海と空

天は高く、海は深し

日々の聖書(11)―――密かな弟子

2006年12月27日 | 日々の聖書

日々の聖書(11)―――密かな弟子

そしてこの後、アリマタヤのヨセフという、ユダヤ人を怖れてイエスの弟子であることを密かに隠していた者が、ピラトにイエスの死体を引き取ることを願い出ると、ピラトは許したので、彼は、イエスの身体を引き取った。

(ヨハネ書第十九章第三十八節)

公然と信仰を告白することが、昔からなかなかできなかったことは、すでにイエスの在世時からであったことがここでもわかる。イエスに対する公然の信仰告白が、昔から事実として、多くの犠牲なくしてできない場合が多かったことを示している。このアリマタヤのヨセフはユダヤ人たちから村八分にされることを怖れたために、イエスの教えの真理であることがわかっていながら、それを公然と告白することができなかった。

しかし、信仰告白がたんに村八分ぐらいで済んでいればまだ幸いである。とくに、わが国の織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの戦国武将のキリスト信徒に対する弾圧は苛烈を極めた。

それは何もキリスト信徒に対してのみではなく、当時の封建的な戦国時代そのものの気風が本質的に過酷な統治で人々に臨んだものだった。信長は一向宗徒を焼き討ちにしたし、豊臣秀吉の甥の秀次ですら、一たび謀反の疑いをかけられると、一族郎党が皆殺しにあった時代である。

安土桃山の時代に布教が始まったキリスト教も当初は多くの信者を獲得したが、その教義の実体が時とともに明らかになってくると、戦国の武将たちは警戒を隠さなかった。長く続いた戦乱の不幸を痛切に知っていた徳川家康は、それが天草の乱として彼らの地位を揺るがしかねないことがわかると、あらゆる手段で禁圧弾圧に及んだ。内政的には檀家制度によって仏教で民衆の思想統制を強固に図るとともに、外政的には鎖国制度をしいて、海外からのキリスト教の流入を防ぎ、国内からキリスト教の完全な排斥につとめた。

今日でもその事実はさほど明確に自覚されてはいないけれども、徳川の幕藩体制を、その内政と外政を大きく規定したのはキリスト教の威力に対抗するためであったと言える。そうした過酷な時代に、アリマタヤのヨセフのような多くの隠れキリシタンの日本人がいたとしても責めることはできない。

かっての徳川家康の居城であった駿府城の一角に今ではカトリックのミッションスクールがあるし、現代では、イエスに対する信仰を明らかにしたからといって、誰も生命を奪われることもない。信仰の自由は憲法によって守られる時代だからである。

 

そしてこの後、アリマタヤのヨセフという、ユダヤ人を怖れてイエスの弟子であることを密かに隠していた者が、ピラトにイエスの死体を引き取ることを願い出ると、ピラトは許したので、彼は、イエスの身体を引き取った。

(ヨハネ書第十九章第三十八節)

 

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クリスマス、おめでとう。

2006年12月24日 | 日記・紀行

クリスマス、おめでとうございます。

今年も、クリスマスを迎えました。

何とか、平穏無事で迎えられたことは感謝です。
しかし、あまり進歩のない一年だったと思います。
ろくな仕事もできませんでした。

今年も、日本も世界もいろんな事件がありました。
多くの幸福とともに、不幸もあったと思います。
それぞれに、豊かな慰めがありますように。

このマイナーで、堅苦しいブログを訪れてくださった皆さん。
どうかよいクリスマスを。
楽しい一夜をお過ごしください。

Merry X'mas !

 

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カンタータ第二十五番

2006年12月23日 | キリスト教

カンタータ第25番

バッハのカンタータ第二十五番は、詩篇第三十八篇第四節のコラールを基礎に歌われている。

私の肉体には健やかなところがありません。あなたの激しい憤りのために。
私の骨にも安らぎはありません。私の過ちのために。
(詩篇第三十八篇第四節)

この詩篇第三十八篇では詩人はおぞましい疫病に冒されている。彼の肉体は爛れて膿み、悪臭を放っている。(第七節)
そのために、かって親しく付き合った友も、愛した人も今では自分から離れて去ってしまった。(第十二節)

それどころか、これを機会に敵は彼の命を付けねらい、彼を破滅に陥れようとうかがっている。(第十三節)

