海と空

天は高く、海は深し

詩篇第二十二篇註解

2005年11月10日 | 詩篇註解

第二十二篇

「暁の雌鹿」の曲に合わせた、指揮者たちによるダビデの賛歌

私の神よ、私の神よ
なぜ私をお見捨てになるのか。
遠く離れて救おうとせず、私の叫びは届かない。
私の神よ、私は昼も呼ばわるが、あなたはお応えにならない。
夜もまた、私は黙ってはいられない。
しかし、あなたは聖なる所に座してイスラエルの賛美を受けられる。
あなたに、私たちの先祖は頼った。
あなたに頼ると、彼らは救われた。
あなたに向かって彼らが叫ぶと、救い出された。
あなたに依り頼んで、彼らは恥を受けたことはない。
しかし、私は虫けらに過ぎず、もはや人ではない。
人間の恥、物笑いの種。
私を見るものはすべて私を嘲る。
彼らは舌を出して、頭を振って言う。
主に逃げ込め。主がお前を救ってくださるだろう。
主はお前を愛しておられるのだから。

あなたは、私を母の胎から取り上げて、
母の乳房に私を委ねられた。
生まれたときから私はあなたに頼り、
母の胎内にあるときから、あなたは私の神。
私から遠く離れないでください。
困難が押し寄せても、誰も助けてくれないのです。
雄牛どもが群がって私を取り囲み、
バシャーンの猛牛たちのように私に迫るのです。
ライオンのように大きな口を開け、唸り、私を引き裂くのです。
私は洪水のように流され、すべての骨は外され、
私の心は蜜蝋のようにはらわたに溶け去る。
喉は素焼きのかけらのように渇き、
舌は口の中に貼り付く。
そして、塵の上で私を死に渡される。
犬どもが私を囲むように、苛む者たちは私を取り囲み、
私の両手と両足を噛み砕く。
私の骨はすべて数えられ、彼らは私を晒し者にして眺める。
私の衣を奪い取るために分け、彼らは籤を引く。

主よ、遠く離れないでください。
私の力よ、急いで私を助けてください。
彼らの剣から私の魂を救い出し、
犬どもから、私の命を救ってください。
ライオンの口から、野牛の角から私を救い、
私に応えてください。
私は兄弟たちにあなたの御名を語り、
会衆の中であなたを誉め讃えます。
主を畏れる者たちよ。主を讃えよ。
ヤコブの子孫はすべて主を敬え。
そして主を畏れよ。イスラエルのすべての子孫は。
主は貧しい人の苦しみを侮られず、忌み嫌われない。
そして、彼から御顔を隠されず、
彼が叫び求めるときには主は聴かれる。


だから、私は多くの会衆の中であなたを誉め讃え、
主を畏れる者たちの前で、私の供え物を捧げて誓いを果たす。
謙虚な人たちは食べて満ち足り、
主を尋ね求める者たちは主を誉め讃える。
あなたたちが、いつまでも健やかに生き長らえますように。
地の果てまで、すべての民が主を覚え、御許に立ち帰りますように。
異邦人のすべての家族もまた、あなたの御顔の前にひれ伏すように。
まことに、王冠は主のもの、主は異邦人を治められる。


誇り高きすべての民も身をかがめ、
死んで墓に下るべき人はすべて主の御前に膝を屈する。
子孫たちは神に仕え、主について世々に語り伝えるだろう。
彼らは来て主の正義を告げ、
生まれくる民に、主の救いを語るだろう。

 

第二十二篇    沈黙する神と詩人の信頼


英訳には「苦悩の叫びと賛美する歌」というう標題が付いている。この詩篇の冒頭の第一節は、イエスの御生涯の最後の言葉となった。(マタイ第二十七章四十六節)当時から詩篇の言葉はユダヤ人に日常的に慣れ親しまれていた。このイエスの叫びは、発音の類似(エリー、エリー、ラマー、ザブターニ)から、エリアを呼んでいるようにも聞こえたという。歴史的な事実としてのイエスの十字架上の死をまざまざと髣髴させる。この詩篇の前半のテーマは「神の沈黙」といった方が適切かもしれない。苦悶のさ中から神に助力を求めるが、神は沈黙されたままである。

