海と空

天は高く、海は深し

地球外生命体

2007年06月19日 | 日記・紀行
 


夜、久しぶりに古いDVDを取り出して、「コンタクト」を見る。すでに亡くなったカール・セーガンのSF小説を原作としている。

地球外生命体の探索に駆り立てられる女性、エリーが主人公で、先端的科学SFに、宗教的狂信者のテロリストが登場し、その最初のプロジェクトが爆破されて妨害されるのも、いかにもアメリカ映画らしい。ちょうど10年前の作品である。この映画が上映されてから3年後に、9・11アメリカ同時多発テロ事件が発生している。


時間に余裕があったので、キャストやスタッフのバイオグラフィーやプロダクション・ノートなども比較的詳しく見た。DVDでは、映画の製作現場やその意図なども知ることができるので、もう一つの面白さもある。たった数分のコンピュータなどを使った特殊映像のイントロ場面に、どれほどの人員と時間や労力が投入されているかがわかる。

それにしても、映画の中で、最初のプロジェクトが宗教的狂信者の妨害で爆破され、挫折したのち、新たなプロジェクトがひそかに日本の北海道で実現されていたという設定にはまた笑ってしまった。映画も現実を反映して、社会の現実からまったく無縁であることができない。

闇の出資者、ハデンという人物に、日本の下請け会社が買収されてしまうというのも面白い。

地球外生命体の存在については、SETIや天文学者たちは、電波発信などを行なって探求しているらしいけれども、地球外生命体は存在するかという問題については、私も存在すると思う。ただ、生物学者や天文学の立場と違って、哲学の立場では実証することはできない。その存在の必然性を論理的に論証的に確信するだけである。

その論理的な根拠は、すでに地球上には人間をも含む生命体が存在していることである。人間もまた宇宙人であり、人間が宇宙内にすでに出現しているように、そして宇宙の本質が無限である限り、宇宙には同じ必然性をもって、人類と同じような生命体が出現してくる。

ただ、人類が地球外生命体に「コンタクト」しうる可能性は、無限にゼロに近いのではないかと思う。その根拠は、宇宙が無限に広大であるからだ。だから主人公エリーのように、わずか100年ばかりの生涯を、無限にゼロに近いその可能性に賭けるかどうかは本人のよほどの選択によるだろう。エリーの場合は、その願望が早く死に別れた父との再会の願いと重なっていた。

宗教の本質や、宗教とカルトの関係も、哲学的にも興味があるが、まだ解明はできていない。私たちが感覚器官で認識できる世界は、広大な宇宙のごく一部に過ぎない。海辺の砂浜の一握りの砂を握ってもてあそんでいるようなものだ。

I do not know what I may appear to the world: but to myself I seem to   have  been only like a boy playing on the seashore, and  diverting   myself  in now  and then finding a smoother pebble or a prettier shell than  ordinary, whilst    the great ocean of truth lay all undiscovered before me.
                                 
                      ―――Newton

私がどうしてこの世界に現れたのかも、その理由を私は知りません。しかし、私自身にとって私はただ、海辺で遊んでいる、そして、ありきたりのよりも滑らかな小石やきれいな貝殻を見つけては、いつも自分を楽しませている少年のようであったように見えます。そうしている間にも、真理の広大な海原は、ほとんど発見されないままに私の前に横たわっています。

                      ―――ニュートン

主人公エリーは、ジョディ・フォスターが演じている。いかにも自由で知的な白人女性の標本のようにも見える。英語字幕で、50回も繰り返し見ていれば、英語を聴き取る力ももう少しついていたかもしれない。今からでも遅くはない。

           ※写真(C)2006 Universal Studios. ALL RIGHTS RESERVED.

 

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日々の聖書(15)――神の裁き

2007年06月05日 | 日々の聖書

日々の聖書(15)――神の裁き

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

神の裁きは、哲学においては必然性として捉えなおされる。哲学は必然性を追求するのものであり、そこに神の意思を探求しようとするからである。論理学が「神の叙述」であり、ロゴスの把握であり、その意味で、哲学が神を対象としていることは、宗教と同じである。

そして、神が世界を裁くという聖書の世界観は、歴史において理性が働いているという哲学の認識と本質的には同じである。聖書においては、神が天地を創造したとされるのであるから、そこに、自然や人類の歴史に、神の意思が貫かれていると見るのは当然である。かって老子も「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉で同じ事柄を表現している。

路傍のあやめの花にも、空の鶯の囀りにも、神の働きを感じることもできる。そこにも神の摂理が働いている。時には、何の罪のない幼児がさまざまな事故に遭遇して、命を失うこともある。それも、ある意味では「神の意思」であるというほかない。それは、われわれ人間の想像を超えている。人類の歴史的な産物である国家もまた同じである。国家もその働きから言って、概念的には神の意思を担っている。

政治の世界も同じである。そこにも、また何らかの必然性が、宗教的に言えば、神の裁きが貫かれているとしか言いようがない。国家も国民も個人も、絶対的な神の意思によって裁かれるのであり、その裁きの網の目から漏れることのできるものはいない。

エレミヤの言葉にもまた、彼が生きた当時の人々、国民に対する神の裁きが告げられている。彼と同時代人の、彼の生きた社会の様相を、エレミアは記録しているが、それも、ただ記録するだけではなく、その「裁き」についても預言している。

エレミアは言う。

民衆は愚かで、分別もなく、
悪には知恵が働くが、善きことを行うことを知らない。(同書4:22)

エルサレムの通りを巡って人々をよく見るがいい。
市場に行って探してみよ。正義を行い、真理を求める者を一人でも探し出せるか。
もしいれば、主はエルサレムを許されるだろう。(同書5:1)

十分に食べ物を与えたのに、彼らは姦通し、
遊女とともに時を過ごす。
そして、太った種馬のように、情欲に燃え、
隣人の妻を慕い、いななく。(同書5:7~8)

預言者は嘘ばかり言い、
祭司は好き勝手なことをおこない、
人々はそれを喜んでいる。
お前たちは最後にはどんな目にあうか。(同書5:30)

エレミアとともにこうした時代を生きたエルサレムのユダヤ人たちは、紀元前587年ごろ、バビロニアの王ネブカドネザルによって、バビロニア(現在のイラク)に奴隷として囚われていった。ユダの王は目をつぶされ鎖につながれ、神殿も破壊された。そのときの悲惨な様子は、続篇のエレミアの「哀歌」の中に克明に描写されている。エレミアは明らかにそこに神の裁きを見ている。

こうした歴史的な事件は、何もエルサレムだけの出来事ではない。小ながらも、現代の日本においても、独立行政法人「緑資源機構」の汚職容疑で、関係者が三人、自ら命を絶っている。

その一人は、現職の農林水産大臣の松岡利勝氏だった。自らの命と引き換えにしなければならないほど、この事件が深刻なものになっていたということである。安部晋三内閣は、現職大臣の自殺によって守られたともいえる。農林水産行政で辣腕を振るった、松岡利勝氏が、そこまで追い詰められたということである。そこに働いていた過酷な必然性を、哲学もまた洞察せざるを得ない。個人の運命も、内閣の運命も、国家国民の運命も、神の御手からまぬかれることはできない。

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

 

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