こうして、この詩人は不治の業病を患って、この世で考えられるかぎりの生き地獄の世界をさすらっている。

こうした悲惨な状況にある詩人の境遇は、マタイ受難曲思わせる悲しい旋律で合唱される。(第一曲)

それに応じて、次のレチタティーヴォでは、この全世界は無数の病人を抱え込む病院に過ぎないと説明される。子供も大人も病み穢れ、熱と毒で四肢を冒された病人に満ち満ちた病院の様子が、福音史家を思わせるテノールによって描写される。患者たちは人々からも見捨てられて、この世に身の置き所もなく、当てもなくさすらわなければならない(第二曲)
Die ganze  Welt  ist  nur  ein  Hospital  !

そうした救いのない世界で、彼の肉体の病を癒してくれるどんな薬も見当たらない中で、身と心を癒してくれる唯一の医者であるイエスに対する希望と願いが、苦しむ詩人のアリアのバスによって歌われる。(第三曲)

Du mein  Arzt, Herr  Jesu, nur  Weisst 
die  beste  Seelenkur.

しかし、この悩める詩人は、とうとうイエスの中に遁れ、そして清められ心も新しく強められて癒される。それで全心で命の限り感謝を捧げようと思う。ここでは明るいソプラノによって詩人の喜びが描写される。(第四曲)

続いて、救われた者のいっそう高揚した感謝の気持ちが、ソプラノのアリアで歌われる。(第五曲)

そして終局では、イエスの強い御手によって、まさに死の境にあった患いと悩みから解放された歓びと感謝から、人々は合唱によって、イエスを永遠にほめたたえるように勧める。(第六曲)

わずか10分たらずの小さな曲の中に、キリスト教の本質が美しく、心の中の対話があらわになる形で、その苦悩と感謝が、バッハのその芸術の天才によって、人々の心に刻み込まれる。こうしたカンタータを土台にして、彼の受難曲などが作曲されたのだろう。

聖書の詩篇も、もともと楽曲をともなって歌われたのだろう。中東の世界においてはもっと素朴な旋律だったと思う。バッハの場合は、詩の趣旨が見失われかねないほどに、その旋律はあまりに美しすぎる。ここでも罪の問題が人類の深刻なテーマであることには変わりはない。全世界は一つの病院である(Die ganze  Welt  ist  nur  ein  Hospital )と言う。

 

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日々の聖書(10)―――富と貧しさ

2006年12月21日 | 日々の聖書

日々の聖書(10)―――富と貧しさ

富貴の人に気に入られようとする者は多く、贈り物をくれる者には誰しもが友だちになる。だが貧しい者は、兄弟にすら憎まれる。まして友人たちはいっそう彼から遠ざかる。貧しい者の言葉には誰も耳を傾けない。

(箴言第十九章第六~七節)

富は多くの友人を作るが、没落して貧して窮した者には、兄弟や信じていた親友すら離れ去る。このような事実を体験するのは、バブル経済に天国と地獄を体験した平成の世の日本人のみに限らないらしい。

紀元前200年、300年もの昔に作られた聖書の『箴言』のなかにもこのように語られているからである。砂漠に生きたアラブ人、ユダヤ人、エジプト人たちもそうだったらしい。人間の本性というのは、古今東西そんなに変わらないことがわかる。


豊かになるにしても貧乏になるにしても、実際の世の中は、往々にしてままにならないものである。人は誰しも好むと好まざると、運命の巡り合わせから、不本意な境遇に陥ることはある。人間の生はもともと不安である。だから誰しもそれなりの覚悟はしておけということなのだろう。

私たちは、この聖書の言葉から、何を学ぶことができるだろうか。それは第一に人間のもって生まれた弱さだろう。そうした行為は弱さから来るからだ。もちろん、人間にはもって生まれた強さというものもある。しかし、弱い人間の限界の一面として、この箴言が記しているような態度をとる人間は多い。それを恨んでも仕方のないことである。

それは人間の弱さのせいであって誰も非難はできない。だから、人は逆境に立ち至ったときのために、ふだんから人間関係にそれなりの覚悟をしておくことだろう。また一方で、そうした事態を招かないように人事を尽くすことだろう。