詩人は肉体的にも苦痛の絶頂にあるが、精神においてもまた神に見放されているという絶望の果てにいる。おそらく人類の歴史の中で、この詩篇の詩人のように、助命を神に祈りながら息絶え帰らぬ者となったたものは数限りないはずである。私たちの経験からも、歴史的な事実からも、こうした祈りによっても、多くの者が助命されることもなく、肉体上の生存も確保できなかった場合の多かったことは知っている。イエスの場合も、十字架の上では救命されることなく、一度は死に絶え葬られた。日蓮のように滝の口の刑場で打ち首にされることなく、助命されることはなかった。

しかし、それにもかかわらず、神は聖なる所におられて、賛美を受けるべき方であるという。そして、神に頼って救われ、依り頼んで裏切られたことはないという。(五、六節)これらの節についても、もちろん私たちは詩篇を文字通り受け取ることはできない。なぜなら、先にも述べたように私たちの経験や歴史の知識とは反するからである。私たちは、こうした詩篇のような祈りを唱えながらも多くの人間が命を失った事例を知っている。西洋の歴史においても、宗教改革者フス、ジャンヌダルクなど義人の刑死は無数にある。わが国においても、大塩平八郎とその妻の死などがある。人類の歴史において無罪の死は枚挙に暇もないだろう。では詩篇は嘘をついているのか。馬鹿げているから、捨ててしまうべきなのか。それもひとつの選択ではある。

詩人はそれでも、塵芥の中に打ち捨てられて死に絶えようとする時にも、主に対する信頼を失わない。そして、詩人は昼も夜も救いを求めるが、神は沈黙して応えられない。私たちはこの詩によって、神に叫び求める「私」と、それに応えられる、あるいは、応えられない「神の存在」を考えることになる。神の応答とは一体どのようなものであるのか。

 

詩篇や聖書は信仰の書であるから、私たちは聖書や詩篇から信仰以外のことを学ぼうとして読んでも失望するだけである。詩人もそうした極限の状況でも主に対する信頼を失うことはない。この第二十二篇の詩人の苦悩は、ヨブ記のヨブの苦悩にも比較される。この詩人がどのような歴史的背景で、どのような状況で、このような凄まじい境遇に陥ったのか、それはわからない。また、それを私たちは知る必要もない。私たちがこの詩篇を読んでわかることは、人間の屑のようになり、虫けらのように扱われている者がいること、そして人々から嘲笑を受けているということである。こうした事件は、身近なところでは、今日の学校でのいじめから、ジェノサイドに至るまで、人間社会において絶えることはない。そうして、人々はこの絶体絶命の状況にある詩人をあざけって言う。「主に信頼しているなら、お前の神に救ってもらえ」と。(八節)この詩篇第二十二篇の過酷な状況は、イエスの十字架上での殺害で、文字通りくりかえされた。だからこそ、イエスは第二節の祈りを口にしたのである。

この詩篇に描かれている事実は、イエスの十字架の事件において、文字通り繰り返された。こうして預言としての詩篇の言葉は実現した。イエスの衣服は兵隊たちの間で籤で分けられた。(マタイ書27-35)手足は打ち砕かれ、衣服ははぎとられ、あばら骨は数えられ、十字架の上で晒し者にされた(ヨハネ書19-20)。しかし、ヨブを始めとする信仰の人は、自分たちの祈りが聴きいれられなかったといって、神に愚痴をこぼしただろうか。結局、彼らはすべて、その結果に従順だった。実際にも多くの無実の者が殺され、それに対し、悪事にふけるものが栄え、彼らの子孫たちにも何一つ欠けるものがなくとも、そして、この詩人のように着るべき服もなく、人間としてみるべき影もなく零落しても、彼は言う。「私を母の胎から取り出して、私を母の乳房に委ねられたのはあなたである」と(10節)。これがこの詩篇から学ぶべき教訓であると思う。

 

