愛である。それは被造物をそのままに存在を許される方であるから。神は悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせる方である。

日の昇る所から来る者も、日の没する所から来る者も、私の他に神はないことを彼らは知るだろう。私は主であり、私に並ぶものはない。

私に立ち返れ。そうすれば救われるだろう。地の果てから来る者たちよ。私は神である。並ぶものはない。

(イザヤ書第四十五章第六節および同章第二十二節)

 

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日々の聖書(6)――人間の分別と神の知恵

2006年11月27日 | 日々の聖書

日々の聖書(6)――人間の分別と神の知恵

心を尽くして主に頼り、決してあなた自身の分別に寄りかかってはならない。   
(箴言第三章第五節)                

私たち現代人は個性を大事にし、自分たちの自意識と知識を最高の価値として誇っている。何人にとっても自分ほど大切なものはない。そして、自分のもてる知識と教養を誰しも誇る。現代人はお互いに学歴を最高の栄誉としている。受験が戦争と化しているわが国の現実を見よ。

しかし、聖書は必ずしもそうは教えない。現代人が金科玉条のように大切にする個性とは、本当にそんなに貴重なものだろうか。現代教育がモットーとするほどに、人間各自の個性には価値があるのだろうか。人間は弱いもの、間違うもの、過つものとして、自分とはもっとも頼りにならない者であると教える。むしろ、自分の分別に頼ってはならない、と言う。人間の個性など、もっとも価値なきものではないのか。

人間は自分自身が賢明であると思うほどには賢明ではない。だから決して、自分の奇抜な思いつきや思考に思い上がり、自惚れてはならないと忠告する。          (同章第七節)

聖書が教えるのは、惨めで間違いやすい自分の考えにしたがって生きるのではなく、真の叡智である主を畏れ、神の知恵を見出すものが幸せであると言う。

心を尽くして主に頼り、決してあなた自身の分別に寄りかかってはならない。   
(箴言第三章第五節) 

 

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日々の聖書(5)――人間の努力

2006年11月26日 | 日々の聖書

日々の聖書――人間の努力

 

そして私は見た。人間の成功をめざして行なうすべての骨折りは、隣人の持ち物を妬んでのことであることを。これもまた空しい、心の虚しさである。       (伝道の書第四章第四節)                

 

現代人は今日もまた働き蜂のように、アリのように勤勉に働きつづける。とくに日本人やドイツ人などは勤勉な民族だと思われている。
砂漠の民やラテン民族などは、日本人ほど几帳面でもなければ、働き蜂でもないかもしれない。

それにしても、いったい人間がこれほど勤勉に働く本当の動機は何なのだろうか。もちろん、それはまず衣食住の充足のためであることは言うまでもない。しかし、ただそれだけだろうか。単に、飲んで食べて着て、そして住まい、交わるだけであるなら、たとえ日本人であっても、こんなに過労死するほどに働かなくても済みそうである。

しかし、いわゆる資本主義社会では、人間の欲望は社会的に作り出されるものである。とくに、社会の構造上からも、企業は利益の追求と獲得とを余儀なくさせられるから、社会的動物で見栄っ張りの人間の欲望はそれでなくとも否が応でも刺激され、駆り立てられる。

欲望とは絶対的なものではなく、相対的なものである。現代先進国の私たちの私有する財産は、アフリカやエスキモーの人々の何百倍に達しても、それでも、先進国の人々はその富を隣人と比較させられるかぎり、貧困感から来る疎外感は避けられず、隣人以上の富の獲得をめざして駆り立てられる。

この人間的な真実は、何も現代人のみに留まらないようである。聖書の『伝道の書』の著者であるコヘレトもすでに数千年前に、富と成功をめざして努力する人々たちの、倦むことも疲れることも知らない人間の骨折り、労苦を見ていた。そこに真の安息から遠い人間の心の営みを見て、人間の心の働きの本来的な虚しさを歌う。日本のつれづれ草の兼好法師も、差し迫る死を忘れてアリのようにうごめきまわる人々を描写していた。

改めて、静かに聖書などを精読、黙考しながら、本能的に刺激されて虚しく働きまわる思考回路を一度は断ち切って、私たちの骨折りや人生の意義を反省する機会を持ちたいものである。

 

 そして私は見た。人間の成功をめざして行なうすべての骨折りは、隣人の持ち物を妬んでのことであることを。これもまた空しい、心の虚しさである。       (伝道の書第四章第四節) 



 
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日々の聖書(4)――私の彼

2006年11月22日 | 日々の聖書

日々の聖書(4)

夜ごと寝床に、私は心より愛している人を捜し求めました。私は彼を捜しました。しかし、見つけることができませんでした。(私は彼を呼びました。しかし、彼は私の声を聴きませんでした。)

(雅歌第三章第一節)
※()内は、七十人訳聖書のみ。

SEPTUAGINT(セプチュアギント)の訳者 Brenton氏の訳

By  night on  my  bed  I  sought  him whom  my  soul  loves :
I  sought  him , but   found   him  not ;
I  called   him,  but  he  hearkened  not  to  me.

私の彼


人間にとって出会うべき人と出会えないことほど哀しいことはない。
生涯に出会うべき愛しい異性に出会えないことは、どれほどつらく悲しいことだろう。だから彼や彼女たちは、自分たちが出会うべき人と出会えるよう、必死になって捜している。

今日のように携帯電話やネットが発達して、出会系サイトなどが繁盛するのも、やはり、人がどれほど出会うべき人に出会うことに憧れているかを示すものだろう。

だから、人は自分の愛する人にいまだ出会い得ないことほど切なく哀しいことはない。彼女はそのとき、夜ごと寝床の上で、切なくため息をつき、愛する人と出会えぬゆえの孤独とさびしさに心で泣いている。

この雅歌の主人公である娘も、いまだ恋い慕う彼に出会うことができなかった。彼女は床から起きだし、部屋を出て、通りや広場に愛する彼を捜し求める。最後には娘は彼を見つけるけれども、彼を見失っているときの彼女の気持ちはどれほど不安で切ないものだったろうか。

信仰する者が、愛する神を見失ったときの気持ちも同じなのかも知れない。

夜ごと寝床に、私は心より愛している人を捜し求めました。私は彼を捜しました。しかし、見つけることができませんでした。(私は彼を呼びました。しかし、彼は私の声を聴きませんでした。)

(雅歌第三章第一節)


 

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