さらに望ましいことは、イエスを私たちの共通の絆として、同じ主と仰ぐことのできる友を得ることだろう。なぜなら、彼はその堅き信仰によって、不確かな富に望みをおかず(テモテ前6:17)、主の貧しさによって豊かであるから(コリント後8:9)。彼は、富める時も貧しいときも支えてくれるにちがいないから。

イエスを友として授かれば、ましてなおさらである。彼ならこのような態度をとることはありえない。しかし、この世ではこれが大方の人間の真実なのだろう。

富貴の人に気に入られようとする者は多く、贈り物をくれる者には誰しもが友だちになる。だが貧しい者は、兄弟にすら憎まれる。まして友人たちはいっそう彼から遠ざかる。貧しい者の言葉には誰も耳を傾けない。

(箴言第十九章第六~七節)

 

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詩篇第百十二篇註解

2006年12月19日 | 詩篇註解

 

詩篇第百十二篇

主を誉めたたえよ。
何と幸いなことか、主を畏れる人は。
彼は主の戒めをまことに歓ぶ。
彼の子孫は地上の勇士となり、
正しい者たちの世代は祝福される。
彼の家は富と財産に満ち、
彼の正義は永遠に揺るがない。
正直な者たちは、暗闇の中に光輝き、
豊かに恵み、憐れみ深く、正しい。
良い人は、憐れみ深く、物惜しみしない。
彼の言葉は、裁きの場でも受け入れられる。
永遠に揺らぐことなく、義しい人は永遠に忘れらることもない。
彼は悪評を恐れず、
彼の心は堅く主に信頼している。
彼の心は堅く揺るがず恐れることもなく、
ついには敵どもの敗北を見る。
貧しい人々には豊かにふるまい、
彼の正義は永遠に揺らぐことなく、
彼の角は栄光のうちに高く掲げられる。
悪人はそれを見て怒り、
歯ぎしりして消え去る。
神に逆らう者たちの願いは滅びる。

 

詩篇第百十二篇註解      恐れず揺るがず

ハレル(誉めよ)ヤー(主を)ではじまる賛美の歌。また、各句の冒頭は暗記しやすいように、日本のイロハかるたのように、アルファベット順に並べられている。ユダヤ人たちはそうして詩篇を暗記して昼夜口ずさむのだろう。

ここでも幸福な人とは、主を畏れる人である。しかし、たんに主を畏れるという消極的なことではなく、主の教え、主の戒めは詩人にとっては深い歓びと慰めの源でさえある。(1節)

このように主の教えを愛する人の子々孫々は、勇敢で強く、主の教えに従う人たちの世代は祝福された幸福な世代である。そんな彼の家族には豊かな富がある。

旧約では、正義と富とは一致すると楽天的に信じられている。決して間違いではないとしても、往々にして成金的な富は正義に反して得られる場合が多い。しかし、そうした富は長続きしないのだろう。
それは市場原理主義の現代でも同じだと思う。

ユダヤ人にも貧しい人は少なくないが、世界的な長者も少なくない。人口比から言えば、もっとも大金持ちの多い民族だろう。おそらくそれは、この詩篇に歌われているように、ユダヤ人には、先祖代代にわたって主の教えを愛し、正義に生きる人々が多かったことによるのだろうと思われる。キリスト教徒の場合でも同じだと思う。古い家系のキリスト教徒に裕福な家族は少なくない。富や豊かさは、もともとは神からの贈り物なのだろう。


山上の教訓で、イエスが「心の貧しい人は幸いである」(マタイ書5:3)と言ったことから、従来のキリスト教は貧しさを尊ぶ傾向が強いけれども、経済的な貧困自体は不自由なものである。貧困自体は良いものではない。本来の趣旨は、「心の貧しさ」、「謙遜」の価値を語ったものだと思う。ここで良い人、正しい人とはどのような人であるか語られる。それは、憐れみ深く、物惜しみせず与える人だという。(4節5節)そして、彼は法に従って行動するから、裁判所でも彼の言葉は信頼される。そして、何よりも、死後に行なわれる神の前での審判においても、彼の証言は受け入れられる。