私たちは神をこの目で見たり、耳で聞いたりできない。神は私たちの感覚の対象ではない。その存在は私たちの思考で認識するか推理するしかないのであって、それでも、その存在について、多くの場合は徹底的な確証は得られない。その存在を証明する材料と同じだけ、あるいはそれ以上に、神の非存在が言い立てられる。推論から言えば、どちらも、決定的な論証はありえないともいえる。だから、その存在は信じるしかないともいえる。神の存在を信じる者には神は存在し、神を信じない者には神は存在しない。神の存在とは結局そのようなものであると思う。だから、神を信仰する者が、神の存在を否定する者と、神の存在や信仰について議論するのは多くの場合不毛である。

 

もちろん神の存在の証明の試みがまったく無意味であるというのではない。信仰の根拠は倫理にある。だから、倫理の問題を離れて、信仰を論じるのは無駄である。それでも私たちは理性的に概念的に神の存在を証明し、説明しなければならない。自分たちの考える神とはどのようなものであるか、その存在も、論理的に説明する意義もあると考えている。だから、まじめな無神論者との論争は拒まない。大いに賛成するところである。

 

しかし、信仰のある者にのみ聖書の記録は意味があるといえる。その読解は信仰が前提されている。神に対する信仰という前提を持たないで聖書を読んでも、聖書に「躓く」だけであろう。そして、多くの場合、つまらない議論をばら撒くだけである。とはいえ、この詩人のような、あるいはイエスやヨブのような信仰の模範を現実に見ることは難しい。私たち凡人は人生の小さな浮き沈みにさえ、一喜一憂し、その都度神に対して不平を並べ立てるのが落ちである。これが私たちの実際の姿である。しかし、それでも、こうした詩篇から信仰と忍耐を学ぶのは無駄ではないと思う。

この詩篇で描かれているように、およそ人間にとって考えられる限りの凄まじい境遇の中でも、詩人が示すのは、神への絶対的な信頼である。詩人に味方する者は誰もいない。ライオンがその牙で鹿の四肢を引き裂くように詩人を引き裂く。そして、衆人の眼にさらし者にされる中にあっても、神に対して、「なぜ私をお見捨てになったのか」と叫ぶ。詩人もイエスも、こうした苦難のなかにあっても、どこまでも主に対する信頼を失わない。そして、イエスも、ご自分の意思よりも、神の意思が優先されるように、神の御心が成就されるようにと祈った。

この詩人は幸いにも敵から救い出されたようである。そして、生きて子孫に神の栄光を伝えるという。(23・24節)また、主は貧しく苦しむ人の悩みを侮らず、助けを求める声を聞いて下さるという。この一節なども、それを読んで信じるかいなかは、各人の自由であろう。多くの信仰者の命が奪われた歴史的な事実から、信じるに値せずといって、頭を振って、神を信じないことも自由である。私たちも、この詩人の言葉を文字通りには受け取ることはできない。しかし、信仰の立場にある言葉として、私たちの希望の言葉として読むことができる。そして貧しい人(謙遜な人)は食べて満ち足り、永遠の命が与えられるようにと祈る。神に対する態度は、結局私たちの人生の態度によって左右されるものである。また、そこに歓びも慰めもある。

おそらくこの詩人は自分の命が取り去られたとしても、神に対する信頼を、死の床に至るまで失わなかっただろう。こうした態度が私たちに可能であるかはとにかく、これが信仰の模範であると思う。確かに私たちはこうした信仰を持ちながらも、祈りが聴きいれられず、再び生きることのなかった無数の人々の存在を知っている。だから、「祈りや信仰は無意味で無益だ」と斥けるべきなのだろうか。この詩篇を読んで学びうることの一つとしては、そして、私たちの実際の人生の経験からも知りうることは、ただ祈るだけで詩篇の神がいつも私たちの祈りを聞きいれ、救済されることはないということである。だから、ここからもう一つ学ぶべき教訓としては、私たちはあくまで自力救済を忘れず、それを前提にすべきだということだろう。もちろん、だからといって神への信仰を放棄せよというのではない。私たちはどこまでも神に依頼する。その価値は揺るがない。これが老兵の信仰なのかも知れない。

