海と空

天は高く、海は深し

国家社会の改造の仕方(1)―――麻生新内閣を評す

2008年09月25日 | 時事評論

 

衆院選、11月2日に投開票…首相意向(読売新聞) - goo ニュース

きのう9月24日、麻生太郎内閣が船出した。この三年間に三つの内閣が入れ替わった。それだけ日本国のおかれている状況が国内外ともに多事多難であるということなのだろう。きのうの麻生太郎氏の総理大臣の就任記者会見では、国際、外交問題はとくに深く触れることはなかったけれども、国内問題については、現在の国民のおかれている状況について「景気への不安、国民生活への不満、政治への不信」というようにまとめておられた。的確に認識されているようだった。そして、「明るく強い国」にすることを、ご自身の使命と心がけておられるようである。

完全で理想的な国家社会というのは、イデーの世界に、概念の世界にしか存在せず、いつも現実においては理想的な国家社会というものはありえない。それを現実と取り違えるのは、ドンキホーテなどの妄想家、空想家でしかないだろう。私たちの乗り込んでいる宇宙船地球号、ノアの箱船は、時間の経過とともに、いつもほころびや破損を生じ、内在的に矛盾が発生してくる。つねに応急処置をして行かなければならない。そして、単なる応急処置では間に合わないとき、たとえば、わが国では明治維新や太平洋戦争の敗北といった事態に立ち至ったとき、その矛盾は小手先で対応できるものではなく、根本的な治療が、革命的な変革が必要とされるということである。

果たして、今日現在の状況はどうか。先の記者会見で、麻生太郎新首相が述べたように「景気への不安、国民生活に対する不満、政治への不信」があり、それはわずか三年の間に、三つの政権が入れ替わり、そのいずれも、国家行政のトップである首相の突然の辞任によるということが、その事態の困難さ、深刻さを示している。

年金、医療行政は破綻に近く、官僚には能力も清貧さも失われ、教育は崩壊して子供の学力は低下し、犯罪は凶悪化しつつある。消費者も生産者も役人も国民のモラルは失墜し、偽装偽造問題が日常的に蔓延している。緊急を要する国際問題にも的確に対応しうる能力を失っている。その象徴が、首相の突然の職務放棄である。

果たして、良識ある国民はこのような事態に立ち至って途方に暮れているようにも思える。その大多数は、市民として日常の生活に忙しく、私たちの信頼を託してせっかく送り出した政治家たちの能力は低く、官僚や役人たちを使いこなせず、役人たちは国民の監視の行き届かないところで、彼らの好きなような「行政」を行っている。国民の大多数の希望するような政治や行政をなかなか実行してくれない。

だからといって、市民国民は自衛隊を扇動してクーデターを起こすこともできなければ、チベットの市民のように市街地に出て、街頭で暴動に参加するつもりもないからである。

だから、せめてできることと言えば、現在の政治家という、まことに貧弱な手駒を使って戦いに、すなわち、少しでもよりましな政治と行政の実現にいどむしかない。そのとき、国民の手にする「政治家」という手駒が、飛車角やせめて金銀くらいの有能な手駒であれば、戦局も切り開きやすいが、たいていの場合は、歩か香車、桂馬クラスだから、なかなか勝負は上手に運ばないのである。

しかし、私たち国民は、たとえそんな無能で貧弱な手駒しかなくても、それを運命だと思って、現在に手にしうる手駒、政治家を使って戦いに、国家社会の改造に挑むしかない。私たち国民が議院内閣制という民主主義を選択するかぎり、そうした時間と手間と労力の掛かる方法で実行してゆくしかないのである。まことに民主主義とは手間暇のかかるものである。

そのときに私たち国民の行使できる武器といえば選挙権しかない。この繰り返される選挙を通じて、政治家たちをふるいに掛け、能力と倫理性においてより劣等な政治家は落選させ、より優秀な(残念ながらあくまで相対的にすぎない)政治家を当選させるという選挙のふるいに掛けて、政治家の取捨選択を行いながら、私たち国民の要求や希望を少しでも実行して行くしかない。現在もてるかぎりの政治家を手駒として使いながら、国家と社会の改造を実行してゆくしかないのだ。

そのとき、手駒として使えるのが歩や香車のような貧弱な持ち駒ばかりの政治家であっても、それを使う以外にないのである。そして、来るべき衆議院総選挙で私たち国民の使える手駒軍団としては、さしあたって現在のところ麻生太郎自民党と小沢一郎民主党しかない。私たち国民は、果たしていずれの手駒を使うべきか。

 

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永遠の今

2008年09月08日 | 宗教一般

 

永遠の今

さきに福田首相が辞任を表明されたとき、ご自身のメルマガでの中で、「太陽と海と伊勢神宮」に触れ、「永遠の今」について語られようとした。魑魅魍魎の徘徊する政界の、虚妄と有限の地獄図に嫌気がさした福田氏の心のなかに、このとき潜んでいた菩提心がふと思わず顔を出したのかもしれない。

「太陽も海も伊勢神宮」も、もちろんすべて「真に永遠なるもの」ではない。それらも所詮はその影にすぎない。真に永遠なるものはただ神のみだからである。というよりも、私たちは真に永遠であるものを神と呼ぶのである。だから、真に永遠であるものが存在しなければ、神も存在しない。

政治という有限と虚妄の世界に疲れ果てた福田氏(「公共と家政」)が思わず口にされた「永遠の今」とは、無限が有限に自己を啓示する瞬間であり、有限が無限を垣間見る瞬間の事である。無限と有限とがきびすを接する瞬間が「永遠の今」である。このとき、人間は神を見、神はご自身を人間に啓示する。芸術も哲学も、この永遠なるもの、神を見ようとする人間の切ない憧れを示す試みである。 

そして、この永遠なるものに、神にささえられたときにはじめて、「有限なる今」も政治もまた空しいものでなくなる。

福田氏が総理大臣の職を辞するに当たって、「政策を立案する際、この「永遠の今」を想うことがありました」と言うとき、思わずこの「想う」という言葉をつかったのも、決して偶然ではない。福田氏は政治という虚しくはかない今に耐えきれず、思わずそれを「永遠」という堅い杭につなぎ留めようとしたのである。ただ、それが「永遠なるもの」の影にすぎなかったとしても。

 

 

 

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