また、主に信頼する人は揺るがない。(6節)だから、人から悪評を立てられても恐れない。実際に人から悪口を言われなかった者はいないだろうし、また、人の悪口を言わない人も少ないのではないか。人の口から悪口を絶つことはできないし、人間とはそうした者である。主に信頼して支えられているから詩人は悪評も恐れず、信じる道を歩んでゆく。そしてついには、敵の敗北を目に見る。そうして彼の角は主によって高く掲げられる。角とは、勝どきを上げるラッパのようなもので、それは力と支配を表すシンボルである。

正しい人がそうして主に支えられるのを見て、悪人は憤り歯ぎしりして怒るが、やがては力を失い、彼らの野望も消えてなくなるという。この詩も主の教えに忠実であることの歓びと慰めを歌っている。

 

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日々の聖書(9)―――緑なす葉

2006年12月14日 | 日々の聖書

日々の聖書(9)―――緑なす葉

流れの河岸に植えられた木のように、彼は時が来れば実を結び、その葉もしおれることはない。
   
(詩篇第一章第三節)

あらゆる生命にとってなくてはならないものがある。それは水である。人間は少々食べなくても生き長らえることはできるけれども、水がないとそうはいかない。遭難にあったときに、水があるかどうかが運命の分かれ道になる。

そして、「みずみずしい」という日本語があるように、水に潤っていることが、生き生きとしていることの、活きていることの証しになっている。植物と同様に人間も水がなければ萎れて枯れ、やがて死んでしまう。

人間は肉体と精神からなる生き物である。肉体にとって水が不可欠であるように、精神にも水を欠くことができない。肉体と同様に心や精神の成長のためにも水はなくてはならないものである。

しかし、肉体にとっての水に相当するものは、精神にとっては何か。詩篇の第一章では、それは主の教えであるという。信じる者にとって、日々に主の教えを口ずさむことは、心に水を注ぐようなもので、それで心もふたたび生き生きとしてくる。精神が枯れ衰えることもない。

さらにキリスト教では、精神にとっての水は、ただに主の教えばかりではない。パンとぶどう酒に喩えられるイエスの身体もそうである。十字架の上で喉の渇くイエスは人々から酸いぶどう酒を飲まされたが、イエスのぶどう酒も渇きを癒してくれる。また、イエスを信じるものには、心に活きた水が川のように流れ出てくる。(ヨハネ書第7章第38節)だから、イエスも、喉の渇いている人は誰でも来て飲むように言われた。こうして、彼から日々に生ける水を飲むものには、岸に植えられた木々のように、彼の心や精神はいつまでも生き生きとして、枯れて萎れることもない。

流れの河岸に植えられた木のように、彼は時が来れば実を結び、その葉もしおれることはない。
   
(詩篇第一章第三節)

 

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詩篇第百三篇註解

2006年12月13日 | 詩篇註解

詩篇第百三篇

ダビデの歌

私の心よ、主を誉めたたえよ。
私の全身で主の聖なる名を誉めたたえよ。
私の心よ、 主を誉めたたえよ。
主の恵みのすべてを忘れてはならない。
主はあなたのすべての罪を許し、すべての病を癒される。
主はあなたの命を墓穴から救い出され、
あなたに愛と憐れみの冠をかぶせられる。
あなたの口を善き物で満ち足らせ、
あなたの若さを鷲のように新たにされる。
主はすべての虐げられたもののために、
正義を行い、裁かれる。
主はご自分の道をモーゼに、
み業をイスラエルの子たちに教えられた。
主は憐れみ深く、豊かに恵まれる。
怒るに遅く、愛に富み、
主は常に責められることはなく、永く怒られることはない。
主は私たちの罪にしたがって扱われることはなく、
私たちの悪にしたがって報いられることもない。
天が地を高く越えるように、
主の愛は、主を畏れる者の上に深く、
東が西から遠いように、
主は私たちから犯罪を遠ざける。
父がその子を憐れむように、
主を畏れる者を憐れむ。
まことに主は私たちがどのようにして造られたかを知っており、
私たちが土くれに過ぎないことを覚えておられる。
人の生涯は草のようなもの、
野の花のように咲く。
風が吹けば、散って消え、
跡形さえも知られない。
だが、主を畏れる者たちの上に、
主の愛は永遠から永遠に至る。
主の正義は子から子へと。
主の契約を守り、主の命令を覚えて行なう者の上に。
主は天に固く御座を据えられ、
主の御国はすべての者を治められる。
主の御使いたちよ、主を誉めたたえよ。
主のみ言葉に聴き、主のみ言葉を行なう強き勇士たちよ。
主のすべての軍勢よ、主を誉めたたえよ。
主に仕え、主の御旨を行なう者よ。
主の御手に造られた物はすべて、主を誉めたたえよ。
主の支配するすべての土地で、誉めたたえよ。
私の心よ、主を。