第28節以下は主権者としての神の記述として興味のあるところである。私たちは普通、国家の主権といえば、国民にあるとする民主主義か、天皇にあるとする君主制論者などは知っている。しかし、この詩篇のように主権が神にあると断定する者は少ない。神を主権者とする憲法が制定されるとすればどのようなものになるだろうか。憲法論としても興味のあるところである。

また、詩篇の神が単にユダヤ人だけの神ではなく、すべての民族の神であることが預言されている。28節には、地の果てにいる民もすべてが神を記憶して、立ち帰るようにと、そして神の主権に服するようにという。神が異邦の国々を治められるという。ユダヤ人にとっての異邦の国々とは、キリスト教の国々である。父と子と聖霊の神を慕う国々に他ならない。

第30節の日本語訳は少しあいまいである。英訳のほうが明確だと思う。共同訳の「命溢れてこの地にすむ者」は「傲慢な者」のこと、「塵に下った者」とは「死すべき人間」でよいのではないか。「私の魂は必ず命を得」とあるのも、、むしろ逆で、「傲慢で死すべき人間の魂は長くは生き続けない」と訳すべきところだろう。

 

 


 

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詩篇第二十七篇註解

2005年11月05日 | 詩篇註解

第二十七篇


ダビデの詩


主は私の光、私の救い。私は誰も恐れない。
主は私の命の砦、私は誰にも怯えない。
悪人どもが私を攻め、私を殺そうとするとき、
私を害する敵どもこそ私に躓き、よろめくだろう。
たとえ、敵陣が私を囲んでも、私は恐れない。
もし、彼らが戦いを挑んでも、私は信頼している。
唯一つのことを私は願い、それを主に求める。
生涯の日々、主の宮に住まい、
主の麗しさを仰ぎ見、主を黙想することを。
災いの日には、主は私を仮庵の中に匿い、
幕屋の奥に隠し、硬き岩の上に立たせてくださるから。
今こそ、取り巻く敵どもの上に私は頭を高く挙げ、
主の幕屋の中で歓びの生け贄を捧げ、
主に向かって誉め歌を歌う。
主よ、私の叫びを聴き、私を憐れみ、私に答えてください。
あなたは言われる。「私を探し求めよ」と。
私はあなたを尋ね求めます。
あなたの御顔を隠されることなく、
怒りによってあなたの僕を退けないでください。
私を助けて、私から離れず、見捨てないでください。
神よ、私の救い。
たとえ、わが父と母が私を見捨てても、
主は私を呼び寄せてくださる。
教えてください。主よ、あなたの道を。
そして、陥れる敵から、私を穏やかな小道に導き、
害する者たちに私を渡さないでください。
彼らは偽りの証言をし、私を虐げ罵るのです。
もし私が生きてあなたの恵みを見ることを信じないならば。
主を待ち望め。
強く、勇ましくあれ。そして、主を待ち望め

 

第27篇註解                 私を探し求めよ

英訳には「賛美の祈り」という標題がついているが、少し内容から外れているのではないかと思う。この第二十七篇の主題は二つある。前半は、主が祈りを聴かれて苦難から解放されたことに対する感謝と賛美の祈りであり、後半は、主に対する信頼と待望の勧めである。


第一節で、主が光であり、救いであることを詩人は言う。主は抽象的で観念的な存在であるが、客観的に存在する実在者として、闇夜の道を照らして安全な道を指し示し、困難から救う光にたとえられている。あらゆる危険から守ってくださる主は「救い」でもある。それゆえに、主に信頼を寄せる詩人は、あらゆる危険に対しても恐れることはない。敵の全軍が自分を取り巻き、敵が私に攻撃を仕掛けて命を奪おうとしても、主である神に固く信頼するゆえに詩人は恐れることはない。むしろ、悪しき人々が、自分を殺そうとする悪しき彼らこそ、躓きよろめく。


そして、詩人が願うことは唯一つ。生涯に渡って主の家に宿り、主の宮で、主の美しさを調べ黙想し尋ねることである。共同訳では、「主の家で朝を迎えること」となっている。英訳では、「主の指導を求める」となっている。