詩篇第百三篇註解              愛と憐れみの冠

主を誉めたたえる歌である。詩人は主を誉めたたえる。全身全霊で主に感謝している。なぜなら、詩人の犯したすべての罪が許され、すべての病が癒されたから。

罪とは心の病でもある。それが、主の愛と憐れみによって癒され、病から回復して、若い鷲のように全身に力が回復するのを感じる。それゆえ、詩人は主に感謝し、主を誉めたたえざるをえない。
罪からの病のために、死の墓に降ろうとしていたのに、主の愛によって贖い出されたのだから。(第4節)
ここでも、思い出されるのは、死んでから四日もたち、手や足や顔を布で覆われて葬られていたラザロを、墓の穴からイエスが呼び戻されたことである。       (ヨハネ書第11章第38節以下)

また、詩人は何らかの理由で虐げられている。(第6節)
聖書はもともとユダヤ人の本であるが、ユダヤ人はモーゼによるエジプトからの奴隷的な境遇からの解放後も、多くの苦難に見舞われてきた。この詩人もそうした迫害を受けていたのだろう。詩人はみずからの受ける虐げを主の怒り、主への反逆の報いとして受け取っていた。

しかし、主の怒りが永遠に続くことはなかった。父がその子を憐れむように、 主を畏れる者を憐れんでくださるという。(第13節)
イエスが主を放蕩息子を迎える父として喩えたことはよく知られている。詩人もそこに主の憐れみと忍耐を感じている。主の愛は天が地を超えるように高く深い。一度は失われた息子の帰還を歓ぶ父の無償の愛と同じである。それと同じものを詩人は感じたのだろう。

第14節からは一転して、人間の果敢なさ、虚しさが歌われる。詩篇は論文ではないから、必ずしも内容が論理的に展開されるわけではない。全身全霊に感じるままに、心の赴くままに、その奥底から湧き上がる思いを言葉に込めて歌われる。

人間とは大地から土くれをこねて主が造りあげたものである。(第14節、創世記第2章)そして、人間の生涯は、かってモーゼによって歌われたように、野の草のようにはかない。(詩篇第九十篇)
人間の生涯のはかなさは野の草花に喩えられる。朝が来て花を咲かせても、砂漠の熱風に吹かれて夕べには萎れて枯れる。哲学が概念によって世界を把握するのとは異なり、詩はそうした喩えによって、直覚的に人生観や世界観や神を表現する。

主を畏れる者に、主の契約を守る者に対する主の愛は、ここでも繰り返し歌われる。主の契約とは、第7節に歌われているモーゼを介して教えられた、主の道であり、いわゆる主の十戒のことである。それを心にとめて生きる生き方のことである。

第20節で主のみ使いについて歌われているが、主のみ使いとは、いわゆる天使のことであるが、天使とは、ここで述べられているように、主の言葉を聴き、主の御旨を行うものである。その意味では、預言者や使徒たち、また主を信じる人々を考えてよいのだと思う。預言者や使徒たち、さらには主を信じる者たちは、また主の兵士でもある。その軍勢があまりに多いために、彼らを率いて現われる主は、万軍の主とも呼ばれる。

その主は天に玉座を据えられ(第19節)、そこから万物を支配される。イエスも天に上げられ、神の右の座に着かれた。(マルコ書第16章第19節)そうして、この世の国もまた、主と御子イエス・キリストのものとなり、永遠に統治されるものとなる。(黙示録第17章第15節以下)

主を誉めたたえるのは、み使いたちだけではない。主に造られたものすべてが、空の鳥も、海の魚たちも、野の草花も、山も空も、夜空の星々も、創造された万物すべてが主の創造の御業をたたえるようにと言い、何よりも詩人は自分の心に向かって、全宇宙にその栄光を現わされた主を誉めたたえるよう呼びかける。

 

 

 

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公明党の民主主義

2006年12月12日 | 仏教

公明党の民主主義

北朝鮮の核実験にからんで、それが連鎖的に日本の核武装へと波及することの懸念は欧米の論調でも多く見られる。もちろん、その根本的な理由は、日本の民主主義の成熟度に対する不審によるものだ。
海外からは、北朝鮮とならんで日本もまた、中川政調会長の発言のように「どうみても頭の回路が理解できない国」とまだ見られている。

さる十五日のあるテレビ番組で、自民党の中川昭一政調会長が、「核があることで攻められる可能性は低いという論理はあり得るわけだから、議論はあっていい」との認識を示したそうである。私もそうした意見は、自由な国民の中から当然に出て来てよいと思うが、今なおこうした問題では、「議論さえするな」という意見があるようだ。

これを報じていた朝日新聞の記事は以下の通りである。
------------------------------------------------------------
自民政調会長「核保有の議論必要」 首相は三原則を強調
2006年10月15日18時50分

 自民党の中川昭一政調会長は15日、北朝鮮の核実験発表に関連し、日本の核保有について「核があることで攻められる可能性は低いという論理はあり得るわけだから、議論はあっていい」との認識を示した。安倍首相は国会で「我が国の核保有という選択肢は一切持たない」と答弁している。だが、日本も核武装するのではとの見方が海外の一部で出る中での与党の政策責任者の発言は、波紋を広げそうだ。

 テレビ朝日の報道番組などでの発言。中川氏は非核三原則は守るとの姿勢を示したうえで、「欧米の核保有と違って、どうみても頭の回路が理解できない国が(核を)持ったと発表したことに対し、どうしても撲滅しないといけないのだから、その選択肢として核という(議論はありうる)」と語った。

 一方、安倍首相は15日の大阪府内での街頭演説でも「北朝鮮が核武装を宣言しようとも、非核三原則は国是としてしっかり守っていく」と明言。中川秀直幹事長も記者団に「首相の発言を評価している」と語り、党として議論するつもりはないことを強調した。

 また、公明党の斉藤鉄夫政調会長は同じ番組で「議論をすることも、世界の疑念を呼ぶからだめだ」と反論。民主党の松本剛明政調会長も「今、我が国が(核を)持つという方向の選択をする必要はない」と述べた。


http://www.asahi.com/special/nuclear/TKY200610150124.html

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この記事で気になったのは、公明党の斎藤鉄夫政調会長が「議論をすることも、世界の疑念を呼ぶからだめだ」と反論したとされていることである。

このようにして人はタブーを作り、自己規制し、思考停止に陥るのだ。そうして頭だけ布団に隠したつもりでも、危険は消えてくれる訳でもない。

この記事が真実なら、やはり公明党員らしい発言だなと思った。というのは、公明党は本来的に民主主義政党ではないと思っていたからである。もちろん、公明党が「民主主義」をその政党の基本的な原理にするかどうかは、公明党やその支持者の自由である。ただもし、多くの国民が公明党を民主主義政党であると考えているなら、再考の余地があるのではないかと言いたいだけである。そして、それが真実なら、民主主義を支持する国民はこの政党を支持しないだけの話だろう。

「議論することもだめだ」と言うのは、もちろん、「言論の自由」とその価値を知っている人の発言ではありえない。この報道が真実なら、公明党の政策責任者の「自由と民主主義観」がどのような程度のものであるかが、そこに計らずも露呈したのだろう。ふだんから民主主義が血肉になっている人には、ケガにもこうした発言は出てこない。こうした事実にも、公明党が本質的に民主主義政党ではないことを証明していると思う。もちろん、先にも述べたように、公明党が民主主義政党でなければならないということはない。日本の憲法は共産党などの全体主義的な政党も合法として存在を認めている。

ただ、近代現代を通じての人類の歴史的体験からも、自由と民主主義を原理としない組織は、それがたとえ政党であれ、国家であれ現代の組織形態としては、国際的にも公認されにくいというのが歴史的な事実ではなかろうか。そして実際、そうでない政党や組織、国家は事実として歴史からも姿を消していっている。