「主の家」とはどこか。神は言葉でもある。言葉、ロゴス、理性でもある神、主の住まわれているのは、聖書の中であり、天である。新約聖書では、「天地の創造主は人間の手で造られた神殿などには住まわれない」(使徒言行録17:24)と言い、そして、「イエスキリストの宿る人間こそが神殿である」とされる。(コリント前書Ⅰ3:16)

災いや困難の日に、詩人は主の指導と保護を求めて祈る。仮庵や幕屋に──いずれも、砂漠で、荒々しい自然から人間を保護する住居である──に主は詩人を匿い、さらに、敵に打ち勝たせ、岩の上に高く立たせ歓声を挙げさせる。そのとき、詩人は主に感謝のいけにえをささげ、賛美の歌をささげる。

苦難の状況におかれた詩人に、主は言われる。「来て、私に祈れ」そこで、詩人は救いを求めて、「自分が何をなすことを主は欲しておられるのか」それを教えてくださるように、「安全な道に導かれるように」と、主に祈る。

この詩人の悩みは、最も親しい母、父にさえ見捨てられようとしていることである。最近は日本でも、子供に対する虐待が増え、それも、両親から虐待されるという無情、無慈悲な状況が生じている。日本人に慈悲心や同情心、愛情が希薄になりつつある証拠である。聖書によって神とイエスから愛を学ぼうとしない罪の結果である。どんなに物質的に富んでも、両親から愛を受けない子供は不幸である。だが、父母といえども、生きる人間である限り、弱さ、愚かさから免れない。この愚かで弱い両親から見放されたときにも、主は、詩人の身近におられ、愛されているという。たとい両親兄弟姉妹からも見捨てられるという苦難の状況にも、常に愛そのものである主に祈り保護を求めるようにと、この詩篇は教えるものである。

詩人は、生きて再び、主の恵みを味わうことを確信している。そして、主に対する信頼を決して失わず、信仰を固く保って失望することなく、主の救済を待ち望むことを勧めて、この詩篇を終える。

 

 

 

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ニーチェとキリスト教

2005年11月01日 | 宗教一般
 

                   
ニーチェは激烈なキリスト教批判者として知られている。  私もそのように聞いている。しかし、ニーチェがどのようにキリスト教を批判しているのか、その実際は不勉強のためにほとんど知らない。私はニーチェを自分の先生に選んだわけでもなく、また、限られたわずかな人生の時間の中で、ニーチェの研究にまでは到底手は回らない。

日本では西尾幹二氏らがニーチェ研究家として知られているようである。結局、どのような思想や哲学に興味と関心を持つか、そこにはおのずと個人の根本的な個性の本能的な選択が働くようである。興味や関心が持てなければ縁がなかったのだとあきらめざるを得ない。今に至るまでニーチェのような思想家に本質的な関心と興味を持てなければ仕方がないと思っている。

ニーチェの思想はキリスト教との対決と批判から生まれたと言う。ニーチェは代々の牧師の家系に生を享けたと聞いているし、また、ドイツ人は紛れもなきキリスト教民族である。私のように多かれ少なかれ青少年期からキリスト教にあるいは聖書に事実として関心を持ってきた者には、ニーチェのような思想家は、余りにもキリスト教的な土壌からしか生まれなかったことだけは理解できるように思う。共産主義と同様に、ニーチェのような思想は日本などからは生まれるはずはないのだ。

もっとも良いものは、もっとも悪いものである。もっとも純潔なものはもっとも腐りやすいものである。最善のものは最悪のものである。もっとも美しいものはもっとも醜いものである。もっとも優しいものはもっとも冷酷なものである。多少なりとも弁証法を聞きかじっている私にとって、キリスト教もまた、余りにキリスト教的なドイツにおいて、このような弁証法的な運命を辿ったことは容易に推測がつく。だから、ニーチェがキリスト教を最悪の「価値」として攻撃したことは、およそのところ推測できると思っている。劇薬は慎重に扱われなければならないのである。キリスト教と言えども、それは、いつでも容易に最悪の迷信や狂信に転化しうる。イエスもそのことを予測してか、繰り返し、「私に躓かないものは幸いである」と警告している。キリスト教がわが日本においてもドイツと同じような運命を辿らないとは誰も言うことができない。

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