いずれにせよ、こうした事実からわかることは、宗教的に自由に解放されていない国民や民族が民主主義を標榜することは、やはり茶番や喜劇に過ぎないことである。これは何も公明党員のみに限らない。今イラクでアメリカは民主主義的な国家、政府の樹立を目指して、軍事的にも苦闘しているが、その困難の背景には、やはり、イラク国民、イラクの民衆の多数がいまだ自由な宗教に解放されていないという歴史的な現実がある。宗教改革を経ないそのような民族や国民が、そのままで国家や政府を民主化することはできないのである。少なくとも内在的に民主主義国家を形成することはむずかしい。

日本国がまだ事実として半民主主義国に留まっているのも、この公明党の斎藤鉄夫政調会長に見るように、国民の多数としては、いまだ自由の宗教へと解放されてもおらず、また「宗教改革」も経験していないからである。この事実は、いわゆる左翼であっても右翼であっても変わりはない。

もちろん、ある歴史的な段階にある国民や民族にとっては、民主主義的な統治形態が必ずしも適切であるとは限らない場合もある。それは先のタイで起きたクーデター事件でもみた通りである。ただ、そうした後退があるとはいえ、それでもやはり人類の進むべき歴史の方向は、自由と民主主義であることは認めてよいと思う。

  宗教と国家と自由 

  タイ国のクーデタ事件に思う

 2006年10月16日

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日々の聖書(8)―――心と肉体

2006年12月11日 | 日々の聖書
 

日々の聖書(8)―――心と肉体

気を付けて祈っていなさい、誘惑に引き込まれないように。心は欲していても、肉体は強くはないから。   
(マタイ書第二十六章第四十一節) 

               
この言葉はイエスが弟子たちとともにゲツセマネというところに来て祈られたときに、イエスが祈っておられる間ですら、こらえ切れずに眠ってしまわれた弟子たちをいましめられた言葉である。

キリスト教が「心」と「肉体」を明確に分離して考えるようになったのは、おそらくイエスのこのような考えから来るのだろう。仏教や儒教などにおいては、これほどまでに心と肉体を分離して捉える思想的な伝統はない。

そして、私たち日本人にとって、キリスト教のわかりにくさの原因の一つも、この肉体と心を二分的に見る人間観と、その「心」が具体的に何を表しているのか、その概念が明確ではないことにあるのではないだろうか。

実際に、この「心」は、場合によっては、「精神」とか「霊」とか「魂」とかに訳されたりする。いずれにせよ、それは、神が人間を創造するときに、大地から土をこねて人を形づくり(肉体)、その鼻に「命を与える息」(精神)を吹き込まれることによって、人間が生きるようになったことから来ている。(創世記2:7)

だから、聖書における「心」「精神」「魂」「霊」などのもともとの語源は、「息」とか「風」のように、目に見えないものであり、神から与えられた生命の源である。この「息」がなくなれば、すなわち、「心」や「精神」がなくなれば、人間の肉体は死ぬものである。

もともと神から与えられた生命の息、心、精神はどんなに強くても、土で造られた人間の肉体は強くはない。だから、人間はどんなに心で神の教えや戒めを守ろうとしても、弱い肉体はそれを犯し破ってしまう。ここに人間の生まれながらに持つ悩みがある。イエスはその悩みに苦しまないように、忠告されて言われた。

気を付けて祈っていなさい、誘惑に引き込まれないように。心は欲していても、肉体は強くはないから。
   
(マタイ書第二十六章第四十一節)

 

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ヘーゲルのプラトン批判

2006年12月06日 | キリスト教

ヘーゲルのプラトン批判

古代ギリシャ民主政治の根本的な欠陥を痛感していたプラトンは、みずからの理想国家を構想して『国家』に著した。プラトンは、哲人と称される理想的な人格が政治を指導するようになるまでは理想とする政治は実現できないと考えたのである。そのためには哲学が国家権力を指導するようにならなければならない。この意味でプラトンは全体主義の創始者といえる。


現代においては「全体主義」は悪の権化のようにみなされている。しかし真実の全体主義はそんなに安易に批判して済ませられるものではない。全体主義の評判が悪いのは、先の第二次世界大戦でドイツにおいてはヒトラー、イタリアにおいてはムッソリーニなどの独裁者に率いられた国家主義政治が、犯罪を国家レベルで指揮したからである。本来的には全体主義や独裁政治自体が「悪」であるとはいえない。独裁者が善を志向するか悪を志向するかによって決まるものである。


ただ現代においては独裁政治自体は自由主義の観点から批判されてはいる。それは独裁政治において、たとい善政が施行されるにしても、そこには自由がないという点において批判されるのである。ヘーゲルがプラトンの国家論を批判しているように、プラトンの哲人政治の根本的な欠陥は、その政治が個人の自由の上に成立していないことである。(岩波文庫版『精神哲学』下§176以下参照)


プラトンの生きた当時の古代ギリシャ民主主義の国家形態とプラトンやソクラテスの内面に目覚めつつあった自由の意識との間に生じつつあった矛盾をヘーゲルは指摘している。プラトンは真実の憲法や国家生活は「正義の理念」の上に、それが国民一般の自覚の上に築かれなければならないことを、哲学に主導される政治として表現したのである。この点についてはヘーゲルは、プラトンの歴史的な意義として評価をしている。

しかし、このプラトンの哲人政治は単に理念にのみとどまり、現実の政治になることはできなかった。それを限界として指摘している。実際にそれを準備したのは歴史的にはキリスト教であり、ルターの宗教改革であった。


わが日本の戦後の日本国憲法の民主主義体制の根本的な欠陥は、それが事実上はアメリカ駐留軍政下の指揮下において、国民主権を主張する日本国憲法として国家の原理として制定されておりながら、事実上、わが国においてはキリスト教は日本国の支配的な宗教にはなってはいないという矛盾から来るものである。この宗教の原理はいまだ国民の自覚的な国家原理にまで、現在に至るまで自覚されてはいないからである。

アメリカ合衆国は、プロテスタント・キリスト教そのものの中から生まれた国家である。民主主義のアメリカ合衆国のみが、純粋にキリスト教から生まれた自由と正義の上に立脚する理念に築かれた国家である。そのアメリカの主導によって日本国憲法が制定されておりながら、それに一致した倫理規範を国民が支配的な宗教的意識としてもたないことに、わが国の政治や文化における根本矛盾が存在している。

欧米の歴史的な伝統にあっては、「法と正義」は同じ概念である。「RIGHT=RECHT」には、法と正義の両義が含まれる。しかし、わが国民の法意識には正義の観念は含まれてない。それは、国民の間に支配的な宗教が欧米のそれとは異なる性格に由来するものである。

太平洋戦争の敗北を契機とするわが国の戦後民主主義は、国民に人権を自覚させることにはなったが、東大教授の樋口陽一氏や丸山真男氏たちの主張したキリスト教抜きの人権至上民主主義教育は、日本国民の間に人間の欲望の無制限な解放として帰結しただけであった。倫理的な規制をもたないその無国籍的な人権意識は、欲望民主主義として、また、戦前のゆがんで抑圧された滅私奉公の精神の裏返しとして、エゴイズムの利己主義の無制限な解放と国家社会における倫理の崩壊をもたらす結果になった。

国民の間に愛国心などがもし欠乏していたとすれば、それは一つには、戦後の自民党政治の利権政治といわゆる革新政党の自己抑制のない人権至上主義政治の帰結として生じたものであって、現行教育基本法そのものの欠陥によるものではなかった。


カトリック教徒の田中耕太郎による労作として制定された現行教育基本法は、その精神が忠実に実行されてさえいれば、決して愛国心や郷土愛を否定するものにはならなかった。現在にいたる戦後教育の欠陥は、戦後の自民党の実際の教育行政の欠陥と日教組の人権至上主義教育によって生じた国民倫理の崩壊によるのであって、田中耕太郎が展開した教育基本法の精神自体に根本的な欠陥があったためではない。

そして現在の自民党と公明党の与党政権は、みずからの手になる「品格」のないフランケンシュタインのような継ぎはぎだらけの奇形的な新しい日本国教育基本法によって愛国心を人為的に作ろうとして、偽善的な国民をさらに養成しようとしているにすぎない。


真実の宗教が国民の間に普遍的にならないかぎり、そして、それによって正義と法に基づく真実の国家の原理が現実の中に入ってこないかぎり、また、その上に国家の原理である憲法が制定されないかぎり、たとえどのような憲法が制定され、どのような教育基本法が新しく制定されようと、国家と国民の人倫性は回復されることはないに違いない。

 

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